簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

箱根西坂と富士(東海道歩き旅・伊豆の国)

2019-04-29 | Weblog

 五本松で国道と別れ、その先で東海道線を踏切で越え、川原ケ谷の今井坂に
やってきた。どうやらこれが箱根西坂では最後の坂のようで、その勾配は緩く
もはや大した坂ではない。



 坂を下りきり、大場川に架かる新町橋を渡る。三島宿の入り口にあたる橋だ。
ここは安藤広重の「東海道五十三次三島狂歌入り」に、雪景色の富士山として
描かれた場所で、昔から富士山を望む絶景のビュースポットである。



 そう言えば箱根を下る西坂には途中に富士見平と言う地が有り、初音が原
近くには富士見ヶ丘と言うバス停が有るほどだから、ここら当りではどこか
らも雄大な富士の姿が望まれたのであろう。
芭蕉はこの地で、「霧しぐれ 富士を見ぬ日ぞ 面白き」の句を残している
ので、富士が見えることは当たり前の日常的な風景であったようだ。



 このように箱根八里は、いたるところから遠望する富士を友として歩く道
でもある。多くの旅人は、苦しい上り坂でも辛い下り道でも、何時も見え隠
れする霊峰・富士の姿に心和ませ、それを糧としてパワーをもらい、力を振
り絞って歩いてきたが、それは今も昔も変わらぬ旅人の姿である。



 しかし今日は雨の心配こそ無かったが、残念ながら生憎と雲の多い天気で、
どこからも富士の姿を望むことは叶わなかったのが心残りだ。



 旧東海道は、三島の町並みの喧騒の中にすっかり入り込んできた。
新町橋を渡るとそこは三島宿の東見附跡、そこからさらに町中を500mほど歩
くと、右手前方に緑豊かな森が見えてくる。
三嶋大社の大鳥居はもうすぐそこである。(続)





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最後の坂(東海道歩き旅・伊豆の国)

2019-04-26 | Weblog



 松並木の続く石畳道、国の史跡に指定されている錦田一里塚のある、公園の
遊歩道のようによく整備された道は、1988年に静岡県まちなみ50選に選ば
れている。



 箱根の道は元々関東ローム層という赤土で、しかも急坂続きとあって、人も
馬も滑って難儀を強いられていたことから、当初は箱根に自生する「ハコネダ
ケ」を刈り取り束ねた物を敷き詰めていたらしい。

 しかしその刈り取り作業も大変で、費用も掛かることから、箱根の坂には
1680年頃には順次石を敷き詰めた「石畳の道」への改修が進められてきたの
だそうだ。
道は凡そ二間幅(約3.6m)とし、西坂はローム層の上に直接石畳を敷いてい
るが、東坂は土層の上に小石を積み上げその上に石畳を組んでいるという。



 箱根湯本の三枚橋で早川を渡り、箱根東坂に足を踏み入れると、観音坂、
葛原坂、女転ばし坂、割石坂・・・と続く道だ。近くの二子山から切り出
された石を敷き詰めた石畳道は、何れも名うての急坂であった。
猿滑坂、白水坂、天ケ石坂で辛い坂を上り終えると次の権現坂は下りに転じ、
目に芦ノ湖が飛び込めば箱根の関所で、その先で標高849mの箱根峠を越えて
きた。



 「ハコネダケ」の自生する石畳の甲石坂は箱根西坂の始まりで、ここから続く
石原坂、大枯木坂、小枯木坂、こわめし坂、小時雨坂・・・これらはいずれも楽
な下り坂ではなかった。



 そしてようやく住宅街を下る愛宕坂にやってきた。
馬や牛が転び、女が転び、猿さえ滑り、米さえ蒸し上がる箱根八里の難所が
ようやく終わろうとしている。(続)





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旅の草鞋(東海道歩き旅・伊豆の国)

2019-04-24 | Weblog

 左に伊豆フルーツパークを見て、三島塚原ICの広い交差点を越え、その
先で伊豆縦貫道であろうか、自動車道を越えると、国道1号線と並走する松並
木の続く石畳道となる。初音ケ原と言われるところだ。



 当時街道整備に当りその両側には松や杉が植えられ、道を保護する役割を担っ
てきたが、取り分けここ箱根の道は赤土の急坂で滑りやすいため、石畳道が早く
から普及したという。



 昔の人はこんな石畳道を草鞋履きで歩いていた。
色々な説が伝えられているが、普通の地道なら三日程度は持つとか、数里歩くと
すり減るとか言われる草鞋が、このような石畳道が続くと一日に二足は履きつぶ
していたらしい。



