簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

ひな飾り 武者飾り(チョット一息)

2024-04-29 | Weblog


 清らかでかわいらしい雛人形の歴史は古く、その起源を辿ると平安や
奈良時代にまで遡るなど諸説あるという。
 古くは唐の時代の穢れを祓う五節句が日本に伝来し、その節句の一つ
である上巳の節句(じょうしのせっく)では、三月に水辺で心身を清め、
病気を祓う風習が広まった。



 この中国の風習と、日本元来の人形(ひとがた)を使ったお祓いが結
びつき、現在のような雛祭りへと移り変わり、女子の幸せと健やかな成
長を願う行事となった。
一方、男子の成長を願う端午の節句も、ルーツはほぼ同じである。



 季節の変わり目を意味する節句の一つ、端午の節句の時期は、病気が
流行り邪気が集まりやすいとされ、厄除けの為に菖蒲や蓬(よもぎ)を
飾り、無病息災を願っていた。
 鎌倉時代の武家では、梅雨の時期に鎧兜を出して虫干しをしていたが、
その風習が後の世にまで残ったという。



 それが江戸時代に入ると、端午の節句に武者人形や鎧兜、弓を飾るよ
うになったらしい。
おひな様の豪華な段飾りも、発達するのは江戸中期以降という。
何れも子どもの安寧を願うもので、成長する課程で起きる様々な災厄を
代わりとして引き受ける身代わりの役割と共に、子孫繁栄の願いも込め
られている。



 子供が生まれると初節句には、こうしたひな飾りや武者飾りが飾られ
る場合が多い。しかし子供の成長と共に、いつしか飾られることもなく、
しまわれたままになる。
 役目の終わった人形、成長を見守ってくれた人形ではあるが、一般ゴ
ミとして処分することにためらいがあり、結果負担を感じつつも持ち続
けることになる。(続)





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草津宿の町並(東海道歩き旅・近江の国)

2024-04-26 | Weblog


 本陣の向かい側には「脇本陣 大黒屋弥助」跡が有り、小川小路を隔
てて「脇本陣 藤屋与左衛門」と「脇本陣 仙台屋茂八」が並び立つ。
 さらに本陣小路を越えると「脇本陣 柏屋重右衛門」跡がある。
「脇本陣 仙台屋茂八」の傍らに脇本陣跡の石碑もあるが、今はベーカ
リー&カフェの看板の方が目立っている。



 そこから数件先には、もう一つの本陣、「田中九蔵 本陣」跡と書か
れた家号板と説明が書かれた紙が張られている。
 説明によると、ここには「敷地が1315坪、建坪288.5坪に部屋数41室、
総畳み数264.5畳を擁する建物が有ったらしい。



 九蔵本陣東側は伝久寺と隣接し、境には掘り割りが有ったと言うから、
今日の地図で見ても広大な敷地を有していたことが分かり、規模的には
草津本陣に引けを取らないもので有った。
 本陣制度廃止後の明治10(1878)年、この地には知新小学校(草津小
学校の前身)が作られた」とある。



 街道筋には、江戸時代の旅と街道を中心に、展示と体験を通して草津
の歴史・文化を紹介する「草津宿街道交流館」と言う施設がある。
先には、問屋場跡もある。
 「貫目改所」跡は東海道では三カ所しか置かれなかった珍しい施設で、
荷物等の重量を改める役所という。



 更に行くと明治初期頃から続く「太田酒造」という造り酒屋があるが、
ここは太田道灌の末裔で、「清酒 道灌」が知られている。

 「雑貨商 八百屋久兵衛」宅は、昭和3(1928)年に建てられたもの
らしいが、軒高を押さえた厨子二階建で、格子窓や虫篭窓は江戸の伝統
を引き継いだ造りとして、登録有形文化財に指定されている。
(東海道歩き旅・近江の国 中編・完)



(来月から、「東海道歩き旅・近江の国」の後編がはじまります。)



