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昭和2年の賢治の稲作指導

2015-07-01 09:00:00 | 昭和2年の賢治
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
 ここでは、昭和2年の稲作事情と賢治の稲作指導について振り返って見たい。

昭和2年の稲作関連報道
 では、『岩手日報』における稲作関連の報道をまずは簡単に振り返ってみると以下のようになる。
◇5月10日
 紫波郡稗貫郡も…早生が少し被害を受けてゐる豫想よりは被害程度軽微
◇5月14日
 縣下一帯に亘つてけさ又降霜す
◇5月29日
 天候不順で苗代の發育が思はしくないと百姓は心を痛めていたが昨今の天候のくわい復に案外發育よく稗貫郡下石鳥谷八重畑附近はポツポツ田植えが始まつた郡下の大部分は來月上旬から中旬にかけて植えつけられるが本年は水量も充分であるから節面白い田植えうたに農村の賑いは間もなくのことである
◇6月15日
 入梅に入つたのにいまだに降雨がなくまた昨年の二の舞を踏むのではないかとをそれてゐる…(略)…縣下で最も未了反別の多いのは例年の如く
 ▲紫波郡赤石、志和
 ▲稗貫宮野目、湯本、矢澤
 ▲ …
◇6月16日
 今後大量の降雨がなければ少し位の雨量では到底植えつけ不能と見られるヶ所反別の稗貫郡のみでも
 ▲宮野目四一町▲八幡五町七反▲矢澤二三町▲八重畑一五町▲新堀三町▲好地二〇町計百七町七反歩
◇6月26日
 稗貫の未挿秧五百六十八町歩 然し今月中には大部分植付けられるだらう
 下根子地方水不足 農民十數名役場に陳情
◇6月28日
 二十七日午後三時頃當地方に雷鳴轟ろき驟雨はい然と降り來り四時迄に坪當り三斗六升の雨量があつたが稗貫郡内で五百餘町歩の植付不能面積あることとて農民歓喜して居り将に枯死せんとしたる野菜類も蘇生し此の雨に依り田も大体植付される模様である。
◇7月25日
 本縣の稲作は…(略)…苗代期に於て氣候概ね順調にして苗の生育良好でもあつたが本田に移植後も氣温高くその他一般に気候状態可良なりしため活着生育共に良好であつた其の後七月中旬に至り霖雨連日に亘りしも氣温高からしが故に差したる障害もなく分けつ伸長共に例年に比し多く目下作況良好と認む
◇8月19日
 縣下の稲作は目下順調に生育し早稲は花ざかりであるが今夜二百十日の暴風雨さへなければまづ平年作の一割乃至二割の増収と見られてゐる即ち今春以來氣づかはれた天候が土用入りと同時に相當雨量あり天氣もよくつづいたので生育不良だつた稲作が漸次くわい復し分蘖もよくまれに見る良成績を示すに至つた…(略)…豊年萬作は疑ひないだらう
◇9月4日
 大暑當時、曇雨天相次ぎ二百十日まで頗る順調にあるため草だけ徒長し、軟弱にして病害のをそれありたるも、土用以後、天候全くくわい復し、氣温高く加ふるに日照時數頗る多かつたので、生育順調に伸長し健實なる發育をとげ、出穂も例年に比し一兩日早く一株のくき數少なきも開花、登熟ともに完全にいとなみ、去る二七日以降、數日間、降雨續きたる拘はらず影響なく、目下作柄は稍良好である
◇9月13日
農家の最厄日である二百十日も無事にすぎ田面にそよぐ黄金の波は穣ゝ豊作を物語つてゐるがけふの厄日-二百二十日も懸念する程もなく…(略)…測候所の観測によると此の高温は當分續くとの見込であるから豊作は疑ひないと
◇9月20日
 土用前後相當雨量も多く日照時間も多かつたので、近年稀に見る良成績の發育をなし平年作(百八萬石)の一割五分(百二十五萬石)増収を豫想されてゐたが、八月下旬より今月にかけ雨量多く且つ、氣候湿潤の影響をうけ、各地に小首稲熱病發生し、土用當時の豫想を裏切る有様となつた、縣農協課の観測ではこの天候では一割五分はおろか、一割乃至八、九分のところで、百十八萬石前後と見てゐる
◇10月2日
 本縣第一囘米作豫想高 百六万七千八十石 平年作に比し一分一厘増収
 九月二十日現在における…豫想収穫高に於て水稲十一萬八千百六十六石陸稲千四百四十三石計十一萬九千六百九石(一割三分)の増収を示せり
◇11月12日
十月末現在米第二囘豫想収穫高は水稲百四萬八千三百二十四石陸稲一萬二千六百二十四石合計百六萬九百五十二石にして之を九月二十日現在第一囘豫想収穫高合計百六萬七千八十一石に比すれば六千百二十九石(五厘七毛)の減収を豫想されてゐる之は本年の稲作は概して草たけ徒長の傾向にあつたが九月下旬に至り多少の風雨の害を蒙り為に倒伏したるもの又は岩手、紫波、和賀、胆澤地方における稲熱病等の被害割合に多かつたためである
◇昭和3年1月22日
 昭和2年本縣米實収高 平年作より八厘増

