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鈴木すみよしブログ

身近な県政にするために。

生活水を安定して安全に利用するために

2017年04月30日 | 議会活動

平成29年4月30日(日)

 

 私達が生活で使う水(上水といい料理や洗濯、トイレ、風呂などに使う水)は、蛇口をひねるだけで簡単に使用することができます。当たり前のことですが、この生活水を安定して安全に供給する側を覗いてみました。

 

 ほとんどは、行政が運営する上水道で、行政以外が運営する水道事業は、代表的なものに簡易水道という、地域住民などの民間が運営するものがあります。誰が水を供給しているかは、水道料の請求書を見れば分かります。

 誰が水を供給しようと、消費者が安全な水を飲むためには、法律で51項目の水質検査が義務づけられ、日本中どこでも蛇口をひねれば安心して水を飲むことができるので、水の「味」や「おいしさ」などに違いはあるものの、ほとんどの人が水の供給元を気にすることはないと思います。

 

 今日は、市内にある簡易水道組合の総会に呼ばれ、来賓としての挨拶のほか、総会を傍聴させていただいた後、懇談会に臨みました。

 先ほど、水道事業者について触れましたが、簡易水道はその生い立ちに地域毎の事情があり、そのことを理解することは重要と考えています。例えば、市内に行政と地域が運営する水道組合が混在する場合には、その理由があります。

 富士市の場合、製紙の街として発展してきましたが、本市の製紙業では大量の地下水を汲み上げて利用するために、地下水位はかなり低いところにあります。市民が使う水も、深井戸を掘らないと得ることができません。高度成長期前は、浅井戸か住宅地の中にも湧水が豊富でしたので、個々が大きな投資を必要とすることなく水を得ていました。高度成長期になると、大量の地下水が揚水されるため、地下水位はどんどん下がっていき、広範囲に及ぶ急激な対応に行政が全て対応することはできませんでした。そこで、地域住民の有志による簡易水道組合を立ち上げ、行政と同じように水道事業が行われてきました。

 簡易水道の水の安全性は、法律で決められた検査を行政と同じように行っています。しかし、運営自体は脆弱で、運営のプロ集団が立ち上げたわけではなく、経費も必要最低限に抑え、その分を水道料金に反映させています。簡易水道は水道料金が安いという所以です。組合員となる地域住民は、水道の本管の敷設も行政が公道を使用するようには簡単にできないので、自分たちの民地の中を巡らせるなど、経費も削減してきました。しかし、公共インフラである以上、公共の部分と個人の部分を明確にすることも必要です。この民地内の本管が後で大きな問題となりました。

 阪神淡路大震災以降、大災害に対するライフラインの確保、早期の復旧が課題になり、全ての市民が平等に水の確保が求められても、行政と民間とでは対等に復旧が進められるのか、不安が指摘されています。揚水や貯水、送水施設の耐震性確保や緊急電源の確保、復旧を行う水道工事関係者との協定なども、脆弱な運営では不安がつきまといます。

 

 今日の簡易水道組合には、役員が20名近く出席していましたが、ほとんどが70歳から80歳代の高齢者です。簡易水道組合の立ち上げから40年近く経っていますが、その初期から携わっている人も少なくないようでした。行政であれば、トップでも50歳代で若い職員も含め、盤石な体制で臨んでいるはずです。しかし、簡易水道組合では大きな責任を負い、水道事業を運営して行くにはこのままで良いのか考えなければなりません。

 

 現在、市内にある10団体ほどの簡易水道組合は市営水道と統合する方向で、進められています。統合するためには、「統合基準」があり、本管の敷設は民地から公共用地へ移設、管の径も統一した太い管に敷設し直さなければなりません。その負担額は、どの簡易水道組合も億単位が必要で、市からの負担がいくらかあるようですが、その比率はわずかともいわれています。統合に向けた財源確保では、水道料金の値上げで対応するのが一番ですが、水の供給を受けている組合員である住民は、簡易水道の歴史や性格などを知らない世帯も多く、それを理解していただくために、役員の皆さんは大変な苦労をされているのが現状です。