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草津名物「うばがもち」(東海道歩き旅・近江の国)

2024-04-24 | Weblog
 少し早い昼食に草津名物の「はこずし」を堪能したら、今度は甘いデ
ザートが欲しくなった。ここには昔から良く知られた街道の名物がある。

 そう言えば、草津の宿場通りに入ってからは、それとなく注意を払い、
売店を探していたが、ここまで来ても見つけられずにいた。



 観光案内所に立寄って、窓口にいた男性に、近くで売っている店はな
いかと訪ねてみる。
「宿場の通りには無い、本店か駅に行かないとダメだ」と言う。
歩きの計画を立てる折、一応調べてはいたが、やはりそうであった。



 以前に車で来た折には、立寄っても居るので、本店が国道沿いの大路
交差点近くにあることは知っていた。

 草津宿に入る前、国道1号線を越える「草津宿橋」を渡った折躊躇っ
たが、宿場に入ればどこかにあるのでは?と淡い期待をかけてきた。
往復すれば1㎞余もコースを逸脱するのが嫌だったからである。



 近江源氏・佐々木義賢が信長に滅ぼされ、その一族も各地に散在を余
儀なくされた。その中に義賢の三歳になる曾孫もいて、滅ぼされた際、
乳母である”福井との”を招き、ひそかに後事を託したと言う。



 乳母は郷里草津に身を潜め、幼児を抱いて住来の人に餅をつくっては
売り、養育の資として質素に暮らしていると、周囲の人たちは乳母の誠
実さを感じて、誰いうことなく「姥が餅」と言いはやした。
その形は、乳母が幼君に奉じた乳房を現わしたものと言われている。



 こうして永禄年間(1500年代)に「うばがもち」は誕生し、以来400
年以上、草津宿の名物として知られた餅菓子となった。

 予定の歩きを終えた帰り際に、草津駅に立ちよるより仕方なさそうだ。
それまでもう一つの草津名物はお預けだ。(続)





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草津名物「はこずし」(東海道歩き旅・近江の国)

2024-04-22 | Weblog

 昼には少し早いが、ここを逃がして喰いそびれるのも嫌で、何所か手
頃な店を、と捜しながら歩いて来たら、「草津名物 はこずし」と書か
れた幟旗を掲げた店に出会した。

 草津宿本陣からは幾らも歩かない場所に有り、「老舗 寿司清」の看
板が掲げられている。



 躊躇わず暖簾を分けて入ると、昼の営業時間が始まったばかりの11時
を少し過ぎた頃なのに先客が一組いた。草津では評判の有名店らしい。
店内の左側にカウンター席が数席あり、右側はテーブル席と小さな個室、
二階には広間もあるようだ。



 創業から80年を誇る老舗の寿司屋で、「全国すし技術コンクール」で
金賞を受賞した店主が切り盛りしている。
夜は兎も角、昼はランチのセットメニーを取りそろえているので、気軽
に利用できる店のようだ。



 この店の「はこずし」は、関西特有の押しずしから来ているそうだ。
押し寿司はバッテラや箱寿司の総称で、はこずしは京都吉田神社の「鈴
鹿家のこけら寿司」からきているらしい。

 この店のものは、京都祇園祭で有名な「鱧ずし」を、何とか安価に提
供出来ないか、創業者が苦心の末開発し、昭和12(1937)年頃から始め
たものと言う。



 鱧は骨切りにして、独自のタレを付け焼き上げ、皮を剥ぐ。
型枠に御飯を詰め、そこにこのつぶした鱧を乗せて、型枠で押し抜き、
一口大に切り分けたものにタレを塗り、炙った芥子の実を振りかけ提
供される。



 一見すると穴子のようだが食感はまるで違い、鱧は口当たりも良く淡
泊で、甘辛いタレと共に口の中でとろけていく。
添えられたガリも、自家製であろうか、甘酸っぱくて美味しかった。
評判通りの店である。(続)





