みちのくの山野草

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ヒデリノトキもサムサノナツも「サウイフモノニナリタイ」

2024-04-27 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《コマクサ》(平成27年7月7日、岩手山)

 さて、昭和3年の「ヒデリノトキ」は流石に賢治も、今度こそは田植時のヒデリをとても心配していたはずだ。それは、大正15年の大旱害の際に賢治は何一つ救援活動等をしていなかったと言えるからその悔いがあったであろうことと、同年の大旱害被害の最大の原因の一つに田植時に用水を確保できなかったことがあったからである。
 ところが昭和3年の田植時に賢治は何をしていたのかというと、周知のように、
六月七日(木) 水産物調査、浮世絵展鑑賞、伊豆大島行きの目的をもって花巻駅発。仙台にて「東北産業博覧会」見学。東北大学見学、古本屋で浮世絵を漁る。書簡(235)。
六月八日(金) 早朝水戸着。偕楽園見学。夕方東京着、上州屋に宿泊。書簡(236)。
六月一〇日(日) <高架線>
六月一二日(火) 書簡(237)。この日大島へ出発、 伊藤七雄宅訪問?
六月一三日(水) <三原三部>
六月一四日(木) <三原三部> 東京へ戻る。
六月一五日(金) <浮世絵展覧会印象> メモ「図書館、浮展、新演」。 
六月一六日(土) 書簡(238)。メモ「図書館、浮展、築地」「図、浮、P」。  
六月一七日(日) メモ「図書館」「築」。
六月一八日(月) メモ「図書館」「新、」。
六月一九日(火) <神田の夜> メモ「農商ム省」「新、」
六月二〇日(水) メモ「農商ム省」「市、」
六月二一日(木) メモ「図書館、浮展」「図、浮、本、明」。
六月二四日(日) 帰花。 
  〈『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)補遺・資料 年譜篇』(筑摩書房)〉
ということである。よってこの年譜に従うと、この時期のヒデリに対して、
・大正15年の時とは違って、今年はしっかりと田植はできるのだろうか。
・田植はしたものの今年は雨がしっかりと降ってくれるだろうか、はたまた、用水は確保できるだろうか。
などということを賢治が真剣に心配していた、とはどうも言い切れない。なにしろ、農繁期のその時期に賢治は故郷にはしばらくいなかったからである。
 それでは賢治がしばしの滞京を終えて帰花した直後はどうであったであろうか。同じく『新校本年譜』によれば、
六月二四日(日) 帰花。
六月下旬〔推定〕〈〔澱った光の澱の底〕〉
七月三日(火) 菊池信一あて(書簡239)に、「約三週間ほど先進地の技術者たちといっしょに働いて来ました。」とあり、また「約束の村をまはる方は却って七月下旬乃至八月中旬すっかり稲の形が定まってからのことにして」という。…(投稿者略)…村をまはる方は七月下旬その通り行われる。
七月初め 伊藤七雄にあてた礼状の下書四通(書簡240と下書㈡~㈣)
七月五日(木) あて先不明の書簡下書(書簡241)
七月一八日(水) 農学校へ斑点の出た稲を持参し、ゴマハガレ病でないか調べるよう、堀籠へ依頼。イモチ病とわかる。
七月二〇日(金) <停留所にてスヰトンを喫す>
七月二四日(火) <穂孕期>
七月 平来作の記述によると、「又或る七月の大暑当時非常に稲熱病が発生した為、先生を招き色々と駆除予防法などを教へられた事がある。…(投稿者略)…」とあるが、これは七月一八日の項に述べたことやこの七、八月旱魃四〇日以上に及んだことと併せ、この年のことと推定する。
とある。そこで私は、2週間以上も農繁期の故郷を留守にしていた賢治はその長期の不在を悔い、帰花すると直ぐに、
    〔澱った光の澱の底〕
   澱った光の澱の底
   夜ひるのあの騒音のなかから
   わたくしはいますきとほってうすらつめたく
   シトリンの天と浅黄の山と
   青々つづく稲の氈
   わが岩手県へ帰って来た
     …(投稿者略)…
   眠りのたらぬこの二週間
   瘠せて青ざめて眼ばかりひかって帰って来たが
   さああしたからわたくしは
   あの古い麦わらの帽子をかぶり
   黄いろな木綿の寛衣をつけて
   南は二子の沖積地から
   飯豊 太田 湯口 宮の目
   湯本と好地 八幡 矢沢とまはって行かう
   ぬるんでコロイダルな稲田の水に手をあらひ
   しかもつめたい秋の分子をふくんだ風に
   稲葉といっしょに夕方の汗を吹かせながら
   みんなのところをつぎつぎあしたはまはって行かう

