簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

赤坂宿「よらまいかん」(東海道歩き旅・三河の国)

2021-12-31 | Weblog
 宿場内は広い通りが貫き、明るい雰囲気である。
中心的な場所の交差点の両側は、小さな公園が整備されている。
ベンチを備えた東屋風の休憩所が有り、回りは地元ボランティアによる
草花で彩られている。

 又街道筋の本陣、高札場、問屋場跡などの跡地には、立派な案内板や
常夜灯が立っていて、積極的に観光客を受け入れようとの意気込みが感
じられる。





 しかし残念ながら、四軒有ったとされる本陣は、何れも本物は残って
いなくて、遺構を示す案内板のみである。
その内の松平家は、間口十七間半、奥行き二十八間、畳は四二二畳も有
る堂々とした建物であったらしい。
広場にある高札場も復元したものが飾られている。





 「大橋屋」から西に50m程行くと、無料の茶店風休憩施設、旅籠を
イメージしたと思われる「赤坂宿よらまいかん」がある。
「よらまいか」とは、土地の言葉で、「寄っていこうよ」との意味で、
平成14年にオープンした公共の施設だ。

 二階には宿場を描いた浮世絵が展示されていて、駐車場やトイレ、
自動販売機などが整備されている。
近隣地には、赤坂宿資料館(市の生涯学習施設)などもある。





 「大橋屋」や「よらまいかん」等は、広重の描く世界を念頭に、復元
整備したもので宿場感を醸す演出に一役買っているようだ。
また街道には僅かながら格子戸の古い町屋も残されている。

 そんな場所に立てば、当時の旅人になったような錯覚に陥る事も有る。
弥次産喜多さんが闊歩した、当時の町へ引き込まれそうな気がしてくる。

 町並や沿道を眺めつつの膝栗毛は、空想ながら当時の旅人と渾然一体と
なり、時にはそれになりきれるのが醍醐味で、それが又楽しいのである。
(東海道歩き旅・三河の国 前編完・後編に続く)




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赤坂 旅舎招婦ノ図 (東海道歩き旅・三河の国)

2021-12-29 | Weblog

「やうやく宿に入ければ宿ごとに遊女あり。立ち並びて旅人をとどむ」

 広重は、当地では「赤坂 旅舎招婦ノ図」を描いている。
絵の左画面には、汗を拭きながら風呂から戻る男を描き、行く先の座敷
では寝そべる男、寛ぐ旅人の様子や、食膳を運ぶ女、客に呼ばれた按摩
等が描かれている。
 中央に大きな蘇鉄を描き場面を分け、右の画面では出番を待つお化粧
中の飯盛り女の姿など、旅籠内の様子が細密な描写で描かれている。





 広重の五十三次の画の中では、比較的風景が描かれることが多いが、
この画のように旅籠内の細かな様子が描かれているのは大変珍しい。
これは先の御油宿の客引きの画に続く連作と言われている。
この連作で描かれた留め女や遊女の姿が、御油・赤坂の知名度アップに
一役も二役も買っていたと言われているそうだ。





 この絵の中心に描かれたのとそっくりな蘇鉄が、浄土宗の浄泉寺と言
う寺に有る。
宿場の中心に近い、街道を左に折れたやや奥まった所にある寺だ。
山門を潜り境内に入ると、本堂の前にある大きな蘇鉄の木が目に留まる。





 これは寺の筋向かいにあった旅籠・清洲屋から移植されたものらしい。
蘇鉄は成長が遅く比較的長寿と言われていて、この木も相当樹齢を重ね
ているらしく大きく葉を広げ青々としている。
この樹の前に佇むと、この広重の画が旅籠・清洲屋の室内を描いたもの
とえてくるから不思議である。

 広重も画材とするほど、御油とは隣り合わせの赤坂の宿も、街道筋では
遊女の多いところとして知られていた。
この宿場が規模の割に旅籠の数が多かった理由の一つがこれで有る。(続)




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伊右エ門・鯉屋 (東海道歩き旅・三河の国)

2021-12-27 | Weblog
 街道の中程に、昔ながらの連子格子が残る、一際大きな建物が見える。
文化年間に建てられたという旅籠旅館「伊右衛門・鯉屋」の建物である。
間口6間1尺、奥行き7間の母屋が現存している。



 嘗ては間口がもう1間6尺程広く、奥行きは今より3.5倍ほども広い
敷地に、母屋、継ぎの間、奥座敷、土蔵などが連なっていたらしい。
しかし残念ながら奥座敷部分は寺への寄進(法雲寺の庫裏として現存
している)や、火災などで失われたという。



