簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

パンが好き (井原鉄道沿線の旅)

2018-10-31 | Weblog



 総社商工会議所の呼びかけで、2016年から始まった「パンわーるど総社」。
総社の市内には個性的で、有名なパン屋さんが幾つかあり、駅前の観光案内
所にもガイドマップが用意されている。
この井原線沿線では実質的な始発駅である清音の駅前にも美味しいと知られ
た評判のパン屋さんも有る。



 岡山県内には昔からの老舗のパン屋さん等もあり、子供の「おやつにパン」は
珍しくもなく、パンは県民食とも言われている。
町中の至る所でパン屋さんを見かけ、その店舗数は全国でも上位クラスであると
の調査結果もあり、こんな事からもパン好きな県民性を窺い知ることが出来る。
「パン」の全国消費ランキングでも、京都や神戸などに次いで上位にランクされ
ている。



 また瀬戸内海を隔てた香川県は「うどん県」を名乗っていて、その影響かこの
地でも「生うどん・そば」の消費量や購入額は全国トップレベルで、スパゲッテ
ィや中華麺などの購入もかなり多いという。小麦粉製品が好きな県民性のようだ。



 しかし岡山は「米どころ」である。
県下には三大河川が流れ水は豊富で、晴れの国と言われるとおり、日照時間も豊
富に恵まれている。そんな土地柄だけに古くから稲作が行われ、江戸時代には大
規模な新田開発がされ、その耕作面積は飛躍的に増え、今日ではその収穫量は中
四国ではトップである。



 であるのに一世帯当たりの年間「米」購入額は、全国では最低レベルである。
ただ購入しないと言うだけで、自作を自家消費という家庭も多いので、米を食
べない県とばかりは言えないのかも知れない。
一方、県民の好きなパンや麺の原料となる小麦の県内収穫量はと言うと、極め
て少なく全国でも低位のレベルである。(順位は総務省の調査による)(続)




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始発駅・総社 (井原鉄道沿線の旅)

2018-10-29 | Weblog

 菅茶山所縁の廉塾を訪れた帰り際、通りに「茶山饅頭」の旗を立てる菓子屋
さんが有ったので立ち寄ってみる。
この名物と言う「茶山饅頭」と、百年余り続く地元の蔵元と共同開発したとい
う「地酒饅頭」を買い求め、好物を手に神辺駅に向かい帰途に就いた。





 この日の井原鉄道線の乗り回りは、ホリデイパスを使った。
定められた期間の土・日・祝日などに利用が可能な一日乗り放題切符で大人
1000円である。

 井原鉄道線は多くは高架や盛り土の上に線路が敷設されているので、車窓
からの見通が良くパンフレットは「空飛ぶように走る鉄道」を謳っている。
そんな路線は、乗っていて踏切が極めて少ないことに気付かされる。
正確な資料もないので、迂闊な事は言えないが、殆ど無いのではないかと思
える程だ。







 周遊の最後に井原線の起点駅・総社に再び戻って来ると、ホームには、回送
される「夢やすらぎ」号が停留していた。
2005(平成17)年に導入された特別イベント車両である。

 「九州新幹線」「ななつ星in九州」や岡山市内を走る市内電車など、鉄道車
両のデザインを手掛ける岡山市出身の水戸岡鋭治氏の手よるもので、その外観
は沿線の夕焼けをイメージした茜色に統一されている。
残念ながら内部は良く見えないが、天然の無垢材をふんだんに使ったレトロな
味わいになっているらしい。



 総社はJR伯備線の途中駅で、この線を行く山陰連絡特急・やくもの一部列
車が停車する。
またこの地と岡山を結ぶJR吉備線(愛称・桃太郎線)の終点でもある。
井原鉄道線は元々、この吉備線の延伸路線として計画されていた。(続)

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廉塾 (井原鉄道沿線の旅)

2018-10-26 | Weblog

 本陣から数百メートル離れた地に、江戸末期の儒学者で、当世随一の漢詩人
と言われた菅茶山(かん ちゃざん)が開いた私塾・廉塾がある。



 菅茶山は当地で酒造業を営む東本陣で生まれている。
京都で朱子学を学びその後、故郷神辺に戻り「廉塾」の前進である私塾「黄葉
夕陽村舎」を開き全国から学生を集め教えていた。
ここには頼山陽、浦上玉堂、伊能忠敬など名だたる文人墨客も訪れている。



 入ってすぐ目につくのが左側にある3メートル四方ほどの小さな池だ。
ここでは普段は魚が飼われ、非常の時には防火用水として使われたと言う。
魚が食用であったかはよくわからない。



