鈴木すみよしブログ

身近な県政にするために。

静岡県議会日華友好議連台湾視察(三日目 最終日)

2012年03月28日 | 議会活動

平成24年3月28日(水)

 今日は、台湾視察の最終日です。明日は帰国の移動のため視察はありません。

 視察三日間で一番多忙の日でした。特徴的なのは県、市のトップへの表見訪問で、いずれも女性であり話の内容、迫力は政治家としての評価はかなり高いものと感じました。同行の女性同僚議員2名が羨望のまなざしで見ていた姿が忘れられません。

<高雄市長表敬訪問>

(高雄市役所の正面玄関。中は大きな吹き抜け。)

 高雄市は高雄県を吸収したような形で行政運営する人口270万人を超える台湾第二の都市で、日本で言えば政令市のような都市です。今は中国に抜かれてしまいましたが、港湾の荷物扱い量も多く、清水港にも直接の航路を持つ港湾都市であり、このたびの富士山静岡空港と台北との航路開設に続き、高雄との直行便就航を期待する意味も含め、表敬訪問させていただきました。

 当初の訪問先入っていたものの、本日が議会初日で時間がとれないような返事がありましたが、三日前に高雄市から了解が得られ、議会前の多忙にもかかわらず、市長を始め幹部5名が議会開始ぎりぎりまで対応していただきました。

 市長さんは女性でありましたが、その語り口はとてもはっきりして迫力のあるものでした。

(市長及び市幹部5人が訪問団と歓談。市長は中央の女性。)

(高雄市長は女性で陳菊氏。政治家として行政のトップとしてすばらしい)

 

<台湾糖業博物館視察>

 台湾精糖(株)は今の台湾経済の原点のような企業であり、現在は市場の変化により精糖業はほとんどやっていませんが、サトウキビ畑を国中に有していたことから、その広大な土地を有効利用してこれからの国作りの原点となっています。

(台湾精糖の生い立ちと現在を説明する役員)

 この企業を立ち上げたのは、静岡県森町出身の鈴木藤三郎氏です。彼は1855年に誕生し1913年に亡くなるまで「日本精糖業の父」と呼ばれ、日本以外に台湾にも精糖会社を立ち上げ、台湾の発展に大きく寄与した人物です。優れた発明家として知られ、特許総数は実に159件を数え、藍綬褒章を受けるなど、機械の豊田佐吉とともに発明王・特許王とも呼ばれ日本の産業革命のリーダーの一人でした。

 今回は、鈴木藤三郎が立ち上げた台湾精糖の初期からの偉業を伝える博物館を訪問し、関係者から当時の様子をうかがいました。

 

(鈴木藤三郎氏が住んでいた建物。台湾で最初のコンクリート建築)

 

<烏山頭ダム、八田与一の台湾への貢献>

 烏頭山ダムは、台湾が日本の統治科にあった頃、石川県出身の日本人技術者八田与一が台南地域の干ばつ被害をなくすために灌漑施設として完成させたもので、水力発電も行っています。この設備によりこの地域の農業は安定的なものとなり、地元のみならず現在は国としても八田与一への大きな賛辞を寄せています。同時に第二次世界大戦の最中に新たな事業への取り組みでフィリピンに移動中に、乗船した船がアメリカの潜水艦攻撃で撃沈さ死亡してしまい、その数年後、終戦直後には妻もかつて夫が完成させたダムの放水口に身を投じて死亡するなど悲劇が襲いました。しかし、台湾市民はこの恩に報いるために、八田夫妻の第二のふるさととして国を挙げその功績を残すために台湾国内はもちろんのこと、矢田夫妻の母国へも情報発信しています。さらに、この事業に参加した人の中には静岡県出身者もおり、現地に入ることでこの偉業と台湾国民の日本への強い親しみを感じました。

 

(ダム堤の上からダム湖を臨む)

(ダムの放水口。八田の妻が身を投じた場所でもある。)

(八田与一の銅像に献花する議連訪問団長森県議。)