 ここは、平成27(2015)年まで現役の旅館として稼働していた。
江戸時代の建物が残っていて、今日まで営業を続けていた貴重な旅館も、
数年前にその業を止めている。
その最終日には、「かつて泊まったことがあるという大阪の男性も泊ま
りに来て、別れを惜しんだ」と案内の男性が話してくれた。



 建物は、広重の描く画を参考に、歴史的な資料を紐解き、2年の歳月
を掛け綿密な時代考証の元、江戸当時の旅籠建築の姿を取り戻した。
古い写真と見比べると、二階窓の連子格子の趣が若干違うことが解る。



 中に入ると右手が土間で、その先にのれんが掛かり、通路が奥に延び
ている。
建物を支える太い柱、黒光りするほど磨き込まれた床板、急勾配で段間
の高い階段などは、ほぼ往時の儘だという。



 関川神社にある句は、芭蕉がこの宿の二階に泊まった折のものらしい。
室内には駕籠や行灯など往時を偲ぶ調度も置かれて居る。
市の文化財の指定を受けた旧旅籠は、ボランティアスタッフも駐在し、
無料で一般に公開されている。(続)





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赤坂宿 (東海道歩き旅・三河の国)

2021-12-24 | Weblog


 見事な御油・赤坂の松並木の右側は、音羽川に沿った「御油松並木公
園」になっている。
豊川市の市制70周年の記念事業として作られた比較的新しい公園だ。
芝生広場に遊具や東屋、藤棚等が配され、トイレなども整備されている。
旧街道の松並木道からは、公園への入口が2カ所設けられている。



 松並木が尽きると、天王川に架かる小さな一の橋を渡る。
丁度このあたりに赤坂宿の東の見附(入口)があったという。
ここまで御油からは歩いても30分ほどの距離であるから、大きな宿場町
なら東西の見附を挟んだ町並が続く程度の距離で、本当に近い。



 一時は御油と合わせて、一つの宿場扱いされていたと言うが、まさに
指呼の間である。
宿内は広々とした通りで、人や車を見る事も少なく落ち着いた雰囲気だ。

 当時の宿場は、本陣が3軒も有り、更に脇本陣も1軒有った。
戸数349軒、人口1,300人余りの宿場に旅籠は62軒も軒を連ねていた。
規模の割に旅籠が多いのが特徴で、その辺りの事情は御油宿と同じだ。



 宿場に入ると直ぐ左手に関川神社が有る。
小さなお社だが起源は古く、凡千年前と言う古社で、当初は「弁財天社」
と言った。
境内には推定樹齢800年と言われる、幹周り8m、高さ25m余りの大楠
もあり、町の文化財に指定されている。



 「夏の月 御油よりいでて 赤坂や」

 境内に入ると石の鳥居があり、その横に三河産の花崗岩で造られた芭蕉
の有名なこの句碑がある。
「夏の月」と言われる句で、御油宿からでた夏の月が、直ぐに赤坂宿をも
照らすさまを詠んだもので、宿間の短さを見事に言い表している。(続)





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御油・赤坂の松並木(東海道歩き旅・三河の国)

2021-12-22 | Weblog


 御油宿を出て西進すれば次の宿場・赤坂へは僅か16町と直ぐそこだ。
その為当初は、両宿で一宿分の役割を果たしていた時期もあった。
宿から数百メートル程進むと、やがて前方に見事な松並木が見えてくる。
松並木に沿って右側には、「御油松並木公園」が広がっている。



 戦時中には燃料として各地の松は供出を求められたが、当地の松は国
の天然記念物指定(昭和19年指定)のお陰で伐採を免れたという。
御油宿の西の出口から赤坂宿の東の入口へと続く「御油・赤坂の松並木」
は、「日本の名松百選」にも選ばれている。
弥次さん喜多さんが狐に化かされる騒動でもお馴染みの場所だ。



 東海道整備の一環で、家康の命により植えられた松の並木は、夏は木
陰を作り暑さから旅人を守り、冬は吹きすさぶ寒風を遮ったという。
何よりも街道である事が遠くから見ても一目瞭然で、地図や案内書がさ
ほど普及していない当時では、安心して歩く事が出来る効果は大きかっ
たようだ。



 当地の松並木は、江戸時代中期頃には600m程の間に、黒松が650本
ほど植えられていたらしいが、今日では300本程と言われている。
一時は激減した事も有ったらしいが、地元の人々の手厚い管理や補植な
どがなされたようだ。
枯れて切り株を曝す木もあるが、中には樹齢300年を越える大樹も有り、
そんな中に植樹間もない若木も混じっているのが頼もしい。



 赤坂宿までの距離は、およそ1.7㎞で東海道の宿場間としては一番短
い距離で、その半分近くが松並木道である。

 杉並木のような亭々とした感はないが、これぞ東海道の街道と思わせ
る見事な景観が続いていて、こんな道にアスファルトは相応しくない。
やはり土埃を感じながら、地道であって欲しいとしみじみ思う。(続)





