みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

『宮澤賢治と高瀬露』出版ご案内

2015-02-13 16:00:00 | 濡れ衣を着せられた高瀬露
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》

 先に予告しておりました、『宮澤賢治と高瀬露』をこの度出版いたしましたのでご案内いたします。
 この本の構成は二部構成になっており、
 Ⅰ 「宮沢賢治伝」の再検証㈡ ―〈悪女〉にされた高瀬露―       上田 哲
 Ⅱ 聖女の如き高瀬露                             鈴木 守
となっております。
 不思議なことに、上田哲の上掲論文が所収されている『七尾論叢 第11号』が所蔵されている図書館等は、私の調べた限りでは金沢大学付属図書館しかなく、一般市民が同論文を読むことは事実上困難である。
【参照:本書〝「「宮沢賢治伝」の再検証㈡― <悪女>にされた高瀬露―」の転載について〟】

そこで、この論文を多くの人々に読んでもらいたいと願って、上田哲のご遺族から同論文の転載許可をいただき、その旨を当時の同論叢の編集委員であった三浦庸男氏(現在は埼玉学園大学教授)にご報告したところ、もはや七尾短期大学は存在していなこともあり、転載は問題ないだろうという御判断を頂戴したので転載させていただいた次第である。
【参照:本書〝「「宮沢賢治伝」の再検証㈡― <悪女>にされた高瀬露―」〟の1頁目】

