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簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

玉野市電の誕生(玉野市電廃線跡を歩く)

2025-03-31 | Weblog


 「備南電気鉄道株式会社」から「備南電気鉄道」の譲渡を受けた玉野
市は昭和31(1956)年3月24日「玉野市営電気鉄道」を発足させ、これ
まで通り鉄道の継続運行に乗り出した。
 市民からは「玉野市電」と呼ばれたが、「市電」と言っても所謂路面
電車ではなく、れっきとした地方鉄道法に基づく総延長4.7㎞の鉄道線だ。



 住民のニーズを満たせず乗客が増やせなかった前時代を教訓に、市は
積極的に乗客を増やすべく、次々と新駅を開業させている。
玉野保健所前、大聖寺前、西小浦、広潟などだ。
 路線は前の会社時代に玉から玉橋間0.2㎞が延伸されていたが、その
後も玉遊園地までの1.0㎞を延伸させ終点までを14分で結ぶようにした。



 更に運行本数を安定的に確保する為に、途中の古塩浜に列車の行違い
が出来る古塩浜信号所を開設した。またこの頃の宇野線電化に伴い宇野
駅改良工事が行なわれ、これに合わせ宇野駅ホームへの乗り入れも実現
させている。電車をやめ、気動車を導入する改善も行なった。



 このように当初玉野市は、駅の増設や路線の延長等、積極的な投資・
経営のテコ入れを行い経営の改善に努めてきた。その甲斐あって通学や
三井造船等への通勤などの需要に支えられていた。それでも経営は依然
として厳しく赤字続きで、収益を上げるまでには到らなかったようだ。



 追い打ちをかけるようにモータリゼーションの波が押し寄せ、道路整
備と供に周辺地域にバス路線網が敷かれ、マイカーが普及すると、鉄道
は持ち堪えることが出来なくなった。

 昭和47(1972)年3月31日全便無料のさよなら運転が行なわれ、市民
に惜しまれつつ翌日その短い歴史に幕を下ろした。(続)





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備南電気鉄道の開通(玉野市電廃線跡を歩く)

2025-03-28 | Weblog


 宇野線が開通し、宇野港が開かれ、国鉄の宇高航路に加え民間の貨物
フェリーも運行した。更には宇高国道フェリーの開通等で益々の繁栄を
見た、港町・宇野地域の交通を語る上で欠かせない鉄道がある。

 昭和28(1953)年に「備南電気鉄道株式会社」が、宇野駅から玉駅
間で開業させた「備南電気鉄道」の存在である



 宇野港が立地する玉野市の玉地区(当時は児島郡日比町玉)には、三
井物産・造船部が大正時代から立地していた。昭和に入ると、三井造船
株式会社(後に三井E&S造船)と商号を変え、太平洋戦争中には、海軍
の各種軍用艦の建造に携わっていて、国鉄宇野駅からは工場に向けて専
用の引込線が引かれていた。



 その後終戦を迎えると、戦前から行っていた艦艇事業は譲渡し撤退、
現在では船舶用ディーゼルエンジンといった船舶分野から、発電・化
学プラント等、エンジニアリング事業を手がけるようになるが、専用
引込線はそのまま放置されていた。



 備南鉄道はそこに着目、それを有効活用し、まずはレールを整備して
宇野~玉(3.5㎞)に旅客用鉄道路線を開業させた。
 将来的には玉から延伸し、渋川を経由して児島、更には水島まで達す
る計画であったが、会社は開業前から資金難に苦しめられていた。



 資金難であるが故に既存の専用線を活用して開業はしたものの、路線
は市街地を大きく迂回して敷設されていた為、残念ながら市民のニーズ
を満たすことが出来ず、乗客はじり貧である。



 当初はこの路線で営業利益を得て、それを投じて路線を延伸する計画
であったが、その目論見は見事に外れ、利益を上げるどころか赤字の連
続で、結果鉄道事業は玉野市に譲渡されることになる。
(写真:宇野線各駅の風景)(続)




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宇野港 栄華の時代(玉野市電廃線跡を歩く)