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草津宿本陣(東海道歩き旅・近江の国)

2024-04-19 | Weblog

 京に向う東海道は「草津追分け」を左に曲がる。
そこは会社・事務所、商店や食事処に、アパートやマンションが渾然
と建ち並ぶ繁華な通りである。

 余広くない道ながら多くの車が行き交い、地元の人のみならず観光
と思える人の群れも見られる賑やかな道だ。
東海道の旧宿場町というよりは、華やかな商店街筋の様相である。



 「近江路や 秋の草つは なのみして 
        花咲くのべぞ 何処ともなき  覧富士記」



 公民館前に、「尭孝(ぎょうこう)法師歌碑」が立っている。
「将軍のお供で、富士を見に行く途中、秋の近江路を草津まで来たが、
草津とは名ばかり、草花が美しい野辺を想像していただけに心寂しい
思いがする」との意味らしい。



 斜め先に「田中中七左衛門本陣」、別名「木屋本陣」(当主が材木商
を営んでいた)が残り、草津宿本陣として有料で一般公開されている。
 敷地は4727平方メートルという広大なもので、建物面積1706平方メー
トル、部屋数39という。



 昔のままの遺構が残り、現存する本陣としては最大クラスと言われて
いる。表門や御除門、式台付きの玄関を初め、書院造りの内部には上段
の間、各種の広間や湯殿が残されているらしい。



 当時の貴重な資料も多数あり、その中の大福帳には吉良上野介や浅野
内匠頭、皇女和宮や土方歳三、徳川慶喜、シーボルト等の有名人の名が
見られると言う。



 本陣は寛永12(1635)年に創建されたが後に焼失した。
その後、膳所(ぜぜ)藩主・本多家の「瓦ヶ浜(かわらがはま)御殿」
を拝領し移築したものといわれている。(続)



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草津宿の追分け(東海道歩き旅・近江の国)

2024-04-17 | Weblog

 東の見附から500m程、ゆるく下っていくとT字路に行きあたる。
東海道はここを直角に左に曲り東に向かうが、右手に取り北方向に向か
えば中山道に入りその起点である。
 
 江戸日本橋まで、中山道経由で128里30町7間(約505.9㎞)、東海道
経由なら118里3町(約463.7㎞)の草津の追分けである。



 昔は京から東海道を下り草津宿に入ると、正面の草津川で行き止まる。
中山道を行く旅人は、ここで川の土手を登り、板橋で川を越え、「京発
守山泊り」と言われた次の宿場・守山を目指していた。

 川の土手の下に木製の道標が立っていて、「草津宿高札場」と書かれ
ている。ここは嘗ての追分けの高札場であり、高札が復元されている。



 今日T字路の右に見えるトンネルは、「草津川トンネル」である。
「中山道筋草津川ずい道」として、工事費7368円14銭9厘で着工され、
翌年の3月、僅か四か月という突貫工事の末完成した。
 アーチ式の煉瓦両側石積み、長さ43.6m、幅4.5mの隧道で、明治18
(1886)年12月の事である。



 天井川による洪水災害の防止をはかる治水工事と共に、中山道筋の川
越えルートを解消するため掘られたトンネルだ。
是により中山道の川越は廃止され、東海道と中山道が平面的に分岐する
追分けが完成した。



 トンネル口の脇、旧草津川の土手下には、古い道標が残されている。
「右 東海道いせみち」「左 中山道美のじ」と墨書された追分の道
標で、高さは一丈四尺七寸(凡そ4.45m)もある火袋付きの大きな常
夜灯だ。



 これは東の見附・横町で見た道標と同時期の、文化13(1816)年に
建立されたものだ。
 江戸や大阪を始め、全国の飛脚仲間、問屋筋の人々の寄進によるもの
と言い、市指定の有形民俗文化財となっている。(続)





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草津宿(東海道歩き旅・近江の国)