<嘉義県知事及び県議会議長表敬訪問>

1. 馬祖文化体験

 馬(馬は女ヘンに馬が正しい字)祖とは航海・漁業の守護神として、中国沿岸部を中心に信仰を集める道教の女神のことです。日本では寺院が多い中、台湾では赤・黄・緑などの原色で彩られた「廟」が多く存在しています。これは宗教の施設でありますが、外国を、特にその国民を理解する上では宗教も重要な要素となります。

 このたび、嘉義県知事と県議会関係者を公式訪問するにあたり、嘉義県知事の張花冠氏から、訪問はこの文化体験から始まる旨の意向があり、それに従って体験をさせていただきました。

(廟入り口。マスコミのカメラが大勢待ち受けていた)

(訪問団歓迎の掲示の前でインタビューに答える張花冠知事)

 訪問した廟は、嘉義県新港郷の奉天宮で、バスで入り口に着くやいなや数社の報道陣に取り囲まれ、それに続いて張知事が現れ廟内部に導かれました。報道陣に加え参拝客も何事かのような素振りで、こちらの方が戸惑ってしまいました。

 結局、拝殿に訪問者全員と知事、嘉義県議会議長等が並び、儀式に乗っ取って参拝させていただきました。この様子は、テレビカメラが数台並ぶ中でしたからおそらくどこかの時間帯に、この地域内で放映されたかもしれません。

 参拝が終了すると、拝殿の奥から位牌のようなものと書き物が一枚運び出され、その中には日本の「今上天皇」が昭和3年に本地を訪れ参拝したことが記されていました。昭和20年の終戦までの約50年間は、台湾は日本の統治下にありましたから、何の不思議もないといえます。

 

(今上天皇が訪問したとされる書きものを知事が説明。)

 

2. 嘉義県野球場視察

 台湾は日本が統治していた頃から野球が盛んでした。今でも台湾の野球選手が日本やアメリカで活躍しています。

(野球場入り口に掲げられた当県議会歓迎の横断幕。説明するのは知事。)

 昨年11月11日から15日まで、静岡県内の野球場において、日本/台湾の高校生の親善試合が開催されました。今年24年度は日本の高校生が台湾を訪問し、開催されます。

 そんなご縁で、知事はこの親善試合を契機に野球でもさらなる交流を深めたい意思表示なのか、私たち訪問団を知事公室での歓迎レセプションに招待する直前に、大変すばらしい野球場にて模擬試合を観戦させていただきました。

(模擬試合の様子)

 

3. 歓迎レセプション

 最後は知事公邸内で開催された歓迎レセプションの報告です。会場に着くと最大級のおもてなしを受けました。まず最初に茶席とでも言うべき、庭にいくつものウーロン茶の野点ブースを設け、それぞれに通訳を待機させ、台湾のお茶生産地の誇りを存分に堪能することができました。

(まずは地元産ウーロン茶でもてなし)

 レセプションでは知事を始め、県幹部と県議会議長他議員も参列し、みごとなホステス、ホストぶりに感激しました。

 知事はとてもパワフルで華麗な印象を受けました。帰りには、「静岡県と嘉義県友好の深化についてぜひとも力添えを」との言葉を静岡県議会議員を始め、随行者一人一人に声がけしていました。

(貴賓室における知事)

(歓迎レセプションで挨拶する知事)

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静岡県議会日華友好議連台湾視察(二日目)

2012年03月27日 | 議会活動

平成24年3月27日(火)

 今日は、台湾の最南端の県、屏東(ピントゥン)県政府の知事及び議会関係者との会見と、静岡県出身で台湾南部の精糖工場に勤務するかたわら、農業用水の確保と防災(治山治水)に尽力され、台湾における恩人とまで言われた鳥居信平の偉業を視察するため、台北から台湾新幹線に乗り約1時間半かけて高雄市まで来ました。

