みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

〔聖女のさまして近づけるもの〕の安易な還元

2016-09-04 08:30:00 | 「羅須地人協会時代」検証
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
 今回は〈「聖女のさましてちかづけるもの」はちゑ〉という思考実験を行う。
**************************************(思考実験)*****************************************
 昭和6年9月28日、病に襲われて花巻に戻った賢治は実家で病に伏せながら、『雨ニモマケズ手帳』を書いていった。そしてこの手帳を書き進めていくうちに、「賢治とならば結婚してもいいとちゑの方も思っている」ものとばかりに思い込んでいた賢治だったが、実際に結婚を申し込んだところちゑからはけんもほろろに断られてしまったから、ちゑに一方的に裏切られてしまったという屈辱感が日に日に募ってきて病臥中の賢治を苛んだ。次第に溜まってくるフラストレーションがついに爆発、10月24日に、佐藤勝治が言うところの「なまなましい憤怒の文字」を連ねた詩〔聖女のさましてちかづけるもの〕を『雨ニモマケズ手帳』に書いてしまった。
 つまり、再び持ち上がったちゑとの「結婚話」の破綻がこの詩を詠ましめた。巷間、賢治が「聖女のさましてちかづけるもの」と詠んだ女性は露であると言われているが、もしそうであったならば賢治は相当執念深い。なぜなら、賢治が奇矯な行為までして露を拒絶したと言われているのは昭和3年の遅くても秋までだから、それから3年以上もたった昭和6年10月に、拒絶したという女性を〔聖女のさましてちかづけるもの〕において憤怒しているからだ。だからそうではなくて、常識的に考えるならば、昭和6年7月7日に森荘已池に「結婚するかもしれません」と打ち明けたというその相手伊藤ちゑの方が遥かに蓋然性が高かろう。一方のちゑ自身は賢治と結婚する意志はなかったようだし、賢治の方は結婚してもいいと思っていた7月からたった約3ヶ月半後の10月24日だから、時間的な観点からも詠まれたであろう蓋然性が高いのは露の方ではなかろう。

 さて、『光りほのかなれど―二葉保育園と徳永恕』(上笙一郎・山崎朋子著、教養文庫)によれば、二葉保育園の創設者の野口幽香と森島美根は、当時東京の三大貧民窟随一と言われていた鮫河橋に同園を開いて、寄附金を募ってそれらを元にして慈善教育事業、社会事業としての貧民子女の保育等に取り組んでいたという。そして創設者の二人、野口も森島も敬虔なクリスチャンであり、ちゑが勤めていた頃の同園の実質的責任者の徳永恕はクリスチャンらしくないクリスチャンだったという。ちなみに、現在でも同園は「キリストの愛の精神に基づいて、健康な心とからだ、そしてゆたかな人間性を培って、一人ひとりがしっかりとした社会に自立していけることを目標としています」という理念を掲げている。つまり当時のちゑは、スラム街の貧しい家の子どもたちのために保育実践等をしていて、いわば<セツルメントハウス>とも言える『二葉保育園』に勤めていた。
 当然、賢治が結構してもいいと言っていたちゑだから、ちゑがそのような所で働いていることは賢治は知っていたであろう。したがって、賢治からはちゑがまさに「聖女」のように見えたということは十分にあり得る。したがって、もしそのような女性から仮に裏切られてしまったと賢治が思い詰めたとすれば、それこそ
   ちゑ=聖女のさましてちかづけるもの
と言い募ってしまいたくなるのも人情だ。

 一方、賢治といえばこの頃の賢治はもはやかつてのような賢治ではなくなっていた。ちなみに、賢治自身が
禁欲は、けっきょく何にもなりませんでしたよ、その大きな反動がきて病気になったのです。
とか、
何か大きないいことがあるという、功利的な考えからやったのですが、まるっきりムダでした。
と、はたまた、
 その三四冊の春本や商売のこと、この性の話などをさして、
「私も随分かわったでしょう――。」
という。
いや自分はそうは思いません。」
と答えたが、
「そう思う人があるかも知れませんね。」
とも答えた。
             <いずれも『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)108p>
といったようなことをあの森荘已池が活字にして証言しているのだから、これらの証言にまず嘘はなかろう。したがって、もはや賢治はかつてのような賢治ではなくなってしまった。賢治は変節してしまったと言える。

 すると、かつてのような賢治でなくなっていたことを敏感に察知したちゑは、自分の生き方とはその対極にあるような賢治にもはや惹かれることはなかったから、賢治と結婚するのは無理だと覚った。賢治自身は結婚してもいいと思っていたちゑから、結局は「振られた」という形に結果的にはなってしまったわけだから、後々いくら森が『あなたは、宮澤さんの晩年の心の中の結婚相手だつた』(『宮澤賢治と三人の女性』116p)とちゑに迫っても、ちゑは賢治と結びつけられることをひたすら拒絶したのだと解釈できる。いわば、ちゑの矜恃が賢治と結びつけられることをかたくなに拒絶させたとも見られる。

