簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

琵琶湖疎水(東海道歩き旅・山城の国)

2024-09-30 | Weblog
 旧東海道は三条通りを歩き、左カーブしながら坂を下り蹴上を抜けよ
うとしている。カーブの少し手前進行方向右側の地下鉄東西線蹴上駅の
近くに「青龍山 安養寺」「式内 日向大明神」と刻まれた石柱と鳥居
が建っているのが見えた。



 石畳の参道が、背後の森に向かって延び、その右側に並ぶ民家なのか、
どの家も玄関前に小さな坪庭の様なものを拵え、良く手入れされた花木
が植えられている。

 嘗てこの辺りでは、日向大明神伊勢神宮遙拝所に向け手を合わす旅人
も多く、それ目当ての茶店が建ち並び、随分と賑わったと言われている
ので、その名残かと思って見たりもする。



 暫く上っていくと広場のような所に出て、正面に10段程の石段が見え、
その上に大神宮橋という石橋が架かり両側に大きな常夜灯が立っていた。
ここから先が「式内 日向大明神」の社域らしく、参道がご神体山に向
けて延びているようだ。



 傍らに有名な「蹴上のインクライン」の説明板が掲げられている。
橋は川に架けられたものでは無く、琵琶湖疏水を越す為のもので有った。
琵琶湖疏水は、都が東京に移り、急激に衰退していく京都の活性化策と
して開発された。



 水量豊かな琵琶湖と宇治川を、疎水を開削する事で結び付ける。
この間に舟運を開くと同時に水力、灌漑、防火などに水を利用する。
更に西陣織等の産業振興、しいては国の近代化を急ごうとの試みだ。



 当時、疎水工事の御用掛(工事責任者)に選ばれたのが、工部大学を
出たばかりの田邊朔郎であった。
これまでの大きな工事は、外国人技師に委ねていたが、これが日本人の
みの手による最初の近代的な大土木工事となった。(続)





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蹴上(東海道歩き旅・山城の国)

2024-09-27 | Weblog


 昔から「蹴上(けあげ)」という、一風変った地名が気になっていた。
調べてみると、粟田口には刑場があり、処刑を拒む受刑者を蹴り上げなが
ら無理やりお仕置場まで連れて行った事に由来するとの説が有るらしい。



 もう一つ源義経に纏わる「泥水蹴り上げ」伝説も残されているようだ。

 義経がまだ「牛若丸」と名乗っていた頃、金売り商人・吉次に連れら
れ奥州の平泉に旅立つ途中この日ノ岡峠に差し掛かったところ、たまた
ま平家の侍・関原興市重治(せきはらよいちしげはる)と出会った。
ところが一行が乗った馬が誤って水溜まりの水を牛若丸に蹴り掛けた。



 晴れの門出を泥水で汚されたにも関わらず、誤ることなく通り過ぎた
一団の無礼に怒った牛若丸が、その侍主従9人を切り殺してしまった。
 一時は激高したがその後、冷静になると軽率な行いを悔いて、九体の
石仏を作って弔ったという。また一説には見かねた村人が弔ったとも、
義経に頼まれた村人が弔ったともいう。



 その後九体の石仏はバラバラになり、その内六体は所在が分からなく
なったが、三体は今日まで残されているらしい。
そのうちの一体は、先ほど三条通り沿いの民家の脇にへばり付く用に建
っていた地蔵堂の地蔵で、中には赤い前掛けの地蔵尊が祀られている。



 もう一体は南禅寺近くの疎水脇、本願寺水道水源地の「義経地蔵(義
経大日如来)」がそれという。
また最後の一体は、東山ドライブウェイの入り口辺りにある。
嘗てこの辺りには、「九躰町」と言う地名が残されていたらしい。(続)





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粟田口・刑場跡(東海道歩き旅・山城の国)

2024-09-25 | Weblog


 旧東海道(三条通り)も九条山に差し掛かり、日ノ岡越えも最早ピー
クが近い。東山ドライブウェイと立体交差の辺りに、「粟田口刑場跡」
と書かれた大きな看板があった。

 その手前の崖の上には、「萬霊供養塔」「南無阿弥陀仏」と刻まれて
いるらしい二基の石碑も有ったが、草が生え過ぎ、道も定かではなく近
づけなかった。



 ここが江戸時代以前より設けられていた、京で最大級の「粟田口刑場
跡」である。天王山の戦いに敗れて殺された明智光秀の遺体が晒された
場所と言い、又京都居住のキリシタンもここで処刑された。

 江戸時代にも毎年3回程この地で公開処刑、磔(はりつけ)、獄門、
火刑が行なわれた記録が残されているらしく、その数1.5万人にも及ぶと
言われている。



 刑場は明治維新後に廃され、明治5(1872)年にはこの刑場跡地の後
山中腹に「粟田口解剖所」が設けられた。
ここでは刑死した4名の解剖が行なわれ、多くの医師がその様子を参観し
短期間ではあるが、近代医学の発展に寄与した場所とされている。



