みちのくの山野草

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「杉山式農法」の報道(昭和3年3月18日)

2016-09-04 18:30:00 | 昭和3年の賢治
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
 上掲の記事は昭和3年3月18日の『岩手日報』の記事で、その記事の一部を抜粋すれば以下のとおり。
 和賀郡に變わった團体二つ
  宮田式と松山(ママ)式 農民の目を引く
和賀郡には郡農會並びに町村農會の指導支持と全然關係なく全く獨立して郡下農民の注目を引いている農事團体が二ヶ所に設立されてある、即ち一つは一昨年縣會で大分問題となった更木村を中心とする宮田式養蚕法であり他は岩崎村根拠とし藤根、江釣子兩村にかなり根強い團体を持つ杉山式農事改良組合のそれである。…(投稿者略)…また杉山式に於ても右三ヶ村で三百名から會員を擁し漸次他町村まで進出して行く有樣で郡下に於ては農民も餘程注意の目を傾けるやうになつたので、郡農會では今さらながら此の二つの農事團体の指導方針および生産技術に注目を與へ本年から實際に調査を進め果たして有利なるものか効果的であるかを詳細に硏究し郡下からの紹介に對してまごつくやうな事はないやうにすると技術員は語つている。…
 時期的には、『新校本年譜』によれば、賢治が石鳥谷に「塚の根肥料相談所」を開いて4日目の日の報道である。

 そこでこの新聞報道から窺えることは次の三点である。
 まず第一点目が、当時は賢治のみならず宮田や杉山のように、個人的に農事を率先して指導し、農村の発展のために献身しようとしていた人物がいた時代だったということである。
 そして第二点目が、この「杉山式農法」はかなり広範囲に知れ渡っていたし、多くの農家がその農法を取り入れていたであろうということである。なお、賢治の詩「〇九二  藤根禁酒会へ贈る 一九二七、九、一六、」は「わたくしは今日隣村の岩崎へ/杉山式の稲作法の秋の結果を見に行くために/ここを通ったものですが」で始まっていることから、賢治も遅くとも昭和2年9月時点でこの「杉山式農法」<*1>のことを知っていたということになろう。
 そして最後の第三点目が、この頃であれば賢治が下根子桜に移ってから約二年半も経っているのだし、この年昭和3年3月15日からは大々的に石鳥谷で「肥料相談所」を開設したというのだから、当時「肥料の神様」<*2>といわれていたともいう賢治なれば、この記事「和賀郡に變わった團体二つ」と同様なニュースバリューがその開設にはあったはずだが、実際にはそれが為されていなかったという不公平さがあるということである。

 ということからは逆に、実は「塚の根肥料相談所」の開設及び実践は、少なくとも当時は地域社会からはそれほど認知もされていなかったし、評価もされていなかったということが導かれそうだ。
 よくよく考えてみれば、ここまでの考察によれば、
 賢治の稲作経験とは花巻農学校の先生になってからのものであり、豊富な実体験があった上での稲作指導というわけではないのだから、経験豊富な農民たちに対して賢治が指導できることは限定的なものであり、食味もよく冷害にも稲熱病にも強いといわれて普及し始めていた陸羽132号を、ただし同品種は金肥に対応して開発された品種だったからそれには金肥が欠かせないので肥料設計までしてやるという指導法であった。
というのが賢治の稲作指導であったということが容易にわかる。したがって、お金がなければ購入できない金肥を必要とするこの農法は、当時の大半を占めていた貧しい自小作農や小作農にとっては現実的にはふさわしいものではなかったということになる。つまり、賢治の稲作指導には初めから限界があったということであり、とりわけ、当時の貧しかった小作農家にとっては賢治の稲作指導はほぼ現実的なものではでなかったと判断できよう。

 したがって、その「限界」ゆえに、賢治の指導法よりは、他の指導法に奔ったという人もあるのは当然のことであり、誰もそのような人を責められない。
 ちなみに、梅木万里子氏の「「藤根禁酒会へ贈る」をめぐって」によれば、花巻農学校の賢治の教え子の佐藤栄作氏は次のように話していたという。
 私は羅須地人協会へ行って宮沢先生から稲作指導は受けなかった。その当時、茨城県から杉山善助という翁がやって来て稲作の実施指導を各地で行っていた。「天は父であり、地は母である。」という杉山善助からは農業の実施を学び、宮沢先生からは農業の基礎を学んだ。
              <『弘前・宮沢賢治研究会誌 第8号』177p>