 ところで、『雨ニモマケズ手帳』の32p~33pには、〔われに衆怨ことごとくなきとき〕がメモされていて、小倉豊文によればここには、
   ◎われに
    衆怨ことごとく
          なきとき
    これを怨敵
       悉退散といふ
   ◎
    衆怨
     ことごとく
          なし
              <『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社)116pより>
と書かれていて、どちらの頁も〔聖女のさましてちかづけるもの〕の書かれた日と同じ10月24日のものらしいと推測している。
 そして、小倉は賢治がこの〔われに衆怨ことごとくなきとき〕をここに書き付けた理由を次のように解説している。
 恐らく、賢治は「聖女のさましてちかづけるもの」「乞ひて弟子の礼とれる」ものが、「いまわが像に釘う」ち、「われに土をば送る」ように、恩を怨でかえすようなことありとも、「わがとり来しは、たゞひとすじのみちなれや」と、いささかも意に介しなかったのであるが、こう書き終わった所で、平常読誦する観音経の「念彼観音力衆怨悉退散」の言葉がしみじみ思い出されたことなのであろう。そして、自ら深く反省検討して「われに衆怨ことごとくなきとき、これを怨敵悉退散といふ」、われに「衆怨ことごとくなし」とかきつけたものなのであろう。
            <『「雨ニモマケズ手帳」新考』119p~より>
 この10月24日に詠まれた〔聖女のさましてちかづけるもの〕と、そのたった10日後に書かれたという〔雨ニモマケズ〕の間にある両極端とも思えるほどの賢治の心の振幅の大きさがどうしても理解困難であった私だったが、賢治は、〔聖女のさましてちかづけるもの〕を詠んだ後にそのことを実はしっかりと「自ら深く反省検討」し、そして〔雨ニモマケズ〕を詠んだと理解すれば、これでやっと私は腑に落ちる。端的に言えば、
 「聖女のさましてちかづけるもの」と賢治が勝手に思ったのはちゑの方であり、少なくとも露ではない、と言えそうだ。
そしてもちろん、ちゑも露も共にに、まさに聖女のように見事に生きた人だった。

 一方で、
 露はクリスチャンだ、クリスチャンは聖女だ、だからこの詩〔聖女のさましてちかづけるもの〕は露のことを詠んでいるんだ。
というあまりにも杜撰すぎる「三段論法」が採られてしまったがために、結果的には露のことをこの詩は<悪女>にしてしまったという責任の一端を免れられない。もちろん、この詩そのものにその責任があるわけではなく、そう理解した人の責任だが。
 とまれ、これで賢治が〔聖女のさましてちかづけるもの〕で「聖女のさまして」と詠んだ「聖女」とは、少なくとも露ではなくてちゑである蓋然性が極めて高いということが導けたのから、この詩を元にして<悪女>扱いされた節が強い露にすれば踏んだり蹴ったりで、濡れ衣もいいところだ。
 単に手帳に書かれた一篇の詩によって、一方的に一人の人間の尊厳や人格が安易に全否定されるということは許されていいはずがない。それも、然るべき人たちがその裏付けも取らず、検証もせずに漫然と〈悪女伝説〉の再生産を繰り返してきたからだ。いかな賢治の詩といえども単独であっては「伝記研究」の資料たり得ないことは当たり前のことなのに。
**************************************(思考実験終わり)*****************************************
 これで思考実験は終わるが、この実験結果によって
 「聖女のさまして」の「聖女」と詠まれた女性はとしては高瀬露以上にその蓋然性がかなり高い女性伊藤ちゑが他に存在していたということだけは明らかになったから、少なくとも〔聖女のさましてちかづけるもの〕を元にして露のことを〈悪女〉呼ばわりすることはあまりにも無茶である。
ということは示せたと私自身は思っている。そして現実は、〔聖女のさまして近づけるもの〕の安易な還元が行われているという、無茶がなされているということである。

 そして伊藤ちゑのことを、萩原昌好氏は『宮沢賢治「修羅」への旅』の中で、
 ところでチヱさんには、特記事項がある。「島乃新聞」昭和五年九月二六日付の記事に
あはれな老人へ
毎月五円づつ恵む
若き女性――伊藤千枝子
とあって、島の老女に同情を寄せたチヱさん(当時二三歳)が、
 (前略)大正十五年夏転地療養中の現在北の山在住の伊藤七雄氏の看病に来島した同氏の妹本所幼稚園保母伊藤千枝子(本年二十三才)は隣のあばら家より毎夜開かるゝ藁打ちの音にいたく心を引かれ訪ねたところ誠に哀れな老婆なるを知り、測隠の心頻りにして滞在中実の母に対するが如く何彼と世話し、七雄氏全快とともに帰京し以後今日まで五六年の間忘るゝことなく毎月必ず五円の小為替を郵送して此の哀れな老婆に盡してゐるが誠に心持よい話である。
という記事が見える。
           <『宮沢賢治「修羅」への旅』(萩原昌好著、朝文社)317p~より>
と紹介しており、ちゑは『二葉保育園』ではスラム街の子女の保育のためのセツルメント活動に取り組んでいただけではなくて、兄の看護のために伊豆大島に居た頃はこっそりと隣の老婆を助けたり、そこを去ってからもその老婆に毎月「5円」を送金し続けたりするような女性であったということだから、ちゑは自分にはストイックだが、他人にはとても優しいまさに「聖女」のような人だったと言えよう。

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《鈴木 守著作案内》
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 まず、葉書か電話にて下記にその旨をご連絡していただければ最初に本書を郵送いたします。到着後、その代金として500円、送料180円、計680円分の郵便切手をお送り下さい。
       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                  ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)

 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』        ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和2年の上京-』      ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』

◇ 拙ブログ〝検証「羅須地人協会時代」〟において、各書の中身そのままで掲載をしています。

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