平成28年2月28日(日)
田子の浦港から東側に延びる鈴川海岸整備事業の一環として、北側に隣接する「砂山公園」およびその周辺への松の苗木植樹作業に参加してきました。主催者は鈴川連合町内会と鈴川区管理委員会です。松の苗木は富士市から300本提供されました。
(受付で登録)
(主催者あいさつ)
(植樹方法の説明)
(住民の皆さんに苗木を配布)
(植樹作業開始)
(作業エリアに隣接する公園も外形ができあがった)
鈴川海岸は、昭和41年頃の高潮災害により、13名の尊い命が奪われた悲しい歴史のある地域です。私も親戚が富士市立元吉原小学校東側に住んでいて、この災害を直接受けたことを記憶しています。災害当時、父に連れられて被災した親戚の家を見舞いに出かけたところ、不幸中の幸ということでしょうか、敷地境界に設置されたコンクリート製の外壁が海水混じりの砂の侵入を防ぎ、難を免れました。しかし、近所の方も亡くなったと聞きます。
この高潮被害は、その昔、東海道五十三次の吉原宿を元吉原地区から今の吉原地区まで二度も移転させる原因となりました。
昭和41年の大災害の後、国は日本一の高さを誇る防潮堤を、東は沼津市から西は富士川河口東側まで完成させました。また、ずっと昔から防風林の役割を果たしてきた松林との相互作用で、高潮と強風の自然災害から地域を守ってきました。
しかし、松林は松食い虫などによる立ち枯れや台風などによる倒木などの被害に遭うことも少なくなく、行政や地域住民の手により植林などで失われた松林を保全してきました。今回もその一環として多くの地元住民が参加し、植樹を行ったものです。
自然災害の一方で、高度成長期には工場排水を主原因とする田子の浦港の水質汚染は国内でも最もひどく、港の底に堆積したダイオキシン等の有害物質も平成18年頃の法整備ができるまでは、処分できない状況が続いていました。
法整備後はダイオキシン等の処理方法も目処が立ち、浚渫を行うことで平成29年までには港を管理する静岡県が「安全宣言」をして、長期に渡る田子の浦港水質汚染公害に終止符を打つことになります。
この浚渫土のうち、比較的数値の高いものは田子の浦港口の両脇にある、富士海岸と鈴川海岸の一部に安全対策を施して封じ込めその上に覆土して、両地は公園として整備されています。この地域の住民の皆さんには「高度成長期の負の遺産の最後の後始末」にご理解をいただき、そしてご協力をいただきました。本当に頭の下がる思いです。
私も昨年に続き二回目の植樹に参加させていただきました。私のほか、地元市議会議員や県から田子の浦公管理事務所職員、富士市から港湾管理、公園管理の担当者も参加しています。
過去の災害の歴史を克服し、先人達が守ってきた郷土を今はこの地域に住む人たちが守っています。
南海トラフを震源域とした巨大地震による津波対策は全県下で始まっています。しかし全て行政だけでできることではありません。このように地域住民と官民一体の取り組みこそが地域を災害から守ります。