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簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

天之川町(東海道五十七次歩き旅・摂津国)

2025-05-30 | Weblog


 京阪牧野駅の西側にある淀川河川敷の牧野パークゴルフ場は、その最
南端が丁度御殿山駅の西辺りなる。両駅間は直線で2㎞程離れている。

 プレーは行って帰ってだから、ゴルフも随分と歩く競技だと、改めて
思い知らされる。 ゴルフをしなくなってもう三十数年経つだけに最近
の状況は良く知らないが、近頃では乗用カートの利用も多いらしいから、
昔ほどは歩かないのかも知れない。



 御殿山駅から南に600m程進んで、旧「京阪国道」、今日の「府道13
号京都守口線」とは磯島の交差点で別れるが、その角右手に「枚方な
ぎさ高校」が有った。枚方西高校と磯島西高校が再編により統合され、
平成16(2002)年4月に誕生した普通科総合選択制の学校で、校名は
淀川の河川敷に近いことからのイメージらしい。



 磯島交差点のある辺りの地名を「茶屋町」という。嘗て街道に茶屋で
も有った名残かとも思うが、案内はどこにも見当たらなかったので、定
かには解らない。交差点から左に入る細い道が旧道らしく、民家等が密
集した狭い道が延びている。



 暫く行くと、旧道は小さな川に架かる「ひのばし」を渡る。
直ぐ左手の京阪本線の線路も、民家の裏側を旧道に沿うようにカーブし、
この先高架に成るのか、やや上り勾配で、道路よりは人の背丈ほど高い
ところを通っている。



 橋の先で道幅が少し広がると、「天之川町」という、きれいな町名の
地域に入って来た。曰くのありそうな名は、この先町の南側を流れる川
に由来するらしい。川は「天野川」と表記するが、昔は「天の川」とも
書かれていた。名前は七夕伝説に基づくものという。(続)



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御殿山あたり (東海道五十七次歩き旅・摂津国)

2025-05-28 | Weblog


 黄金野一丁目で京阪本線の踏切を越え、旧道は三栗地区に入っていく。
旧道沿いは住宅街で、多くは最近作られた今風の住宅や、多層階のマン
ション、集合住宅などが建ち並んでいる。そんな中に旧家の重厚な造り
の日本家屋も若干見られるものの、左程古い建物ではなさそうだ。



 浄土宗の・清傳寺を右に見て進むと、広い道と交差する三栗交差点で
それを越える。この道は現在では「府道13号京都守口線」と呼ばれてい
るが、嘗ては「京阪国道」と呼ばれた幹線道路で、越えるとここには僅
かばかり旧道が残されていた。その先牛丼店のところで先程越えてきた
府道に合流すると、ここからは暫く交通量の多い道の歩道をひたすら歩
く事になる。



 左から京阪本線が府道に寄り添ってくると御殿山駅で、道路に接する
ように造られたホームの壁が見えている。
同線の中では比較的新しい駅で、開業は昭和4(1929)年といい、乗客
は左程多くはないのか、特急などの優等列車は通過するようだ。



 この地名の御殿山を、ウィキペディアで調べてみると、その謂れは
「惟喬親王(これたかしんのう)」の御殿(別荘)『渚院の四阿(あず
まや)』がこの近くにあった事によるらしい。
 平安時代前期の皇族・惟喬親王は、第55代・文徳天皇の第一子で、
立太子争いに敗れ、失意の日々を景色の良いこの別荘で過ごし、苦し
みを和らげたと伝えられている。



 一方異説では、江戸初期に淀藩主・永井家系統の永井伊賀守が領地支
配の陣屋を建てたため、その御殿があった場所だからと言う。
通りは商店も多く賑やかで、一見新しい町かと思ってしまうが、歴史的
にも由緒ある地名のようだ。(続)



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前島街道の追分(東海道五十七次歩き旅・摂津国)