2024-04-15 | Weblog

 旧東海道は草津川渡り、堤防下の道に入り、東海道52番目草津の宿
場町に入ってきた。旧道らしい趣のある通りで、左程古くはなさそう
だが、平入りの格子のある町屋等が幾らか見受けられる。



 旧道沿いの家跡や家屋の玄関先には嘗ての家号「茶碗屋 茶碗屋民
蔵」「博労 うおヤ 弥七」「通り水屋 平井屋孫八」「油屋 油屋
留八」「旅籠 昆布屋徳右衛門」「材木商 木屋忠蔵」などと書かれ
た札が掲げられているが、遺構は何も見ることが出来ない。



 東海道と中山道の追分けでもある草津宿は、「客舎、茶店多し」と言
われていた。先程の草津川入口が東の見附でその先、東横町、西横町1丁
目~6丁目、宮町と続き、西方の矢倉村との境の西の見附までの間、11町
53間半(凡そ1.3㎞)に渡る町並だ。
宿場としては、可成りの規模を誇っていたらしい。



 宿内の人口は2350人を越えている。
五百文と言われる「遊女が多い」らしいが、男女はほぼ同じ数である。
家は586軒、本陣と脇本陣が各々二軒有り、旅籠の数は72軒を数えてい
るから東海道の宿場の中では、可成り多い方だ。



 現在の草津市は滋賀県の南西部にあって、県庁所在地の大津市に次ぐ、
人口15万人余を有する県下第二の都市である。
 嘗ては東海道と中山道の追分けが有り、交通の要衝であった。
近年ではJR琵琶湖線(東海道線)や草津線等の鉄道が通り、国道1号を
始め名神高速道路や新名神高速道路等、日本を東西に結ぶ陸上交通網を
有している。



 京都や大阪へは、鉄道の利便性が高く、草津駅や南草津駅の利用者は、
大津駅を遙かに凌いでいる。
昨今駅を中心に、マンションなどの建設も進み、京阪神地区のベッドタ
ウンとしてめざましい発展を遂げている。(続)





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横町の道標、常夜灯(東海道歩き旅・近江の国)

2024-04-12 | Weblog
 

 草津宿橋を渡り、旧草津川の堤防上に設けられたアスファルト道を進
むと平地化した跡地公園で、更に進むと公園の有料駐車場に突当たる。
前方には駅前に屹立する、大きなビルが何本も臨まれる。
このまま公園内の遊歩道を進めば、草津の中心街、駅前に至るが、旧東
海道は左に取りこの堤防を下りる。



 その左側の降り口に近い旧堤防上と思われるところに、「高野地蔵尊」
の地蔵堂がある。
傍らの石柱には「昭和10年」の日付が入れられているが、他に説明がない
のでどんな曰くでこの地に残されたお堂なのかは分からない。
何となく場所がそぐわない、唐突に置かれた祠のような感がする。



 その近くの少し高くなったところに横町の道標、火袋付きの大きな常
夜灯が立っている。文化13(1816)年に建立されたものだ。
土台の石柱には、「右 金勝寺 志がらき道」「左 東海道 いせ道」と
掘られている。



 草津川には大名の通行以外仮橋も架けられる事が無かったらしい。
常夜灯はそんな足元を照らし、地蔵尊も昔からこの地に有って、草津川
を徒渡りする旅人を優しく見守り続けて居たのであろう。

 ここからは旧草津川に沿って、堤防下に細いやや下り気味の旧道が見
えていて、この辺りがどうやら江戸側の入口、東の見附跡らしく、東海
道は52番目の宿場・草津に入ってきた。



 草津の中心市街地だけに、余広くはない道ながら交通量が意外に多い。
通りには最近建てられたモダンな住宅も多く、屋根越しには高層マンショ
ン等も望まれる。

 それらに混じり、旧道ならではの景色も見ることが出来る。
昔ながらの格子をはめた軒の低い土壁の二階屋、旅籠風のガラス窓の家等
も幾らか残されているのが良い。(続)





