簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

今宿村 いな川の清水(東海道歩き旅・近江の国)

2023-12-29 | Weblog
 旧道を抜け、大野の交差点で国道1号線を越える。
正面に「若王寺」の寺標が立ち、この奥突当りに浄土宗の『布引山医王
院若王寺』があった。ここからは鐘楼、山門や境内の大杉が見えている。



 元々は天台宗の寺院で、御本尊は薬師如来である。
天正年間に兵火で全焼し、その後仮堂が造られ、承応2年(1653)に浄
土宗に改宗した。その後万治元年(1658)に本堂が再建されている。



 旧東海道は暫く国道を歩き、バス停の所から右の旧道に入り込む。
旧徳原村で、左手の国道は一段低い所を通り、その更に南側が野洲川の
広大な河川敷である。

 間の宿・大野の家並みはこの辺りまで続いていたらしい。
若王寺から凡1.7㎞で、国道1号線の大野西交差点に合流する。
その角に、「東海道 今宿」の大きな蹟碑と、石灯籠が建っていた。



 嘗ての今宿村は、「しょうちゅうの名産也」と旅人に持て囃された焼
酎の産地であった。大野村にも、「玉の井という銘酒有り」といわれ旅
人に親しまれていたらしい。
この辺りは野洲川の伏流水が豊富なのであろうか、醸造が盛んに行なわ
れていたようだ。



 どの辺りであろうか、ガイドブックによっては、「義朝首洗い水」を
紹介しているものも有る。橋の手前に「いな川の清水」が湧いていて、
そこで義朝の首を洗ったとの伝説が伝わっているが、実際には井戸として
掘られたものらしい。
この辺り掘れば水が湧き出るようで、旅人にも飲水として供されていた。



 大野西交差点を越えると、角にポケットパークが有り、道路標識には
「甲賀市水口」と書かれている。
嘗てこの辺りには稲川が流れ、国境になっていて、その橋を渡ると水口
の領内へと入っていく。(東海道歩き旅・近江の国前編完 中編に続く)







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間の宿・大野(東海道歩き旅・近江の国)

2023-12-27 | Weblog

 宿場と宿場の間にあって、休憩が取れる集落を間の宿と言った。
小規模な茶店だけの場合は立場といったが、ここ大野は可成り大きな間
の宿で、買い物の出来る商店なども存在した。



 当時幕府は宿場以外での宿泊を認めてはいなかったが、是は建前で、
実際には大きな間の宿は、正式な宿場と変わらぬ施設を有していた。
ここは松尾川の渡し場を控え、旅籠が充実し宿泊も出来たようだ。



 土山と水口のほぼ中間地点にあり、「ひょうたん屋」「指物屋」等と、
商店であろうか、家号の札が幾つかの家の軒下に貼られている。

 他にも宿泊できる旅籠も数軒有ったらしく、「旅籠丸屋」「旅籠井筒
屋」「旅籠篤居屋」「旅籠日野屋」「旅籠森田屋」「旅籠柏屋」等と、
旅籠の跡地を示す石標が建てられている。



 明治天皇東幸の折に、当地の小幡屋で小休止されたとの記録が残され、
「聖蹟碑」の建つところが、「小幡屋」の跡地らし、石標が建っている。

 中には「旅籠枡屋」の石柱と同じ家号の看板を今も掲げる旅館もあり、
今日まで宿泊業が続けているのであろうか。


 
 街道では、明治期以降五代続く「安井酒造場」が、「初桜」の蔵元と
して、昔ながらの製法で地酒を醸し出している。

 右側に「みよし赤甫亭」と言う日本料理屋があり、その玄関脇に、
『三好赤甫先生をしのびて「師の訓え 座右の銘とし 汗に生く」』の
石碑があった。



 三好赤甫の事は良く知らないが、調べてみるとここが生誕の地らしい。
赤甫は東福寺の虚白の弟子で、この地方で活動し、俳諧の基礎を築いた
人物と言われている。

 その先で旧道は国道1号線に突き当たり、その右手角には『大日如来』
を祀った祠が建っていた。(続)






