みちのくの山野草

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賢治関連七不思議(下根子桜からの撤退、#1)

2017-08-24 10:00:00 | 賢治に関する不思議
《驥北の野》(平成29年7月17日撮影)
 ではいよいよ最後の、七つ目の不思議についてだ。そしてそれは下根子桜からの撤退についてである。
 「演習」とは何か
 ずっと以前から疑問に思ってきたことがある、それはあの「演習」とは一体何のことだったのだろうかという疑問だ。
 周知のように、賢治が愛弟子の一人高橋(澤里)武治に宛てた昭和3年9月23日付書簡、

            <『羅須地人協会の終焉-その真実-』(鈴木守著)表紙より>
 盛岡市外 岩手県立師範学校寄宿舎内 高橋武治 様

お手紙ありがたく拝見しました。八月十日から丁度四十日の間熱と汗に苦しみましたが、やっと昨日起きて湯にも入り、すっかりすがすがしくなりました。六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らず疲れたまゝで、七月畑へ出たり村を歩いたり、だんだん無理が重なってこんなことになったのです。
演習が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります。
           <『宮沢賢治と遠野』(遠野市立博物館)15p > 
があるのだが、「演習が終るころはまた」の「演習」のことである。そしてこれは一体何を意味するのかという疑問がである。

 普通、「すっかりすがすがしくなりました」というのであれば、病気のために実家へ戻って病臥していたといわれているはずの賢治なのだから、「そろそろ下根子桜に戻ってそれまでのような営為を行いたい」と賢治は伝えるであろうと思いきや、「演習が終るころ」まではそこに戻らないと愛弟子に伝えているわけだから、この「演習」は極めて重要な意味合いを持っていると言わざるを得ない。そのような「演習」とは一体何のことだろうかと私は長らく気になっていた。そしてまた、この「演習」に関して考察した論考等に私は殆どお目にかかれずにいた。
 強いて言えば、『新校本年譜』の昭和3年の「九月二三日」の項に次のような記述があり、
 …だんだん無理が重なってこんなことになったのです。/演習(*)が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります。
           <『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)・年譜篇』(筑摩書房)>
その「演習」の注釈〝*45〟として一言、
    盛岡の工兵隊がきて架橋演習などをしていた。
と述べているだけだった。

 ところがこの「盛岡の工兵隊がきて架橋演習」に関しては、『花巻の歴史 下』によれば、
 架橋演習には第二師団管下の前沢演習場を使用することに臨時に定めらていた。
 ところが、その後まもなく黒沢尻――日詰間に演習場設置の話があったので、根子村・矢沢村・花巻両町が共同して敷地の寄付をすることになり、下根子桜に、明治四十一年(一九〇八)、東西百間、南北五十間の演習廠舎を建てた。
 毎年、七月下旬から八月上旬までは、騎兵、八月上旬から九月上旬までは、工兵が来舎して、それぞれ演習を行った。
            〈『花巻の歴史 下』(及川雅義著)67p~〉
となっている。つまり、下根子桜に建てられた「工兵廠舎(花巻演習場廠舎)」に盛岡の工兵隊等が来舎して架橋演習が行われた期間は「七月下旬~九月上旬」であったということになる。
 そこでこの『花巻の歴史 下』の記述に従えば、賢治が澤里に宛てた書簡(243)の日付は9月23日だからこの時点では既にこの「架橋演習」は終わっていたことになる。一方、同書簡の文章表現「演習が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります」に従えば、9月23日時点では賢治はまだ根子(「下根子桜」)に戻っていないことは明らかだから、賢治が同書簡にしたためたところの「演習」はまだ終わっていないことになるのでこの「架橋演習」のことではないということになる。

 ちなみに、昭和4年7月8日付『岩手日報』には次のような見出し「工兵八大隊 架橋演習 花巻北上川で」の記事があり、

 盛岡工兵大八大隊一、二の兩中隊は九日より向かふ一ヶ月に渡つて花巻町附近北上川に於て架橋演習を行ふことになつたがこの準備のため四十名の下士卒は六日午前七時盛岡発現場に向かつた。
と報じられていたから、
    花巻で当時毎年行われていた工兵隊の架橋演習は、昭和4年の場合7/9からの一ヶ月であった。
と判断していいだろう。つまり、この報道によれば、
    昭和4年の工兵隊の架橋演習は8月上旬には終えていた。
と判断していいだろうから、賢治が武治に宛てた前年昭和3年9月23日付書簡(243)中の「演習」はやはりこの「架橋演習」のことであったとは言えないだろう。賢治が書簡に書いたところの「演習」とは、その文章表現からしてまだ9月23日時点では終わっていないものと解釈されて、この「架橋演習」のことではないという蓋然性がまた高まったからである。

 つまり、この書簡の中に出て来ている「演習」とはこの注釈に述べられているような「架橋演習」のことではなく、別の「演習」を指しているということを賢治自身が教えてくれている。しかもその「演習」とは、このままでも教え子にも通ずるようなそれであるということも、である。さらには、この書簡のあて先は「盛岡市外 岩手県立師範学校寄宿舎内」だから、盛岡に住んでいた武治にもそれだけで通じるようなものだから、この「演習」は花巻のみならず盛岡でも知られていたはずで、延いては、当時は「演習」というだけで結構岩手では誰にでも通用したものであったということも示唆される。
 言い換えれば、そのような「演習」であれば、少し調べれば案外簡単にその正体を明らかに出来るはずだが、賢治研究家の誰一人としてそれがどんなものであったのかということを今の今まで明らかにしてこなかったということが、私にはとても不思議でならない。そして、なぜこのことをおかしいことだと問題視してこなかったのだろうか。それとも、私がこう思ったのは、私の管見故にだろうか。

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