平成29年4月26日(水)
昨日に引き続き、宮城県内の震災からの復興状況を視察しています。
最初に訪れた航空自衛隊松島基地は、海岸に沿った施設であり、最新鋭のF-2戦闘機の教育機関や海難救助の要所が津波によって破壊され、その後の復興状況を視察しました。
(基地副司令から被災前と後の状況を聞く)
(基地司令と東松島市長があいさつ)
(津波で多くの航空機を失った)
(自衛隊が所有する風呂を住民に提供)
(給水支援)
(生活支援)
(修復したF-2戦闘機の訓練が始まる)
(外部から調達した救難ヘリ)
(格納庫などは基礎を高くした)
(飛行前点検中のブルーインパルス)
(津波が押し寄せた基地建物内部。私の身長当たりまで水につかった)
最初に、基地司令から基地の概要や被災時の状況等について概略の説明を受けた後、ブリーフィング室で広報担当者から、「松島基地の概要」、「東日本大震災における基地の被害状況」、「航空機、施設の復旧状況」について詳細な説明を受けました。
飛行機の被害状況は甚大で、F-2戦闘機は18機中5機を、救難用のジェット機2機全て、救難用ヘリ4機全てを失いました。F-2戦闘機は失った機体以外も潮をかぶるなどで、現在修理を終えた10機が訓練に使用されています。救難機は早急な手当ができず、全国の救難隊から融通してもらうなどで対応しているとのことでした。
基地全体は、海抜の低い場所にあったことから、滑走路のような大規模施設は別として、格納庫などは基礎を高くし今後の対策を講じたとのことです。また、地元行政が取り組む津波対策の防潮堤建設に関連し、海岸側にある基地を防潮施設に見立て、津波の力を弱めるような構造としたことが特徴でもあります。
基地内の復旧以外では、周辺自治体である東松島市や石巻市の復旧にも大きく関与し、燃料支援、医務官による医療支援、給水支援、市民生活支援、遺体捜索、食料支援、入浴支援、航空自衛隊・陸上自衛隊・米軍との共同支援などが行われました。自衛隊の基地があったことで、周辺自治体の復旧や避難生活支援などで大きな役割や成果を果たしています。
その後、基地内で運用している機体の説明(特に戦技を研究し曲技飛行を行うブルーインパルスの母基地となっている)を聞き、昼食は隊員食堂で隊員の皆様と同じ今日のメニューであるカレーライスをいただきました。
午後からは、大きな被災を受けた石巻市と女川町、東松島市の復興状況を視察しました。
石巻市では、市内が一望できる日和山公園にのぼり、また門脇小学校などを視察しました。石巻市は大手製紙メーカーと漁業の街で、市街地が海岸近くに形成され、旧北上川の河口付近が街の中心部となります。市街地の中心は平野部で海抜が低く、震災では壊滅的な被害を受けました。旧北上川は津波が50kmも遡ったといわれています。市内で唯一の丘である日和山の集落が残り、被災者はこの山に上った人が助かりました。私達が言う「命山」の大規模なものと言えます。復興状況は、やっと瓦礫が撤去され、整地が進み新しい建物が建ち始めたところで、6年も経過していながら現地の厳しい状況を目の当たりにしました。
(日和公園から見た石巻市、旧北上川河口部。やっと整地が終わったばかり)
(海岸から日和山までの建物はほとんど無い)
(震災前の街の様子と比べると、多くが破壊され尽くした)
(避難タワーも設置された)
女川町では、標高16m丘の上に立つ女川町立病院を訪れ、18mの津波に襲われた病院の被害状況と、眼下に広がる女川漁協や街の中心部が完全に破壊された状況が今もって復興していない状況に心を痛めました。この津波は女川町を上り、反対側の海岸に達したということで、山側から津波が襲ってきたという地域でもあります。この地域では、強靱な防潮堤は作らず基本的に高台移転することを行政でなく市民が決断したということで、「津波が来たら逃げる」という原則を取り込みました。漁港は復旧が進み、魚の保存施設は中東カタールから多額の支援を受けて立派なものができていました。
(女川町立病院から。標高16mの駐車場は2m津波に襲われた)
(白いアパートの向こう側から津波は山を越えてやって来た)
(カタールからの寄付で作られた魚の保存施設)
(横倒しとなったコンクリート製の交番。災害遺構となるようだ)
(病院の2階には、当時の被災状況が記されている)
東松島市の野蒜(のびる)地区は、津波の直撃によりJR仙石線の野蒜駅とそこに停車中の電車が破壊されたところです。JRは、この地区の路線を廃止し、山側に移設しました。同時に、この被害に遭った野蒜駅を災害遺構として残すことが検討されており、駅舎の二階には被災当時の様子を伝え、風化させない施設として整備されていました。
(東松島市JR仙石線野蒜駅構内。ここも災害遺構となるようだ)
(駅舎のここまで津波が来たという表示)
(東日本大震災が発生した時間で止まった時計)
(駅舎はこれからも震災の風化が進まないよう、情報を発信し続ける)
津波による大災害の爪痕の大きさに、改めて驚かされると共に、6年を経過してもまだ復興の目処は立たず、地域に住む人達の不安が募る思いに心が痛みました。女川町を始め、被災地の自治体は必死で復興を進めていますが、一時避難で出て行った住民は、故郷に戻らないと決めた人が少なくありません。
将来、街が完全復旧したとしてもそこに住む人がいなくなっては、意味がありません。震災から長い時間が経ち、新たな問題に直面しています。
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