 こうした事から刑死者供養として、京都の各宗派寺院がこの地に供養
碑を建てたという。幕末頃には15基にも及ぶ供養碑が有ったらしいが、
明治の廃仏毀釈によって撤去され、石材として道路側溝の蓋石などに転
用されたといい、僅かに残されたのが先ほど遠望した二基の石碑である。



 この先には、晒し場であった三条川原もあり、品川宿に近い「鈴ヶ森
刑場」を始め、当時大きな街道筋にはこうした刑場が置かれていた。
人通りの多い場所に設けることで、一罰百戒の見せしめ、犯罪抑止の場
とも成っていたようだ。(続)





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車石広場 (東海道歩き旅・山城の国)

2024-09-23 | Weblog


 北花山の交差点で三条通に合流し暫く行くと、左に小公園があった。
平成9(1997)年、京都市営地下鉄東西線の開通に伴い京阪電鉄は、
御陵駅から三条駅の間が廃線となり、同線に乗り入れることとなった。
廃線後軌道敷を利用し、三条通りの四車線化と歩道の整備がなされた。



 完成記念の一環で整備されたのがこの公園で、三条通に敷設されてい
た「車石」や、牛車や大八車に見立てた台車に積まれた米俵等がモニュ
メントになった。近くには「京阪 九条山」のバス停も有り、ここには
嘗て京阪九条山駅があったらしい。



 江戸時代、幕府は物資の運搬のための馬車や牛車などの使用は原則禁
止していた。ただ江戸や駿府の町中等は、例外的に認められていたが、
東海道の大津と京の間も例外の一つとして認めていた。

 この間は物資輸送の要衝で、年間一万五千もの牛車が通行する。
ところがここには、逢坂峠と日ノ岡峠の二つの峠があり、雨が降るとぬ
かるんで牛車の通行が大変困難であった。



 当時としては、画期的な舗装工事が行なわれるのは、文化2(1805)
年の事だ。凡三里(約12㎞)の間に、「車石(輪型石)」と呼ばれる花
崗岩の厚板石が敷き詰められたが、この車石は明治9(1876)年、東
海道の道路改修完成の時まで使用されていた。



 道路が石敷に改修されたとは言え、開通したのは一車線に限られていた
ため、一方通行である。京に向かって右側が車石の敷かれた牛車道、左側
は安全を考慮して一段高くした人馬道と成っていて、上り下りで時刻を分
けて使用していたようだ。
これにより、牛車や馬車での運搬も、人の往来も随分と楽になった。(続)





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街道の付け替え(東海道歩き旅・山城の国)

2024-09-20 | Weblog

 東海道の時代大津宿を出て始まる逢坂峠と、この辺りの日ノ岡峠は、
大津から京に到る間の二大難所と言われていた。
 特に日ノ岡峠は急な勾配が長く続く事と、雨でも降ればぬかるんで、
ここを通るほか無い旅人や牛馬を苦しめてきた。



 この辺りにも1700年代初め頃には車道が整備されたらしい。
木食正禅上人(もくじきしょうぜんしょうにん)は、享保19(1734)年
頃から峠道の改修に取りかかり、峠の頂上を掘り下げ、その土砂を坂道
に敷いて段差を無くし、ゆるやかな勾配にするなど工夫した。
元文3(1738)年に工事を完成させている。



 幕末の慶應年間には、それでも急峻な日岡峠を通らずに迂回する新道
を付けるという街道付け替え工事が実施された。
それが今日の三条通りの前身らしい。

 更に明治8(1875)年から始まった道路改修工事で、1里19町51間
(約6km)の間を高低が平均するようにし,最高地点では1丈1尺4寸
(約3m強)も低くした。



 地理院地図で確認すると現在の標高は、大津札の辻が100mで、以後
上り始め京阪大谷駅辺りが170mでサミットを向かえる。
その先月心寺で143m、髭茶屋追分けで108m、四ノ宮駅前で67m、山科
駅前で63m、更にスズメ坂で50mまで下る。



 そこから再び上り初め、天智天皇陵前で52m、旧東海道に入り日ノ岡
の大乗寺で83m、光照寺の先辺りがピークの100mでこの先下りながら
三条通りに合流する。

 一方新道はJR線を越える辺りが50mで、御陵駅前辺り58m、旧東海
道と合流する辺りで86m、九条山バス停辺りが97mでピークとなるが、
総じて道は滑らかだ。



 改修の記念碑が三条通りに建てられている。
ここを越えれば最早難所はなく、京都盆地を望ながら、三条大橋の標高
42mを目指して下っていく。(続)





