みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

昭和2年1月の旱害関連報道

2015-07-23 09:00:00 | 昭和2年の賢治
                           【Fig.1 昭和2年1月9日付『岩手日報』夕刊(1月8日)一面】
当時の未曾有の大旱害の報道内容
 さて、賢治は一ヶ月弱の滞京を終えて年末に帰花。明けて昭和2年1月からはよく知られているようにほぼ十日置きに羅須地人協会の講義等を本格的に始めたわけだが、この頃も相変わらず新聞は紫波郡等の未曾有の大旱害の惨状を報道をしていた。例えば、昭和2年1月9日付『岩手日報』夕刊(1月8日)の一面は
   未だかつてなかつた紫波地方旱害惨状 飢えに泣き寒さに慓ふ同胞
という見出しの記事を始めとして、ほぼ全面が紫波地方の旱害被害に関する報道であった。
【Fig.2 昭和2年1月9日付 岩手日報】

  <注:ここで気になるのが題字の下の日付と欄外上部の日付である。
       おそらく、1月8日は夕刊が作られた日、1月9日が配達日だろう>
 未だかつてなかつた紫波地方旱害惨状 飢えに泣き寒さに慓ふ同胞 本社特派員調査の顚末發表
 紫波地方昨夏の旱魃は古老の言にもいまだ聞かざる程度のものであった水田全く變じて荒野と化し農村の人たちはたゞ天を仰いで長大息するのみであった。したがって秋の収穫は一物もなかった、なんといふ悲惨事であらう、飢に泣き寒さに慄へる幼き子どもらを思ふとき我れら言ふ言葉がない、我社この哀れな同胞の實生活を調査せしむべく記者小森秀、写真班小原吉右衛門を特派したがこゝにその視察記を發表する次第である。
 赤石村に劣らぬ不動村の惨めさ 灌漑は全く徒勞に終わって収穫は皆無
 不動村は赤石村に劣らない惨害を受けたが鉄道が多少離れてゐて惨害が比較的一般に知られてゐない、村役場の調査によると耕地反別五百三十一町歩中植つけ不能段別四十七町一反歩、植えつけはしたが枯れて仕舞又は結實せず収穫が皆無のもの六十三町歩、七割減収が六十三町歩、五割減収が六十八町歩、三割減が三十四町歩、三割以下の減収が三十三町歩といふ數字を示し耕地面積の半分に近い二百四十一町歩余は収穫皆無又は半作以下で地租免税の申請をなしたものが百八十六町歩に達した、ために収穫高もカン害を受けた昨年一万三百六十石の半ばにたらぬ、四千五百石で純小作百三十戸、自作兼小作二百七十戸が生活せねばならないのであるから既に生活資金に窮するに至つたのである
 水稲のみだけでなく畑作の麥、青刈大豆等も三割以下の減収の上揚水機の設備に多額の金を投じた、動力使用の揚水機を設備したのは十ヶ所で一ヶ所平均九百円を要し九ヶ所は買ひ入れたものであるが内早くから設備した二ヶ所である他は焼けつく様な炎天に雨を待ちどうにもならなくなつてから設備したため十ヶ所の揚水機で僅かに四町歩の旱害をなしたに過ぎなかつた、手ぼりの井戸は百八十ヶ所で之も三十円から五十円の経費を要した之とて焼石にそゝぐ様なものカン害状態視察の得能知事がソウして昼夜水をかけてなん反歩の灌漑が出来るかと聞いて涙ぐんだほどで灌漑水については悩み苦しんだ上結果から見れば何等の効果もなかつた揚水機設備に貴重な一万余円を空しく投じてしまつたのである。この揚水機もむなしく手をつかねて雨を待たずに設備をしたならば夫れ相當の効果はあつたのであらふも時機を失した為徒勞に歸したのみでなく更に疲弊困難に陥入るの因をなすに至った
 斯くして得たる米も玄米一駄(七斗)十五六円でもつき減りが多く『砕け』のみになるといふので買ひ人がないといふ有り様である、仝村に足を入れ小學校付近に行くとむなしく雪に埋づもれ朔風の吹きまくるに委せて居る水稲がある、幾つかの藁みよが並んで居るがこの藁みよには穂がついて居るが、聞くと刈つては見たが米はとれないから肥料にする外ないので積んで置くのだといふ、油汗をたらし血を流す様な努力を重ねた結果肥料にする藁を得るに過ぎなかつた時農民の心中は如何なる思ひに滿たされたことであらう
 縣ではかん害救済資金として一万五百円を代用作物種子代と動力使用揚水機設備補助に支出することになつたが揚水機補助は兎も角代用作物種子代補助も斯くの如きは當村で馬糧にする青大豆を僅かに五反歩植えつけたにすぎなかつた、之は大豆、稗其他の代用作物を植えつければ翌年の収穫に影響を及ぼすため縣でイクラ種子代を補助すると参事會に代決を求め決定しても植えつけなかつたのでこの点は県の見込み違いで救済方法としては當を得なかつたが通常県會に要求の勧業奨励費二万円の追加はかん害地の衣食に窮する農民に対しては本當に救済の実を擧げることが出來るものである
 ついいままでは赤石村の旱害被害が甚大だということにだけに目を奪われていたが、この記事を見て不動村の未曾有の旱害被害、過酷さを初めて知り愕然としてしまった。以前触れたように、赤石村の旱魃被害に対しては宮城県、はては東京の小学生からさえも義捐があったくらいだからこの時の赤石村の惨状は広く知られていたのだろうが、たしかに不動村のこの惨状は赤石村のそれとさほど差違はなく、単に報道されていなかっただけのことだったのだろう。