 

 水道料金の収納では、どこでも同じように未納額もあるようで、行政のような対応は簡易水道組合ではできず、なかなか大変のようです。

 

 まちを支えてきた、簡易水道組合に感謝しつつ、地域のライフラインである上水のあり方について、目指すところは決まっているので、目標に向かってしっかりと支援していきたいと思います。

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統合医療に学ぶ

2017年04月29日 | 議会活動

平成29年4月29日(土)

 

 NPO主催の「総合医療に学ぶ、心と体の健康増進フェス in 富士」に参加してきました。最初に朝霧高原診療所医院長の山本竜隆先生による「地域でつくる統合医療の推進」と題した基調講演をお聞きし、講師を交え、市の健康対策課長、市内各地域包括支援センターの主任介護支援専門員、市社会福祉協議会、リハビリに携わる医療関係者、食育などで活躍する市民団体代表、主催者であるNOP関係者ら20名ほどが集い、「統合医療によるまちづくり懇談会」が行われ、私は県議の立場で出席し発言させていただきました。今日の会合は、2025年に団塊の世代が75歳を迎えるまでを完成目標とする「地域包括ケアシステム」の構築に、大きな影響を与えるものとして注目されています。

(主催者のあいさつ。右は基調講演講師の山本先生)


(基調講演のようす)

 

 講師である山本先生から提供していただいた資料によれば、統合医療は、一般的にがんなどの難病を現代西洋医学以外の様々な医療を結集して、個々に合わせてコーディネートする医療と認識され、都市部のように医療従事者や各種の代替療法家に恵まれていることが前提とされています。しかし、その環境が整わない地方では、地域にある人的資源や自然などを活用していくことで実現可能であるとしています。

 具体的には、治療や予防医療(地域型医療)と滞在型自然療法やウエルネスツーリズム(地域活性型)を両輪として、田舎型統合医療の形態を取ることを提唱しています。温泉などの自然が豊で静養可能な環境と言い換えれば、本県の伊豆地域は真にそれを充足している地域であり、本県が取り組む、「伊豆半島生涯活躍のまち」構想に近い考え方かもしれません。

 実際に、山本先生は、伊豆半島地域からも地域医療型統合医療の考え方について、参考にしたいという声がけもあるそうです。

 

 統合医療を提唱するアンドルー・ワイル博士の「統合医療の定義」には、「病気」と「治療」ではなく、「健康」と「治癒・養生」に医療の力点を置くとしています。科学的な検査に基づき治療を行うことは、しばしば患者のライフスタイルを大きく変えてしまうことがあります。「生活の質」(クオリティ オブ ライフ)という言葉がありますが、人の生きる尊厳に軸足を置いた考え方で治療することが統合医療の目的と言えます。

 

 秋山先生は、東京で医師として医療機関に勤めていましたが、その時、今の医療のあり方に疑問を感じ、米国アリゾナ大学医学部で統合医療のプログラムを学びました。そして帰国後は、富士山の西麓、朝霧高原にある診療所を、地域では51年ぶりの医療機関として甦らせたのです。この地域は標高700mで健康増進に適する一方で過疎化が進んでいます。内科・小児科・皮膚科・漢方内科医として勤務、在宅医療や往診、学校医、産業医、救急医療センター当番など、全てをこなしていかねばなりません。家庭医という言い方もあるかもしれませんが、これも都会と田舎では仕事の量や役割も異なっています。

 ここでの取り組みは、日本にはもちろん統合医療を学んだ米国にも例はほとんど無いようですが、欧州には多くの事例があるとのことで、それを参考にしているそうです。

 欧州の医師からは、日本の豊かな自然(森林、河川、海など)をなぜ医療に活かしていないのかと指摘されたことがあるといいます。また、コミュニティーの大切さ(自助、共助による人間関係の充実など)も、世界保健機関(WHO)が「健康支援環境」と表現しているように、重要な要素であることを説明されました。