 正面の瓦葺平屋の建物が三部屋二十畳からなる講堂で、東側には竹と板で
造られた濡れ縁が設けられている。
その傍らに円形と方形にくりぬいた手水鉢が有る。
水は器によってどうにでも形を変えることから、「人も環境や教育、交友な
どで良くも悪くも成る」と言うことを教えていた。



 すぐ横南側には高屋川が流れている。
今では塾の周りは塀で仕切られ、その流れを見ることは出来ない。
塾生達は学問に打ち込むつかの間の休息時には、この川の流れを眺めていたので
あろう。そんなことを思うと、広く遊学の士を受け入れる学問所に仕切塀は相応
しくなく、当時はこの塀はなかったのではと思えてくる。



 塾内にはそこから引いた幅1メートルほどの小さな水路が有る。
それは講堂の前に位置していて、部屋を出て庭を横切れば、三段ほどの階段で
水面まで降りることが出来る。塾生が筆を洗うための施設だと言う。



 敷地内には三棟の寮舎のほか、困窮時に備える米麦の倉庫などもあり、万一
の折の救済所としての役割を果たしていたようだ。
これらを含め国の特別史跡に指定されている。(続)

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宿場町と本陣 (井原鉄道沿線の旅)

2018-10-24 | Weblog



 駅前から続く通りが旧山陽道なのか、訝りつつ銀行の角を右折する。
するとそこには人や車の往来も無く、静かで落ち着いた屋並みの低い、雰囲気
の良い通りが現れた。近代的な建物の中に伝統的な商家造りの建物が混在する、
紛れもなく旧山陽道宿場町の景観を彷彿させる通りである。



 黒瓦葺き切妻屋根を持つ平入の中二階建ての建物も多く、漆喰で塗り込めた
なまこ壁に格子を嵌め込んだ窓、二階に虫籠窓の残る家もある。
多くの宿場町の屋並みが統一されているように、この地は平入が多いように見
受けられる。



 宿場の中心は、駅から600mほどのところで、歩いても10分とはかからない
距離である。
そこは現在の川北・川南地域で、1700年代の両地域の家数は300軒余り、人口
は2000人程と言うから、現在と違い大家族の家が多かったことが窺える。
宿場には広島県下ではここだけと言う本陣が残されている。



 川北には東本陣が、川南には西本陣が設けられていた。
何れも代々酒造業を営んでいて、西本陣を務めた本家筋の尾道屋菅波家は神辺
奉行を務めた家柄で、今日大部分の本陣施設が残されている。
ただ本業の酒造施設や、東本陣の分家筋にあたる本荘屋菅波家などは明治期に
解体され消滅している。



 黒塗りの土塀に囲まれた西本陣は、部屋数が27、200畳を誇り、70名ほど収容
できたという。土蔵も六棟残されている。
今でも内部に電線や電灯もなく、およそ250年前の姿を伝えていると言う。
西本陣は川辺本陣として県の重要文化財に指定されていて、土日祝日には内部が
公開されている。(続)



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終点・神辺 (井原鉄道沿線の旅)

2018-10-22 | Weblog



 右手からJR福塩線の線路が近づいてくると、暫く並走しながら高屋川を橋
梁で越え、一面一線のホームを持つ行き止まりの終点の神辺駅に到着する。
列車によっては福塩線に乗り入れ、福山方面に直通するので、これらはそのまま
JRのホームに到着する。



 駅はJR西日本の福塩線・神辺駅と同居していて、そのホームの脇にある。
始発の総社からはおよそ1時間の道のりだ。



 中世には駅の東正面に見える山の上に神辺城が有り、この地は城下町であった
が福山に城が出来て以降はその機能を失った。
しかしその後各地に街道が整備され、旧山陽道が通ると再び繁栄を取り戻す。
その旧山陽道は川辺宿を過ぎた辺りから、ほぼ井原鉄道線と同じルートで備中の
国・高屋宿を過ぎ、備後との県境を越えて最初の宿場町である神辺に至っている。



 列車を降り、駅を背に国道313号に出てすぐに左折、その先で右にカーブして
離れていく国道と別れ県道390号を暫く歩く。
通りは町の中心らしく、両側に商店などが多い。
道幅の割には通行する車も多く賑やかな通りである。



 ここも嘗ての旧山陽道ではないかと思うが、その表示はどこにも見当たらない。
駅前にも大きな案内看板が立てられていたが、山陽道の表記はされていなかった。
町中の要所に方角を示す案内板はあるので、本陣や民俗資料館などを目指すのに
障りは無いが、意外とサイン類は少ないようだ。
旧山陽道の宿場町とはいえ、その観光には余り重きを置いていないのであろうか。(続)