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日ノ岡峠越え(東海道歩き旅・山城の国)

2024-09-18 | Weblog
 鈴鹿を超えもう「難所」は無いと思っていたが、まだまだ難所はあった。
日ノ岡峠越えの山登りのような厳しい上り道もこの辺りまで来るとサミッ
トで、ここからはほぼ平坦道を経て緩く下っている。



 左側に法華宗・大乗寺があり、長く急な石段が山に向かって延びていた。
門前に寺の謂れ書きがあり、それによると江戸時代にはここにはなかった
お寺で、昭和55 (1980) 年に上京区鳳瑞町からここに移転した後、無住寺と
なり荒廃していたとか。


 
 平成4(1992)年以降から復興が進められていると言う。
寄贈された酔芙蓉が植えられ、今では1500本も群生する「酔芙容の寺」と
して知られている。



 その先には浄土宗・光照寺があり、大乗寺と比べると一段緩やかな石
段が、緑豊かな崖の上に向かっている。
行基菩薩が草創され800年の歴史ある寺らしい。



 その先には、「天道大日如来」と記された提灯が吊るされている小祠
があり、内にお地蔵さまのような石仏も安置されている。

 さらにゆるく下りながら行くと、右側の新道・三条通りを見通せると
ころに、小さな広場があった。
旧東海道と刻まれた石柱と灯篭が立てられていて、日ノ岡峠道の案内板
が掲げられていた。



 その向かいは、金木犀の根元に「150years house」の看板が掲げられ
た古民家風の建物が有った。
玄関わきには、「栄花山荘」の木札が張り付けられている。



 軒下の板塀には「山科牧畜場牛乳搾取所」と書かれた白い板が下げられ
ていて、廃業した牧場の跡、旧長谷川家の住宅らしい。
「京都府立病院御用達」と書かれた牛乳箱から推察すると、牛乳は病院に
納品され大得意であったようだ。(続)



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亀の水不動尊(東海道歩き旅・山城の国)

2024-09-16 | Weblog


 これが旧東海道なのか、確証も無いまま半信半疑の状態で、緩い坂を
上りながら小さな川を越えるとようやく「旧東海道」の表示が見付かり、
やれやれである。

 そのまま道なりに進むと、旧道は可成りの急勾配に成り、その途中に
「亀の水不動尊」の表示があり、左の崖の上に紫色の幟旗が何本も建て
られていた。



 左折して坂を更に上ると、山際に細い道が住宅地の方に延びていた。
幟旗の立つ辺りには、石積みの基礎のようなものが見られ、その脇には
旧道から直接上ることの出来る石段が延びている。
この辺りでは無いか・・・、と言う雰囲気は感じられるがそこに施設は
何も無く、周辺は荒れ地で一段と低い所はゴミ捨て場状態になっている。



 もう少し先かと思い、暫く道成りに歩いてみたが、それらしい物は何
も見当たらない。余り深入りも出来無いので、先に車の行き来する少し
広い通りが見えたところで引き返す。
見落としたのかも知れないと、今来た道を引き返したが、結局何も見付
けられなかった。



 ここには、日岡峠を越える人々の渇を癒やすために飲料水として設け
られた「亀の水」が有り、亀の口から「量救水」と称す水が提供されて
いたらしい。水神様として不動尊が安置された「旧木食寺(梅香庵)」
が有ったらしいが、どこだか見付けられないまま諦めて先を急ぐ。



 近くの道路際のフェンスの中に、古めかしい石の道標が大小二本残さ
れていた。大きい方は「右 明見道」と刻まれているようで、京都山科
の大塚の日蓮宗・妙見寺への道案内に立てられたものだ。

 低い方の道標には「右かさんいなり道」と書かれているらしく、これ
も京都山科の西野にある花山稲荷神社への案内で、この社は忠臣蔵で有
名な大石内蔵助に所縁が有るらしい。(続)





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街道の難所 (東海道歩き旅・山城の国)

2024-09-13 | Weblog

 広辞苑によると「難所」とは、「けわしくて往来に困難な所」と書か
れている。厳しい峠越えの道を思い浮かべるが、山道に限らず川越えや
海際の道でも、意外な事に平坦地でも難所と言われるところは存在した。



 由比と興津宿の間の薩田峠は、山塊が海に落ち込む地点で、峠越えの
道が整備されるまでは、潮の干満を見計らい海際の浜を駆け抜ける、海
際の難所として知られていた。親は子の、子は親を構ってはいられない
過酷な地だ。北陸街道・糸魚川海岸の「親知らず子知らず」は、今でも
良く知られている。



 又ごく普通の平地でも、地盤が軟弱な泥沼地帯や湖沼地帯等は、当時
の往来では難所の一つであった。西国街道の片上と藤井宿の間にある沼
地区は、東西2㎞、南北1㎞にも及ぶ広大な沼沢地で、近世整備された
街道は大きく南に「コ」の字を描いてこれを避けている。