 では次は、このブログの先頭の記事の写真部分である。
【Fig.3 昭和2年1月9日付 岩手日報】

あまり鮮明でないが
   ・右上の写真は不動村の老人・婦人が筵を織っているところ
   ・その左下の写真は不動村役場付近の不稔の為に刈り取りをやめた水田

である。とりわけこの後者の写真からは、農民の無念さが伝わるし、その凄まじさが手に取るようにわかる。後ろに見える山は不動村であることも併せて考えれば東根山であり、その麓の水田の当時の惨憺たる事実ということになる。
 一方前者の写真、筵織りは県の奨励した副業であり、そのことに関しては同紙面の以下のような記事があった。
【Fig.4 昭和2年1月9日付 岩手日報】

 男の出稼ぎも利益は少ない ゴザと畳表の副業で幾分助かつて居る
 仝村從來冬季間の副業として男子は出稼ぎで多くは酒屋稼ぎであるが本年は縣外では宮城縣八十一人を最上とし北海道の四十人、青森縣十六人を初めとし秋田、山形その他で百五十七人出て居り縣内には約其倍ほど出て居るが収入は月十八円乃至二十五円位で期間は三ヶ月から四ヶ月で之等出稼人が一冬働いて五十円位送金するが持ち歸る者は上成せきで十八九から二十四五歳位の間は衣類その他となく家の食物を減らさなかったといふ結果に終はるといふから實際村全体の青成年が出稼ぎしても幾らも表面上の利益にならぬらしい
 副業は從来ゴザと畳表の製作で多く男子が出稼ぎのルスであつたが三年續けてのかん害で非常な真劍みを加え単に暇つぶしや小遣取りといふのでなく生活費を稼ぎ出すといふ風に變わつて來たといふ畳表の原料の葦草は近年大部分他縣にあほがねばならず十枚分で三圓かゝるので間に合わず今ではゴザも山根に少し残って居るに過ぎない、それで今年は縣の奨励に依つて藁工品を作ることなし一組合二十人以上の製筵組合が二十四組出來て筵を製造することになつた、縣から補助が配給になつたので二十五台あるが村としてはモット欲しくこの機械は製作者の能力上予定よりおくれて近く到着する筈で手織りにすると一日十銭くらいの手間だが機械織りだと手間が六七十銭になるので幾分助かるだらうとの事で藁の大部分が馬りようが肥料にすらならず筵用のものは他から求めねばならぬので縣では無賃輸送方を希望してゐる
 一読すると、出稼ぎは月18~25円、一冬で50円くらい送金できて結構儲かるじゃないかと受け取ってしまったが、これは上成績の場合であり、18~25歳の場合などは単に食い扶持が減った程度にしかならないということである。まさしく見出しの様に「男の出稼ぎも利益は少ない」ということであり、せいぜいゴザと畳表の副業で幾分助かつて居るというのが副業の実態だったのであろう。