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堀切川の掘り割り(東海道歩き旅・近江の国)

2023-12-25 | Weblog


 右手の生徳山長泉寺は、門前が児童遊園地に開放されている。
浄土宗の寺で、ご本尊は阿弥陀如来で、境内には子安延命地蔵尊があり、
信仰されている。
 市場村の外れ大日川の手前の一里塚跡は、市場の一里塚跡で、江戸日
本橋より数えて百十一里目だが遺構は何も残されてはいない



 更にその先の橋の手前に「大日川掘り割り」の石標が建っている。
大日川橋を渡れば旧大野村で川がその境で、この辺りが土山と水口宿の
中間になるらしい。
 頓宮山を源に、大野村や市場村を流れ野洲川に注ぐ大日川は、一度大
雨が降ると川幅が広がり、流域の水害被害が甚しかった。
その為江戸時代初期、大野村は市場村との境に堤を築いた。



 が今度は市場村が重大な水害を受けることになる。
堪らず村では城主の許可を取り付け、頓宮村より総延長504間、川幅四
間の排水路掘削工事に着手し、市場村民の総賦役により元禄16(1703)
年に完成させたのが大日川の掘り割りらしい。
今遺構は草に覆われ、見定めが出来ないが、一筋の流れとなっている。



 この向かい側に「東海道反野畷」の碑が立ち、その先に松並木が残さ
れていて、その先にも「東海道反野畷」の碑がありこの間が畷道である。
松並木道は凡4町(約400m)続き周辺には名産の茶畑が広がっている。
手前に淀藩領界石「従是東淀領」が立ち、この地は淀藩の飛地で有った
事が解る。



 大野小学校の手前に、大野村の鎮守・花枝(はなえ)神社の鳥居が建
っている。鳥居の奥遙かに森が見え、そこに社殿が鎮座しているらしい。
そこまでは、途中国道を越え凡400m程の参道が続いている。(続)





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斎王の里 頓宮(東海道歩き旅・近江の国)

2023-12-22 | Weblog


 松尾川の渡し場跡も、川を挟んで町並や街道が所々に当時の面影を残
している。川を渡ると松尾村で、嘗て立場が有り、僅かな上り坂、灰俵
坂の名残も有るらしい。渡った先には、垂水斎王頓宮跡がある。



 頓宮跡に向かうには、旧道を川まで突き当り、その後同じ道を引き返
して白川橋を渡り、再び北の旧道に向け、大きく迂回しなければならず、
流石に今は余力が無い。

 悪いことにここに来て持参したデジカメのバッテリーの消耗が激しく、
何時電池切れを起こしてもおかしくない状況で、先を急がねば成らない。



 橋を渡った国道交差点に「頓宮」との表示があり、角に小公園がある。
一画に「斎王の里 頓宮」と刻まれた自然石の石標が置かれて居る。
その横にはこれまた自然石を積み上げた大きな石灯籠も据えられていた。

 この辺りを「頓宮(とんぐう)村」とい、「垂水斎王頓宮跡」があり、
跡地は国の史跡に指定されている。



 「古斎宮群行の頓宮有りし所ゆへ、今に村の名残る」
斎王とは、天皇が即位するたびに伊勢神宮に奉仕する未婚の皇女または
女王をいう。一行が都から伊勢斎宮まで5泊6日の旅へと御出駕され旅を
斎王群行といい、その一つの宿泊所が頓宮というらしい。
この垂水斎王頓宮跡には、378年間に31人の斎王が宿泊されている。



 国道から一本南の旧道に再び入り、旧前の村を西進する。
カラー舗装の道で、所々に虫籠窓を持った旧家も見られ、落ち着いた家
並みが伸びている。

 直ぐ左奥に瀧樹神社があり、更にその先で地安寺、諏訪神社が続く頃
には左手に野洲川がより近づいてくる。(続)