視察場所は高雄市からさらに南へバスで1時間の屏東(ビントゥン)市の県庁まで移動、温度は26度と日本の夏と同じ暑さに、スーツ姿ではこたえました。

 

<屏東(ピントゥン)県政府の知事及び議会関係者との会見>

 屏東(ピントゥン)県は台湾最南端の県で、人口は864,000人(2012年1月)で、静岡県とは農業・水産業等の共通の課題がある一方で、後で触れる静岡県出身者が活躍した場所として、行政・議会関係者と交流を深めました。特に水産業ではマグロの輸出先が清水港であったこと(今は残念ながら地元台湾でのマグロ消費が進み、全体の1割しか輸出していない)、私たちが食する「桜エビ」は、駿河湾と台湾のこの地域の2カ所が世界で唯一の生息地であることなどが特筆すべきことです。

 まず、最初に訪問したのは、知事であるCharles Tsao Chi Hung氏で私たちを暖かく向かい入れていただきました。彼の挨拶の中に、「鳥居信平氏の地下ダムが最大の日本との友好の証であり、その出身地である静岡県議会の来訪はとても光栄である」との評価がありました。この席には偶然にも、東京から訪れていた鳥居信平氏の子孫が同席され、公式訪問をより一層盛り上げていただきました。さらに富士山静岡空港から台北への直行便が就航したことによる双方のさらなる発展的交流などへの期待や、台湾側からものづくり県である静岡県を訪問したいなど、地方同士の交流(地方外交)の成果が十分感じられました。

ピントゥン県知事から歓迎の挨拶)

 続けて、県議会議長や県議会議員への表敬訪問、県議会議場視察などをこなした上で、先ほどの県知事の時と同じように、地方政治の立場での双方の交流に大きな期待がかかります。

 

ピントゥン県 県議会議長から挨拶)

ピントゥン県議会議場。配列は基本的に静岡と変わりませんが各議員席にはモニターとマイクが設置されており、対面式で本会議ができそうです。)

<鳥居信平氏建設地下ダム視察>

 鳥居信平氏は明治16年に静岡県周智郡山梨村に生まれ、から昭和21年に亡くなるまで、台湾で活躍した農業土木技術者です。東京帝国大学農科大学を卒業後、農商務省などを経て、1914年に農業土木の専門家として、日本の植民地政策の代表的企業であった台湾製糖株式会社へ入社しました。

鳥居信平氏の子孫の方。東京在住で偶然現地でお会いできました。)

 台湾の河川は、上流との落差が大きく急なため、雨期には洪水が起きやすく、台風の通り道で、毎年のように農作物に大きな被害が発生していました。また、乾期には川が干上がり、当時の農民は水の確保ができず長い間苦しめられてきました。このため、サトウキビの安定供給のために、土地改良や灌漑と排水の改善が求められていました。

(現場付近の山肌には崩壊の跡があり地盤が不安定)

 鳥居信平は、当地の水源、土壌、作物の用水量調査を始め、インドやインドネシアに渡り水利事情を視察し、それらの研究の結果、地下ダムを造ることを決めました。この地下ダムは、川の表流水をせき止めるダムとは違い、地下水の流れをせき止める構造で、この設計においては現地の人々に大切な狩り場や漁場への配慮し、生態系や自然を壊すことのないようになっています。

 今回は私たちのために、この施設の研究調査を行っている国立屏東(ピントゥン)科技大学土木工程系教授のCheh-Shyh Ting先生が現地に出向き、各施設を見ながらわかりやすい説明をしていただきました。

(国立ピントゥン科技大学土木工程系教授のCheh-Shyh Ting先生)

(地下7メートルに埋設された水路には伏流水が流れている)

 工事期間は1921年5月から1923年5月までの約2年間で実施。構造は川底に溝を掘ってスリットの入った箱をつなげて並べ、その中に伏流水が浸透して地下の水路を伝わり、途中の山中を貫き(暗渠)、途中から地上に出る水路(開渠)を通じて目的地まで水を運ぶものです。

(山を一つ越えた水路の出口付近。)