2025-05-26 | Weblog


 旧道は左折して駅手前の踏切を越え、そのまま穂谷川に沿って220m
程進み、右折して明治橋を渡って川の西側へ出て直ぐ左折、川に沿って
南に向かう。 一方踏切を越え直ぐに右折して、牧野さくら橋を越える
と右手が京阪牧野駅で、駅前はロータリーになっている。



 駅前のロータリーは、近年再開発で整備されたものらしく、バス乗場
になっている。京阪バスが乗り入れていて、枚方や摂南大学キャンパス
に行くバスが出ているようだ。
その駅前ロータリーの外れに明治39(1906)年の銘がある「前島街道」
道標が立っていた。



 これは京街道と高槻、西国街道を結ぶ前島街道への追分けに建つ道標
である。牧野駅から西の淀川に向かうと、幅180間の川には対岸の前島
に向けて「前島の渡し」の渡し場があった。たった一艘の舟でピストン
輸送をしていたという。



 今日では当然渡し舟は無く、淀川の左岸には広大なゴルフ場が拡がっ
ていいて、渡し場跡も定かではないらしい。
この辺りには東西を繫ぐ幹線道路がないのか、上流の御幸橋から下流は、
10㎞以上も離れた枚方大橋まで橋は架けられていない。
嘗ては前島以外にも楠葉、下島、磯島等に渡し舟があったらしく、川の
東西では盛んに行き来が行なわれていた。



 明治橋から200m程で左に流れを向ける川と分かれ土手を外れ、右の
細い道へ下りていく。しばらく進んで、穂谷川の旧河川敷に整備された
大きな阪今池(さかいまいけ)公園前を通り過ぎて行く。公園は牧野駅
からも近い事もあり、休日ともなると大勢の家族連れ等で賑わうと言う。
過ぎると通りは大きく右へ曲り、その先で京阪本線の踏切を越える。(続)



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牧野駅(東海道五十七次歩き旅・摂津国)

2025-05-23 | Weblog


 左は鉄道の敷地とを隔てるフェンス、右は車道とを区別する安全柵に
挟まれた府道の歩道は、街路樹もなく木陰のない単調な堤防の一本道で
ある。
道路を横断して河川敷への立ち寄りも出来ず、休憩するところすらない。
いい加減辟易しかけた頃、ようやく「樋之上北」の交差点手前で淀川の
堤と別れ「樋之上」の信号の先で斜め左の細い住宅街の道に入っていく。



 これが本来の旧道らしいが、道は200m足らずで船橋川に突き当たる。
左程大きな川ではなさそうで、護岸が整備され用水路化された川底に流
れは僅かだ。嘗てはここに土橋でも架けられていたのであろうか?それ
とも徒で渡っていたのか?今は行き止まりで下流方向に迂回する。



 右折して堤防を上り市道に出て左折、楠葉橋の側道橋を渡り、すぐ左
折して再び旧道に戻って行く。上島町に入り、道なりに進むとやがて京
阪本線の線路に突き当り、ここからは暫く線路と並行した道を行く。
京都大阪を結ぶ私鉄の幹線らしく電車が引っ切り無しに行き交っている。
そんな鉄道線と併走する道が600m程続いている。



 やがて前方に穂谷川の流れが見えてくる。
その上には京阪の牧野駅が設けられているが、駅の半分は川を跨ぐ橋の
上に造られていて、文字通りの橋上駅だ。
京阪本線が開通した、明治43(1910)年に開業した駅である。



 駅前には大きなマンションが建っていて、周辺にもアパートや団地、
一般住宅、店舗等が集積し人口も多いらしいが、賑わいは楠葉とは比べ
る術もない。近くには大学もあり学生の利用もあるらしく、駅の乗降人
員は日に2万人前後という。(続)



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フェンスに囲まれた道(東海道五十七次歩き旅・摂津国)

2025-05-21 | Weblog


 正面に「くずはモール」を見て、手前で右折してガードを潜る。
行く手は淀川で、河川敷にはゴルフ場が広がり、プレーに訪れた人達の
ものか、沢山の車が駐められている。
 丁度樟葉駅の裏側に回り込んだようで、左手にホームが見えている。
ここからは京阪本線に沿って、ひたすらフェンスで囲われた堤防上の道
を歩く事になる。