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草津宿橋(東海道歩き旅・近江の国)

2024-04-10 | Weblog

 国道1号線の手前で、左の堤防に上がり、国道と旧草津川を越える。
国道上の東海道には、平成31(2019)年に真新しい「草津宿橋」が架
けられている。
嘗てこの下には、天井川を潜る国道の「草津川隧道」があった場所だ。



 昭和11(1936)年、堤防から10m程低い川床に、延長53.1m、高さ
4.7m、幅9.5mの隧道が造られ、単線並列通行が行なわれていて、当時
はまだトンネルの上には旧草津川が流れていた。
 その後の交通量の増加に伴い、昭和41(1966)年には道路の拡幅工事
と共に、長さ56.0mの「第二草津川トンネル」が開通した。



 治水対策として天井川の解消が事業化され、新しい草津川放水路が掘
られることになる。完成後旧草津川は廃川となり、川跡が平地化され、
緑地や公園へ転用が進んだ。加えて「草津川隧道」は道路構造上の基準
を満たさず、此までは特例として使用が続けられてきたらしい。



 その為道路の改造が必要となり、トンネルを撤去して、新しく都市計
画道路を通すことが決められた。
両側に歩道も整備され、片側二車線、中央分離帯も二車線分ほどもあり
そうな、広々とした幹線道路である。



 道路の改造に伴いそれと交差する堤防上の東海道の道筋も整備され、
新たに架けられたのが、「草津宿橋」である。 
 旧街道の架け橋をイメージしたものか、落ち着いた黄色に塗り込めら
れた橋で、欄干は若干低目なようだ。歩行者には充分だが、自転車だと
若干低く感じるのではないかと思える高さである。



 目の下は草津の中心部、大路三丁目の交差点で、乗用車やトラックが
激しく行き交っている。
ここを西向きに曲がれば正面がJR草津駅である。(続)





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草津川(東海道歩き旅・近江の国)

2024-04-08 | Weblog
 街道筋には、アパートやマンションも増え、草津市に入ってきた。
余り広くはない旧道には行き交う車が増え、はや前方には中心市街地
の高層ビルも見えている。左手は、廃川となった旧草津川の堤防だ。



 草津市を流れる草津川は、大津市南東部の鶏冠山(標高491m)西麓
を源流として、琵琶湖に流れ下る淀川水系の一級河川である。

 江戸時代中期の頃より天井川が形成され始めたらしく、明治には川底
に国道のトンネルが通されていることから、短期間の内に一気に形成さ
れたものと考えられている。



 これまで見てきた天井川は、都で社寺の造営が急速に進み、大量の樹
木を伐採したため、土砂の流出が進み、天井川化したとの説明を目にし
てきた。
しかし、草津川流域は元々風化した花崗岩地で、大雨の度に多量に土砂
が流出したらしく、若干事情は異なるようだ。



 とは言え堤内地盤から河床までの高さが約5mもある危険な天井川は、
大雨ともなると、川筋の田畑に多大な洪水被害をもたらす。
その為川を平地化し、琵琶湖までの5.5kmに新たな放水路を整備する治
水事業が行われる事になった。



 金勝川と合流する同市青地町~御倉町の間、7.2 kmを掘削し、その間
の小規模な天井川を統合或は廃川していく計画だ。
これが「草津川放水路事業」で、昭和57(1982)年から始まった。

 工事は順調に進み、平成14(2002)年には、新たな放水路の開削工事
が終了し通水試験が行なわれ、旧草津川は廃川となった。



 工事完了の7年後に新川の管理が滋賀県に移され、「草津川放水路」は
完成を見た。 廃川により生まれた広大な空間は、延焼阻止の緩衝緑地や、
市街地に残存する貴重な緑地として公園化や観光農園化が進み、市民の憩
いの場となっているという。(続)





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