昭和2年の稲作事情のまとめ
 そこで、『岩手日報』の報道などを基にして昭和2年の岩手県の稲作事情をまとめてみれば、
・5月半ばにも降霜があったりと、天候不順ではあったが下旬頃からは天候が回復し月末頃からは田植えが始まった。
・6月、入梅の季節になっても降雨がなく田植えが出来ない田圃が多かったが、6月末に降雨があり殆どの田圃の植え付けは完了した。
・7月~8月、植え付け後の天候にもまずまず恵まれ、活着、分蘖、伸長共に良好であった。やや徒長軟弱な傾向はあるものの、土用入りと同時に相當雨量あり良い天気も続き生育は順調、豊作が見込まれていた。
・9月に入っても、稲は近年稀に見る良い発育をなし登熟も順調に進み平年作をかなり上回る増収を予想されていた。ところが、県全体としては9月下旬に至り多少の風雨の害をうけて倒伏あるいは稲熱病に罹ったために当初の予想を裏切る。
・11月12日、岩手県の第二回豫想収穫高が百六幡五十二石(平年作に比し七厘四毛増収)と発表された。
・明けて昭和3年1月22日に、本縣米實収高 平年作より八厘増という報道がなされた。……★
 つまり、昭和2年の岩手県の水稲の作柄は平年を多少上回るものであった。したがって、もちろん、
 一九二七(昭和二)年は、多雨冷温天候不順の夏だった。
ということでもないし、
 昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた。
ということでもなかった、ということが当時の『岩手日報』の新聞報道からは導かれそうだ。さらには、前回わかったように、少なくとも稗貫の場合は前年より実収高で6.98%もの増収だし、周りの郡とは違っては稲熱病による被害もそれほどではなかったから、これらと『阿部晁の家政日誌』に記載されているの花巻の天気も併せて考えれば、
 稗貫郡の昭和2年の水稲は天候にも恵まれ、周りの郡とは違っては稲熱病による被害もそれほどではなく、その作柄はほぼ平年作と言える。……●
と判断できそうだ。
 つまり、福井規矩三は「測候所と宮澤君」の中で
 昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた。<*1>
と証言しているが、「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて」いたわけでも、まして「昭和二年はひどい凶作であつた」わけでも決してないと判断できるのではなかろうか。

昭和2年の作柄は?
 とはいえ、前年の大正15年は例の紫波郡の赤石村などが大干魃の年だったからここはもう少し冷静かつ慎重に判断せねばならない。つまり、稗貫郡内の水稲の実収高が平年と比べてどうだったかを知る必要がある。そういえば、以前投稿した〝7月に詠んだ詩〔あすこの田はねえ〕〟の中にこれに使えるデータをがあったはずだ。それが、当時の岩手県並びに稗貫郡の米の収量が載っているこの次表である。

              <『江古田文学45号』(江古田文学会、星雲社)より>
 ところで、
    平年作=最高と最低の年を除いた3か年の平均収穫高
ということだから、岩手の場合は上掲表から
    最高322、最低267を除いた残りの3年間の収穫高 296、303、294 の平均だから 297.7が平年作
となり、
    297/297.7=0.998≒100%
なので稗貫の作況指数は 100 となる。
 一方で、作況指数が 99~101 の場合が〝平年並〟の定義になっているわけだから、
    昭和2年の稗貫の作況指数は100であり、作柄は平年並みであった。……◆
ということがわかる。
 したがって、この〝◆〟と先ほどの〝●〟や〝★〟との間には多少の矛盾があるが、これらのことからは少なくとも次のようなことは言える。
 稗貫郡の昭和2年の水稲の作柄は少なくとも平年並以上であった。
と。おのずから、賢治研究者等がしばしば記述しているような「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた」ということは少なくとも稗貫では(だからもちろん花巻でも)決して起こっておらず、このことに関する賢治研究者等の誤解が少なからずあるということがこれで最終的に確定したと言える。