(水路の出口で採取した水は綺麗なものでした)

 工事では2年間というものの、雨期には工事ができませんので大変だったと推察できます。工事費用は当時の6億元で、日本円に今換算すると約18億円の大事業でした。灌漑機能としては、雨期で20万トン/日、乾期で6万トン/日が確保できます。

 この完成により、平時には水の確保でサトウキビ栽培が安定し、非常時には水路のバイパスとして川の水を他に逃がすことで減災が可能となったと言われています。この成果は、建設から100年経た今も台湾人から感謝され尊敬されています。前出の知事は鳥居信平の胸像を周辺地域及び日本国内(袋井市)にも設置できるよう働きかけをされてきました。このような交流をきっかけに、日本からは地元小学校へ本を送るなど、鳥居信平の偉業は子々孫々まで続きます。

(鳥居信平氏の胸像)

(灌漑施設のメモリーパーク。鳥居信平氏を偲んで胸像も設置されている)

 今回こちらを訪問し現場で学んだことは、先人の想いにたいし、形を変えながらも維持していくことが私たちの使命だと感じています。それは、台湾と日本の一地域の交流から、県同士の交流、国同士の交流に発展すること。「信頼を得た関係」を礎に、観光や文化、経済など交流が深まることによって双方の子孫達の繁栄が得られ、それは先祖に報いることとなるでしょう。

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静岡県議会日華友好議連台湾視察(一日目)

2012年03月26日 | 議会活動

平成24年3月26日(月)

 静岡県議会日華友好議連による台湾視察一日目の活動をレポートします。

 台湾は元々、東南アジア方面から台湾に住み着いた台湾原住民が狩猟や漁労、焼き畑農業を営み生活していました。その後、オランダ、清朝、日本の統治(1945年の日本敗戦により終結)等があり、その後のいわゆる「二つの中国」問題は、1971年に大陸の中国共産党政府は国連代表権が認められたことにより、台湾は国連を脱退し国際的孤立を深めていきました。日本との関係は統治されていた以降現在も、国民感情は良好な状態を継続していますが、中国の国連加入を契機に日本とは断交状態となっています。このため貿易、経済、技術、文化などの民間交流を維持するために、実務機関として「亜東関係協会」を設立しました。この組織は事実上台湾の外務省に属していますので、国際社会における本音と立て前の現れではないかと思います。日本側も台湾との交流窓口を「財団法人交流協会」とし、事実上、日本の外務省と経済産業省に関わる組織として活動しています。

 静岡県では「地域外交」を重点施策として掲げ、今回定期便が就航することで、台湾を地域外交の重点地域の一つと位置づけ、台湾との多様な分野における交流促進を図るための方針として、観光交流の促進による定期便の就航維持(現在週3便を2年後に毎日就航を目指す)、文化・スポーツ等民間交流の促進支援など、さらには県内高校生の修学旅行などによる交流人口の拡大を図るべき事業展開をしています。

 平成23年11月には、川勝知事が就任後初めて台湾を訪問し、日本との外交窓口である「亜東関係協会」やチャイナエアライン等に働きかけ(トップセールス)の結果、就航が決定しました。

 このたび、念願の富士山静岡空港と台湾台北桃園国際空港との間に、火、木、日の週3日、中華航空(China Airline)が就航することになり、3月25日(日)午後8時に第一便が飛び立ちました。

 私は県議会日華友好議員連盟(全議員参加)の代表団の一員として、第一便に搭乗し、第1日目は中華航空関係者や、台湾外交部(日本の外務省相当)や日本政府の出先機関訪問と静岡県主催の就航祝賀会、2日目と3日目は静岡県とゆかりのある県を訪問し、地方政府関係者及び議会・議員との意見交換、日華友好と経済、観光、文化交流を促進する機会に関わることができました。

 なお、今回の台北訪問は静岡県が主催する部分もあり、副知事(代行)以下、関係部署の職員も同行しています。

 