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御代参街道道標 (東海道歩き旅・近江の国)

2023-12-20 | Weblog

 国道の脇、右手の小路口に古い道標が二基建っている。
向って左の道標は、天明8年(1788)の建立で「たかのよつぎかんおん
みち」と刻まれ、高野の世継ぎ観音(永源寺)への案内である。
 ここから笹尾峠を越え鎌掛、八日市を経て、中山道愛知川宿手前の小
幡までの十里余りの脇往還が伸びていた。



 右の道標は、文化4(1807)年の建立で、「右 北国たが街道 ひの
八まんみち」と刻まれている。
日野、八幡又多賀大社や北国街道への道を示しここが追分けで有った。



 説明によると、寛永17(1640)年、三代将軍家光の乳母春日局が将
軍の名代として多賀大社に参拝し、この道を通って伊勢神宮へ参詣した
際に、この往還は整備拡張された。

 皇室には祖先神として敬う天照大神が祀られている伊勢神宮と多賀大
社へ詣でる習わしがあったが、多くは代参の使者が定期的に訪れたこと
から御代参街道という名が付いた。



 「お伊勢参らばお多賀へ参れ、お伊勢お多賀の子でござる」

 多賀大社は天照大神の親神の伊邪那岐と伊邪那美の二神を祀られてい
て、 その往きか帰りには必ず多賀大社へ参るものとされたのである。



 江戸時代に入ると、各地の庶民の間でも頻りに、伊勢神宮参拝が行わ
れるようになった。
 京からは伊勢街道で、江戸からは東海道で伊勢神宮に詣で、帰路土山
宿に出て、ここから多賀大社に向かった。所謂「両参り」の風習である。



 東海道はその先400m程で野洲河畔に出る。
昔は松尾川と言い、松尾の渡し場跡である。「十五間の土橋有り」と言
われたが、今は橋も無く、下流の国道に迂回して白川橋を渡る。(続)





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大黒屋 控え本陣と大黒橋 (東海道歩き旅・近江の国)

2023-12-18 | Weblog


 土山公民館から100m程、一の松通りの十字路を越すと大黒屋公園だ。
「大黒屋本陣跡」の石標があり、本陣の跡地が公園に成っている。
 土山宿の豪商立岡家が営む「大黒屋」は、「堤家本陣」が衰退すると
控本陣として指定され代替えとして使われていたそうだ。



 ここには、「大黒屋本陣跡」と並んで、「問屋場跡」、「高札場跡」
の石標もある。園内奥には、明治天皇聖蹟碑がある。
その先は、やや右に曲がりながら吉川を大黒橋で渡る。



 来見橋と同様の瓦葺白壁土塀風の欄干を持った橋だ。
川幅は左程広くはなく、元々は土橋が架かっていたが、大黒屋本陣を勤
める立岡長兵衛が石橋に架けなおしたという。

 鈴鹿馬子唄の歌詞やそれに因む画が貼られている。
「鈴鹿山には 霞がかゝる 可愛いゝ娘にや 目がかかる」
「坂は照るてる 鈴鹿は曇る あいの土山 雨が降る」



 土山は、当時は幕府直轄地で、代官が詰める陣屋が置かれていた。
天和3(1683)年、代官・猪飼次郎兵衛により初めて設けられたが、
寛政12(1890)年の土山の大火で焼失し、以降陣屋は信楽に移され、
跡地が残され石標が建てられている。

 その先左手奥が、森鴎外ゆかりの常明寺だ。
境内に芭蕉の句碑がある。
「さみだれに 鳰(にお)のうき巣を 見にゆかん」



 「旅籠古め屋跡」「旅籠藤屋跡」「旅籠常盤屋跡」の石標を見て進む
と、やがて国道1号線に突き当たり、その右角に「東海道土山宿」の石
標と共に石灯籠が建っている。

 この辺りが宿場町の西の外れで、京方口があったとされる場所である。
町並はこの先も続いていたらしく、ここで南土山交差点を横断する。(続)