〈『校本宮澤賢治全集第六巻』(筑摩書房)283p~〉
と〔澱った光の澱の底〕に詠んだのだと推測できたから、帰花後の賢治はさぞかし稲作指導に意気込んでいたであろうとばかり思っていた。というのは、田植やそれが終わったこの時期はあの賢治ならばあちこち飛び回って稲作指導をしていたであろう時期であり、一方で肥料設計をしてもらった農民達は特にその巡回指導を首を長くして待っていた時期であるはずだからでもある。それ故にこそ、賢治は〔澱った光の澱の底〕を昭和3年6月下旬に詠んだという『新校本年譜』の推定は妥当だと以前の私は納得していた。
 ところが、伊藤七雄に宛てたというこの年の〔七月初め〕伊藤七雄あて書簡(240)下書㈡に、
 …こちらへは二十四日に帰りましたが、畑も庭も草ぼうぼうでおまけに少し眼を患ったりいたしましてしばらくぼんやりして居りました。いまはやっと勢いもつきあちこちはねあるいて居ります。
    <『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡・校異篇』(筑摩書房)>
ということが書かれているということをある時知った。それまでは、当時眼を患っていたと賢治が言っていたことは知っていたのだが、「しばらくぼんやりして居りました」ということを全く知らずにいたので吃驚した。そしてもしそうであったとするならば、この下書の「しばらく」とか「やっと」という表現からしても、賢治が帰花直後の24日や25日にこの〔澱った光の澱の底〕を詠んだということはなかったと言えそうだ。このような「勢い」を帰花直後の賢治は持ち合わせていなかったであろうと判断できるからだ。これらの表現からは、帰花後の数日は何もせぬままに賢治ぼーっと過ごしていたという蓋然性が高い。しかも7月3日付書簡(239)には、
 …約束の村をまはる方は却って七月下旬乃至八月中旬すっかり稲の形が定まってからのことにして
としたためていることから、約束でさえも後回しにしていることが知れるので、7月初め頃もまだ賢治のやる気はあまり起きていなかったと言えそうだから、賢治は「しばらくぼんやりして居りました」ということがこのことからも裏付けられそうだ。
 それはまた、賢治は、
   さああしたからわたくしは
   あの古い麦わらの帽子をかぶり
   黄いろな木綿の寛衣をつけて
   南は二子の沖積地から
   飯豊 太田 湯口 宮の目
   湯本と好地 八幡 矢沢とまはって行かう
      …(投稿者略)…
   みんなのところをつぎつぎあしたはまはって行かう
と詠んではいるものの、「みんなのところをつぎつぎあしたはまはって行かう」ということであれば、ざっと見積もってみても、賢治にとってはかなり無茶な行程となってしまうことからも裏付けられそうだ。
 そこでそのことを次に検証してみる。まずはそのために、この行程を当時の『巖手縣全圖』(大正7年、東京雄文館藏版)を用いて、地図上で巡回地点間の直線距離を測ってみると、おおよそ、 
    「下根子桜」→8㎞→二子→6㎞→飯豊→6㎞→太田→4㎞→湯口→8㎞→宮野目→6㎞→湯本→8㎞→好地→2㎞→八幡→8㎞→矢沢→7㎞→「下根子桜」
となる。つまり、
   全行程最短距離=(8+6+6+4+8+6+8+2+8+7)㎞=63㎞
となる。
 では、この全行程を賢治ならば何時間ほどで廻り切れるだろうか。一般には1時間で歩ける距離は4㎞が標準だろうが、賢治は健脚だったと云われているようだから仮に1時間に5㎞歩けるとしても、
   最短歩行時間=63÷5=12.6時間
となり、歩くだけでも半日以上はかかる(賢治は自転車には乗らなかったし乗れなかったと聞くから、歩くしかなかったはずだ)。しかも、これはあくまでも移動に要する最短時間である。道は曲がりくねっているだろうし、橋のない川を渡る訳にもいかなかっただろう。その上に、稲作指導のための時間を加味すればとても「みんなのところをつぎつぎあしたはまはって」しまえそうにはない。
 まして、前掲の詩〔澱った光の澱の底〕において次のように、
    眠りのたらぬこの二週間
    瘠せて青ざめて眼ばかりひかって帰って来た

