みちのくの山野草

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本人が書き出した「澤里武治氏聞書」

2015-07-03 09:00:00 | 昭和2年の賢治
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
 さて『新校本年譜』による限りは、昭和2年11月もその傾向があったのだが、この12月はそれ以上で、そこから賢治の営為を読み取ることは全くできない。このままではこの頃の賢治はいわば透明人間だからこのままにしておくわけにはいかない。となればおのずから、「澤里武治氏聞書」におけるあの記述をいよいよ無視できないということになろう。言い換えれば、筑摩の『宮澤賢治年譜』において澤里武治の証言が恣意的に使われているということを改めて私はここで指摘し、この証言を都合よく使った牽強付会な年譜の部分は、澤里武治のためにもそして宮澤賢治のためにも正しく書き直すべきだということを私は声を大にしてまず言っておきたい。

「澤里武治氏聞書」の生原稿
 ところで、この「澤里武治氏聞書」の初出はいつどこでだったのだろうか。調べてみるとそれは昭和23年2月発行の『續 宮澤賢治素描』でであった。そしてその「序」は次のようになっている。
 宮澤賢治逝いて十四年目の初冬に、因縁あつて私は眞日本社より續宮澤賢治素描を刊行することとなつた。前著素描は、一度東京の書店より出版したもので、即ち再刊であるが、續の方は悉く新しい原稿に依るものである。續に於ては、私は多くの門弟知己から、生前の賢治との交渉顛末を聽取し、それ成可くその儘文章にした。果たしてこの私の採録が正しいかどうか、書き上げた上に、一度その物語りの人達の眼を通しては頂いたが、それでも多少の不安がないでもない。
 昭和廿一年十月卅日  
岩手花巻にて
        關登久也
              <『續 宮澤賢治素描』(關登久也著、眞日本社)3pより>
したがって、澤里が関登久也から「聽取」を受けたのはいつであったかは定かではないにしても、少なくとも「昭和廿一年十月卅日」(昭和21年10月30日)以前であることがこれで判った。賢治が亡くなって14年も経っていなかった時のことになる。
 ところが何と、その「澤里武治氏聞書」の生原稿を私は見ることができた。実は、日本現代詩歌文学館には関登久也の多くの資料が所蔵されていて、その中には昭和19年3月8日付『原稿ノート』もあり、その一番最初に書かれているのが次のような原稿であったからだ。
    三月八日
 確か昭和二年十一月の頃だつたと思ひます。当時先生は農学校の教職を退き、猫村に於て農民の指導は勿論の事、御自身としても凡ゆる学問の道に非常に精勵されて居りましたからられました。其の十一月のビショみぞれの降る寒い日でした。 「沢里君、セロを持つて上京して来る、今度は俺も眞剣だ少なくとも三ヶ月は滞京する俺のこの命懸けの修業が、花を結実するかどうかは解らないが、とにかく俺は、やる、貴方もバヨリンを勉強してゐてくれ。」さうおつしやつてセロを持ち單身上京なさいました。
其の時花巻駅迄セロをもつてお見送りしたのは、私一人でた。駅の構内で寒い腰掛けの上に先生と二人並び、しばらく汽車を待つて居りましたが先生は「風を引くといけないからもう帰つてくれ、俺はもう一人でいゝいのだ。」折角さう申されましたが、こんな寒い日、先生を此処で見捨てて帰ると云ふ事は私としてはどうしても偲びなかつたし、又、先生と音楽について様々の話をし合ふ事は私としては大変楽しい事でありました。滞京中の先生はそれはそれは私達の想像以上の勉強をなさいました。
最初の中は、ほとんど弓を彈くこと、一本の糸を弾くに、二本の糸にかゝからぬやう、指は直角にもつていく練習、さういふ事にだけ、日々を過ごされたといふ事であります。そして先生は三ヶ月間のさういふ火の炎えるやうなはげしい勉強に遂に御病気になられ、帰国なさいました。セロに就いての思ひ出は、先生は絶対に、私にもセロに手を着けさせなかった事です。何かしら尊貴なもにの対する如く、私以外の何人にもセロには手を着けさせるやうな事はありませんでした。
賢治が亡くなってから10年ちょっとの頃に書かれたのであろう。もちろん、この「三月八日」はその内容からして「澤里武治氏聞書」の生原稿であることがすぐわかる。