<初便出発式 富士山静岡空港>

  25日の初便出発に先立ち、チャイナエアラインの孫社長はこの路線に大きな期待を寄せているとともに、2年後には毎日就航を目指すことを表明、これを受けて川勝知事も県としての最大限のバックアップを宣言しました。台湾からの到着便は定員の約70%を、静岡から台北への乗客は約90%とまずまずの搭乗率でスタートしました。

 

(初便出発に先立ち挨拶するチャイナエアライン孫社長)

 

<中華航空(チャイナエアライン)台北支社訪問>

 今回の就航にはチャイナエアラインの理解が大きく影響しています。そこで、台北訪問の第一に、チャイナエアライン台北支店の役員を訪問し、お礼と今後の協力についてお願いを申し上げてきました。

 

(チャイナエアライン台北支社の役員様)

 

<亜東関係協会訪問>

 台湾外交部亜東関係協会秘書長が主催する昼食を兼ねたレセプションに参加しました。日本と外交が無い状態の中での交流ですが、事実上、政府機関と見てよいと思います。秘書長は黄明朗氏で、日本が堪能のため、踏み込んだ議論ができました。

 

(台湾外交部亜東関係協会秘書長 黄 明朗氏)

 

<台湾交通部観光局訪問>

 台湾政府の観光担当部署で、国際部長の林氏から、日本と台湾の観光交流について、課題やおおきな期待を寄せていること、win-winの関係が得られるよう双方で努力していくことを確認しました。同行した静岡県の大須賀部長によれば、昨年の3.11以降海外からの観光客は激減していましたが、最初に復旧したのは台湾からの観光客だったとのことで、伊豆などの観光資源がある当県としては大変助かっています。台湾人も所得が増え、日本への旅行することへの期待が大きいといわれています。これらを満足させるために、富士山世界文化遺産登録や広域での観光ルートの構築、従来の観光の他に、教育や医療を外国人誘致のツールとしたい旨の発言もありました。さらに、ここまでこられた道筋は長く、様々な場面で多くの人が努力されてきたことへの感謝も忘れませんでした。

 

(台湾交通部観光局 林部長)

 

<財団法人交流協会台北事務所訪問>

 最初に気づいたのは、昨年3.11東日本大震災へに台湾からのあたたかい支援とそれに感謝する日本からの寄せ書きが入り口の壁面全体に掲示されていることでした。

(3.11で被災した現地への台湾からのメッセージ)

 

(日本から台湾へのお礼の寄せ書き)

 台湾の世論調査では、「もっとも好きな国は日本:52%、二位アメリカ:8%」、「日本が信頼できる41%」、「将来の日台関係を楽観視:50%」、日本の世論調査では「台湾を身近に感じる:67%」、「現在の日台関係は良好:91%」、「台湾を信頼している:84%」など両国の良好さが現れています。この背景には、台湾の高齢者は戦前から理屈抜きの日本びいき、若い人たちは日本の技術力やアニメなど、現実的な視点で日本のすばらしさにあこがれているなどをあげています。

 最近の台湾人は日本旅行について、かつてのあちらこちらをせわしなく見る旅行から、一カ所にゆっくり滞在する流れに変わってきているそうです。また相手の誘致だけに急がず、まずは自らが台湾を訪問し、台湾人との関係をさらに進化すれば、次には自ずと日本を訪れることになるでしょう。

 また、桜に対する関心度が高まりつつあるので、日本から桜の木を持ってきてこちらで植林すればかなり効果が見込まれるようです。そのほか、日本文学への関心、NHKの大河ドラマへ撮影地への興味などうまく取り入れることも大切だそうです。

 

(財団法人交流協会台北事務所 岡田氏)

 

<就航記念レセプション(静岡県主催)>

 静岡県主催の就航レセプションには、台湾側からは、チャイナエアラインの幹部、台湾政府関係者、政財界関係者、多くのマスコミ各社が、日本側から副知事(代理)以下担当部局関係者、静岡県議会日華友好議員連盟議員14名、静岡県観光協会関係者、富士山静岡空港周辺地域住民代表などが参加し盛大に行われました。交流は、アイコンタクトが前提だとつくづく感じました。