 ところで、楠葉(樟葉)の「楠」も「樟」も、何れも「くすのき」の
事である。「くすのき」を広辞苑で調べると『【樟・楠】(クスは「臭
し」と同源か。
「楠は南国から渡来した木の意」クスノキ科の常緑喬木。』とある。



 町と「くすのき」には特別な関わりなさそうで、枚方市のシンボル木
は「柳」らしい。HPによると「柳は古来より淀川とともに発展してき
た枚方にふさわしい木で、また、非常に育ちやすい性質をもっているこ
とから、誰でもどこにでも植えられる木として広く親しまれています。
(中略)市制施行20周年を記念して市民公募」で決めたとある。



 対岸は高槻市らしく、山の裾野に張り付くように建つ住宅や、高層ビ
ルが望まれる。フェンスに囲まれた道は、建物や街路樹がないので両側
は良く開けている。が日陰が一切なくこの時期の厳しい日差しは堪える
が、風はよく通るので有り難い。



 樟葉駅の手前で京阪本線の線路を潜り、堤防に出てフェンスに囲まれ
た道を歩いて来た。周辺には、住宅や商店も無いだけに、途中人と行き
違うこともなかった。



 散歩やウオーキングなら、河川敷の方が断然気持ちが良い。
こんな処を歩く者はそうそういないようで、したがって木陰を造る街路
樹も不要らしい。そんな木陰の無い道を、1.3㎞ほど歩いている。(続)

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「樟」と「楠」 (東海道五十七次歩き旅・摂津国)

2025-05-19 | Weblog


 「くずは」は、大阪市北端の枚方市に位置する、京阪樟葉駅周辺の地
域の呼称だ。当地は「楠葉」や「樟葉」、「くずは」と表記されている。
調べると町名は「楠葉」、京阪本線の駅名には「樟葉」が使われている。



 警察署や交番、消防署、郵便局、公園等は「楠葉」で、小学校は「北
小」「西小」「南小」共に「樟葉」と表記するが、中学校になると「楠葉
西中」となる。中にはどっち付かずのひらがな表記もあり、駅前の商業
施設は「くずはモール」、大規模開発された住宅団地は、「くずはローズ
タウン」、関西医科大学は「くずは病院」と言い、ゴルフ場も「くずはゴ
ルフリンクス」だ。



 この「くずは」は、古事記や日本書紀にも出てくる程古く、由緒ある
ものらしい。内乱に纏わる伝承があり、敗れた反乱軍の兵士が、恐怖の
余り褌が糞まみれになった事を意味する「糞褌(くそはかま))に由来し、
こう呼ばれるようになった。その後それが訛って「久須婆(くずは)」と
なり、「葛葉」や「樟葉」の字が当てられた。



 明治22(1888)年、当時の楠葉村と舟橋村が合併し「樟葉村」が誕
生した。両村が協議の結果村名は、継体天皇の「樟葉宮」に因んで「樟
葉」を採用する事で折り合いが付き、その後50年間継承されてきた。



 昭和13(1938)年、「樟葉村」が枚方市に吸収合併されると、多く
の表記は「楠葉」に戻されたが、一部「樟葉村」時代に作られた施設
は、名がそのまま残ったという。



 元々が「糞褌」に纏わる、忌み言葉のような地名なだけに、合併を
機に全面的な変更も考えられたらしいが、歴史有る地名は誇りを持っ
て引き継がれることとなった。(続)

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楠葉の町へ(東海道五十七次歩き旅・摂津国)

2025-05-16 | Weblog
 枚方市の最北端、京都府八幡市の男山丘陵と淀川に挟まれたこの平地
部は、嘗ては田んぼばかりの地であったらしい。
 男山の多くが住宅団地として開発され、周辺地域が市街化区域へ編入
されたのに合わせて、当地で土地区画整理事業が実施された。幹線道路
が通され、この楠葉台場跡もその一環として史跡公園として整備された。