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宿場の飯盛り女(東海道歩き旅・三河の国)

2021-12-20 | Weblog


 「ごゆ、あかさかは昔より遊女の名高し」

 御油とその次の赤坂宿には、昔から飯盛り女が多い事が知られていた。
鴨長明もその旅日記にこのように書き残しているという。
御油は、次の宿場赤坂までは16丁(約1.7㎞)と近く、宿場町続きの様
な状態であったらしい。



 御油には姫街道の追分けが有り、これから向かう人や、一本坂を越えた
旅人の利用も多かったようだ。
そんな旅人は、城下町である吉田宿での窮屈な泊まりを嫌って、このどち
らかの地を選んだからとも言われている。
当地には茶屋町という地名も残されていて、茶屋の数も多かったらしい。



 当地には、そんな地らしい逸話も残されている。
明治の初め頃、大きな旅籠で働く飯盛り女五人が、近くの池に飛び込ん
で自殺をした。
これを機に宿(大津屋)の主人は、女に稼がせる家業をきっぱりと諦め、
味噌の製造に乗り換えた。
主人は、宿中程の東林寺に遊女達の墓を建て、手厚い供養をしたという。



 東林寺境内の墓地には、五基の飯盛り女の墓が残されているらしい。
ここは、三河領主の徳川家康が二度も立ち寄ったという由緒有る寺だ。
供養の墓を建てたのは遊女達の雇い主、旅籠・大津屋の主人である。

 この大津屋は、宿場内に工場を構えるイチビキの前身であり、同社の
製品を通信販売する会社として、その名を今に残している。



 宿場には連子格子を構える旧家などは、幾らかは残されている。
しかし、多くは改装され往時の姿を留めない建物も多く、加えて真新し
い家も混在している。
それでいて何となく落ち着きを感じるのは、旧道を思わせる道路の幅と、
低い家並み等、戦後の再開発があまり進まなかった町並のせいであろう。
その町並の先に有名な御油の松並木が見えてきた。(続)





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御油の宿と味噌工場(東海道歩き旅・三河の国)

2021-12-17 | Weblog
 「はや夜に入りて両側より出てくる留め女、いづれも面をかぶりたる
如くぬり立てるが袖をひいてうるさければ・・・」



 夜の帳が降り始めると、旅籠の前では客を呼び込もうと、激しい客引
きが行われていた。どこも客を取ろうと必死の様子が窺い知れる。
十返舎一九の膝栗毛でも、そんな宿場の様子をこのように述べている。



 又広重が描く「東海道五十三次之内 御油 旅人留め女」の図でも、
強引に客の荷物を引っ張って客引きをする女(留女)の姿が軽妙に描
かれている。
この宿場は、こう言った留め女や飯炊き女と呼ばれる女性達が多くいた
ことも当時の道中案内などでは良く知られていた。



 御油宿の家数は316軒有り人口は1,300人ほどの宿場に、本陣が3軒
あったものの脇本陣はなく、旅籠は宿場の規模にしては割に多い62軒
有ったと言う。
当地の外れに姫街道の追分が有ること、城下町である吉田の宿での窮
屈な泊まりを避け、ここに宿を取る旅人も多かったかららしい。



 宿場の町並は、茶屋町、横町、仲町、中上町、上五井と続いていた。
そんな街道筋は進むと、町中で味噌メーカの大きな工場に突き当る。
街道はそこでほぼ直角に曲がり、更にその先で左に折れる。
曲尺手の様な曲がり方で、その先は丁度工場の正門前に出る。
街道が工場を分断している格好だ。



 町の中心に「イチビキ」の工場が居座る姿に、何となく違和を覚えず
にはいられないが、木造の工場や白壁の蔵などは、旧町にすっかり馴染
んでいるようにも見える。又、この工場にも歴史があり、それを知れば
ここに立地する理由に納得出来たりもする。(続)





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日本人妻・花 (東海道歩き旅・三河の国)

2021-12-15 | Weblog


 音羽川に架かる五井橋を渡ると、かつては「五井」とも呼ばれていた
「御油」である。小さな宿場で、となりの赤坂宿とは指呼の間である。
一時はこの隣り合った二つの村で、一つの宿場とした時期もあった。



 ここには「五井橋 板橋卅五間」と言われる橋が架けられていたが、
今は古びたコンクリート橋だ。
この辺り桜の名所なのか、堤には見事な桜並木が見て取れる。
その先で旧街道は御油の宿内へと入り込むとすぐ、高札場跡がある。