(祝辞を述べる台湾外交部亜東関係協会 会長 L.V.Liao氏 彼は実質的に台湾政府の馬総統に次ぐNo.2)

 

(チャイナエアライン 社長 孫洪氏静岡市での就航記念式典以来、本当に親しくしていただきました)

 

(明日訪問させていただく、嘉義県政府知事 張花冠氏)

 

(チャイナエアラインが台湾で展開する静岡キャンペーンのポスター)

 

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東南アジア諸国友好議連バンコク視察(三日目 最終日)

2012年03月22日 | 議会活動

平成24年3月22日(木)

 三日目(最終日)は、バンコクに進出している日系企業3カ所を訪問しました。

 バンコクの東方、パタヤ近くにあるアマタ・ナコーン工業団地には、大手から中小まで多くの日本企業が進出しています。その中で東京都大田区の中小製造業が集団で進出してるケースと、静岡県内企業および単独でタイに進出された中小企業の報告です。

 

<アマタ・ナコーン工業団地 オオタテクノパーク>

 アマタ・ナコーン工業団地は、チョンブリー県(バンコク東方でパタヤに近い)にありタイ工業団地公社が運営します。アマタという民間企業が開発し,団地内には自営でパイプラインを設営し、天然ガスを燃料とする火力発電所(コジェネレーション発電事業)を備えるなど、インフラが整備されているので日系企業も進出しやすい環境です。

(天然ガスコジェネレーション発電施設の工事現場)

 今回訪問したこの工業団地の一角にある「オオタテクノパーク」は、東京都大田区を訪問したアマタ社の代表が、大田区内の中小企業の技術力の高さに気づき、日本の技術力がある「町工場」を誘致し、タイの裾野産業の充実を図ろうとしたことがきっかけでした。

(オオタテクノパークの入り口)

(アマタ工業団地及びオオタテクノパークを説明するアサマポーン氏)

(オオタテクノパークを説明したパネル)

 その後、大田区産業振興協会と連携し、アマタ社が全額出資したオオタテクノパークを2006年に開設し、中小企業向け賃貸集合工場として運営を開始しました。タイに進出しようとする大田区内の企業は、税制上の優遇措置を受けるために不可欠なタイ国投資委員会(BOI)の許可取得や法人登記に必要な情報など、大田区産業振興協会を通じて入手できるとともに、アマタ社から操業開始にあたって、必要となる会計・税務・労務等のアウトソーシング相談や、工場立ち上げの支援が受けられる体制が整っています。今では大田区内を問わず、日系企業であれば入居が認められています。その場合、税制上の優遇措置などはアマタ社からコンサルティング会社を紹介され、スムーズな進出が可能となっています。各企業とも、日本人は数名でタイ人の雇用は平均20名から30名となっています。

 

<レントタイランド様>

 静岡市が本社の(株)レント様のタイ法人です。2008年にこちらへ進出し、タイでは基本的に製造企業の進出は厚遇されていますが、サービス業は課題が多く、大変苦労されたと聞いています。例えばタイ資本51%のパートナー企業をタイ国内で見つけること、融資元の確保は当初悩まされたそうです。今では顧客について、かつて日系企業が多かった時期もありましたが、タイ国内企業が6~7割を占めています。海外から進出する企業(特に日本から)は、最初に大きな投資は困難であるため、レンタルへの需要が高く、売り上高はかなり伸びているそうです。

 

(レントタイランド様の役員による説明)

 

(レントタイランド様玄関にて)

 

<カイセタイランド様>

 この企業は、2001年にタイに単独で進出したもので、中小企業であるが故に今回訪問した大手の日系企業とは違う視点で語ってくれました。

(カイセタイランド様役員との意見交換)

(カイセタイランド様玄関にて)