 

 これらをまとめると、医師としては「自然環境や社会、生活全般を含めた幅広い視点で、地域住民の健康増進や治療に関わり、コミュニティーの一員として活動することが本来の統合医療ではないか。」と結んでいます。

 

 そのほか、「食」についても地産地消や有機農法などの身体に良い、食材、食品、食事などについても、「健康の増進」の位置づけで触れていました。また、食育や自然体験の重要性については、子どもの時から教育的視点で教えていくことの大切さと、「机上」だけでなく「実体験」を伴わなければ成果が表れないなど、統合医療らしい社会の幅広い視点、課題から発言が続いたことに、感心しました。

 

 国では、自民党国会議員による「統合医療推進議員連盟」の活動内容や、その成果として厚生労働省内に「統合医療企画調整室」が設置されたことも紹介され、我々地方議員も地方の立場から意見を述べていく必要性も感じました。なぜなら、地域医療型統合医療は、地域の特色を活かした取り組みであるからこそ、成果が出るものだからです。

 

 今後は、地元富士市や地域で活躍する医療・福祉などに関連する市民団体などと交流の機会を増やし、さらに統合医療について学ぶ機会を増やしていきたと思います。

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水が温み裏の小川から子どもの声が聞こえる

2017年04月28日 | 議会活動

平成29年4月28日(金)

 

 昨日までの東日本大震災の被災地視察から戻り、朝から県庁に登庁して用事を済ませ、帰宅後は久しぶりのホッとする時間が流れています。

 昨日までを振り返り、被災地の復興の遅れと住まわれている皆様の気持ちに立つと、一日も早く元の生活に戻られるよう、願わずにはいられません。同時に、いつもと変わらない私達の普段通りの生活がいかに幸せか、改めて噛みしめているところです。

 しかし、今日の朝刊にもありましたが、本県をはじめ千葉県から高知県に至までの太平洋沿岸地域では、相模トラフや南海トラフを震源域とする大地震の可能性が昨年よりも高まっているとのことです。「30年以内に震度6弱の確率」は、南海トラフ沿いの高知県で74%、静岡市は69%、津市は63%、名古屋市は46%と昨年度と比べ1%上昇し、相模トラフ沿いでは、千葉市は85%、横浜市は81%などとなっており、この数値は今日明日発生してもおかしくないと言えるのかもしれません。

 一瞬のうちに、普通の幸せが奪い去られる大災害に備え、東日本大震災をはじめとする、近年各地で発生した大地震や大津波の教訓を県下各方面に広げていけるよう、視察の成果を踏まえお伝えしていこうと思います。

 

 さて、紹介する普通の幸せを感じる一コマは、我が家の裏を流れる小川での出来事です。この小川は、富士山の伏流水が地表に出た直後の水が流れる、間近にある湧き水が水源となっています。年間を通じて水温は13~14度で変わらず、冬の外気が零度近くの時には湯気が立って温かく、真夏の30度を超える暑さの中では、手を入れると1分もしないうちに冷たさが痛さに変わる、都会では味わえないものです。

 この時期、気温が20度くらいになると、水温は変わりませんが、温度差がさほど大きくないことから、水に親しむには良い季節となりました。

(自宅裏の小川。昔も今も地域生活の中で、子ども達にとっても大切な場所)

 

 私にとっては産湯の元になった水であり、上水道が完備されるまで、小学生頃までは野菜や洗濯などに使う生活用水でもありました。同時に、子どもにとっては、魚や沢ガニを捕ったり、水遊びの場所でもありました。

 

 ここしばらくの間、裏の小川を利用する人はめっきり減ったように思います。家の中の生活環境設備が整備され、子どもも遊び場ではなくなりました。むしろ、その存在すら忘れているようにも思えます。