2025-03-26 | Weblog


 国鉄の「宇高連絡航路」の盛況を受けて、昭和36(1961)年には、
民間の旅客フェリー「宇高国道フェリー」が新たに参入する。

 この時児島湾の干拓事業は既に竣工し、岡山市と香川県の高松市を結
ぶ「一級国道30号線」は開通していて、フェリーが瀬戸内海の海上部を
担う事で、岡山市内から高松市内まで自動車での移動が可能となった。



 フェリーは24時間運航で、「昼も夜も19分ごと、待たずに乗れる」
がキャッチコピーで、最盛時は68往復/24時間であった。
 就航する各船も豪華さを競い、テレビの搭載は当たり前、デッキに
噴水の装飾を施し、船内にはエスカレーターを導入したり、中には浴
室を備えた船まで現われた。



 一方開業60周年を迎えた宇野線には、特急・うずしおや、急行・砂丘
しんじ、寝台急行・鷲羽、瀬戸等が乗り入れていた。
 昭和47(1972)年3月15日、新大阪と岡山間に待望の山陽新幹線が
開通すると、「宇高連絡航路」には「海の急行便ホーバークラフト」が
投入される。これまでの連絡船が凡そ1時間かけていたところを、僅か
23分で駆け抜けるようになる。



 宇野港の整備も順調に推移し、昭和30(1955)年には第一突堤が完
成している。これにより8000トン級の船舶の接岸が可能となり、入港
船の延べ数は以後10年間で凡そ2.7倍となる急成長を見ることになる。



 新幹線開通と同年には、岡山から「特急・やくも」が山陽本線、伯備
線経由で一日4往復投入され、岡山から宇野を軸とする南北の「陰・陽
・四」の連絡幹線路が形成された。



 嘗て明治の先駆者達が、「宇野に港を築けば新たな交通の要衝になる」
と、築港に情熱を燃やした先見の明は、これで証明されることになる。(続)



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宇高連絡船(玉野市電廃線跡を歩く)

2025-03-24 | Weblog
 岡山県の宇野と香川県の高松を結ぶ「宇高連絡船」は、海上11.3海里
(21.0㎞)の鉄道連絡船である。明治42(1909)年に港が開港、翌年
宇野線が開通すると時を同じくして運航を始めている。
以来長年に渡り、本州と四国を結ぶ大動脈として機能してきた。



 宇野港は昭和5(1930)年2月7日に、県下では初めて「開港場」に指
定された。これは、通商・貿易の為に外国船に開放される港の事で、同
年の7月に中国大連間に定期航路が開設され「照國丸」が就航している。
 戦後の復員兵や引き揚げ者などの運搬では大活躍したが、次第に衰退
し後に撤退している。



 一方宇高航路は順調で、当初は玉藻丸や児島丸が他の航路から転属
され運行していた。玉藻丸には船内売店が開かれ、ビフテキ20銭、フ
ライ15銭、ビール24銭等、洋食が評判を呼んだという。
又国内航路では初めて船内にランプに変る電灯の照明が採用された。
戦後になると、紫雲丸型と呼ばれる新鋭船三隻も投入されている。



 昭和25(1950)年になると、連絡船は貨車に留まらず、本州と四国
を結ぶ夜行列車を客車ごと乗せるようになる。
(ただ、客車のスペースは6両分しか無かった。)
乗客は宇野と高松での深夜二度に渡る乗り換えがなくなり、眠っている
間に移動が出来、これは大好評であった。



 ところが昭和30(1955)年5月11日、紫雲丸が第三宇高丸と衝突し
沈没する。国鉄史上、「戦後最悪五大事故」の一つと言われる大事故を
引き起こしてしまった。
乗っていた修学旅行中の学童・生徒ら168人の死者を出す大惨事である。



 以後、旅客の安全を確保するため客車の航送は中止となった。
又これを契機として、永年燻り続けていた本四架橋(本州四国連絡橋)
の構想が、一気に具体化することになる。(続)





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鉄道開通の恩恵(玉野市電廃線跡を歩く)