昭和2年の賢治の稲作指導
 さて一方の賢治の稲作指導等だが、例の昭和2年2月1日付『岩手日報』に農村文化の創造に努む/花巻の青年有志が/地人協會を組織し/自然生活に立返るの記事が載った後のことについては、たとえば『新潮日本文学アルバム宮沢賢治』によれば、
 (この記事)は充分に好意的な記事であったが、文中の表現(《青年三十余名と共に羅須地人協会を組織し》など)が治安当局の目にとまり、また、前年十二月一日に発足した労農党稗貫支部に賢治が内々に協力したこともあって、花巻警察の取調べを受けるという事態になり、協会の集会活動は以後極めて表立たない形に変わる。
     <『新潮日本文学アルバム宮沢賢治』(天沢退二郎編、新潮社)より>
ということだし、境忠一によれば
 賢治はこの新聞記事を契機として、たったひとりではじめた農民芸術学校の運動から、思想性の問われない肥料設計の仕事に移行していったように思われる。
             <『評伝 宮澤賢治』(境忠一著、桜楓社)281pより>
というように、爾後の賢治の活動についてもっと具体的に「肥料設計の仕事に移行していったように思われる」と述べていて、たしかにかつての私も含めて、多くの人がこれと似たような認識をしているようだ。
 実際このことを裏付けるように、協会員の一人でもあった伊藤克己は「先生と私達-羅須地人協會時代-」において、
 春になつて先生は町の下町と云ふ處の今の額緣屋の間口二間に一間ばかりの所を借りて農事相談所を開いた。誰でも自由には入れて、無料で相談に應じてくれたのである。
             <『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋版)397pより>
と追想していて、この昭和2年の春から賢治は下町(しもちょう)に「農事相談所」を開いていたということだから、当時の賢治は肥料設計や稲作指導をしていた<*2>ことに間違いはなかろう。
 ただ惜しむらくは、これらの裏付けとなる資料が乏しいことだ。ちなみに『校本宮澤賢治全集第十二巻(下)』(筑摩書房)には実際賢治が設計したであろう〔施肥表A〕が17枚載っていて、そのリストは下表のとおりだから、

昭和2年のものは一枚もない。ただし私が知る限りではこれら以外には、『拡がりゆく賢治宇宙』の中に、
【肥料設計書(昭和2年ころ)】

              <『拡がりゆく賢治宇宙』(宮沢賢治イーハトーブ館)82pより>
というものが載っているから、もしかするとこのような肥料設計を昭和2年に賢治はやっていたかもしれないが、〝昭和2年ころ〟とあるように、「昭和2年」のものであるという確たるものではない。
 それから前掲書には、
【肥料設計所や農事講演を行った場所と人】

              <『拡がりゆく賢治宇宙』(宮沢賢治イーハトーブ館)より81pより>
という一覧表も載っているが、やはり昭和2年に行われたということの保証がないものばかりである。
 したがって、賢治による肥料設計や農事講演等の稲作指導に対する客観的な資料や証言は昭和2年の場合殆どと言っていいほどにない。そしてその他に私が思い付くのはせいぜい、私の見落としがなければの話だが、先にも検討した詩あすこの田はねえであり、この詩をそのまま還元できると仮定すれば、石鳥谷好地の豪農「東田屋」、すなわち菊池信一の実家に行った際の信一に対する心温まる稲作指導があったということが十分に考えられるというものだけである。言い換えれば、
 昭和2年の賢治が貧しい農民たちのために稲作指導に挺身したということは、ここまでの検証結果からは得られない。
ということになる。
 
<*1:註>
 実際、福井規矩三が発行した『岩手県気象年報』に載っているデータを基に、大正15年~昭和3年の稲作期間の気温と雨量のデータを以下にグラフ化してみると、
《図1》

《図2》

《図3》

            <いずれも『岩手県気象年報(大正15年、昭和2年、昭和3年』(岩手県盛岡・宮古測候所、福井規矩三発行人)より>
となる。
 《図1》からは昭和2年の6月の田植時に雨量が少ないことが判るが、前年に比べればまだましである。また《図2~3》によれば昭和2年は気温も例年より高め、3年間の中でいちばん高いので稲作にとってはよい傾向の年だと考えられるし、少なくともこの昭和2年はこれらのグラフから解るように「多雨高温」であるから、昭和2年は冷害の恐れももちろんなかったとも言える。したがって、福井規矩三の証言<*1>と彼自身発行の『岩手県気象年報』のデータは矛盾しており、このデータに間違いはなかろうから、やはりこの証言<*1>は彼の記憶違いとなりそうだ。
<*2:註>
 例えば『新編銀河鉄道の夜』(新潮文庫)の年譜によれば、昭和2年の稲作期間において賢治の行った稲作指導について、
    ・昭和 2年:五月から肥料設計・稲作指導。夏は天候不順のため東奔西走する。
とある。あるいは『新校本年譜』には、
七月中旬 「方眼罫手帳」に天候不順を憂えるメモ。「本年モ俗伝ノ如ク海温低ク不順ナル七月下旬ト八月トヲ迎フベキヤ否ヤ」を測候所に調査する事項「気温比較表ヲ見タシ 今月上旬ノ雨量ハ平年ニ比シ而ク大ナルモノナリヤ 日照量ハ如何」などとメモ。…(略)…盛岡測候所の年々の記録を調べ…
              <『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)>
とあるが、仮に昭和2年の夏の天候が不順ではあることを匂わすような「表現」の賢治のメモがあったとしても、前年の大正15年の旱魃や昭和6年の冷害の時のような「天候不順」が昭和2年に実際あったわけではないということが前掲のグラフから言えるし、水稲の実収高から言ってもそんなことはなかったということがわかっている。
 したがって、もし賢治が東奔西走したとすればそれは「天候不順」のためによるものではなくて、賢治がそれが起こるかもしれないということを心配したためであったとか、彼の農民に対する想いがそうさせたとかということになろう。あるいはそもそも、「夏は天候不順のため東奔西走する」は歴史的事実だったとは言えないとなるのではなかろうか。

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