 その為多くの旅人は、予備の草鞋を持って歩いていた。
痛んだら履き替え、履けなくなった草鞋は路傍につるしておくと、予備を持た
ない旅人が急場を凌いだり、銭を持たない貧しい旅人がそれを再利用し、使え
ない物は捨て場で発酵させ肥料にしていたと言う。



 当然街道の茶店などでは草鞋が売られていたようだ。
広重が描く「東海道五十三次之内 袋井 出茶屋ノ図」には、簡素な造りの小
屋の屋根から吊された草鞋が描かれている。値段は今の金額に換算すると四五
百円程度と言うから、決して安くはなかったようだ。



 そんな石畳道の松並木は凡そ1キロの間に残されていて、三島市内では唯一の
ものだそうだ。途中には錦田の一里塚が残されている。
江戸日本橋から28里(約112Km)、三島へ半里(約2Km)の地点だ。
松並木の道路を挟んだ両側に、旧態を良く残し保存されている。(続)





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馬頭観世音(東海道歩き旅・伊豆の国)

2019-04-22 | Weblog

 所々で視界が開けると三島の町が遠望できるようになる。
天下の険、箱根八里の難所ももう少しで超えることが出来る。
気は急くが勾配のきつい下り坂の連続では急ぐわけにはいかない。



 途中三ツ谷集落の松雲寺は、上洛の大名や江戸参府の朝鮮通信使などの休憩
場所として使われた「寺本陣」と呼ばれた寺だ。明治に入ると、全国を巡られ
た明治天皇が東京への帰途、小休止された所としても知られている。





 所々で新道を歩きながら、思い出したように旧道に入り、更に小時雨坂、
大時雨坂を下ると題目坂の畑の中に、六地蔵が祭られていた。なぜか13
体のお地蔵様だ。
赤い毛糸の帽子をかぶり、赤い前垂れが愛くるしいお姿のお地蔵さんで、
ホット一息つける場所でもあった。



 その先で鋪装道を外れ、臼転坂に入る。
牛が道で転がったとか、臼を転がして運んだためとか、その名の謂われが伝え
られている坂で、鬱そうと木立の茂る中に続く草深い道である。
陰湿な雰囲気の峠付近、こんもりとした丘の袂に馬頭観世音が祀られていた。



 徳川家康による伝馬制が成り、街道には人や荷を運ぶ手段とし馬が行き交う
ようになると、当然馬に纏わる事故も増えてくる。中には急死する馬もいたこ
とであろう。長年連れ添った相棒である愛馬の供養として建てられた石碑だと、
勝手に想像を膨らませながらそっと手を合わす。



 峠を越え、石畳のそんな坂を下り切ると国道1号線との合流地点に、大きな
自然石による「箱根路の碑」が立っている。
山を登るものには箱根路を、下るものにはそれが終わり、三島の宿場が近づい
てことが実感できる場所である。(続)




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こわめし坂(東海道歩き旅・伊豆の国)

2019-04-19 | Weblog


 工事の影響で通行止めの旧道区間は、凡そ1キロほどであるが、国道を迂回
するとなると2.5キロ程に増えてしまう。
足下の覚束ない下り道の連続で、山中城址辺りから、今晩の宿三島まではまだ
10キロ程の道のりを残していた。
その為宿への到着を夕方遅くと想定していただけに、その上の遅れは痛い。



 散々迷ったが、地元の方の忠告を素直に受けることにした。
ここで1時間に1本程度しかないバスに出会ったことはむしろラッキーであった。
10分ほどの乗車であったが、行程的にも体力的にも大きな助けとなった事は間違い
ない。そんな車中から、最近話題の三島スカイウォークを横目に、笹原のバス停で
バスを降りる。



 箱根旧街道の標識に従い国道を横切り「こわめし坂(下長坂)」に向かう。
生き倒れでも弔った物なのか、取り付きに小さな地蔵小屋があった。
そこから始まる坂は、見た目でもその厳しさが良く解る、つま先に負担が掛か
りそうな結構な勾配だ。



 人の言い伝えによると、この道では米を背負って上ると、本人の出す汗と、
発する熱で、米が炊け強飯(こわめし)になるほどだと言う。
それがこの坂の名の謂れである
上りなら相当な強敵である。下りでまだ良かったとつくづく思えて来る。



 ここら辺りまで来ると、かなり山を下ったことが実感できる。
所々で行く先が開けると、目線の先にははるかに太平洋を望み、手前にはその
前に広がる三島の町並みが見えてくる。
場所によっては天気さえ良ければ、富士の姿も見かけることが出来るらしいが、
生憎雲の多い日で、それを見つけることは出来なかった。(続)





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雲助徳利の墓(東海道歩き旅・伊豆の国)