 東海道でも生麦地区は、雨でも降ると泥地がぬかるみ歩行に困難を来
たし、貴人が通行する折には植えられた麦を刈り取って道に敷き詰めた
と言われ、これが地名の謂れとされる。

 ぬかるむ地盤は箱根の西坂も同じで、こちらは自生する箱根竹を刈り
取って束ねた物を敷き詰めたという。



 東海道に伝馬制がしかれる以前の東海道は、尾張と美濃の国境を伊勢
湾に流れ下る、木曽・揖斐・長良の所謂木曽三川を如何に超えるかも頭
を悩ませていた。
時代が遡るほど上流域で越えており、この辺りは言わば川の難所である。



 結局ここでは、川を避け海上七里の船渡しが採用され、これが正式な
ルートとなった。
 一方で橋の無い大井川は、「越すに越されぬ」と言われる難所として
何時の時代も旅人を苦しめてきた。
このように嘗ての街道には、「難所」言われるところが何カ所もあった。(続)





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 地名の由来(東海道歩き旅・山城の国)

2024-09-11 | Weblog


 「御陵」と言う地名は、鉄道の駅名やバス停にも頻りに使われている。
「御陵」は「ごりょう」とも読むが、当地では「みささぎ」と読む。
「陵」は天皇・皇后・皇太后・太皇太后の墳墓の事で、この地名は勿論、
天智天皇の山科御陵がある事に由来している。



 「陵ケ岡 みどりの径」を道なりに進むと、再び三条通に合流する。
角に「天智天皇山科御陵」の碑があるが、ここは京阪京津線の御陵駅の
跡地で、天皇陵への最寄り駅を示す石柱らしい。

 公園のネコ達に気を取られ、道なりに歩いて三条通り来てしまったが、
ここは旧東海道からは外れている。



 地図で確認し150m程引き返し、アスファルト道との交差点を右折する。
角に小さな地藏堂があり、これが旧東海道らしくこの道を見落としていた。
この辺りは、「御陵下御廟野町」と言い、随分と狭い道の両側に民家が建て
込んでいる。



 道は段々に上り坂と成り、「日ノ岡ホッパラ町」辺りからは、本格的
な登山のような厳しい上り坂に転じていく。
ホッパラ町とは、随分と変った町名で、興味を引きネットで調べてみる
と地名の由来が紹介されていた。



 東海道日ノ岡峠を整備した際に出た大量の土砂を、この辺りに放り出
したことから、ほっぽりだしたを「放土原」の漢字を当てるように成り、
何時しか「ホッパラ」と呼ばれるようになった。



 もう一つの説は、近くの九条山に刑場があって、斬首刑となった罪人
の遺体を、この辺りに掘って埋めた原っぱの「掘原(ほりはら)」が訛
ったと言う説である。(続)




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陵ケ岡 みどりの径(東海道歩き旅・山城の国)

2024-09-09 | Weblog

「天智天皇山科御陵」の入口付近に、垂直型日時計がある。
天智天皇が水時計(漏刻)を作り、時刻制度を定めたことに因み地元の
時計商組合が、昭和13(1938)年に建立したものという。



 読めなかったが正面上部には、「天恩無窮」と刻まれているらしい。
本来は「天地供に永遠に極まりなく続く」と言う意味らしいが、転じて
「天子(天皇)のご恩は極まりない」という事を言い表しているという。



 御陵前の横断歩道を渡ると、「陵ケ岡 みどりの径」という公園風に
整備された散策路があり、入口に冠木門が建てられていた。
平成14(2002)年に整備された遊歩道で、導かれるように入っていった。



 石畳が敷かれ、カラー舗装された径は、緩やかに曲がり、木々の茂る
中を延びていて、整備・清掃の行き届いた綺麗な小径だ。
 時折地元の人達とも行違い、散歩道にも成っている用だ。
すぐ横を幹線道路が並行しているにも拘わらず、道沿いの建物に遮られ
るのか、車の喧噪はここまでは届かない。



 途中、何匹かのネコが、静に道端で微睡んでいた。
人が近づいても警戒心も無く、怖じ避けることも無く、まるで無視した
かのように動かない。先に進むと更に数匹たむろしていた。
一方では、縄張り争いでもしているのか、追いかけ走り回るネコもいて、
飛びかかれやしないかと気が気でない。



 ここは野良ネコの縄張り内、住処のような溜り場で、人間にはお構い
なしらしい。夥しい数なので、鳴き声や糞尿の苦情はないのか、他人事
ながら気になった。
 園内には、ネコに対して適切な餌やり命令が告知され、罰則も書かれ
ているので、色々問題も起きていたのであろう。(続)





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