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土山宿の本陣(東海道歩き旅・近江の国)

2023-12-15 | Weblog

 江戸時代、東海道を旅する大名や幕府公用人、勅使、公家などが泊まっ
たとされる本陣は、土地の有力者が務めていた。
ここにも、中町(南土山村)の「堤家」と、吉川町(北土山村)の「土山
家」の二軒の本陣が有った。

 「堤家本陣」は家号を「二階屋」と呼び、代々堤忠左衛門を名乗った。
門構えと玄関を持つ建坪は196坪と伝えられている。





 もう一方の「土山家本陣」は、三代将軍家光が上洛する折に設けられ
た、敷地建坪325坪を誇る重厚な構えの遺構が今日に残されている。
 初代土山家は甲賀武士土山鹿之助の末裔で、土山喜左衛門を名乗り、
代々引き継いだ家督は十代に及び、明治初期の本陣制度廃止迄続きその
役割を終えた。





 敷地内の奥に明治天皇聖蹟碑がある。
明治元(1868)年、明治天皇は行幸の際本陣で一泊され、十七歳の誕生
日を迎えられた。
天皇即位最初の誕生日に当り、翌日この本陣で第一回天長節が行われた。
この日土山の住民に対して、神酒、鯣(するめ)が下賜されたという。

 横に漢詩碑が有り、碑には後に当地を訪れた仏教哲学者の井上圓了
(1858~1919)がこの逸話にいたく感動し、祝賀の様子を即興で詠ん
だ漢詩が刻まれている。





 『鈴鹿山の西に、古よりの駅亭あり。 秋風の一夜、鳳輿停る。
  維新の正に是、天長節なり。恩賜の酒肴を今尚馨』

 本陣の廻りにも「旅籠俵屋跡」、「旅籠山形屋跡」「旅籠近江屋跡」
の石標があり、土山公民館には「宿場のけごみ」の石柱が建っていた。
「げごみ」とは、「足を止めるところ」、「足を休めるところ」という
意味で、公民館の玄関脇には「土山宿お休処」の看板が掲げられている。(続)




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東海道伝馬館(東海道歩き旅・近江の国)

2023-12-13 | Weblog

 今日土山宿は北土山と南土山にほぼ町名が統一されているが、当時
の宿の中心は、旧中町から旧吉川町辺りである。
森鴎外が一泊した「旅籠平野屋跡」の辺りが宿場の中心的な場所だ。



 平野屋の先の左側に、築200年、江戸中期の両替商の建物を改造した、
民芸茶房うかい屋があり、地域の人の手作り陶器等を展示販売している。
和風の喫茶コーナーでは、ぜんざいが評判らしく、また嘗て名物だった
夕霧そばの復活を試みた鴨南蛮は、現代の土山名物という。



 「万屋跡」「はた屋跡」等、旅籠の跡地を示す石標が続き、その先右
手に「問屋場跡・成道学校跡」の石標も建っている。
 土山宿の問屋場は、ここ中町と吉川町の二カ所に設けられていたが、
明治の世になると廃止され、成道学校が創立された。
その場所の奥まった所に、「東海道伝馬館」がある。



 江戸時代の農家の建物を移築した施設で、宿場の交流拠点として平成
13(2001)年にオープンし、毎日(月曜と火曜は休み)9時~17時の
間で無料開放されている。
母屋や蔵等の建物そのものが貴重な展示品とされている。



 その1階は観光案内所も兼ねた特産品の販売所で、宿場の概要が模型
で紹介されている。天井の低い2階は企画展示室になっている。
直径50㎝程のお盆の上に、広重の東海道五十三次の画を忠実に立体化し
た模型が五十五点展示されている。



 又各宿場の名物、饅頭や餅等が模型となって錦絵と共に展示されていて、
その内の多くは、これまでの歩きで実際に店に立寄り味わってきたものだ。
懐かしさと共に、その時の歩きの記憶が俄に甦ってくる。(続)