2019-04-17 | Weblog


 この辺りでは街道の石畳は荒れているとは言え、良く残されている。
そんな石原坂を下ると「念仏石」と呼ばれる大石が有り、行き倒れた人々を
弔う供養塔が有る。更に大枯木坂を下り、続いて小枯木坂を下る。
当時の石畳と、復元・改修されたものが混在する道だ。



 一旦国道に出てそれを横切り再び旧道に入りしばらく行くと一風変わった
お墓が立っていた。
「雲助徳利の墓」と言われるもので、ある雲助を供養する墓だそうだ。
その墓石には徳利と盃が浮き彫りにされていて、誰が供えたものなのかそこ
にはカップの清酒が置かれていた。



 説明によると、さる西国大名家で剣術指南を務めた人物らしく、酒で事件を
起こし追放されこの地で雲助仲間に入ったそうだ。
元々腕がたち、読み書きができるとあって仲間から親分のように慕われたと言
うが、酒好きは収まることもなく、結局酒で命を縮めてしまった。



 その先で国道に出ると山中の集落で、道路の反対側に「史跡 山中城址」
入り口の案内札が立っている。秀吉により落城の憂き目を見た城である。



 この近くで近所の男性に道を尋ねると、「この先は国道のバイパス工事で、
旧道が寸断されていて、国道を歩くことになる。
ここから笹原辺りまではバスに乗った方がいい。
バスは1時間に1本、毎時39分で、ほらそこがバス停だ」と言う。
腕の時計を見ると、35分を指している。



 ここまで急坂を1時間余り下り続けてきて、太ももは痛いし、石畳の歩き難
さをもろに受けて膝や足首もがたがたである。
どうしょうか、乗ろうか、このまま国道を歩こうか逡巡し後ろを振り返ると、
遠くにバスの姿が見える。
思わず先のバス停に駆け込み、気が付けばバスに向かい手をあげていた。(続)




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茶屋とかぶと石(東海道歩き旅・伊豆の国)

2019-04-15 | Weblog


 かぶと石坂を下ると「接待茶屋」の看板が立っている。
箱根山中における接待の場所がこの茶屋で、ここでは馬には一桶の煮麦(飼葉)
を、旅人には一椀の粥と、たき火を無料で施していたと伝えられている。
冷えた身体を暖めたり、たばこで一服する姿が目に浮かぶ。



 今では茶屋の建物は何も残ってはいないが、当時表に掛けられていた看板が
保管されていてそこには、「永代、せったい所、江戸呉服町加勢屋友七祖父、
施主、与兵衛」と書かれているそうだ。
江戸の篤志家による寄付金で運営されていた茶屋があった場所で、この辺りは
施行平と呼ばれている。



 その先に「かぶと石」と書かれた説明板が立てられていて、その奥に苔の生
した三角錐上の大きな石が置かれている。
一見すると兜のようにも見えるのでこの名が有るようだが、一説には豊臣秀吉
が小田原攻めに向かう途中この地で休み、その折に自身の兜をこの岩に置いた
ところから名付けられたとも言われている。



 そう言えば井上靖の箱根八里記念碑の近くにも「兜石跡」と書かれた石柱と、
半ば土と枯れ笹に埋もれかけた大岩が有ったが、古書には「甲石坂に甲石二つ
あり」と言う記述が残されているらしく、これらは元々の位置から道路工事に
伴い移されたものらしい。



 その先には、この地で明治天皇が小休止されたと言う石碑も建てられている。
古代の人々が東国を目指した当時は、是より北の足柄峠越えで有ったようだが、
中世以降は主要な街道として当然のことながら、この道は大勢の公用の役人、
遊行の庶民、文人墨客が行き来している。
その同じ道を今こうして歩いているのかと思うと、感慨もひとしおである。(続)





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石畳の道(東海道歩き旅・伊豆の国)

2019-04-12 | Weblog


 東海道を整備した江戸幕府であったが、当初は道そのものの整備まで手が
回らず、雨や雪の後は大変な悪路となり、ぬかるむ泥道に旅人は泣かされて
いたと言う。
特にこの辺りは火山ローム層と言う特殊な地層で相当なものであったらしい。



 そんな悪路解消の対策として当初は竹を伐採し敷き詰めていたと言われてい
るから、この辺りなら、この「ハコネダケ」を刈って束ねたものを敷き詰めて
いたらしい。
そういえば生麦あたりの街道では要人の通行時には、麦の穂を刈り取って敷き
詰めていたらしく、それが地名の謂れになったと言う話を地元の人から聞いた。



 しかしこれらの作業は毎年行う必要があり、その竹の調達は莫大な費用と労
力を強いられるため、幕府は石畳道への改修に踏み切ったのだそうだ。
当時としては最高の技術による舗装道路と言う訳だ。