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中国地方の子守唄 (井原鉄道沿線の旅)

2018-10-19 | Weblog





 井原駅を出た井原線の列車は、次の「いずえ」駅に停車の後、2分ほどで次の
「子守唄の里高屋」駅に停車する。変わった駅名だがこれが正式である。
一面一線で小さな無人の高架駅の造りは、この線ではよく目にする、駅前広場
から直接階段でホームに上がる構造である。



 子守唄の里と言うのは、当地が「中国地方の子守唄」発祥の地であることに
由来している。
「ねんねこ しゃっしゃりませ~♪」と唄い始める子守唄は、昔からこの高屋村
で歌い継がれていたものらしく、それを当地生まれの声楽家・上野耐之が、山田
耕筰の前で披露したことから耕筰が編曲し広く世に知られるようになったと言う。



 駅の南側には、「華鴒(はなとり)大塚美術館」がある。
ここは神辺出身の日本画家・金島桂華の作品を中心とした現代日本画を展示する
美術館で、美しい日本庭園の併設していることから、山陰は島根県にある有名な
足立美術館を小さくしたような、と評する声もあると聞く。
 残念ながら時間の関係で今回の旅ではこの駅での下車は叶わず訪問できなかっ
たが、高架駅のホームの真下には黒瓦葺きの大屋根を持つ日本家屋を見下ろすこ
とが出来る。



 ここ高屋は旧山陽道の間の宿である。街道とほぼ並行した井原線は、この先で
県境を越え広島県に入ると、御領、湯野と停車を重ねJR福塩線との接続駅であ
る神辺に到着する。
始発の総社からはおよそ1時間の道のりで、多くはここが終点であるが、一部の
列車は福塩線に乗り入れ、福山まで運行されている。(続)




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井原・田中美術館 (井原鉄道沿線の旅)

2018-10-17 | Weblog

 井原鉄道の井原駅の構内にはジーンズショップが有り、当地で生産された生地
を使用したオリジナルジーンズをオーダーメイドしている。



 井原市は岡山県の南西部、広島県と県境を接する人口4万人余りの市である。
江戸時代から綿花の栽培が盛んな地で、そこからデニム地の生産地として繊維
産業が興り、一時全国シェア7割を誇った時代も有ったそうだ。
その伝統は今日まで引き継がれていて近年では「デニムの聖地」として知られる
ところである。



 駅前の通りを北に向け10分ほど歩き、少し西に入った辺りが市の中心部とも
いえる地域で、周辺は公園として整備されていてここには市役所や市民会館と
並んで、市の誇りとも言われる人物の名を冠した美術館が有る。
「田中(でんちゅう)美術館」である。



 近代日本の代表的な彫刻家として良く知られ、文化勲章を受賞した平櫛田中
(ひらくしでんちゅう)は、明治五年ここ井原市で生まれている。
その代表作が、「鏡獅子」と言われる作品だ。歌舞伎俳優の六代目尾上菊五郎
をモデルに、約二十年の歳月をかけて完成されたことが知られている。



 また数々の名言を残したことでも知られていて、
「いまやらねばいつできる わしがやらねばたれがやる」
「六十七十ははなたれこぞう おとこざかりは百から百から」
自身は百歳を超えても創作活動を続け、107歳で生涯を閉じている。



 美術館の前は「田中苑」と言われる日本庭園で、そこには「鏡獅子」「西山公」
「岡倉天心先生像」など五つのブロンズ像が配されていて、田中の作品の一端に
触れることが出来る。(続)



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与一の駅 (井原鉄道沿線の旅)

2018-10-15 | Weblog



 『与一は二尺二寸二分の鏑矢を取って弓につがえると息を入れずに引き絞った。
鏑矢は弦を放れ、海面に長い響きを残して飛ぶと扇の要から一寸ほどの上をひょう
と打ち抜いた。扇はきらりと陽に映えて高く空に舞いあがってから海に落ちた・』
(「武蔵坊弁慶」富田常雄 講談社 昭和61年1月)



 平家物語で有名な屋島の合戦で、海に漂う敵方の小舟の上に立つ扇の的を見事
滋藤の弓で射貫いた下野国の武将那須与一宗隆は、この時生年十七歳であった。

 その後その恩賞として全国五カ所の荘園を与えられ、地頭職を命じられた。
そのうちの一つが備中荏原の庄(現在の井原市東南部)で、与一の一族が来往し
戦国時代末期まで当地で活躍したと言う。





