みちのくの山野草

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賢治関連七不思議(下根子桜からの撤退、#6)

2017-08-29 10:00:00 | 賢治に関する不思議
《驥北の野》(平成29年7月17日撮影)
 警察からの圧力と賢治の対処
 さて、特高等のすさまじい「アカ狩り」によって、昭和3年夏8月頃に賢治と親交のあった八重樫賢師は北海道は函館に、賢治のことをよく知っている小館長右衛門は同年8月に小樽にそれぞれ追われた<*1>というし、そういえば賢治の母校盛岡中学の英語教師平井直衛が同じく「アカ狩り」でその地位を追われたのもその年の8月だった〈*2〉。よって、この年の10月に行われる「陸軍大演習(陸軍特別大演習)」を前にしてその8月頃にはとりわけすさまじい「アカ狩り」旋風が岩手に吹き荒れていたであろうことが容易に想像できる。
 となれば、そのような社会情勢下では賢治も官憲等からの強い圧力が避けられなかったであろうことも当然予想できる。それは、賢治が実家に戻った時期がまさに昭和3年のその8月であったことが如実に物語っているからでもある。
 とはいえそれは、井上ひさしが『イーハトーボの劇列車』の中で花巻警察署伊藤儀一郎をして言わしめている、次のような科白と似たものであったということが考えられるのではなかろうか。
 あんたがただの水呑百姓の倅なら、労働農民党の事務所の保証人というだけでとうの昔に捕まっていましたぜ。…(筆者略)…だが、町会議員、学務委員、そしてこの十一月三日明治節には町政の功労者として高松宮殿下から表彰されなすった宮沢政次郎さんの御長男ともなればそうはいかん。宮沢さんは、御自身でも何度も署へ足を運ばれて、署長と……。
            <『イーハトーボの劇列車』(井上ひさし著、新潮文庫)133p>
 たしかに伊藤の「科白」のとおりであり、父の政次郎は花巻の名士で実力者の一人だった。しかも、この「陸軍大演習」の最初の演習が行われたのは花巻においてであり、10月6日には花巻の日居城野で「御野立」が行われたのだが、その前々日の4日付『岩手日報』には、
 大演習南軍の主力部隊、第三旅團長中川金藏少将の統率の將校以下二千四百名は三日午後三時五分着下り臨時軍用列車で來花…(中略)…第三旅團長中川金藏少將は花巻川口町宮澤善治宅に宿泊した。
という記事があり、第三旅団長が賢治の母の実家「宮善」に泊まっていたというのだ。ということであれば、花巻警察署は「宮澤マキ」や賢治の父政次郎にはそれなりの配慮もしたであろうことは十分にあり得る。

 そんな折、私は豊田穣が『浅沼稲次郎 人間機関車』において次のようなことを紹介していることを知った。
 大正12年9月1日に発生した関東大震災の2、3日後のこと、農民運動社に泊まっていた浅沼稲次郎は夜中の一時過ぎに兵隊によって揺り起こされ、戸山ヶ原騎兵連隊の営倉にぶち込まれ、次に市ヶ谷監獄に入れられたという。そして約一ヶ月後保釈された浅沼は早稲田警察の特高から、
「本来ならば引きつづき当署で留置すべきところであるが、神妙にして郷里で謹慎していれば大目に見よう。もし、また出てきたら検束する」
といわれ、さすがの人間機関車も、それ以上悪名高い特高でリンチに耐える自信もなく、孤影悄然として三宅島にかえった。大正十二年十月のことである。
             <『浅沼稲次郎 人間機関車』(豊田穣、岳陽書房)113p>
これは浅沼自身が著した「私の履歴書」に基づいて豊田が述べたもののようであり、実際にその「私の履歴書」を見てみると、
(早稲田警察の特高から)『田舎へ帰っておとなしくしてなきゃ検束する』と言い渡された。こうして私はしょんぼり故郷三宅島へ帰った。
             <『浅沼稲次郎』(浅沼稲次郎、日本図書センター)30p >
ということである。そこで私は、あの人間機関車でさえもそういう辛い選択をせねばならなかったことがあったのかと同情すると共に、その浅沼の判断を責めることもまた酷なことだと思った。そしてなにより、
 特高は当時、危険分子と目した人物に対して「自宅謹慎か検束か」という取引策も用いていた。
ということはほぼ確実であり、この取引策によって万やむを得ず筋金入りの大闘士でさえも「自宅謹慎」を選択せざるを得なかった実例があったということを知ることができた。
 一方で、先にも引用したのだが、上田仲雄氏によれば、
 (昭和3年)五月以降I盛岡署長による無産運動への圧迫はげしくなり、…(筆者略)…。三・一五事件に続いて無産運動に加えられた弾圧は、この年の十月県下で行われた陸軍大演習によって更に徹底せしめられる。演習二週間前に更迭したT盛岡警察署長により無産運動家の大拘束が行われた。この大拘束を期として、本県無産運動指導者の間に清算主義的傾向が生じ、岩手無産運動の一つの転期を孕んで来た。
            <『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)54p~>
ということであり、当時その弾圧の激しさに抗しきれずに清算主義に傾く活動家も少なくなかったということも私は知っていた。

