平成29年4月27日(木)
東日本大震災被災地視察は今日が最終日です。お昼過ぎの新幹線で地元に戻るので、朝から2箇所を視察させていただきました。
最初は、陸上自衛隊多賀城駐屯地で、仙台湾から1.5kmに位置し、昨日の航空自衛隊松島基地と同じように、駐屯地そのものが津波に襲われ、一人の自衛官が亡くなり、施設内も甚大な被害を受けました。この駐屯地内にある第22普通科連隊は、宮城県内の災害対応では核となる部隊で、災害は初動が大切と言われながらも自らが被災したことは、真に「想定外」であったに違いありません。苦悩の中で、その後の救援活動に尽力いただいた経緯と、その教訓を活かした対策や、私達が住む静岡県内で南海トラフを震源域とする大地震などで被害が発生したときに、浜松市や湖西市を担当する支援部隊としての取り組みをお聞きしました。
(責任者である指令から概要説明)
(広報担当者から駐屯地概要や東日本大震災関連について説明を受けた)
(第22普通科連隊が担当する宮城県北部)
(南海トラフを震源域とする大地震では、静岡県西部を担当)
(発災直後の様子)
(全国からは70,000人の自衛官が被災地に集まった)
(駐屯地内も津波に襲われた)
(地域住民の避難所となった駐屯地)
(被災地に指揮所を設置)
(各被災地に派遣する予備自衛官の活動拠点にもなった)
(ボートが足りず救助に困難を極めた経験を生かして、新たな装備品となったボート)
(市民から温かい声援が送られた)
(自衛隊OBが危機管理担当として活躍する各自治体の状況)
説明内容は、第22普通科連隊の概要、東日本大震災における活動状況、防災訓練参加状況、部外連絡協力及び広報の状況、平素の取り組みです。
組織は、今回の視察で訪れた他の陸上自衛隊と同じように、出身者は約半数が宮城県出身で平均年齢は33.5歳です。自衛隊ですから宮城県の防衛警備が主任務となりますが、地震や津波など自然災害が頻繁に発生している地域でもあることから、防災対処も主任務となっています。管轄区域は、宮城県の北部で全体の2/3ほどを占めています。災害が発生すると、初動対処、応急救護活動、応急復旧活動、自治体等との関係構築などの役割を担います。
そのほか、首都圏直下型地震では東京都墨田区を、南海トラフ自身では、浜松市と湖西市を担当することになっています。隊の責任者は担当する地域を訪れ、自治体関係者との打ち合わせも行っているとのことでした。
東日本大震災では、任務を責任もってこなすことが求められる一方で、想定外の事態となってしまいました。それは、部隊自ら被災したこと、隊区内広範囲に甚大な被害が発生したこと、長期間の活動を強いられたことがあります。
初動体制に移る前に駐屯地は津波に襲われ、指揮官さえも命からがら駐屯地にたどり着き、その間、津波に流された2名を救助し、避難者約700名を施設内に受け入れるなど、部下への指示も速やかに出せない状況でした。
災害派遣用車両40台のうち、13台は水没し、施設内の一般車両を含めると400台が水没しました。これだけでも大きな災害と行っても過言ではありません。
やっと準備ができて初動体制に移り、隊員の多くは駐屯地周辺に住む家族の安否も確認できないまま、救援活動に向かいました。中には、3日間、家族の安否確認ができなかった隊員のインタビューを聞くことができました。先ほど郷土出身の隊員が多いと書きましたが、任務遂行のために被災者でもある隊員が大きな葛藤のなか、救出に当たったことは想像を絶するものがあります。
また、隊員の家族にとっても、一家の大黒柱と連絡が取れないことは大きな不安であったことでしょう。遺体の捜索では、自分の子どもと同年齢の幼子を見つけたときには大きな衝撃をうけ、今でも心の傷として残っているそうです。
隊員の皆様の災害救助時の苦悩を目の当たりにし、改めて心から感謝申し上げることしかできません。当時はもちろんのこと、今も、自衛隊車両で市内を走っていると、窓越しに「ありがとうございます。頑張ってください。」と声をかけていただけるそうです。
自衛隊のある幹部は訓示でこのような挨拶をしたそうです。「自衛隊は、防衛や大きな災害派遣が発生すると『ちやほや』されることがある。しかし、国民にとっては、我々が日陰である時の方が幸せであることを忘れてはならない。」
東日本大震災後、確かに自衛隊に対する国民の信頼や期待度は大きく上昇しています。どのような場面でも、冷静に考え行動する自衛官の存在を、忘れてはいけないと思います。
国は、このような自衛官を危機管理の専門家として、地方自治体で活用するよう求めています。国は、その経費の一部を負担するようで、最近では、県や市などでその経歴を活かす自衛官が増えてきました。
次に訪れたのは仙台市の南に位置する若林区で、復興状況視察と荒浜地区に設置された慰霊碑です。
大震災が発生したあの日、松林を超え陸地を黒い大波が大地をのみ込んでいく映像を見た方は多いと思いますが、この地域では地域住民の約1/3が亡くなりました。震災後、まだ瓦礫が残ったままの状況を視察したことがありましたが、今ではすっかり瓦礫が撤去されたものの、そこに集落があったことを示す建物の基礎だけは残っていました。大震災から6年が経っても時間が止まっているような気がします。
海岸にあった松林は、その多くがなぎ倒され、そして流され、所々に残っています。津波高は13.7mまで達し、生き残った松の木もその高さまでの枝は全て折れ無くなっています。木の頂上部だけに緑の葉が茂る松の姿が痛々しく感じました。
海岸近くにあった荒浜小学校は、2階の床上40cmまで波が押し寄せたと言うことで、当時小学校の建物の2階以上に避難した人は助かり、校庭にいた人は助からなかったといいます。この地域をはじめとする東北の三陸海岸付近では、過去にも大きな津波被害を受けた地域ではありましたが、「東日本大震災で発生したような大津波の経験は無く、地元の人もそこまでの危機意識を持たず、避難が間に合わなかった。」との説明がありました。
この海岸線からかなり内陸部にある高速道路まで津波が達したことから、この地域は住宅などの建設ができない危険区域に指定され、これまで住んでいた地域が公園や、多重防衛のための防潮堤を兼ねてかさ上げした道路などの工事が進んでいます。
先ほど触れた荒浜小学校は廃校になり、震災遺構として残されることが決まりました。今日は偶然にも、震災遺構として公開される前に、報道機関が取材に訪れていました。
(説明してくれたのは、東北方面総監部の自衛官)
(大震災に遭う前の地域の歴史)
(大津波は全てを破壊した)
(震災遺構が決まった荒浜小学校)
(かつての集落は廃墟となった)
(今も残る大津波の爪痕)
(生き残った松も、大津波に洗われた部分は枝もない)
(あの大津波が想像できない穏やかな海岸)
(大震災を風化させてはならない)
修復された海岸の防潮堤に立つと、これがあの大災害を起こした海なのかと思うほどの、震災前と同じのどかな海水浴場であった光景が広がっていました。
一方、陸地側は、先に述べたような破壊し尽くされた荒涼とした土地が拡がり、遠くに仙台市の高層ビルが望めます。
この地域は、復興というよりも、私達人類に自然災害の恐ろしさを後世に伝える広大な震災遺構のようにも思えます。しかし、ここにこれまで住んでいた人達の気持ちにどう接していけば良いのか、言葉でうまく表現ができません。慰霊碑の横に刻まれた、多くの津波犠牲者の名前に目をやりながら、この大震災を風化させるなと私達に静かに語っているようにも感じられました。
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