みちのくの山野草

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危うさがもっと増した『新校本年譜』379pの「推定」

2016-08-31 13:00:00 | 昭和2年の賢治
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》

 何んのことはない、今回の「推定」については、『新校本年譜』は単に「可能性がある」ということを安直に「推定」と言い換えているだけの、羊頭狗肉に過ぎない。そして今回のことのみならず、「旧校本年譜」や『新校本年譜』はこのようなすり替えが散見されるのである。 たとえば、「昭和4年の露宛書簡」や「一九二八年の秋の日の下根子桜の訪問」などのように。

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 さて、大正15年8月18日付『岩手日報』の新聞報道から、
 大正15年7月20日頃以降花巻一帯は多雨曇天が続き、稲熱病が約10町余発生していた。……①
ということを知ったので、『新校本年譜』における昭和三年七月の項の次の記述、
    七月の大暑当時非常に稲熱病が発生した〔推定〕
における「推定」の危うさがさらに増したということを先に論証した

 ところが、この度新たに昭和2年7月27日付同紙の報道が見つかったので、またまたこの「推定」の危うさがもっと増してしまったことを私は知った。それは次のような記事があったからだ。
 稗貫郡の稻作
  此の分では豊作
     一部に稻熱病發生
稗貫郡内の稻作は水不足のため植ゑ付けの遅れた地方もあるが其の後の天候が順調であつた為くわい復し發育状況頗るよく此の分なれば大豊作の模樣であるが宮野目、矢澤、八幡、太田の四ヶ村に稻熱病發生し面積は矢澤村の耕地整理地が一番多く三町餘で八幡村は矢澤村に接近した地方に一町五六たんの被害あり太田、宮野目村にも一町歩以上發生した
             <昭和2年7月27日付『岩手日報』>
つまりこの記事によれば、
 昭和2年の稗貫郡内の「宮野目、矢澤、八幡、太田の四ヶ村」にはそれこそほぼ七月の大暑当時」「稲熱病が発生し」ていた。……②
のであった。
 したがって、『新校本年譜』の昭和3年7月の次のような記述、 
七月 平来作の記述によると、「又或る七月の大暑当時非常に稲熱病が発生した為、先生を招き色々と駆除予防法などを教えられた事がある。
 先生は先きに立つて一々水田を巡り色々お話をして下さつた。先生は田に手を入れ土を圧して見たり又稲株を握つて見たりして、肥料の吸収状態をのべ又病気に対しての方法などをわかり易くおはなしして下さった。」とあるが、これは七月一八日の項に述べたことや七、八月旱魃四〇日以上に及んだことと併せ、この年のことと推定する。
              <『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)』(筑摩書房)378p~>
における「推定」の論理はますます心許ないことを確信した。そう、新聞報道によれば〝②〟だから、この平の記述「或る七月の大暑当時非常に稲熱病が発生した為、先生を招き色々と駆除予防法などを教えられた事がある」は昭和2年のことであったとも充分に言えるのである。端的に言えば先の「推定」は甘いのである。「推定」するならば結構いろいろなそれが可能だが、さりとてそれは何でもいいわけではなく、少なくともその他の「推定」よりはより妥当なそれであるということを調べた上でのものであるべきだということは自明だからである。
 つまるところ、この昭和2年7月27日付日付『岩手日報』によって〝②〟であることがわかったから、このことと、もともと、昭和3年の稗貫には稲熱病が大正15年や昭和2年に比べて猖獗しにくい年であったこともあり、前掲の「平来作の記述」は少なくとも昭和3年のことではないということの蓋然性がさらにまた増したわけであり、『新校本年譜』379pの「推定」はさらにまた一層その危うさが増してしまったようだ。

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