 そこで閃いたのが、
 花巻警察署から、検束などはしないからその代わり、この10月に行われる「陸軍大演習」では花巻でも天皇の「御野立」が行われるので、それが終わるまではどうか実家で静かにしていてほしいと懇願され、それに従って賢治は自宅謹慎した。
という可能性を否定できないということだった。
 言い換えれば、次のような有力な仮説
 昭和3年8月に賢治が実家に戻った最大の理由は体調が悪かったからということよりは、「陸軍大演習」を前にして行われていた特高等によるすさまじい弾圧「アカ狩り」に対処するためだったのであり、賢治は重病であるということにして実家にて謹慎していた。……☆
が定立できることに気付いた。そして、たしかに今まで考察してきた事柄を振り返ってみれば、
ということを明らかにできているからこれらは皆この仮説〝☆〟を裏付けてくれる。
 その一方で、この仮説〝☆〟の反例となるのではなかろうかと思われる、かつての昭和3年の「賢治年譜」の
八月、心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順に依る稲作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母のもとに病臥す。
という記述についてだが、当時の気象データ等に基づけば、「氣候不順に依る稲作の不良」も「風雨の中を徹宵東奔西走」するような「風雨」も共になかった、ということを私は既に明らかにできている<*3>ので、この年譜の記述にはあやかしな点が多くてとても反例たり得ない。
 よって、現時点ではその他にこの仮説の反例となり得るものは見つかっていないからこれで仮説〝☆〟の検証は完了したので、今後この反例が見つからない限りはという限定付きの〝☆〟は「事実」であるということになる。
 実際、前述したように、
 昭和3年夏8月頃八重樫は北海道は函館に、小館は8月に小樽へ、平井も8月に盛中教師の職を追われるというすさまじい「アカ狩り」旋風が岩手に吹き荒れていた。
ということだから、なかなか筋のいい仮説だと私はなおさら自信を持てた。そこで私は、「昭和3年賢治自宅謹慎」というテーマでかつて投稿したことがあるのだが、その中の〝 「昭和3年賢治自宅謹慎」の結論(最終回)〟等において前述したような内容の報告をした。