 そして、同紙面の記事は以下のように続く。
【Fig.5 昭和2年1月9日付 岩手日報】

 この冬をどうして暮らす 赤石と本村は同様 菅原不動村長語る
 十三年と十四年は植つけ後のかん魃であつたから収穫は減ることは減ったが今度のようにヒドクはなかつた、今度は植つけないうちからかん魃であつたから全然無収穫になつたので前二年続けてかん害に疲弊してゐる所に今度のですから全く暮しに困る事になつたのです、赤石の方はヒドイ様に思はれてるが同村とて之と甲乙がなく、赤石は鐵道に近く村の人達も事を大きくして騒ぐので一般に知られているのだと思ふ、來年からは鹿妻堰の幹線工事が出来たから水に困ることはないと思が此の冬をドウして暮らすか副業以外にないが藁工品を作るにしても二尺ソコソコの藁では何も出来ないからやはり他縣から買わねばならぬし製筵機も縣から二十五台配当されただけで不足だから之も増して何とか此の冬だけを凌いで行きたいと考へているが今まで景気がよいのになれ贅沢になつて居たから之を引き締めるには却って良いかも知れません
 辨當を持たぬ小学生のいぢらしい姿 校長は毎日泣かされて居る とても正視はできない
 村民の生活もやうやく窮乏を告げ初め旧正月に餅をつき得ない者が大部あらうとの見込みで地主さへももち米は買はなければならないといふ、之は自分の田で出來たものはろくな餅にならないからである、村民の食物は小学児童の昼食辨當で大躰を察知することが出來るが岡村校長は
 高等科の生活は割合によい家庭だが辨當をもたづにくるものが十二三人あり三年以上五百五十人中八十九人は辨當をもたずに來て昼の休み時間は他人の辨當を食べてゐるのを見かねて屋外で遊んで居る姿は実際可愛想です、辨當を持つてきても夫々見られるのがいやで新聞紙の中に顔を埋づめる様にして時々周囲の眼を見渡しながらマルデ盗んだものでもたべてる風にして居り會食の教員も涙なくして見られぬといつて居りますが親たちの身になつてみれば自分は食わずとも子供にべん當を持たせてやりたいのが人情ですのに夫さへ出來ないものとみへます、べん當の多くは大根が半分以上這入つたものか、くだけ米の団子、小麦粉をねつたもの等で通學の途中ある児童は一昨日から団子ばかりたべてるが米の御飯がたべたくなつたと話したそうですが…(以下略)
 そして、この他にも同紙面には次のような見出しの記事がある。
   ・水分は軽微
   ・炭俵の売日なく赤石村民糊口の糧苦む
   ・志和も不動と大差ない惨状

これらの3本の記事の中身は割愛するが、ここまでのこの日の報道からは、
 大正15年の紫波地方の旱魃被害は凄まじい惨状にあり、その惨状を呈しているのは赤石村のみならず、不動村も志和村も同様であった。
ということはもう十分に分かって貰えたと思う。

 因みに、赤石村、不動村、志和村、水分村の位置は下図のようになっている。
【Fig.6 昭和10年の紫波郡の地図】

              <『昭和十年岩手県全図』(和楽路屋発行)より抜粋>
 もちろんこれらの村々は花巻の直ぐ北隣である。賢治には手に取るようにこの惨状がわかっていたであろう。戦後生まれの私でさえもこれらの記事、特に最後の記事などは一読しただけで泣けてくるくらいであるから、当時を生きていた賢治なら幾度となくこの年のヒデリに涙を流したに違いない。とてもじゃないが、W氏のように
 ヒデリで干害がおきたときいかに、涙もろくて多涙症の人が集まって「ナミダヲナガ」せば稲を育てる水が供給できるだろう。
などと茶化すことは私にはできない。

【Fig.7 昭和2年1月19日付 岩手日報】

 得能知事が旱害地視察 寒さと飢えになく村民 正視するに忍びない彼等のドン底生活
 紫波郡地方のかん害惨状は日一日と深刻の度を増し行きやがて来たるべき越年の喜びも今はどこへやら同地方では旧年末をひかへて益々惨苦は激甚を極め村民は只飢えとさむさにふるえてゐる得能知事は殊にもこの惨状に深く同情し救済方法として常に製筵事業を奨励する一方再三同地を訪ねては善後策につき絶えずアタマを悩まして居るが十八日更に猪股?業課長、藤原技師、佐藤?の関係職員を随へて最もひどく被害影響を被つて居る古館、志和、赤石、日詰の一町三ヶ村を巡視し困窮のドン底に喘ぐ村民たちの実生活を詳細に視察したが各村ともドコの幹をのぞいても正視するに忍びない悲惨な生活状態であった
 赤石村にも劣らぬ古館村の惨状 旧年末を控えて益々窮乏を告ぐ
 古館は赤石におとらぬ惨状を呈し旧年末をひかへて益々窮乏を継げてゐる仝村役場の調査に依れば耕地反別二百町歩のうち収穫皆無は八十町歩の大きさに達し減収反別を加へれば百二十町歩の多さに達し昨年の五千三百石収穫高に比し約三千石減収二千石の収穫であるが之とても品質は非常にわるく、一石につき六円の格差を示し市場等には販売出来ぬ有り様であると、右について高橋古館村長は語る
 本年のかん害は自作人も小作人と同様明日の食料にも窮する有り様で之が救済策としては、県の奨励方法に基き十三日から二十台の製筵機をかり受けて製筵事業を始めましたが何しろ未だ日も浅い事とて只今の処講習を行って居ます
ということは、古館村に関して言えば、
   大正15年の収穫高は2,000石
であり、前年のそれ5,300石と比べれば
   2,000/5,300=37.7%
だから、6割強の減収だったことになる。さらにはそれとて米の品質は極めて悪かったのだ。