「澤里武治氏聞書」の初出
 さて、ではこの原稿は実際の「澤里武治氏聞書」ではどのようになって出版されたのかというと、
   澤里武治氏聞書
 確か昭和二年十一月の頃だつたと思ひます。当時先生は農学校の教職を退き、(→)根子村に於て農民の指導は勿論の事、御自身としても凡ゆる学問の道に非常に精勵されて居られました。その十一月の(ビショ→)びしよびしよみぞれの降る寒い日でした。
「澤里君、セロを持つて上京して来る、今度は俺も眞劍だ、少なくとも三ヶ月は滯京する、俺のこの命懸けの修業が、結実するかどうかは解らないが、とにかく俺はやる、貴方もヴァイオリンを勉強してゐてくれ。」さう言つてセロを持ち單身上京なさいました。その時花巻驛迄セロをもつて御見送りしたのは、私一人でた。驛の構内で寒い腰掛けの上に先生と二人並び、しばらく汽車を待つて居りましたが、先生は「風をひくといけないからもう歸つて呉れ、俺はもう一人でいゝいのだ。」と折角さう申されましたが、こんな寒い日、先生を此處で見捨てて歸ると云ふ事は私としてはどうしても(偲び→)しのびなかつた、また先生と音樂について樣々の話をし合ふ事は私としては大變樂しい事でありました。滯京中の先生はそれはそれは私達の想像以上の勉強をなさいました。最初のうちは、殆ど弓を弾ひくこと、一本の糸をはじく時二本の糸にかかからぬやう、指は直角にもつていく練習、さういふことにだけ、日々を過ごされたといふことであります。そして先生は三ヶ月間のさういふ(火の炎えるやうな→)はげしい、はげしい勉強に遂に御病気になられ、(帰国→)歸郷なさいました。
 (セロに就いての思ひ出は、先生は絶対に、私にもセロに手を着けさせなかった事です。何かしら尊貴なもにの対する如く、私以外の何人にもセロには手を着けさせるやうな事はありませんでした。→)セロに就いての思ひ出のうち特に思ひ出されることは、先生は絶對私以外の何人にもセロには手をつけさせなかったことです。何か貴重なものに對する如く、セロにだけは手を觸れさすことはありませんでした。
              <『續 宮澤賢治素描』(關登久也著、眞日本社、昭和23年)60p~より>
というようになっている。
 つまり、
 ① 「赤い文字」部分は削除されていた部分
 ② 「茶色文字」部分は付け加えられた部分
 ③ 「→)」の先の茶色文字部分は変更された部分
であることがわかる。

「三月八日」の出だしは澤里武治が書いた
 これらを見比べて、まず疑問に思ったのが
    (→)根子
の訂正部分である。おそらく、この原稿「三月八日」は「昭和19年3月8日」頃に書かれたであろうから、もしこの原稿を関登久也自身が書いていたとすれば、「根子」と書くべきところを「猫」と書くことはほぼ起こり得ないからである。
 もう少し説明を付け加えれば、
(1) 関は明治32年3月28日、花巻川口町生まれだから、この原稿が書かれたであろう昭和19年3月8日であれば45歳である。つまり永らく関登久也は地元に住んでいた。
(2) 『續 宮澤賢治素描』の前に出版された『宮澤賢治素描』(共榮出版、昭和18年)の口絵の「羅須地人協會のあつた森」の説明文の中には、
 曾て賢治氏の居住された下根子、櫻と呼ばれてゐるところです。
とか、その6pには、
 四月にはこの櫻に家に地人協會を開設しました。櫻といふのは、花巻町の東南の、下根子桜にある地名で…
とあるから、本来は「根子村」と書くべきところを、花巻の川口町に生まれた当時おそらく45歳の関がそれを「猫村」と書くことは流石になかろう。
 さらには、それはその筆跡からも言えよう。ちなみに次の写真は関の『昭和5年の短歌日記』であり、
【昭和五年 短歌日記』の10月5、6日の日記】

              <平成15年7月29日付『盛岡タイムス』より>
この筆跡とその「生原稿」の当該の(つまり出だしの)部分は、素人目から見てのことではあるが、同一人物の筆跡であるとはとても思えなかった。一方で、この「生原稿」の途中から(つまり出だし以降)の部分や、例えば同ノートの「女人」の筆跡と上掲の日記の筆跡とはよく似ていた。しかも、その「女人」の中には
   当時は下根子櫻の羅須地人協会
とさえも書いていた。つまり、ここでは関登久也は「」ではなくて正しく「根子村」と書いていたと判断できる。
 したがって、「三月八日」の出だしの部分の筆跡については少なくとも関登久也のものではないと判断してよさそうだし、この「三月八日」の出だし部分は誰が書いたものかといえば、それは澤里武治をおいては他にあり得なかろうから、
   原稿「三月八日」の出だしの部分は澤里武治自身が書いた。
という蓋然性が限りなく高いと言えるだろう。つまり、「澤里武治氏聞書」は澤里武治自身が書き出したものであったと言えそうだ。

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