と詠んでいる賢治には、このような行程を一日で廻り切るのはちょっと無理であろうことはほぼ自明である。だからこの〔澱った光の澱の底〕はあくまでも詩であり、賢治がその通りに行動したと安易に還元はできないし、その通りにはもともと行動することがまずできなかったということである。
 最後に、同年の8月の賢治の営為を『新校本年譜』によって見てみれば、
八月八日(水) 佐々木喜善あて(書簡242)
八月一〇日(金) 「文語詩」ノートに、「八月疾ム」とあり。〔下根子桜から豊沢町の実家に戻り病臥〕
八月中旬 菊池武雄が藤原嘉藤治の案内で下根子桜の別宅を訪れる(賢治不在)。
ということだから、8月10日以降は賢治が稲作指導をしようにも体がそれを許さなくなってしまったということになってしまう。
 さて、稲作指導者という立場から賢治が昭和3年のヒデリを心配して「涙ヲ流シ」たということはあり得るかということでここまで考察してきた。たしかに、この年の夏は稗貫郡でもヒデリが続き、約40日以上もそれが続いていたのだが、賢治は農繁期である6月にも拘わらず、上京・滞京していてしばらく故郷を留守にしていたことや、帰花後は体調不良でしばらくぼんやりしていたこと、そして8月10日以降は実家に戻って病臥していたことなどからして、昭和3年の夏のヒデリやそれによる農民の苦労を賢治がそれほど気に掛けたり心配したりして奮闘していたとはとても思えない。言い換えれば、稲作指導者という立場から、賢治が昭和3年のヒデリを心配して農民のためにいろいろと手立てを講じたのだが何の役にも立たなかった、ということなどで「涙ヲ流シ」たというようなことはあったとは言えない。
 だからもし、この年に賢治が仮に「涙ヲ流シ」たとすればそれは稲作指導者という立場からではなくて、自分自身の無為無策に対してだったとなるだろう。そして実際、当時の賢治は稲作指導を殆ど放棄していたから、己のその情けなさに対して「涙ヲ流シ」たということは充分にあり得る。しかしそれでは、その「涙」は件の「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」の「ナミダ」とは性格が違ってしまい、単に己の不甲斐なさに対しての「涙」だったとなってしまう。
 ということで、稲作指導者としての立場から賢治が昭和3年の約40日以上もの「ヒデリノトキニナミダヲナガシ」たことなどはなかったとならざるを得ないので、結局、客観的にも稲作指導者としても、
   昭和3年の賢治が「ヒデリノトキハミダヲナガシ」たとは言えない。
という結果になってしまう。つまり、大正15年のヒデリの場合と同様な賢治がそこに居たということになるから、この結果と先の検証された〈仮説3〉とを併せることによって、
   〈仮説4〉「羅須地人協会時代」の賢治が「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」たとは言えない。
が検証されたということになる。
 つまり、「羅須地人協会時代」の大正15年と昭和3年の稗貫郡等はヒデリの夏だったのだが、本当のところは、両年共に「ヒデリノトキニ涙ヲ流サナカッタ」賢治であったということにならざるを得ない。 (拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』を参照されたい)

 畢竟、「羅須地人協会時代」である昭和2年に、賢治が「サムサノナツハオロオロアル」こうと思ってもこれは土台無理な話であり、本当はそんなことは実はできなかったという結論にならざるを得ない。
 よって、「羅須地人協会時代」の賢治が、大正15年及び昭和3年の「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」たとは言えないことが先の〝㈢ 〟で解ったし、今回の〝㈣〟では、昭和2年の賢治が「サムサノナツハオロオロアル」こうと思ってもこれは土台無理な話であったということも解ったので、結局、同時代の賢治が「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」たとか「サムサノナツハオロオロアルキ」ということはそれぞれ、そうしたとは言えないし、できなかったことであったということになってしまった。

 畢竟するに、羅須地人協会時代の賢治は「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」たり、「サムサノナツハオロオロアル」いたりしなかったし、出来なかったのだ。だからこそ賢治は、ヒデリノトキもサムサノナツも「サウイフモノニナリタイ」と詠んだに違いない。

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  『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))

 目次は下掲のとおりで、

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            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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