 京都大阪の中間に位置しベッドタウンとして、京阪本線の沿線にあり、
地域の交通利便性の向上と、歴史を活かした魅力ある市街地の形成を図
ろうとする計画で、平成30(2018)年9月に竣工した。
その記念の石碑が道脇に建てられている。



 一般に旧道は、その後の宅地開発や道路の造成・拡幅・改修、川に沿
う道なら河道の変遷などで失われたところも多い。それらの場所は近似
的に近代の道を辿っているので、旧道歩きは必ずしも正確に旧道を辿っ
ているわけでもない。



 その辺りはガイド本や旅行記などを見ても微妙な相違があり、全てが
一致したルートとなっていない場合もある。
 楠葉の久親恩寺辺りで右に折れ、京阪の線路沿いの道を進むが、これ
も本来の旧道ではなさそうだ。左手は大阪市水道局の楠葉取水場の敷地
が拡がっていて、その先で旧道は楠葉の町の住宅地へと入っていく。



 「光明院」や「長福寺」等があったが、東海道五十七次を辿る道は、
現地の道路標識が乏しく、不安を持ちながら歩いて来た。それでも所々
に「京街道」と刻まれた新しい石の道標などを見付けるとホッとする。



 左手の建長寺を過ぎる辺りから、沿道の住宅街では商業施設が目立つ
ようになる。町中に人の姿も多く見られ、若干賑やかになってきた。
楠葉の中心部に入ってきたようだ。(続)



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楠葉台場跡(東海道五十七次歩き旅・摂津国)

2025-05-14 | Weblog


 府道の京都守口線を300m程行くと、左側に広大な緑地があり、
隅に「楠葉台場跡(くずはだいばあと)」の案内板が立っていた。
国指定史跡で、跡地を樟葉台場史跡跡公園として整備した場所だ。 



 台場とは江戸幕府が築造した大砲を備えた要塞のこと。
説明によると、幕末期「開国を求める異国船が突如、大阪湾に現われた
ことから、大阪湾に近い京都(朝廷)の警備強化の一環で、淀川を遡ろ
うとする異国船からの防備」のため築かれたと言う。



 場所は八幡市の男山の西に位置し、西側には淀川が流れている。
当時の敷地は現代の公園から西にも拡がり、府道や京阪の軌道敷を越え、
淀川の岸辺までをしめていた。「水堀を備えた西洋の築城方式である稜
堡式(りょうほしき)砲台が採用され、面積は約3万8千平方メートルで
あり、火薬庫の他大砲3門を河口方向の南に向けて備え、舟番所も設け
られた。」



 幕末期には欧米列強の外国船への備えから、幕府は多くの海岸に台場
を造った。有名なところでは、「品川台場」があり、今日では通称「お
台場」として知られている。
 楠葉の台場は海辺ではなく河岸に造られているが、これは一対の備え
として造られた。対岸の高浜台場(大阪府島本町)とここの二カ所のみ
で大層珍しいという。



 砲台の築造によりこれまで淀川河岸を通っていた京街道は、台場の中
を通るように付け替えられ番所が設けられた。このことから、尊皇攘夷
派の浪士らが京の京に入り込まないよう取り締まる目的も有ったと言わ
れている。



 その割には北側の備えは脆弱で、鳥羽伏見の戦いでは淀川左岸を進軍
して来た新政府軍に占領されている。(続)

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摂津の国へ(東海道五十七次歩き旅・摂津国)

2025-05-12 | Weblog


 売春防止法の施行(昭和32年4月1日、公布は前年の5月24日)に
より、翌年赤線が廃止と成り嘗ての花街から賑わいの火が消えた。
多くの娼妓や芸妓を抱えた八幡市橋本中ノ町の「橋本遊廓街」が最盛
期の頃は、京阪線の橋本駅は夜が更けるほどに乗客が増え、終電とも
なると大層な混雑を見せたと言われている。