【参照:本書〝「「宮沢賢治伝」の再検証㈡― <悪女>にされた高瀬露―」〟の21頁目(最終頁、未完で終わっている)】



 一方の、後者については、当ブログの『聖女の如き高瀬露』を増補改訂したものである。その内容は次の〝目次〟のとおりである。
【参照:〝聖女の如き高瀬露〟の目次】

また、
【参照:〝聖女の如き高瀬露〟の〝はじめ〟】



である。

◇宮澤賢治研究の発展を希求する
 さて、ここまで私なりに「人間賢治像」を自分の手と足で検証してきた。そしてそのことを通じて、『春と修羅 第一集』はこれからも誰にもスケッチできないものだろうと、また、『やまなし』とか『おきなぐさ』そして『よだかの星』や『銀河鉄道の夜』はやはりこれからもこよなく私が愛し続ける童話であろうと確信できた。しかしながら、『グスコーブドリの伝記』や『春と修羅 第三集』そして『雨ニモマケズ』に対する私の評価は一変してしまった。なぜなのだろうか。
 それは、この拙著を著すことを通じて、昭和3年6月の上京は逃避行であったとも見られる賢治と、その頃、『二葉保育園』でスラム街の子女の保育のために献身していた聖女の如き伊藤ちゑとでは比べものにならないことや、この拙著の主人公高瀬露については、賢治が聖人君子に祭り上げられる一方で巷間露は<悪女>とされているが、実は露はそれと全く逆の〈聖女〉であったということなどを知ってしまったからだろうか。
 あるいは、賢治は「農聖石川理紀之助に続く系譜を正しく継ぐ人」だと言う人がいたから過日私は潟上市に行ってみたが、この目で実際に石川の実践の一端を垣間見たならば、羅須地人協会時代に行った賢治の実践は石川のそれと比べれば全然叶わないものだったということが直ぐわかったからだろうか。
 そこで私は悩む。誤解を恐れずに言えば、例えばこれらの三人に比して「人間賢治」が勝っていた点は一体どこなのだろうかと。言い方を換えれば、巷間言われている「人間賢治像」はどうやらかなり創り上げられたものではなかろうかと。もしそうであるとしたならば、もともと「真実は隠せない」はずで、真実は隠すものでもなければはたまた何時までも隠しおおせるものでもなかろうから、巷間流布している「人間賢治像」は逆に賢治のことを実は貶めているのではなかろうかと。だから、私たちはもうそろそろ《創られた賢治から愛すべき賢治に》という時代を受け容れてもいいのだと覚悟すべきではなかろうか、と。
 それから、このこと以上に喫緊の重要課題が見つかった。それは、巷間流布している〈露悪女伝説〉は全くの捏造だったということがわかったからそのことを世間にまず知ってもらうことだ。そしてそれは私の願いでもあり、賢治の願いでもあるはず。なぜなら、『賢治を聖人君子にするために、<聖女>だった露を、あろうことか誰かがとんでもない<悪女>に仕立てしまった』ということがどうやら明らかになりつつある今、天上の賢治は、自分にもその結果責任があると受けとめ、一刻も早く露の冤罪が晴れることを願っているはずだからである。
 ところで、賢治のことをよく知っているある人が「通説となっている賢治」は実はこうだったということを公に発言した途端、周りから一斉に集中砲火を浴びてしまってその人はその後一切口をつぐむしかなかった、という事実がかつてあったということを私は地元にいることもあって聞き及んでいる。ところがそれに近いことが今の世の中でもあるということを私自身が経験した。それは、先に私は次のような仮説
 賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した。
を立て、拙著『羅須地人協会の真実 ―賢治昭和二年の上京―』にてその検証ができた。ところがツイッター上で、『宮澤賢治奨励賞』受賞者H氏を含む仲間同士が、この拙著を『根拠なき「陰謀論」』であると決めつけたり、「稚拙滑稽噴飯墓穴唖然呆然」という言葉で誹ったりして面白おかしく論って下さったからだ。さらには、そのH氏からは『「理不尽なペンの暴力」を振るっていることになってしまわないか』『「フォースの暗黒面に堕ちていた」ということになりますが』とか、彼の仲間であるsignaless氏からは『このまま行くとほんとうに墓穴を掘ることになります』などの脅しのようなものを私のブログのコメント欄に直接書き込んで頂いたからだ。
 しかし、賢治も亡くなってはや80年以上が過ぎたのだから、もうそろそろこのような圧力を受けることなく自由に「宮澤賢治研究」ができる時代になってほしいし、その発展を希求する。

【本書の注文方法】


 なお、拙著既刊は次のとおりです。
(Ⅰ)既刊『羅須地人協会の終焉-その真実-』

(Ⅱ)既刊『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京』

(Ⅲ)既刊『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて』

―以上      


 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。

コメント (5)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 花巻農学校当時の建物? | トップ | 雪に被われた『南部曲り家千... »
最新の画像もっと見る

5 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
おめでとうございます (辛文則)
2015-02-14 20:29:46
  鈴木守様  