 私は、20年近く前から、環境教育に携わり、ワークショップではこの場所に何人もの大人や子どもを案内し、湧水の恩恵や素晴らしさを語り体験していただきました。

 

 幸いなことに、この小川は私の子どもの頃から大きくは変化していません。一時期、生活雑排水が流れ込んだこともあり、水生生物への影響も心配されましたが、公共下水道が完備されてからは、昔のような水のきれいさは、表面上保たれています。しかし、現実には地下水として流れている間に、地表の宅地化や農業などの影響が出ていることも事実で、生態系に影響が出ていることは事実です。

 

 今日は県庁から帰宅して車を降りると、久しぶりに裏の川から子ども達の声が聞こえ、迷わずそちらへ行ってみました。3人ほどの子ども達は、タモをもち、小さな水槽に沢ガニやハヤを入れて、さらに川の中をのぞき込んでいました。思わず、子どもの頃を思い出しました。

 世話好きのオジサンは、川遊びの極意を説明し、子ども達も意外と興味を示して聞いてくれました。川遊びにはルールがあります。危ないことをしないことや他人に迷惑をかける行為は慎むこと。生き物を捕獲するのは良いが、どうせ家に持ち帰っても育てることは難しいので、キャッチ&リリースをその場を離れるときには約束することなどを教えました。ついでに、石垣に潜んでいる小魚の釣り方も伝授。昔生息していた魚で、今は見られない魚がいることを図鑑などで説明すると、目を輝かせて聞いていました。

 たまたま、川の中に周囲の石を投げ込んだり、石垣の石をずらしたことを見つけ、いけない行為として注意すると、その場では行動を起こしませんでしたが、帰りがけに元通りに戻し、清掃していったと見えて、子ども達が素直に受け取ってくれたことに感謝しました。

 家族に聞くと、最近、近所の子ども達が小川で遊ぶようになったようです。

 

 昔は、こんな場面が生活の中に普通にありました。私達が享受した幸せは、次の世代にも繋げて行かねばなりません。普通の幸せを改めて噛みしめているところです。

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東日本大震災のその後 陸自多賀城駐屯地 荒浜地区の復興

2017年04月27日 | 議会活動

平成29年4月27日(木)

 

 東日本大震災被災地視察は今日が最終日です。お昼過ぎの新幹線で地元に戻るので、朝から2箇所を視察させていただきました。

 

 最初は、陸上自衛隊多賀城駐屯地で、仙台湾から1.5kmに位置し、昨日の航空自衛隊松島基地と同じように、駐屯地そのものが津波に襲われ、一人の自衛官が亡くなり、施設内も甚大な被害を受けました。この駐屯地内にある第22普通科連隊は、宮城県内の災害対応では核となる部隊で、災害は初動が大切と言われながらも自らが被災したことは、真に「想定外」であったに違いありません。苦悩の中で、その後の救援活動に尽力いただいた経緯と、その教訓を活かした対策や、私達が住む静岡県内で南海トラフを震源域とする大地震などで被害が発生したときに、浜松市や湖西市を担当する支援部隊としての取り組みをお聞きしました。

 

(責任者である指令から概要説明)


(広報担当者から駐屯地概要や東日本大震災関連について説明を受けた)


(第22普通科連隊が担当する宮城県北部)


(南海トラフを震源域とする大地震では、静岡県西部を担当)


(発災直後の様子)


(全国からは70,000人の自衛官が被災地に集まった)


(駐屯地内も津波に襲われた)


(地域住民の避難所となった駐屯地)


(被災地に指揮所を設置)


(各被災地に派遣する予備自衛官の活動拠点にもなった)


(ボートが足りず救助に困難を極めた経験を生かして、新たな装備品となったボート)


(市民から温かい声援が送られた)


(自衛隊OBが危機管理担当として活躍する各自治体の状況)


