「混沌の時代を生き抜く 帝王学ノート」 伊藤肇・著、PHP文庫、1984年5月16日
p.19 「料理の作り方は勉強すれば覚えられますけど、食べる人に喜んでもらえるような味わい深いもんは、修行を積んだ心を込めな作れまへん。日本料理が百のもんをつくるのに、百二十も百三十もの力がないとあかん、といわれる所以どす。といいますのは、それが余裕となり、心づかいになりますよって、初めて料理が生きて参りますのや。この力をつけるのには最低十年はかかりまっせ」
p.84 九州松下電器産業会長の高橋荒太郎さんは「利益は目的ではなくて結果である」といい、「利益とは、この記号の社会への貢献度によって社会から与えられる潤滑油みたいなものである。しあがって、利益のあがらぬ企業は社会への貢献度が零であり、存在価値がないのだから、潰れても仕方がない」という厳しい論理を展開している。
p.101 その会社では、部長とか、重役とかいって威張っていても、やめた途端に路頭に迷うようじゃ、お話にならん。そのためには、今やっている仕事が楽しくならなければ嘘だ。出世して重役になるのは、仕事のできる人間であることは当然だが、仕事のできる人間とは楽しく仕事のできる人間のことだ。
p.114 「不将不迎、応而不蔵」(将ラズ、迎ヘズ、応ジテ而シテ蔵メズ)
「将(おく)ラズ」というのは「心配ごとや苦労があっても、それにこだわってくよくよしない」ということであり、「迎ヘズ」は「とりこし苦労をしない」ということです。
「応ジテ而シテ蔵メズ」は、何かが起きた時、直ちに応じてテキパキと処理する。それが、一旦処理したあとは、「執着しない」ということ。
p.134 強い心がなkれば生きていけない。
暖かい心がなければ、幸せは得られない。
p.136 「人は生まれた時は誰の心も無垢の仏だが、歳をとるにつれて、欲が出てくる。この欲が本来の仏を覆ってしまう。自分の心にこの欲があることを自覚した時、その人は欲を無くしたと同じである。そして、この欲を取り去った時に本質である珠玉つまり仏が現れるのだが、それは自分の努力でしか引き出すことができない。だから修業するのだ」
p.152 芸というものは、一段ずつあがるもので、駆けのぼるものではない。二段、三段と、飛びあがるには、これまで下積みで力をためていたのならともかく、若くて力もないのに、とびあがった人は、ひょっとした拍子に、ガタガタッと踏み外すのは必定である。
p.183 「どんなに技術が進歩し、生産力が高まって、生産がふえても人間は、もうこれで十分という状態にはならない。欲望は、いつまでも欲望充足の手段より『鼻の長さだけ』先行する」
p.191 「女の顔は三十までは神様が授けてくれた顔。四十すぎたら自分でかせいだ顔」
その心がけとは、女の人の気働きとか気配りであり、その積み重ねと内面の美しさとがミックスされて滲み出た時、それはすばらしい女性の魅力となる。
p.19 「料理の作り方は勉強すれば覚えられますけど、食べる人に喜んでもらえるような味わい深いもんは、修行を積んだ心を込めな作れまへん。日本料理が百のもんをつくるのに、百二十も百三十もの力がないとあかん、といわれる所以どす。といいますのは、それが余裕となり、心づかいになりますよって、初めて料理が生きて参りますのや。この力をつけるのには最低十年はかかりまっせ」
p.84 九州松下電器産業会長の高橋荒太郎さんは「利益は目的ではなくて結果である」といい、「利益とは、この記号の社会への貢献度によって社会から与えられる潤滑油みたいなものである。しあがって、利益のあがらぬ企業は社会への貢献度が零であり、存在価値がないのだから、潰れても仕方がない」という厳しい論理を展開している。
p.101 その会社では、部長とか、重役とかいって威張っていても、やめた途端に路頭に迷うようじゃ、お話にならん。そのためには、今やっている仕事が楽しくならなければ嘘だ。出世して重役になるのは、仕事のできる人間であることは当然だが、仕事のできる人間とは楽しく仕事のできる人間のことだ。
p.114 「不将不迎、応而不蔵」(将ラズ、迎ヘズ、応ジテ而シテ蔵メズ)
「将(おく)ラズ」というのは「心配ごとや苦労があっても、それにこだわってくよくよしない」ということであり、「迎ヘズ」は「とりこし苦労をしない」ということです。
「応ジテ而シテ蔵メズ」は、何かが起きた時、直ちに応じてテキパキと処理する。それが、一旦処理したあとは、「執着しない」ということ。
p.134 強い心がなkれば生きていけない。
暖かい心がなければ、幸せは得られない。
p.136 「人は生まれた時は誰の心も無垢の仏だが、歳をとるにつれて、欲が出てくる。この欲が本来の仏を覆ってしまう。自分の心にこの欲があることを自覚した時、その人は欲を無くしたと同じである。そして、この欲を取り去った時に本質である珠玉つまり仏が現れるのだが、それは自分の努力でしか引き出すことができない。だから修業するのだ」
p.152 芸というものは、一段ずつあがるもので、駆けのぼるものではない。二段、三段と、飛びあがるには、これまで下積みで力をためていたのならともかく、若くて力もないのに、とびあがった人は、ひょっとした拍子に、ガタガタッと踏み外すのは必定である。
p.183 「どんなに技術が進歩し、生産力が高まって、生産がふえても人間は、もうこれで十分という状態にはならない。欲望は、いつまでも欲望充足の手段より『鼻の長さだけ』先行する」
p.191 「女の顔は三十までは神様が授けてくれた顔。四十すぎたら自分でかせいだ顔」
その心がけとは、女の人の気働きとか気配りであり、その積み重ねと内面の美しさとがミックスされて滲み出た時、それはすばらしい女性の魅力となる。
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