 今一番の課題は作業する「人」が不足していることで、昨年の洪水後は撤退した企業の分が新たな仕事として発生しているが、それをこなすための人手不足を指摘していました。これは日系大手企業も同じではないかということでした。雇用側からみたタイ国民気質は、若い人は都会に出たくないと考えている人は半分以上いるのではないか。会社が長期休暇の時には、遠方がふるさとのタイ人は休暇後に会社へ戻ってこないケースが結構あるそうです。この4月から一律、賃金が40%アップすることが法律で決まり、中小企業にとっては大変なことになりましたが、遠方のタイ人従業員はそれにより地元でもある程度の収入が得られそうなことから、会社に戻らなくてもよいのではないか。そんな状況は雇用主側から見ると、単純な作業内容につく従業員については、「辞めてしまうのはある程度仕方ないこと」と割り切れなければならないし、大きな期待を持っていないとのことでした。さらに、男性従業員より女性従業員の方が一生懸命に働くので管理ポストに就く可能性が高いこと。定期的な薬物使用検査では、男性においては毎回数%の薬物依存症が発覚するなど問題が多いということでした。

 先日訪問した日系大手企業は、従業員教育を徹底し、品質管理の面でもQCサークル活動ではタイ人も積極的に取り組んでいるなど、タイ人への信頼度、期待度の高さを感じました。しかし、中小企業では全く違う感想を聞き、これが大手と中小企業の違いで、仮に静岡県から中小企業がタイに進出したとしたら、現地雇用では相当悩む可能性がありそうです。

 このようにタイ人の課題があるようですが、だからといって取引に対し品質の劣化が許されるものではありません。海外に進出したときに、その国民とどう向かい合うのか、単に人件費が安いからだけで取り組むと、場合によっては品質低下招き、延いては仕事そのものが無くなってしまう可能性について認識することも重要です。

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東南アジア諸国友好議連バンコク視察(二日目)

2012年03月21日 | 議会活動

平成24年3月21日(水)

 二日目は、タイとの経済関係で活躍する日本貿易振興機構(JETRO)バンコク事務所と日・タイ経済協力協会および泰日経済技術振興協会を訪問しましたので報告します。

 

<(独)日本貿易振興機構(JETRO)バンコク事務所>

(JETROバンコク事務所から見た風景)

 JETROは中小企業等の海外販路開拓支援、日本企業の海外展開支援、海外経済情報の調査・分析、貿易投資相談、外国企業誘致などを展開する独立行政法人です。バンコク事務所の橋本様を訪問し、タイの社会経済情勢についてお聞きしました。

(説明いただいたJETROバンコク事務所の橋本氏)

(配布いただいた資料)

 タイの現在の経済情報を紹介します。名目GDPは3,189億ドルで日本の約5.8%。

 国民一人あたりのGDPは4,992ドルで日本の約11.7%。3,500ドル未満が開発途上国といわれていますので、タイは既に途上国ではありません。国民所得は増大し、商品購入の意識も安いものから少し高くても品質のよいものを求める傾向があります。GDPの産業別構成比では製造業が約36%で一番多く、自動車関連と電気・電子が工業の二本柱となっています。外需依存が高くGDPに占める輸出額割合は約70%でFTAの効果的な利用が求められています。しかし、リーマンショックの影響は大きく政府は政策として内需拡大に誘導しようとしています。この国の特徴としては、現国王、王室への敬愛が高く様々な場面で影響力が高いといえます。ビジネスや行政における幹部数では、女性に登用率が高くその実力が物語っています。タイの近々の課題は少子高齢化で平均特殊出生率も1.8人、60歳以上の高齢者が全体の12%など社会保障への課題が大きくのしかかってきます。

 タイに対する外国直接投資は平成11年度で日本の57%、ASEAN全体で11.2%、中国とEUが6.1%と続き、日本との関わりの強さが表れています。日本国内では、タイへの進出数は愛知県、神奈川県、静岡県が続きます。タイでは海外からの進出に関し、サービス産業は規制を、製造業は様々な優遇策を打ち出し積極的な受け入れを行っています。