<*1:註> この「杉山式農法」とは、周知のように次の詩の中に登場している「杉山式の稲作法」のことである。
    一〇九二    藤根禁酒会へ贈る
                  一九二七、九、一六、
   わたくしは今日隣村の岩崎へ
   杉山式の稲作法の秋の結果を見に行くために
   ここを通ったものですが
   今日の小さなこの旅が
   何といふ明るさをわたくしに与えたことであらう
   雲が蛇籠のかたちになってけはしくひかって
   いまにも降り出しさうな朝のけはひではありましたが
   平和街道のはんの並木は
   みんなきれいな青いつたで飾られ
   ぼんやり白い霧の中から立ってゐた
   しかも鉄道が通ったためか
   みちは両側草と露とで埋められ
   残った分は野みちのやうにもう美しくうねってゐる
 
   この会がどこからどういふ動機でうまれ
   それらのびらが誰から書かれ
   誰にあちこち張られたか
   それはわたくしにはわかりませんが
   もうわれわれはわれらの世界の
   一つのひゞを食ひとめたのだ
   この三年にわたる烈しい旱害で
   われわれのつゝみはみんな水が涸れ
   どてやくろにはみんな巨きな裂罅がはいった
   われわれは冬に粘土でそれを埋めた
   時にはほとんどからだを没するくらゐまで
   くろねを堀ってそこに粘土を叩いてつめた
   それらの田には水もたまって田植も早く
   俄かに変ったこの影多く雨多い七月以后にも
   稲は稲熱に冒されなかった
   諸君よ古くさい比喩をしたのをしばらく許せ
   酒は一つのひびである
   どんなに新らしい技術や政策が
   豊かな雨や灌漑水を持ち来さうと
   ひびある田にはつめたい水を
   毎日せはしくかけねばならぬ
   諸君は東の軽便鉄道沿線や
   西の電車の通った地方では
   これらの運輸の便宜によって
   殆んど無価値の林や森が
   俄かに多くの収入を挙げたので
   そこには南からまで多くの酒がはいって
   いまでは却って前より乏しく
   多くの借金ができてることを知るだらう
   しかも諸君よもう新らしい時代は
   酒を呑まなければ人中でものを云へないやうな
   そんな卑怯な人間などは
   もう一ぴきも用はない
   酒を呑まなければ相談がまとまらないやうな
   そんな愚劣な相談ならば
   もうはじめからしないがいゝ
   われわれは生きてぴんぴんした魂と魂
   そのかゞやいた眼と眼を見合せ
   たがひに争ひまた笑ふのだ

   じつにいまわれわれの前には
   新らしい世界がひらけてゐる
   一つができればそれが土台で次ができる
              <『校本宮澤賢治全集第六巻』(筑摩書房)203p~より>
<*2:註> 昭和14年に出版された『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)所収の「宮澤賢治先生」の中で照井謹二郎は、
 近村の百姓達は先生を「農民の父」と仰ぎ、「肥料の神様」として、尊敬してをつたことも偶然ではないでせう。
と述べている。

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3 コメント

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杉山善助 (蒼流庵主人)
2016-10-19 09:58:44
はじめまして。

「杉山善助」で検索してたどり着きました。

私は杉山善助翁の孫弟子に学び、いわば曾孫弟子ということになります。

先週、翁の顕彰碑を見に、東北入りし、秋田の角間川と山形の南館にあります碑を見てきました。

杉山式は農法としては滅びましたが、医学分野では、細々とその影響を今に残しております。
返信する
ご訪問いただき有り難うございます。 (蒼流庵主人 様)
2016-10-19 20:03:54
蒼流庵主人 様
 この度はご訪問いただき有り難うございます。
 しかも、杉山善助翁の曾孫弟子の方からのご訪問だったので、とても嬉しいです。

 例えば、賢治の教え子の《佐藤栄作》(花巻農学校 大正15年3月卒)が、

 杉山善助翁は1年に何度も、そして長期間に亘って足を運んで指導に来てくれた。

と証言しておりますから、杉山翁の凄さはこれだけでも十分にわかったものでした。

 これからもご教示お願いいたします。
                                                               鈴木 守


返信する
国会図書館デジタルコレクション (蒼流庵主人)
2016-10-27 14:32:30
鈴木様

杉山翁の著書は大正の末に何冊か刊行されていますが、長らく古書市場にも出回らず、入手困難でしたが、何年か前に国会図書館の蔵本が一般公開され、非常に有難いです。

こちらこそ今後とも宜しくお願い致します。
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