 旧遊廓の町並を後に、小金川の町を抜け府道の手前で左に折れ、京阪
線の線路を越える。左奥が橋本駅で、かつて駅前には百人以上収容でき
る歌舞練場があったらしいが、廃止後は老朽が進み、近年駅前の再開発
で解体し取り壊されたという。



 広々とした道が右に大きくカーブすると左手に「八幡市橋本公民館」
が建っている。八幡は京都・大阪圏のベッドタウンとして、昭和40年代
後半の男山団地開発に引き続き、橋本地区でも大規模な住宅団地の開発
が行なわれ、人口の急激な増加をみたという。
その為昭和50年代半ばに建てられた施設らしく、地区民の活動の場だけ
には留まらず、市の支庁の役割も担っているようだ。



 駅前からこの辺りにかけては、再開発区域なのか工事中の箇所や空き
地が目立ち、その間を広々とした新しい道が通っている。
道が右にカーブすると橋本駅南の府道交差点で、その手前辺りで東海道
五十七次は、山城国から街道最後の摂津国、現在で言うところの大阪府
枚方市へと入ってきた。



 とは言え、残念ながら旧道は途絶え、真新しい新道がその面影をすっ
かり消している。スーパーの前を左にカーブすると右側は京阪の線路と
淀川の堤防で、鋪装されガードレールに守られた安全な道が延びている。(続)

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宇野 港と海の復権(玉野市電廃線跡を歩く)

2025-05-09 | Weblog


 近年「海の復権」をテーマに、三年に一度、瀬戸内海の2つの港と12
の島を会場に、現代アートの祭典「瀬戸内国際芸術祭」が開かれている。

 今日ではテレビや雑誌等でも取り上げられ、広く海外にも知られるよ
うになり、期間中のみならず、会期後も会場となった島などに多くの観
光客が訪れる様になった。



 港会場は宇野港と高松港周辺で、12の島というのは直島、 豊島、女
木島、男木島、小豆島、大島、犬島と、春のみ開催の沙弥島、秋のみ開
催の本島、高見島、粟島、伊吹島である。
何れも岡山と香川の沖合、瀬戸内海に浮ぶ小島で、宇野港とはフェリー
で結ばれている。



 「美しい自然と人間が交錯し、交響してきた瀬戸内の島々に活力を取
り戻し、瀬戸内が地球上のすべての地域の「希望の海」となることを目
指しています。(公式HP)」

 一時寂れた宇野の町にも、カジュアルなカフェやゲストハウスが建ち、
町中でも芸術作品が身近に見られるようになり、宇野駅にも外国語の案
内が用意されるように成った。



 多くの訪問客は、大きなトランクを下げ、岡山から宇野線に乗ってや
って来る。ところが瀬戸大橋線の開通で、同線の茶屋町~宇野間は、完
全なローカル線と化し、直通する電車は少ない。多くは茶屋町で、同じ
ホームとは言え乗り換えとなる。
 終点の宇野駅で改札を出れば、フェリー乗り場までは国道を越えて凡
そ500m程を歩くことになる。



 芸術祭の開催は、鉄道とフェリーを再び活気付けつつあるようだ。
地元の商店街にも足を運んで欲しいものだが、客は大きなトランクを引
きずって町歩きなどはせず、フェリー乗り場に直行する。
 
 荷物の移送サービスでもあれば、訪れる人々も身軽な町歩が楽しめ、
商店街にも活気が戻るのではないか、とその姿を見ては思う。



 フェリーの減便で苦境の船会社等が、こんなサービスを始めれば良い
のにと何時も思う。そしてJRも、宇野線の岡山からの直通運転を今一
度見直してほしい。

 宇野復権に向け官民一体で、まだまだやれることはあるのではないか、
こんなことを廃線を歩きながら考え、願っていた。(玉野市電廃線跡を歩く・完)

 来週から「東海道五十七あるき旅・摂津国」編が始まります。
東海道歩きもいよいよ大詰め、上がりの大阪・高麗橋を目指します。




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