 日本とタイは2005年にFTAに基本合意し、物品貿易に加え、サービス貿易、投資、人の移動、知的財産など幅広い分野で時限的(経過処置)な緩和策を導入し、順次その効果が発揮され始めています。今日本では、TPPをはじめFTA交渉の済んでいない外国との交渉が開始あるいは検討されています。しかし、タイと日本では既に7年経過した経験があるにもかかわらず、依然としてその経験が活かされないまま「TPPについては情報不足」として国民の議論が進まない背景に、いらだちを覚えます。この思いを説明者に伝えたところ、先進的の取り組みが活かされないことへの反省の弁が聞こえました。

 タイの魅力と課題では、日本企業のアンケートにおいて、事業展開のメリットとして、「安価な労働力」をあげる一方、労働コストの向上を課題としてあげる結果が報告されました。それでも日本企業がタイにこだわる理由は、労働力以外でものづくり産業集積、タイにおける消費市場の期待、インフラ整備、国の政策が安定しているなどをあげています。しかし、この4月1日から国が示す最低賃金は40%の上昇が確定しており、タイに進出した日本の大手企業は既に実現されているも、中小企業は大変厳しい環境におかれ、隣接するカンボジアやラオスへの移転も考えていることも聞きました。

 タイの高官は経済動向において、今後タイ国内では高付加価値のものづくりが生き残り、それ以外は隣接国へ流れていくことは仕方なく、その代わりにバイオなどのエネルギー産業や環境ビジネスが台頭してくるだろうと予想しています。これは正に今の日本があえいでいる状況とほとんど変わりがありません。私たち日本人はこの状況を危機感として捉えるべきだと実感しました。

 そのほか、今回の洪水において日本政府が日本からの進出企業に対しどのような支援を行ったのか、都道府県においてもどうだったのか伺ったところ、いずれも経済的支援は行わず、今後の防災対策について日本や地方都市が持つノウハウを伝える程度だということでした。愛知県は全国一の進出数を誇るために、県職員を県関係進出企業あるいはその地域に派遣し、防災対策の支援を申し入れたそうです。

 今回、JETROを訪問し海外の有益情報が日本国内で十分生かし切れていないと感じました。その意味で今回の視察は、現場の現実を捉えるいい機会だったと思います。

 

<(社)日・タイ経済協力協会、泰日経済技術振興協会>

 

(TPAの正面玄関)

(泰日工業大学の山本先生)

(TPAの役員、Dr.Paritud Bhandhubanyong様)

 (社)日・タイ経済協力協会(JTECS)は、タイとの経済協力の推進を通じ、タイ並びにタイ近隣アジア諸国の経済、技術の発展に貢献するとともに、日本とこれらの諸国との友好関係の増進に寄与するため、1972年に設立された、経済産業省貿易経済協力局が所管する組織です。また、泰日経済技術振興協会(TPA)は、1970年代当時の泰日経済摩擦収支の悪化による泰日感情の悪化を憂いた、元日本留学生・研修生が中心となり、1973年にタイの経済発展のため、日本からタイへの最新技術と知識の移転・普及、人材育成を行うことを目的として設立された公益法人です。2007年には設立当時からの念願であった「泰日工業大学」(Thai-Nichi Institute of Technology-TNI)を開校しました。TNIは「タイにおける日本型ものづくり実践教育」を行う大学として、現地日系企業のニーズに直接合った人材を安定供給すること、日本語でのコミュニケーション能力を有する人材を育成することを目的としています。今回は、TPAの役員であるDr.Paritud Bhandhubanyong様と泰日工業大学の山本創造先生にお話を伺いました。

(配布いただいた資料)

(TPAで研修する人たちの食事や休憩をとる食堂)

 JTECSとTPAの関係はもっとも成功した日本の海外技術協力事例として、「日本とタイの宝物」といわれるまでになったそうです。

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