 説明内容は、第22普通科連隊の概要、東日本大震災における活動状況、防災訓練参加状況、部外連絡協力及び広報の状況、平素の取り組みです。

 組織は、今回の視察で訪れた他の陸上自衛隊と同じように、出身者は約半数が宮城県出身で平均年齢は33.5歳です。自衛隊ですから宮城県の防衛警備が主任務となりますが、地震や津波など自然災害が頻繁に発生している地域でもあることから、防災対処も主任務となっています。管轄区域は、宮城県の北部で全体の2/3ほどを占めています。災害が発生すると、初動対処、応急救護活動、応急復旧活動、自治体等との関係構築などの役割を担います。

 そのほか、首都圏直下型地震では東京都墨田区を、南海トラフ自身では、浜松市と湖西市を担当することになっています。隊の責任者は担当する地域を訪れ、自治体関係者との打ち合わせも行っているとのことでした。

 東日本大震災では、任務を責任もってこなすことが求められる一方で、想定外の事態となってしまいました。それは、部隊自ら被災したこと、隊区内広範囲に甚大な被害が発生したこと、長期間の活動を強いられたことがあります。

 初動体制に移る前に駐屯地は津波に襲われ、指揮官さえも命からがら駐屯地にたどり着き、その間、津波に流された2名を救助し、避難者約700名を施設内に受け入れるなど、部下への指示も速やかに出せない状況でした。

 災害派遣用車両40台のうち、13台は水没し、施設内の一般車両を含めると400台が水没しました。これだけでも大きな災害と行っても過言ではありません。

 やっと準備ができて初動体制に移り、隊員の多くは駐屯地周辺に住む家族の安否も確認できないまま、救援活動に向かいました。中には、3日間、家族の安否確認ができなかった隊員のインタビューを聞くことができました。先ほど郷土出身の隊員が多いと書きましたが、任務遂行のために被災者でもある隊員が大きな葛藤のなか、救出に当たったことは想像を絶するものがあります。

 また、隊員の家族にとっても、一家の大黒柱と連絡が取れないことは大きな不安であったことでしょう。遺体の捜索では、自分の子どもと同年齢の幼子を見つけたときには大きな衝撃をうけ、今でも心の傷として残っているそうです。

 隊員の皆様の災害救助時の苦悩を目の当たりにし、改めて心から感謝申し上げることしかできません。当時はもちろんのこと、今も、自衛隊車両で市内を走っていると、窓越しに「ありがとうございます。頑張ってください。」と声をかけていただけるそうです。

 

 自衛隊のある幹部は訓示でこのような挨拶をしたそうです。「自衛隊は、防衛や大きな災害派遣が発生すると『ちやほや』されることがある。しかし、国民にとっては、我々が日陰である時の方が幸せであることを忘れてはならない。」

 東日本大震災後、確かに自衛隊に対する国民の信頼や期待度は大きく上昇しています。どのような場面でも、冷静に考え行動する自衛官の存在を、忘れてはいけないと思います。

 国は、このような自衛官を危機管理の専門家として、地方自治体で活用するよう求めています。国は、その経費の一部を負担するようで、最近では、県や市などでその経歴を活かす自衛官が増えてきました。

 

 次に訪れたのは仙台市の南に位置する若林区で、復興状況視察と荒浜地区に設置された慰霊碑です。

 大震災が発生したあの日、松林を超え陸地を黒い大波が大地をのみ込んでいく映像を見た方は多いと思いますが、この地域では地域住民の約1/3が亡くなりました。震災後、まだ瓦礫が残ったままの状況を視察したことがありましたが、今ではすっかり瓦礫が撤去されたものの、そこに集落があったことを示す建物の基礎だけは残っていました。大震災から6年が経っても時間が止まっているような気がします。

 海岸にあった松林は、その多くがなぎ倒され、そして流され、所々に残っています。津波高は13.7mまで達し、生き残った松の木もその高さまでの枝は全て折れ無くなっています。木の頂上部だけに緑の葉が茂る松の姿が痛々しく感じました。