2025-03-21 | Weblog
 宇野新線が出来、宇野から高松間に宇高航路が開通すると、大幅に時
間が短縮され、利用者の利便は格段に向上した。
しかし嘗ては、この間の移動に数時間も要する大変な時代が有った。



 岡山に鉄道の駅が出来たものの、当時四国に渡る港は旭川左岸の三蟠
で、鉄道との繋がりは無く、何度も乗り継ぎを余儀なくされていた。
 要衝の地が新興の駅前に移りつつ有るとは言え、当時市内の交通の結
節点は、まだまだ旧城下町の京橋である。



 駅で降りた人々は、まず駅前で人力車を仕立てることになる。
京橋までは凡そ2.3㎞、歩けば30分余りかかるが、一人7銭の人力車な
ら半分ほどの時間で着いた。ここからは、旭川の船便に乗換える。



 京橋港から三播港までは、浅吃水特殊小型船(24トン)・旭丸が運
行していて、一人13銭である。
距離は凡そ9㎞、恐らく1時間も有れば着けたであろう。
ここには瀬戸内海を四国に向けて渡る大型汽船が待っている。



 就航するのは224トン、定員146人の玉藻丸で一日二往復である。
運賃は3等が43銭、2等が63銭、1等は80銭と伝えられている。
四国に上陸すると、再び一人10銭の人力車で、高松の駅に向かった。



 こういった状況下に宇野線・宇野港が出来、連絡船に直結することで、
所要時間は半減の3時間程に短縮された。
 これにより旭川の船便も、後に開通した三蟠鉄道(京橋近くの国清寺
~三蟠港)も、その役割をこのルートに委ねることとなる。



 『水島丸、紫雲丸、眉山丸、鷲羽丸などの連絡船名は宇野港のマラソ
ン桟橋とともに人々に親しまれた。利用者数は昭和18(1943)年には
300万人を超し、同33年には一日26回運航で年間に400万人を越す利用
であった。』(「岡山の交通」 昭和47年5月1日 日本文教出版)(続)




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宇野の築港(玉野市電廃線跡を歩く)

2025-03-19 | Weblog
 瀬戸内海に面した宇野村は、江戸時代から開かれた古浜、広潟、新浜
等の塩田地帯で、明治に入ってからも新たに甲浦に塩田が造成される程
の盛況であった。



 時代が江戸から明治に入ると、政府は富国強兵策を進める上で、官営
製鉄所の建設を推進すべく、全国で好適地を捜していて、広大な塩田の
広がる当地も着目されていた。



 そんな中、政府や官営製鉄所、軍の高官、県知事などが相次いで宇野
を視察した。彼らは挙って、「東には神戸・大阪が、西には馬関(今の
下関)が、更に北は山陰、南は四国が控えている事から、陸路でも海路
でも交通の結節点で、ここに湊を築けば内海無比の良港として、新たな
交通の要衝になる」と賞賛した。



 こうして宇野村に、宇野築港計画が持ち上がった。
この頃、岡山・宇野を結ぶ鉄道新線の計画も有り、当初は鉄道工事と同
時進行的に進める目論見であったが、戦局を理由に鉄道工事が一向に進
まず、築港も一時は県会で計画が否決されてしまう始末だった。



 それでも築港工事が始まったのは当時の知事の専決と伝えられている。
鉄道の着工より一年早い明治39(1906)年の事で、三カ年計画である。
 着工から三年で、四百トンクラスの桟橋が完成し、更に汽船が横付け
できる港が完成した。遅れていた鉄道の開通より半年早い竣工であった。



 そして明治43(1910)年、待望の宇野線も開通する。
時を合わせ、既に完成していた新港と、高松の間に宇高航路も開通し、
玉藻丸、児島丸が就航する。
一日八回の運航で所要時間は、上り1時間40分、下り1時間20分と伝
えられている。



 これにより岡山から宇野線、宇高航路を経て四国・高松に到る新たな
ルートが華々しく開業し、歴史にその一ページを刻むことになる。(続)




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宇野線の開通(玉野市電廃線跡を歩く)