  ブログ記事読めないや如何?出版準備で大忙しならん!もしかしてご健康を?
  などと想いを巡らしておりましたが、念願の力作、上梓というこことだったのですね。おめでとうございます。〈高瀬露悪女説〉は、三文週刊誌ゴシップ的な下司下品さが感じられる反知性主義的代物ですが、M氏関連を因縁とするメンドウが生ずる危惧は皆無という訳にはまいらないかもしれませんが、「大志真理、誠実敬愛。不受人惑、奔放不羈、随処作主、立処皆真。」なる〈勇気と覚悟〉で臨んだ仕事なのですから。反知性主義への抵抗心と反権威主義という心意気は通底すしていると考えますし、賢治を敬愛した白堊校後輩の松本竣介と舟越保武の気概との通底していると信じています。小生、昭和51年に復刻された、竣介の『雑記帳』(昭和11年10月~昭和=12年11月)を読み直し、そのリベラル理知力と随処作主底なるに勇気に改めて深い感心を覚えております。随時、ブログに書いて行くつもりですのでお読み戴ければ。その書き物への読みの差異性からか、賢治自身の人とりについての心象については守先生との賢治観とはどアイデンティファイできないところもありますが、それは、〈賢治思想の内なる不同不二性〉という難有い問題と因縁関係性が生まれてしまいますので。「リベラルなアンチオーソリタリアニズムを」だけでなく、「莫作附和雷同、和而不同,和而不流たらん。」も座右銘にしていますし、ね。いずれにせよ、「温故知新たれ、同時に而も、温新知故なるべし」、ということで。
  新しい御本も購入させていただきます。前回、未払いのままで気が引けておりますので、二冊分支払わせていただきます。
  竣介の『雑記帳』が廃刊に追い込まれた因縁に、「懐疑は自由の母胎である。懐疑を伴わぬ自由主義のある筈はない。」といった自由観が働いていたようにも。尚、野村胡堂の資金援助が断たれた為に廃刊を余儀なくされなければ、画家松本竣介が『生きている画家』として生きのびることはできなかったことに、竣介自身が気がついたのは敗戦後であったらしいことは、妻禎子への手紙に表明されています。賢治も竣介も三十七歳で人生の終焉を迎えている訳ですが、「作すべき仕事を作し得た」という点では〈個人の幸福〉の現成者だったのだろうと。
  2015,2,14  文遊理道樂遊民洞にとっては、〈農聖〉や〈奉仕聖者〉ではないということは、……。
返信する
風が読めども服従はせず (辛文則)
2015-02-14 20:41:58
  投稿段取り間違ってしまったようです。一方を削除願います。最後の行に書いたことお気に障ったなら御免下さい。小生の聖人観は、「老荘流聖人を美と作す」という感じですので。
  たとえば、
 〝 聖人は常の心無し、百姓の心を以て心と為す。   善なる者は吾之を善とし、不善なる者も吾亦之を
  善と為す。善を得る。信なる者は吾之を信とし、
  不信なる者も吾亦之を信と為す。信を得。〟
                  『老子・第四十九章』
 といった塩梅。尤も、「デモクラシーの真髄は多数決原理に有るに非ず。モナド的個人が自らの脳味噌で悩み考え抜いた判断に信を置くインテレクチュアルなる精神態度にこそあり。」、と。権力や権威や時流や時勢や空気に追従服従し流されるはデモクラシーなどには非ず、と。
返信する
ありがとうございます (辛様(鈴木))
2015-02-15 08:07:34
辛 文則 様
 お早うございます。
 コメントありがとうございます。
 そして、ご心配をお掛けしていて申し訳ございませんでした。
 さて、やっと何とか出版に漕ぎ着けることができました(この本につきましては近々お送りさせていただきますのでしばしお待ち下さい)。
 この度もまた「現通説」と全く異なっておりますからまた物議を醸し出すかも知れませんが、それはそれで覚悟しております。とりわけご指摘の「危惧」に関しては。なお、反権威主義はまさにそのとおりなのですが、松本竣介や舟越保武の気概と通底してるなどとはとてもとても畏れ多いことです。
 実は今回につきましては、前作までのものとは出版の意図がかなり違っております。今までのものは、賢治の甥のJ氏が私たちに語った「一言」が切っ掛けで賢治の真実を知りたいの一心で書いて来ました。でも、今回のものは、捏造されたといってもよい〈悪女伝説〉によって、全くそうとは言えない女性が徹底してその人格と尊厳を貶められたことに対する不条理を言いたかったものです。それも、M以上にあの大手出版社に対してです。同社が非対称性に胡座をかき、真実を疎かにしているという実態に対してです(実態はドンキホーテ的私なのですが)。
 さりながら、一つだけ言えますことはこれでひとまずは安堵できたということです。これからは、もうすることもなくなってしまいましたので、後はみちのくの春の野面に遊び廻りたいと思って居ります。