 井原駅はこの井原線では最大規模の拠点駅で、1面2線の島式ホームが有り、
列車の行き違いが可能である。
ホームから駅舎に向かう通路は、線路とは平面交差で、そこには踏切が設け
られているのがいかにもローカル線の駅らしい。
ここには同線開通と同時に造られた特徴のある駅舎がある。



 総ガラス張りの三角錐の構造物は矢を、緩やかに湾曲した建屋は弓を表わし、
与一の弓と矢をイメージしデザインされた建物である。
駅前の広場の端には、その扇の的をデザインした構造物も有るので、駅舎から
少し離れてそれを通して遠望した方がよりイメージできる。



 建物の内部は天井の高い明るいスペースになっていて、売店や飲食店、特産
品の販売所などが有り、空いたスペースでは様々なイベントが開催され市民に
も開放されている。(続)


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北条早雲 (井原鉄道沿線の旅)

2018-10-12 | Weblog



 次の小田駅前の広場には、「室町時代の歌人 正徹生誕の地」の石碑が立て
られている。良く知らなかったが調べてみると、この辺りを知行した臨済宗の
僧で歌人でもある、清巌正徹という人物らしく地元につくられた顕彰をする会
が立てたものだと言う。近くには生誕の地とされる場所もあるようだ。



 小田駅を出てしばらく進むと線路は高架を降りて行き、そこからされに西進
すると右手に井原鉄道の車輛基地が見えてくる。ここは車庫を構えた施設で、
井原線の全列車をコントロールするセンターが有る。





 コントロールセンターの敷地が途切れると、早雲の里・荏原駅が有る。
駅前に早雲の里交流センターが有り、その前の整備に行き届いた小公園のよう
な場所に北条早雲の石像が建っている。
早雲と言えば、駿河や伊豆の国を平定し関東制覇の礎を築いた人物として有名
であるが、この地との関りのことは良く知らず違和感を覚えていたが、ここの
説明版を見て納得した。



 それによると早雲は、備中国高越城主の子として生まれ「伊勢新九郎盛時」
と名乗り33歳で京に上るまでここ荏原の庄で武芸と学問に励んだと言う。
荏原の庄の半分を有する領主でもあり、経営には卓越した手腕で領民からも名
君と慕われていて、町の背後の高越城址には生誕地の記念碑も建てられている。



 地元では小田原市や三島市など9市2町と共に推進協議会を設立して、「北条
五代」をNHKでの大河ドラマ化を目指そうと活動を続けている。(続)


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伝統菓子・ゆべし(井原鉄道沿線の旅)

2018-10-10 | Weblog
 
 宿場町・矢掛の名物の一つが、「ゆべし」である。
この地の本陣石井家には沢山の古文書が残されていて、古くは天正年間豊臣秀吉
が島津征伐で立寄った最、この城主が献上したとの記録が残されていると言う。



 またその中には九州・薩摩藩から徳川13代将軍・家定に嫁ぐ道中の天璋院篤姫
がこの本陣で宿泊したとあり、その際「ゆべし」を大層気に入り、100本以上も所
望されたとの古文書も残されているそうだ。



 「ゆべし」と言うお菓子は東北から以南の全土に広く知られていて、柚子を
ベースにした昔からのお菓子だが、その形や製法配合は土地それぞれで異なり、
色々なバリエーションが有ると言う。

 元々柚子は柑橘類の中では、手間がかからず簡単に栽培が出来るとあって、
かつては藩財政立て直しのため、備中藩の山田方谷などは栽培を奨励した歴史
もあり、この地方では比較的良く知られた果物で、お菓子としてだけではなく
料理にも使われたりしている。
消化を助け、二日酔いにも効果が有るとされるからだ。





 「ゆべし」は柚子にもち米、白みそ、砂糖をベースに造られたペーストを、
柚子の中身をくりぬいた中に詰め蒸しあげたあと天日干しして仕上げた「丸ゆ
べし」や、蒸した後板状に延ばし竹の皮にくるんだ「ゆべし」や、干し柿をく
りぬき袋状にして中に柚子餡を詰めた物などが有る。

 何れのお菓子も香りが大切に閉じ込めて有るので、一口含むと水あめや砂糖
の甘さとともにほのかに味噌を感じ、特有の柚子の香りが快く口の中に広がる。
まさに銘菓と言われる逸品である。





 また矢掛の新しい名物として売り出し中なのが、大豆の発酵食品「テンペ」
である。コロッケやお菓子として販売されている。(続)

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