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森鴎外ゆかりの地(東海道歩き旅・近江の国)

2023-12-11 | Weblog


 来見橋を渡ると左手に、南土山の鎮守・白山神社が鎮座している。
速須佐之尊、天照大御神、豊受大御神を祭神とする古社らしい。

 本殿は寛文5(1665)年に火災により延焼し、文久3(1863)年に
現在の場所に造営された。毎年七月の第三日曜日に行われる「花奪い行
事」土山祇園祭花傘神事は滋賀県選択の無形民俗文化財に成っている。



 南土山に「井筒屋跡」の石標があり、森鴎外の祖父・森白仙終焉の地
と刻まれている。
 白仙は石見国・津和野藩亀井家の典医で、文久元(1861)年参勤交代
に随行して、帰国の際病を得て当地を訪れたがここで急に息を引き取り、
南土山の臨済宗東福寺派・常明寺に埋葬された。
国元には遺髪が送り届けられたが、鴎外が生まれたのはその翌年という。



 続いて「旅籠木綿屋跡」石標があり、向いには「旅籠平野屋跡」の石
標がある。明治33(1900)年3月午後、森鴎外は軍医部長会出席のため
東京に出張の途次立寄り、祖父白仙の墓参に訪れ平野屋で一泊した。



 ところが墓は無縁仏同様に荒れ果て、見るに見かねて改葬を依頼した。
合わせてご位牌の「信士」位を「居士」と改めるように依頼した。
後に祖母・きよ、母ミネも遺言により常明寺に葬られた。

 その後常明寺の墓は、昭和28(1953)年、鴎外の眠る津和野の永明寺
に移されることになる。又墓地には、昭和63(1988)年に鴎外の子孫が
建てた供養塔が残されていると言う。



 宿場中程にある「東海道伝馬館」の入口付近前庭には、「文豪森鴎外 
来訪の地」碑が立ち、「小倉日記」の一説が刻まれている。
余談だが鴎外は誰に渡すのか、お六櫛を土山土産として買って帰った。(続)





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来見川の来見橋(東海道歩き旅・近江の国)

2023-12-08 | Weblog


 土山宿の家並みの玄関先には、「旅籠鳥居本屋」「たば古屋」、お六
櫛商「三日月屋」などと書かれた、旧屋号の札が掲げられている。
 その先には祠があり、白化粧された二体の地蔵尊が安置されている。
更に右手に旅籠大槌屋跡の石標が続くが、建屋はなく奥行きの深い跡地
だけが残されている。



 次いで右手に東海道一里塚跡石標が見えてくる。
江戸日本橋から数えて百十里目の土山の一里塚跡で、塚木は榎が植えら
れていた。高さ凡2.4m、周囲凡12m程の塚であったらしいが、今は完全
に失われ何も残ってはいない。



 宿場はいつの間にか、北土山から南土山に入ってきた。
街道筋には弁柄塗りの「岩田屋」、「油屋」の表札や、「旅籠 阿波屋」、
「旅籠 寿し屋」、「旅籠 木屋」、「旅籠 海老屋」等の跡地を示す石
標等が次々と現われ、往時の街道の賑わいを今に伝えている。



 「旅籠山本屋」、「旅籠簾屋」、「旅籠釣瓶屋跡」、「旅籠大工屋跡」、
「旅籠柏屋」等と、旅籠跡を示す石柱が次々と現われ枚挙に暇が無い。
 宿場には44軒の旅籠があったと伝えられているので、これら全てに石標
が建てられているのでは、と思える程だ。



 やがて南土山地区の中程を流れる来見(くるみ)川を、来見橋で渡る。
町並との調和を図って造られたのか、瓦葺の白壁土塀造りの欄干が贅沢
な橋である。

 上流側には、東海道五十三次の画が、下流側には、「お茶を摘めつめ 
しっかり摘みやれ 唄いすぎては 手がお留守」と土山茶もみ唄の歌詞
が書かれたレリーフが飾られている。(続)





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