 街道に石を敷き詰めると同時に、石畳の上を流れてきた雨水を石畳の外側に
設けた縦の排水路に追い出し石畳を保護する工夫もされていたと言い、一部で
はその遺構も残されている。しかしその一方では、石畳の表面はあえて凹凸を
つけ歩きにくくしていたとも言われている。実際歩いて見ると滑る所もあり、
捻挫の恐れや最悪膝を痛めてしまうほどに相当歩き難いことは確かである。



 これはあえて歩き難くすることで、一朝有事の際、幕府お膝元の江戸に大勢
の兵士が一気に又容易に攻め込んでこられないようにする意図もあったらしい。
東海道は多くの庶民が行き来する公道では有ったが、幕府にとっては戦力的な
要路で有るには変わりなかったようだ。(続)





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井上靖(東海道歩き旅・伊豆の国)

2019-04-10 | Weblog


 箱根エコパーキングのところで左に峠の茶屋を見て、アスファルト舗装さ
れた道を歩き、旧街道入口の道標に指示されて旧道に入り込む。
暫く進むと道の端に石柱が埋まっていて、見ると「是より江戸 二十五里」
「是より京都 百里」と書かれている。
ここが道中で言えば五分の一の地点で、そのきりのいい数字が面白い。



 その先の街道からは少し奥まった木立に覆い隠されるようなところ、辛うじ
て周囲の草木を刈り払ったような平地に小さな休憩施設の東屋が建っていた。
そこには井上靖の箱根八里記念碑が立ち、傍らに木製の看板が有ったが、その
文字は完全に消えていて全く判読は出来ない状態だ。



 碑には本人の揮毫による「北斗欄干」言う文字が刻まれていた。
帰宅後に、その意味を調べてみると、北極星が夜空に燦然と輝いていると言う
意味らしい。



 井上靖は北海道生まれの作家だが、中学生時代には両親の元を離れ祖母と共
に、伊豆の湯ヶ島や浜松、沼津など主に静岡県内で生活し、その体験から「し
ろばんば」「あすなろ物語」「夏草冬涛」などの自叙伝的な作品を残している。



 文化勲章を受章し、一時はノーベル文学賞の候補ともなった、静岡県とも大
変にゆかりの深い文豪の記念碑にしては少し粗略な扱いで寂しい気がする。



 再び旧道に戻る。ここら辺りは特異な景観を見せる道が続いている。
両側には成長した笹と言うのか、細い竹と言うべきものなのか、そんな植物が
群生し、アーチ状にしなって旧道を覆っているので、丁度竹で出来たトンネル
を行くような不思議な感覚だ。
これは「ハコネダケ」と言うらしく、この付近に自生しているものだ。(続)




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箱根の雲助(東海道歩き旅・伊豆の国)

2019-04-08 | Weblog


 箱根の関所を無事通り抜け、少しばかりの「山祝い」を楽しんでみる。
町中で見かけた「雲助だんご」と書かれた看板に引かれ、その店を訪ね名物
だと言う団子を食べてみた。



 新潟産こしひかりを炊き、餅につき上げた白玉団子に、北海道産小豆の餡
をたっぷりと乗せた団子で、さっぱりとした甘さが歯ごたえの良い団子に絡
んで美味しかった。他にもゴマや黄な粉を塗したものが有るらしく、箱根の
雲助たちが愛した団子の味が店の売りだと言う。

 当時の雲助がこんな美味しいものを常食していたかどうかは知らないが、
健康維持、体力増強に猪や兎などの肉を日頃から食していたと言う説もある
らしく、案外美食家だったのかもしれない。



 それよりも箱根の雲助と聞くと、テレビや映画などの影響か、どうしても
強盗や追剥を働く無法者を連想しがちだが(中には一部いたらしい)、その
実態はどうもそうではなかったようだ。



 元々雲助と言われるのは小田原の問屋場に登録され、そこで働く人足の事で、
この仕事に就くには厳しい三つの関門をパスしないとなれなかったと言う。
一つは力が非常に強いことで、これは絶対条件であった。二つ目は荷造りの技
にたけていること、三つ目は唄が上手いことで、これらが揃っていないと一流
とは言われなかったそうだ。



 こうして荷物を扱う人足の他にも、馬を引く馬子や、籠を担ぐ駕籠かきなど
の雲助がこの地に住み着いて、道案内をし、街道を上り下りする旅人の手助け
をしていたのだそうだ。

 今日はこれから、雲助の力を借りることなく一人で、箱根西坂と言われる三
里(凡そ12Km)以上も続く長い下り坂を下っていく。(続)





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