 あげく、次のような記事もあった。
【Fig.8 昭和2年1月26日付 岩手日報】

 舊年末を前に本縣下の農村は破産の状態
   借金の苦しさに土蔵を売払ひ家を閉ぢて逃げ隠る
 二三年この方つゞいた未曾有のカン魃とお米が捨て賣り同様の安値のため農村では舊年末を前に悲境のドンぞこに落ちてゐる。これがため家財を売り、遠くで稼ぎに赴いた者も数少なくない模様で稗貫郡某村の如きは中産以上の農家でさへ年末の支払ひに二進も三進も行かず、祖先伝来の土地を売り払ったとの哀話もあり毎日借金取りに攻められるので致方なく家を閉ぢて水車小屋に引き移ってゐるといふ話しもある。況して旱害の程度も一層深酷であった紫波地方の難民は日々の生活にさへ困窮してゐる者が多くその惨状は全く事実以上であらうとのことだ。かくて本県下の農村はいまや経済上破産状態にあるがやがて本県にもいむべき農村問題社会問題がもちあがるのでないかと識者間に可なり憂慮されてゐる
 賢治にすれば、この記事は隣の紫波郡のことではなく、賢治の住む稗貫郡内の中産以上の農家でさへ先祖伝来の土地を売り払ったという哀話である。まして紫波地方のそれに至っては農家は破産状態、困窮の極みにあるという記事に溢れている。さぞかしこれらの記事を見ながら賢治は心を痛めたであろう。 
 
『ヒデリに凶歉あり』 
 ところで、賢治が生きていた頃に冷害・旱害(干害)がどれくらい起こっていたのであろうか。明治19(1886)年~昭和30(1955)年について調べてみると次表のようになる。
   <表 賢治が生きていた頃の冷害・干害発生年>
      [冷害]               [干害]
    明治21(1888)年         明治42(1909)年
    明治22(1889)年         明治44(1911)年
    明治30(1897)年         大正 5(1916)年
    明治35(1902)年(39)       大正13(1924)年
    明治38(1905)年(34)       大正15(1926)年
    明治39(1906)年         昭和 3(1928)年
    大正 2(1913)年(66)       昭和 4(1929)年
    昭和 6(1931)年         昭和 7(1932)年
    昭和 9(1934)年(44)       昭和 8(1933)年
    昭和10(1935)年(78)       昭和11(1936)年
     注:( )内は作況指数で、80未満の場合に示した。
    <『岩手県農業史』(森 嘉兵衛監修、岩手県発行・熊谷印刷)より>
 たしかに、このデータからは干害のあった年で作況指数が80を割った年はないことが判る。そのようなことは明治38年の最悪34を含め何れも冷害の年の明治35年、大正2年、昭和9年、昭和10年の5ヶ年の場合だけである。なおもちろん、冷害の場合には灌漑用水の確保が出来る出来ないに拘わらずいずれの水田でも不作となる。一方灌漑水用が確保できるような水田はその当時は少なからずあり、そのような水田ならば却ってヒデリ(日照り)の方が水稲の発育にとっては好ましい。この点が冷害と旱害の構造の違いであり、上の<表>で作況指数が80未満であった年がいずれも冷害の年であったのはこのことによるものであろう。
 したがって、一見
   『ヒデリにケガチ(飢饉)なし』
という言い伝えは妥当だとこの<表>から受け止めたくなる。するとその言い伝えを
   「ヒデリのときは飢饉の心配がないというのだからヒデリは農民にとって不都合なことではない」
と敷衍し、ヒデリを悲観してヒデリノトキにナミダヲナガすことなど不要、逆であると主張されると説得力がありそうだが、そうではないことが今までの新聞報道から検証できたであろう。
 事実、大正15年は赤石、不動、紫波、古館の紫波郡内の各村の旱害被害は甚大だったが、同じ紫波郡内でも水分村や彦部村の旱害被害は軽微だったという。それは、この紫波地方一帯にヒデリが続いたにしても、旱害被害甚大だった赤石村、不動村、志和村、古館村などとは違ってこの両村は灌漑用水が確保できたせいであろう。そして、灌漑用水が確保できた水分や彦部村の水田はヒデリ(日照り)が続いたので却って稲がよく稔ったであろう。
 言い換えれば、水分村や彦部村では
   『ヒデリに不作なし』
であったと言えよう。あるいは、大正15年の岩手県にはかつての南部藩の四大飢饉のようなことは起こっていないからこの点からも 
   『ヒデリにケガチなし』
と言えよう。
 しかし、岩手日報の一連の記事からは、『ヒデリにケガチなし』とはマクロで見た場合の言い伝えの解釈であり、ミクロ的には
   『ヒデリにケガチあり』
という惨状が起っていたことが判る。つまり、大正15年の赤石、不動、紫波、古館の紫波郡内の各村の旱魃の惨状はまさしく
   『ヒデリにケガチあり』
だったと言っていいだろう。もしそれは『ケガチ(飢饉)』でないというなら、少なくともこの時に上掲の村々では 
   『ヒデリに凶歉あり』
とは言えるほどの不作が起こっていたと言える。言い換えればそれは
   灌漑用水の全く確保できていない地域で梅雨期に降雨がなければ即凶歉となる。
という当然の論理であり、
 『ヒデリに不作なし』がいつでもどこでも成り立つわけではない。このように『ヒデリに不作あり』が実際に大正15年の賢治の住む稗貫郡の隣の郡の紫波郡内で起こっていた、それもその不作とは凶歉ともいえるほどものが、である。
 したがって、『ヒデリに不作なし』といわれているから「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」ということはありえず、「ヒデリ」は農民にとって歓迎すべきことだから「ナミダヲナガ」す必要などない。だから、「ヒドリ」は「ヒデリ」の誤記ではないと主張される方もあられるようだが、その論理は脆弱である。