2025-03-17 | Weblog
 鉄道の黎明期岡山に最初の鉄道の駅が出来たのは、明治24(1891)
年3月18日の事である。国鉄山陽本線の前身である山陽鉄道が、岡山
駅と三石駅間で旅客・貨物の取扱営業を開始し、その半年後には福山
まで延伸・開通している。



 当初は貨客車輌の混成七両編成で、一日に上り下り合わせて15本程
の列車が運行されていたという。岡山と倉敷間の運賃は、下等が10銭、
中等はその2倍、上等に到っては3倍であった。
米一升(1.5㎏)が、7銭3厘の時代で有る。現在の運賃は330円だ。



 山陽鉄道は、後の宇野線の前身となる岡山と宇野間の申請をするが、
何れも日清・日露戦争の勃発で、世情不安や資金難もあり計画は頓挫し
てしまった。

 丁度この頃「児島鉄道会社」が設立された。
倉敷と児島味野を結ぶ鉄道の検討を始めている。



 明治33(1900)年なると、「宇野鉄道敷設会合」が岡山市内の山佐
楼で開かれ、宇野線建設の気運が高まり、市内に在った中国鉄道会社
の中に鉄道創立事務所が開かれた。
 岡山駅を起点に米倉、妹尾、彦崎、槌ケ原、田井を経て宇野に到る
32.2㎞の新たな路線である。



 その後山陽鉄道が国有化されると、宇野線の建設計画も政府に引き継
がれ、一気に計画は具体化される事になる。計画は岡山から妹尾を経て、
当時の児島湾の海岸線に沿って宇野に到るルートに変更され、「岡山よ
り宇野に到る鉄道」の新線工事が明治40(1907)年に始まった。



 岡山と宇野32.9㎞の間に、鹿田(後にルート変更で大元に)、妹尾、
早島、茶屋町、味野(現在の彦崎)、由加(現在の迫川)、八浜の各駅
が計画された。
これが国鉄宇野線で、待望の開通は3年後の6月12日の事であった。(続)





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樟葉の町へ(東海道五十七次歩き旅・山城国)

2025-03-14 | Weblog


 嘗てこの橋本地区の東側は、石清水八幡宮の鎮座する男山(鳩ケ峰)
から続く山系で、山中には僅かに八幡宮に続く獣道しかなく、鬱蒼とし
た森や竹林が広がっていたという。特に竹林は美しく、「竹取物語」の
モデルはこの地では・・・とも言われているくらいだ。



 発明王として知られるトーマス・エジソンも、白熱電球のフィラメン
トに世界各地から取り寄せた竹を試したが、最後に八幡の竹を使用し実
験に成功したとの話は有名だ。

 八幡の駅前にはエジソン通りが有り、胸像が立ち、男山や町中にも関
連の記念碑が多く見られる。



 ここ木津川、宇治川、桂川の三川合流地帯は低湿地帯で、昔から水害
の多い所で有る。そんな八幡に隣接した橋本の古い町並は、その山裾と
淀川に挟まれた狭隘の地で、水難を避けたやや高い地に、街道に沿って
細長く伸びていた。街道筋には、背丈ほどの石垣を組んだ上に屋敷を構
える民家が何軒も見受けられた。



 堤防を降りた道は、奥の町から大谷川を越え、北の町に入り、橋本郵
便局前を暫く進むと突き当る。街道は右に曲がり50m程で直ぐに左に折
れるが、左に曲がれば京阪橋本の駅だ。

 その前に浄土宗の普現山・西遊寺が有るが、市内最古の仏像の一つ、
平安時代に造られた木造天部形立像(伝帝釈天像)が有名らしい。



 華やかで艶やかな中ノ町の町並、「橋本遊廓街跡」は、この先どうな
ってしまうのか、そんな事を考えながら小金川の町を抜け府道の手前で
左に折れ、京阪線の線路を越えると、左奥が橋本駅だ。



 東海道は道なりに進みその先で、何時しか山城国から摂津国の楠葉へ
と入ってきた。(東海道五十七次歩き旅・山城国・完 摂津国編に続く)