 では、松本竣介に関する辛様のこれからのブログを楽しみにしております。竣介(俊介)は、一時花巻にも住んでいたということですのでなおさらにです。つきましては、どうぞご自愛下さい。
                                                              鈴木 守
返信する
 風来るらん (辛文則)
2015-02-15 16:10:32
  鈴木守様
   俊介は東京生まれですが、銀行員だった父親が、花巻から盛岡へと。小学校は、花巻花城小から盛岡師範付属小へ。花巻在住中に、賢治が佐藤宅を訪れたこともあるというエピソードも。付属小時代の担任が佐藤瑞彦というリベラリストで俊介の教養と思想はその人の感化がたいへん大きいようです。昭和4年の上京以後も俊介の支援を続けた瑞彦は、内丸教会(タピング牧師創設)幼稚園長として晩年を過ごし、鎌田義昭氏結婚の媒酌人を務めていましたよ。
  「昭和三年、羽仁モトコ・五郎夫妻の招きで東京の自由学園に移った」とありますが、「平井直衛が盛中を追われ、昭和六年以後、鈴木卓苗や太田達人が盛岡を離れざるを得なくなった」という昭和二・三年ごろの岩手県の思想思潮情勢が判然としてくると、……。「昭和二年十月、農学校長藤根吉春、盛中校長春日重泰、岩手中校長鈴木卓苗が協力して新渡戸稲造を講演に招いた」というエピソードが、「時勢への反骨行動だった」とは、三十五年前どころか今日でさえ公けにしにくい歴史エピソードかもしれない、などと。「現代日本は、ヤンキー的反知性主義的な愚癡無明者が多数派を占めているらしいジョー」なんて斉藤環風道破が、「アブナイ、アブナイ、気をつけなければ危ない」とすれば、……。
  『どろの木の下から』という作に、〈保護色〉という隠喩語が用いられていますが、その名を〈擬態・隠れ蓑〉と読み、〈原始の水杵〉を、〈文遊理道樂遊民洞〉の第一歩なのでした。〈どろの木〉とは、〈白楊〉〈ギンドロ〉〈山鳴らし〉〈箱楊〉の異名ですよね。で、二十歳の賢治の歌った短歌に。
 〝  風きたり、高鳴るものはやまならし、または
   こやなぎ,さとりのねがひ〟
                  
  二十歳の賢治の胸中に、どんな、「風来たり」あるいは「風たちぬ」だったのだろうか、などと。因みに、竣介も傘寿賛助出品した、岩手師範学校美術選科の洋画同好会の名は〈白楊会〉。昭和8年入学の小生の父親も会員であったことを知ったのは、その葬儀での心友の佐藤啓二氏の弔辞で。人と人との間の〈縁(えにし・よすが)〉は「奇(くす)しくも妙(たえ)」ということで。
  2015,2,15  「文遊理道樂遊民底(ち)を洞(よ)む」
         などと遊戯遊化遊楽仕りました
返信する
風さりぬ (辛様(鈴木より))
2015-02-16 08:17:19
辛 文則 様
 お早うございます。
 そうなんですか、賢治は佐藤宅を訪れているのですか。どういう切っ掛けで、何のために訪れていたのでしょうか興味がわいてきます。たとえば、この「佐藤家」とは佐藤昌介や佐藤(山室)機恵子と同じ佐藤「マキ」なのだろうかなどと。

 それから、「羅須地人協会」時代というのは、2段落目の

 「平井直衛が盛中を追われ、昭和六年以後、鈴木卓苗や太田達人が盛岡を離れざるを得なくなった」という昭和二・三年ごろの岩手県の思想思潮情勢が判然としてくると、……。

というようにこの時代背景の中で見れば、その真相にもっと近づけるということなのですね。

 それにしても、〈どろの木〉一つをとっても、賢治にとってはそこには沢山の意味が込められていることを知りました。私は根が単純なものですから、これからはもっともっといろいろな方向から眺めてみようと思います。そうしないと、私の場合はそろそろ風さりぬ」になりそうですから。
                                                              鈴木 守
返信する

コメントを投稿

濡れ衣を着せられた高瀬露」カテゴリの最新記事