一方賢治は
 このように、年が明けてからは旱害被害の実態がさらに明らかとなり、事態は深刻になっていたことが当時の『岩手日報』の報道から手に取るようにわかる。そしてそれぞれの報道を読みながら時に賢治の気持ちも忖度してみたのだが、実はそれは私の希望的観測に過ぎなかったようだ。
 滞京していた前年の12月中とは違って、ついには「舊年末を前に本縣下の農村は破産の状態」という報道さえなされていたのだから、賢治がこのような惨状を知らなかったわけがないと私は思うのだが、当時の賢治の営為を『新校本年譜』等によって調べてみた限りでは、帰花後~昭和2年の4月にかけて、このときの未曾有の旱害に対して賢治が救援活動等を行ったことは見出せない。せいぜいあったのは唯一、〔一昨年四月来たときは〕という詩においてその最後尾に、「そしてその夏あの恐ろしい旱魃が来た」と賢治はこの時の「大旱魃」に初めて一言だけ言及していただけだったからだ。
 しかもこの頃の証言としては、羅須地人協会員の伊藤克己は「先生と私達―羅須地人協会時代―」において、
     その頃の冬は樂しい集まりの日が多かつた。
         <『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋版))>
と語り、同じく会員の高橋光一は「肥料設計と羅須地人協會」で、
 藝事の好きな人でした。興にのってくると、先にたって、「それ、神楽やれ。」の「それ、しばいやるべし。」だのと賑やかなものでした。
 御自身も「ししおどり」が大好きだったしまたお上手でした。
  ダンスコ ダンスコ ダン
  ダンダンスコ ダン
  ダンスコダンスコ ダン
と、はやして、うたって、踊ったものです。
              <(『宮澤賢治研究』、筑摩書房)>
と羅須地人協会時代の賢治について語っているからだ。
 したがって、この頃の羅須地人協会の集まりはたしかに楽しかったにちがいない。しかし、もし賢治が貧しい農民たちのために献身しようとして羅須地人協会を設立したのであればこのような楽しい事だけではなく、為すべき喫緊の課題があったはずだが、そのようなことを為したという協会員の証言は私の知る限り何一つない。どうやら、羅須地人協会の活動は地域社会とはリンクしていなかったと言わざるを得ないし、残念ながら、賢治はこのときのヒデリに際して涙ヲナガシていなかった、と結論せざるを得ない。当然、もしこれが事実であったとすれば、賢治は少なくとも後々このことを悔いることになるはずだ。そしてそのことを示唆するいくつか事実が私の頭の中には浮かんでくる。

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