 海岸近くにあった荒浜小学校は、2階の床上40cmまで波が押し寄せたと言うことで、当時小学校の建物の2階以上に避難した人は助かり、校庭にいた人は助からなかったといいます。この地域をはじめとする東北の三陸海岸付近では、過去にも大きな津波被害を受けた地域ではありましたが、「東日本大震災で発生したような大津波の経験は無く、地元の人もそこまでの危機意識を持たず、避難が間に合わなかった。」との説明がありました。

 この海岸線からかなり内陸部にある高速道路まで津波が達したことから、この地域は住宅などの建設ができない危険区域に指定され、これまで住んでいた地域が公園や、多重防衛のための防潮堤を兼ねてかさ上げした道路などの工事が進んでいます。

 先ほど触れた荒浜小学校は廃校になり、震災遺構として残されることが決まりました。今日は偶然にも、震災遺構として公開される前に、報道機関が取材に訪れていました。

(説明してくれたのは、東北方面総監部の自衛官)


(大震災に遭う前の地域の歴史)


(大津波は全てを破壊した)


(震災遺構が決まった荒浜小学校)


(かつての集落は廃墟となった)


(今も残る大津波の爪痕)


(生き残った松も、大津波に洗われた部分は枝もない)


(あの大津波が想像できない穏やかな海岸)


(大震災を風化させてはならない)

 

 修復された海岸の防潮堤に立つと、これがあの大災害を起こした海なのかと思うほどの、震災前と同じのどかな海水浴場であった光景が広がっていました。

 一方、陸地側は、先に述べたような破壊し尽くされた荒涼とした土地が拡がり、遠くに仙台市の高層ビルが望めます。

 この地域は、復興というよりも、私達人類に自然災害の恐ろしさを後世に伝える広大な震災遺構のようにも思えます。しかし、ここにこれまで住んでいた人達の気持ちにどう接していけば良いのか、言葉でうまく表現ができません。慰霊碑の横に刻まれた、多くの津波犠牲者の名前に目をやりながら、この大震災を風化させるなと私達に静かに語っているようにも感じられました。

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東日本大震災のその後 空自松島基地 石巻 女川 野蒜

2017年04月26日 | 議会活動

平成29年4月26日(水)

 

 昨日に引き続き、宮城県内の震災からの復興状況を視察しています。

 

 最初に訪れた航空自衛隊松島基地は、海岸に沿った施設であり、最新鋭のF-2戦闘機の教育機関や海難救助の要所が津波によって破壊され、その後の復興状況を視察しました。

(基地副司令から被災前と後の状況を聞く)


(基地司令と東松島市長があいさつ)


(津波で多くの航空機を失った)


(自衛隊が所有する風呂を住民に提供)


(給水支援)


(生活支援)


(修復したF-2戦闘機の訓練が始まる)


(外部から調達した救難ヘリ)


(格納庫などは基礎を高くした)


(飛行前点検中のブルーインパルス)


(津波が押し寄せた基地建物内部。私の身長当たりまで水につかった) 


 最初に、基地司令から基地の概要や被災時の状況等について概略の説明を受けた後、ブリーフィング室で広報担当者から、「松島基地の概要」、「東日本大震災における基地の被害状況」、「航空機、施設の復旧状況」について詳細な説明を受けました。

 飛行機の被害状況は甚大で、F-2戦闘機は18機中5機を、救難用のジェット機2機全て、救難用ヘリ4機全てを失いました。F-2戦闘機は失った機体以外も潮をかぶるなどで、現在修理を終えた10機が訓練に使用されています。救難機は早急な手当ができず、全国の救難隊から融通してもらうなどで対応しているとのことでした。

 基地全体は、海抜の低い場所にあったことから、滑走路のような大規模施設は別として、格納庫などは基礎を高くし今後の対策を講じたとのことです。また、地元行政が取り組む津波対策の防潮堤建設に関連し、海岸側にある基地を防潮施設に見立て、津波の力を弱めるような構造としたことが特徴でもあります。