 するとこのことに関して大内秀明氏が、論文「労農派シンパの宮沢賢治」(『土着社会主義の水脈を求めて』所収)の中で、
 羅須地人協会と賢治の活動の真実に基づく実像を明らかにする上で、大変貴重な検証が行われたと評価したいと思います。とくに羅須地人協会の賢治が、ロシア革命によるコミンテルンの指導で、地下で再建された日本共産党に対抗して無産政党を目指した「労農派」の「有力なシンパ」だったこと。社会主義者川村や八重樫とレーニンのボルシェビズムなどを激しくを議論していたこと。そのため岩手で行われた「陸軍特別大演習」に際しての「アカ狩り」大弾圧を受ける危険性があり、そのため父母の計らいもあって、賢治は病気療養を理由に「自宅謹慎」していた。
 確かに「賢治年譜」には「不都合な真実」を曖昧にする意図が感じられます。もっと賢治の実像が明確になるように書くべきだったし、今日の時点では「真実」が書かれても、賢治にとって「不本意」なことだったにしても、さほど「不都合な真実」では無いように思われます。昭和三年といえば、有名な三・一五事件の大弾圧があった年だし、さらに盛岡や花巻で天皇の行幸啓による「陸軍特別大演習」が続き、官憲が予防検束で東北から根こそぎ危険分子を洗い出そうとしていた。そうした中で、賢治自身もそうでしょうし、それ以上に宮沢家や地元の周囲の人々もまた累が及ばぬように警戒するのは当然でしょう。事実、賢治と交友のあった上記の川村、八重樫の両名は犠牲になった。「嘘も方便」で、病気を理由に大弾圧の嵐を通り過ぎるのを、身を潜めて待つのも立派な生き方だと思います。
             <『土着社会主義の水脈を求めて』(大内秀明・平山昇共著、社会評論社)302p~>
と論評してくださっていることを知って、私は感謝すると共にはっとした。
 それは、このような「病気を理由に大弾圧の嵐を通り過ぎるのを、身を潜めて待つ」という身の処し方にそれまでは正直抵抗感があったのだが、冷静に考えてみればそのような身の処し方の是非を今の時代を生きる私が論うことはできないのだ、と。平たく言えば、賢治は警察から睨まれて「下根子桜」に居られなくなったので仮病を使って実家に戻って謹慎したということが事実であったならばそれは弱虫のすることだと思っていたのだが、大内氏の「「嘘も方便」で、病気を理由に大弾圧の嵐を通り過ぎるのを、身を潜めて待つのも立派な生き方だと思います」という受け止め方を知って、私は己の狭量さを知ったからだ。
 またこの仮説〝☆〟に従うならば、例の澤里宛書簡の中の「演習が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝりますの意味するところは、
 10月上旬に行われる「陸軍大演習」が終わるころ再び「下根子桜」に戻る。ただし、そこに戻ったならば今までとは違い、創作の方を主にする。
という決意を述べていたのだということの蓋然性が極めて高いということになり、もしそれが事の真相であったとすればそのような賢治の変節については多少違和感はあるものの、それはそれほど責められるべきことでもなかろう。
 なにしろ、そもそも私が同じような立場におかれたならばいともたやすくにそうしかねないし、前述したように当時はそうする人(当時その弾圧の激しさに抗しきれずに清算主義に傾く活動家)も少なくなかったというからだ。
 そして、そのような身の処し方をする賢治の方が私にはかえって身近な存在と感ずることができて、賢治は実はとても愛すべき人間だったのだと私には思えてきた。

〈*1:註〉 上田仲雄氏は「岩手県無産運動史」の中で、
 労農協議会に属し、最も戦斗的な小館長右ェ門が八月無産運動より逃避し、北海道、小樽に移転、商業を営む。
            <『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)68p~>
と述べている。
〈*2:註〉金田一京助、平井直衛、金田一他人、荒木田家寿は皆兄弟であるが、その荒木田家寿が、
『種蒔く人』を初めて盛岡に持ち込んだのが、この直衛なんです。思想的には特にアカというのではなかったが、昭和三年、陸軍演習を前にして〝アカ狩り〟で盛中をクビになってしまった。
            <『啄木 賢治 光太郎』(読売新聞社盛岡支局)37p >
と兄の直衛が盛岡中学の英語教師をクビになった事情を説明しているし、『白堊同窓会名簿』を見てみれば、「平井直衛 T12.3~S3.8 英語」となっていることから、盛岡中学を辞めさせられた時期が昭和3年の8月であることが確認できる。
〈*3:註〉例えば、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』の66p~を参照されたい。

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