 次週から「玉野市電廃線跡を歩く」が始まります。
『国鉄の華やかなりし頃、四国連絡の拠点「宇野」を起点とする新しい
鉄道が誕生した。』




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遊廓跡の存続(東海道五十七次歩き旅・山城国)

2025-03-12 | Weblog

 「橋本遊廓街」が最盛期の頃は、駅前に百人以上収容できる歌舞練場
があったらしい。遊郭のシンボル、町を象徴する建物であったらしいが、
駅前の再開発で解体され跡形もなく取り壊されたという。



 遊廓の客、練場の観客等で、立地の良い橋本駅は利用客も順調で大い
に恩恵を受けていたらしい。 加えて淀の競馬場の存在、枚方大橋の開
通(昭和5年)等は鉄道の営業成績に大きく寄与したと言われている。
客は関西圏が中心で多くは大阪府下の住民で8割を占めていたらしい。



 駅の客は、夜が深まるほどに増え、「終電は遊郭帰りの客で大変な込
みようだった」と言われている。
 また対岸の阪急電鉄(当時は新京阪鉄道)や国鉄を利用し、橋本の渡
しで来る客も多いらしく、渡し船は特に朝帰りの客で混雑したという。



 嘗ての花街も、売春防止法の施行により廃業を余儀なくされ、遊廓は
旅館や料亭、アパートへの転業が進み、今日でも旅館や喫茶店として営
業している処や、遊廓当時の内部を有料で積極的に公開しているところ
もある。



 一方で遊廓を負の歴史、残したくない恥ずべき歴史と捉え、残すべき
でないと言う考えもある。その為廃業後は建物を取り壊し、住宅に建て
替え、駐車場に転用する動きもあるらしい。
現に通りには、普通の住宅や駐車場、空き地も目立っている。



 どちらが良いとも言い難い難しい問題であるが、町の歴史を伝える貴
重な史料である事に違いなく、取り壊してしまえばまず元に戻すことは
かなわない。

 全国的に見ても貴重な遊廓跡の遺構であり、部外者ではあるが、個人
的には残して欲しいと思う。(続)





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艶やかな町並(東海道五十七次歩き旅・山城国)

2025-03-10 | Weblog
 思わず、「おぉ~っ」と、声が漏れてしまう。
大谷川を渡り橋本の町に入り、郵便局を過ぎ突き当りを右に折れ、直ぐ
に左折すると、何とも華やかで艶やかな町並が目に飛び込んできた。



 これまで東海道に残された数多くの町並を見てきたが、このようなも
のは初めてだ。ここは昭和の名残を残す平入り二階建ての妓楼が軒を連
ねる「橋本遊廓街」の跡である。多くの建物は昭和初期のものらしい。



 玄関には一般とは異なった意匠を極め、格子が嵌り、壁には装飾が施
され、中には欄間を嵌めたところも有り、何よりもカラフルである。
通りに面した二階は全面が窓で、中には手摺を廻したいわゆる郭造りと
言われる建物もある。



 京都と大阪の中間に位置し、石清水八幡宮の門前町に近く、対岸の山
崎とは橋本の渡しで結ばれ、後には御幸橋も架かった。
東海道も通り抜けていたことから、廓は芸妓と娼妓が混在する遊処とし
て古くから繁昌し発展してきたという。



 三川の合流地点に有るので夏は涼しく、川には多数の網船が出漁して
風景もよく、川魚や松茸などの料理の提供もあり、夜間は不夜城のよう
な別世界が繰り広げられたという。
 最盛期は昭和初期の頃で、約90の貸座敷が並び、600人程度の娼妓が
働いていて、色街を象徴する歌舞練場もあったらしい。



 この遊郭の歴史は古く、江戸時代にまで遡り歴史の教科書に出て来る、
井原西鶴の代表作「好色一代男」の舞台ともなった場所と言われている。

 戊辰戦争の戦禍で衰退した町興しとして、明治20(1887)年、京都府
知事の正式な認可を受けた洛南唯一の花街は、昭和33(1958)年3月に
「売春防止法」が施行されるまで続いた。(続)





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