 基地内の復旧以外では、周辺自治体である東松島市や石巻市の復旧にも大きく関与し、燃料支援、医務官による医療支援、給水支援、市民生活支援、遺体捜索、食料支援、入浴支援、航空自衛隊・陸上自衛隊・米軍との共同支援などが行われました。自衛隊の基地があったことで、周辺自治体の復旧や避難生活支援などで大きな役割や成果を果たしています。

 その後、基地内で運用している機体の説明(特に戦技を研究し曲技飛行を行うブルーインパルスの母基地となっている)を聞き、昼食は隊員食堂で隊員の皆様と同じ今日のメニューであるカレーライスをいただきました。

 

 午後からは、大きな被災を受けた石巻市と女川町、東松島市の復興状況を視察しました。

 石巻市では、市内が一望できる日和山公園にのぼり、また門脇小学校などを視察しました。石巻市は大手製紙メーカーと漁業の街で、市街地が海岸近くに形成され、旧北上川の河口付近が街の中心部となります。市街地の中心は平野部で海抜が低く、震災では壊滅的な被害を受けました。旧北上川は津波が50kmも遡ったといわれています。市内で唯一の丘である日和山の集落が残り、被災者はこの山に上った人が助かりました。私達が言う「命山」の大規模なものと言えます。復興状況は、やっと瓦礫が撤去され、整地が進み新しい建物が建ち始めたところで、6年も経過していながら現地の厳しい状況を目の当たりにしました。

(日和公園から見た石巻市、旧北上川河口部。やっと整地が終わったばかり)


(海岸から日和山までの建物はほとんど無い)


(震災前の街の様子と比べると、多くが破壊され尽くした)


(避難タワーも設置された)

 

 女川町では、標高16m丘の上に立つ女川町立病院を訪れ、18mの津波に襲われた病院の被害状況と、眼下に広がる女川漁協や街の中心部が完全に破壊された状況が今もって復興していない状況に心を痛めました。この津波は女川町を上り、反対側の海岸に達したということで、山側から津波が襲ってきたという地域でもあります。この地域では、強靱な防潮堤は作らず基本的に高台移転することを行政でなく市民が決断したということで、「津波が来たら逃げる」という原則を取り込みました。漁港は復旧が進み、魚の保存施設は中東カタールから多額の支援を受けて立派なものができていました。

(女川町立病院から。標高16mの駐車場は2m津波に襲われた)


(白いアパートの向こう側から津波は山を越えてやって来た)


(カタールからの寄付で作られた魚の保存施設)


(横倒しとなったコンクリート製の交番。災害遺構となるようだ)


(病院の2階には、当時の被災状況が記されている)

 

 東松島市の野蒜(のびる)地区は、津波の直撃によりJR仙石線の野蒜駅とそこに停車中の電車が破壊されたところです。JRは、この地区の路線を廃止し、山側に移設しました。同時に、この被害に遭った野蒜駅を災害遺構として残すことが検討されており、駅舎の二階には被災当時の様子を伝え、風化させない施設として整備されていました。

(東松島市JR仙石線野蒜駅構内。ここも災害遺構となるようだ)


(駅舎のここまで津波が来たという表示)


(東日本大震災が発生した時間で止まった時計)


(駅舎はこれからも震災の風化が進まないよう、情報を発信し続ける)

 

 津波による大災害の爪痕の大きさに、改めて驚かされると共に、6年を経過してもまだ復興の目処は立たず、地域に住む人達の不安が募る思いに心が痛みました。女川町を始め、被災地の自治体は必死で復興を進めていますが、一時避難で出て行った住民は、故郷に戻らないと決めた人が少なくありません。

 将来、街が完全復旧したとしてもそこに住む人がいなくなっては、意味がありません。震災から長い時間が経ち、新たな問題に直面しています。

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