 御油は明治以降国鉄や国道のルートは、旧宿場町を外して建設された。
また戦災での焼失も免れ、加えてこれまでに大きな災害を蒙った事も無
かったという。
従って、嘗ては連子格子や犬矢来の有る江戸時代の面影を色濃く残す町
並が見られたらしいが、流石に今日では新しい住宅に置き換わることも
避けられなくなっているようだ。



 橋を渡るとそんな真新しい住宅地の中に「花・ベルツゆかりの地」の
案内板が立てられている。
ドイツ人医師ベルツ博士の妻・花の実家、江戸時代の旅籠、荒井熊吉の
営む「戸田屋」のあった場所だという。

 医師ベルツは明治政府の招待により来日し、東大医学部の前身東京医
学校で教鞭をとり、近代日本の医学普及に貢献した人物らしい。



 それを支えたのが、江戸は神田明神下の生まれ、旅籠の娘として育っ
た日本人妻・花で、これが国際結婚の先駆けであったそうだ。
戸田家の菩提寺である御油の西明寺には、博士の死後帰国した花が建て
たベルツの供養塔もあると言う。(続)





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姫街道の追分 (東海道歩き旅・三河の国)

2021-12-13 | Weblog
 名鉄の国府駅を右奥に見て進むと、小さな森の下に鎮座する神社の白
壁が見えてきた。
三河の国の国府で、嘗ては国府大明神と呼ばれた大社神社である。地名
もこの社に由来していて、嘗てはこの辺りが国府の立場跡になるらしい。



 丁度この先から街道の道幅は急に狭くなる。
古い家並みと、神社の白壁に沿う道は何となく昔の雰囲気を感じさせる
風情がある。その先に有るのが、江戸より76里の御油の一里塚で、信用
金庫の敷地の中に立っている。



 そこから更に西進すると三叉路の角に、二本の古い道標と供に、大き
な秋葉神社の常夜灯が立っている。
県道の拡幅工事で、近年従来の位置から移され整備されたものらしく、
何れの石碑も基礎だけは真新しく目立っている。



 その下に、「姫街道」の小さな表示板が置かれている。
ここは「御油の追分」と呼ばれる分れ道のある地で、道標には「秋葉山
三尺坊大権現道」「国幣小社砥鹿神社道 是より二里卅町」などと書か
れている。



 このまま街道を直進すれば、東海道の35番目の宿場・御油に向かう。
旧街道は、住宅地の中に伸びる生活道路である。
200mも行けば、音羽川に架かる五井橋を渡り宿場へと入っていく。



 右に曲がれば本坂越え道、道程約60㎞のいわゆる姫街道となる。
鳳来寺から秋葉山を経由して、浜松から見附宿に向かう裏街道だ。
見附からは、浜名湖の北を大きく迂回して、本坂峠を越えてここに
至る事になる。



 浜名湖を控えた新居の関所は、殊の外女改めが厳しかった。
又船酔いや、船中でのトラブルを避けたい思いもあった。
その為公家の奥方や姫君、女中衆が多く使用したのがその名の由来とも
言われている。(続)




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小坂井から国府 (東海道歩き旅・三河の国)

2021-12-10 | Weblog


 才ノ木南で国道247号小坂井バイパスを越え、小坂井の町に入る。
右に国道1号線が、左は少し離れて名鉄の名古屋本線が並走している。
才の木の交差点では、右側に五社稲荷社のもので有ろうか、赤い大き
な鳥居が、前方には菟足神社の森も、黒い塊となって見えている。



 菟足神社は、案内書によると、延喜式にも登場する歴史が有らしい。
生け贄伝説の「風祭り」は、豊川市の無形民俗文化財に指定されている。
あの武蔵坊弁慶が、「あづま下りの折、今橋(後の豊橋)断絶し七日間
逗留し、納経した」と伝わる社でも有る。



 JR飯田線を踏切で渡ると、名鉄の伊奈駅の近くに明光寺という浄土宗
のお寺があった。
休憩がてら立ち寄ると、境内の一画に上部のかけた五輪塔が立っていた。
昔地境争いが起き、この塔を双方で奪い合った結果、割れて上部は相手
方の手に渡ったのだと言う。
寺の本堂の脇には、夥しい数の野仏や小さな地蔵石像も祀られていた。



 寺の敷地の脇には、古い民家が有り、「もくせいの花」と言う古民家
カフェになっていた。手作りのケーキと豆腐が評判で、モーニングを中
心に昼過ぎまで営業しているらしい。
ここでは、手作りアクセサリーや雑貨などの手作り市も開かれるという。



 この辺りの旧街道には、所々に松が切り忘れたたように残されている。
何があると言う訳でもないが、古い民家や社寺等も多く、緩やかに曲が
る余り広くはない道などは、如何にも旧街道らしい雰囲気で、長丁場の
退屈しのぎには丁度良く、疲れもいやしてくれるようだ。(続)





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