簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

蹴鞠の神社(東海道歩き旅・近江の国)

2024-06-28 | Weblog


 「義仲寺」を出ると東海道は打出浜に入り、その先で京阪線の踏切を
越えるが、石場駅がすぐ右手に見える。
その線路の手前辺りは、嘗ては琵琶湖の岸辺らしいが、すっかり埋め立
てられ琵琶湖は後退し、ここからは殆ど見ることは出来ない。



 「矢走村(矢橋村)江舟場、海上一里」
ここには渡船場が有り、船賃は一人十文という。
石場は「急がば廻れ」の語源となった矢橋との渡舟の大津側の湊である。
渡しの目印の常夜灯・遠見灯籠も残されていたらしく、今は琵琶湖文化
会館の庭園で保存されていると言う。



 線路を越えると道は二叉に分かれるが、東海道は左の道を石場に向け
て進み、その先の二つ目の二叉道は右に取る。

 この辺りは、「上り下り立場。料理茶屋多し」と言われた地で、琵琶
湖に面して、「湖上の景観は無類の壮観」と言われた、風光明媚な地で
あったらしいが、今狭い通りには、古い家並みが続いてはいるが、往時
の賑わいの面影は見られない。



 「松本の平野神社は、天智天皇7(668)年に鎮座、藤原鎌足公が創
建したと伝えられている古社である。

 京都西洞院滋野井に祀られた蹴鞠(けまり)の神、精大明神(蹴鞠の
守護神)を松本の狐谷に移し、後の天正2(1574)に現在地に遷座した
と言われている。(滋賀県神社庁HPより)」



 知らなかったが「ここは蹴鞠の神社として有名らしく、境内にはけま
り神社の社標や石とうろ、神前にまりをふまえた狛犬がある(滋賀県神
社庁HPより)」らしい。

 平成24(2012)に、ロンドン五輪サッカー女子決勝に挑む「なでしこ
ジャパン」が、蹴鞠祭り(八月九日の旧七夕蹴鞠奉納)で必勝祈願を願っ
たという。(続)





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木曽義仲と松尾芭蕉(東海道歩き旅・近江の国)

2024-06-26 | Weblog


 木曽義仲を弔った「義仲寺」は、松尾芭蕉とも所縁深い寺である。
芭蕉が生きた時代と義仲の頃とは、凡そ500年の時代差があるが、芭蕉
は今で言う「義仲推し」「義仲ファン」であった。



 義仲寺の境内のいたるところに句碑が立ち、その数20基程だが、芭蕉
の碑も3基ある。
中でも「行く春を 近江の人と おしみける」は、直筆と言われている。
 「義仲の 寝覚の山か 月悲し」は、義仲が破竹の勢いで京に進撃した
昔をしのんで詠んだといわれる一句だ。



 芭蕉は義仲を深く敬愛し、人情深い大津近江の地、琵琶湖に臨む美
しい景観が殊の外好きだったらしく、「骸(から)は木曽塚(義仲寺)
に送るべし」との遺言を認めていた。

 芭蕉は、「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る」の辞世の句を残し、
元禄7(1694)年10月12日、摂津国で無くなったが、その遺言に従い
「義仲寺」に送られ、義仲の墓の右隣に墓が造られたという。



 境内にある翁堂(芭蕉堂)は、安政5(1858)年に再建された芭蕉翁
を祀るお堂である。
芭蕉亡き後の18世紀頃には、寺の荒廃が進み、半ば忘れられたらしい。
 それを嘆き、生涯をかけて復興に努めたのが蝶夢(ちょうむ)と言う
俳僧であった。彼は芭蕉の百回忌に向けて翁堂を復興した。



 後に「おくの細道」の旅を終えた芭蕉が、その年末に過ごした場所と
言われている。その後も何度か常宿として滞在し、俳諧の会等が行われ
るようになった。

 無名庵に芭蕉を訪ねた伊勢の俳人・島崎又玄は芭蕉の弟子で、「木曽
殿と 背中合わせの 寒さかな」と詠んだ句碑などもある。(続)





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木曽義仲と巴御前(東海道歩き旅・近江の国)

2024-06-24 | Weblog
 源義仲(木曽義仲)は、平安時代末期の源平合戦で活躍した武士だ。
信濃源氏の一統で、源頼朝・義経とは、従兄弟に当たる。
 義仲の生誕から前半生に関する史料は乏しく、出生地は父・源義賢が
館を構えた武蔵国の大蔵館との伝えが一般的らしい。



 義仲は以仁王(高倉宮・後白河天皇の第三皇子)の令旨によって挙兵、
俱利伽羅峠の戦いでは10万とも言われた平氏北陸追討軍を破り、その勢
いで兵を挙げ、都に入り名を成した。
時の義仲は、「まるで朝日が昇るような勢い」だった事から、朝日将軍
と呼ばれるようになる。



 「傲れる者久しからず」の通り、義仲の盛時は長くは続か無かった。
都に入ったものの、義仲の指揮下にあった京中守護軍は充分に機能せず
瓦解状態である。
加えて共に挙兵した叔父の源行家との仲も不安なものとなっていた。



 後白河法皇は、義仲放逐を決意する。
その後源頼朝の命を受けた源範頼・義経らによって京を追われ、粟津
(あわづ)の地で討ち死にする。享年31才であった。



 巴御前は女ながら、義仲と共に戦い、最期を共にしたいと懇願する。
義仲はそれを受け入れず、逆に「自分の分まで生きろと」と諭され、泣
く泣く死に別れることになる。
巴は落ち延びたがやがて、鎌倉幕府に捉えられてしまう。



 後に和田義盛の妻となった巴だが、義盛の死後尼僧と成り各地を巡る
中、当地に留まり義仲の菩提を弔った。
 その後どこともなく立ち去り、何時しか故郷の信濃国木曽に移り住み、
91年の波乱の生涯を閉じたと伝えられている。



 境内には義仲の墓が有るが、これは首から下の胴塚で、首塚は京都の
八坂神社近くの法観寺にあるそうだ。
義仲の墓の横に建つのが、巴御前の供養塔である。(続)




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義仲寺(東海道歩き旅・近江の国)

2024-06-21 | Weblog
 「馬場村にあり。此の所 木曽義仲戦死の地也 仏堂に牌あり」



 鋸の歯のようにギザギザと小刻みに折れ曲がり、木下町から西の庄を
経て馬場町に入り250m程行くと、有名な「義仲寺」が有る。
 平安時代末期、この地で死を遂げた木曽義仲を、側室であった巴御前
が供養したことに由来する寺で、境内には義仲の墓と供に、巴御前の塚
も残されている。



 正式には、「天台宗朝日山義仲寺」と言うが、創建は明らかでは無い。
近江守護の佐々木六角が、室町時代末期に建立したといわれている。

 一説には、義仲はこの地に葬られたがその数年後、一人の美しい尼が
草庵を結び住み着いて、その霊を弔っていた。
里人が名を問うと、「われは 名も無き女性」と答えるのみで有った。



 その為何時しか「無名庵(むみょうあん)」と呼ばれるようになった
が、後に巴御前が義仲を弔い住んだ庵と知れると、別名、巴寺とも木曽
寺とも言われるようになる。

 鎌倉後期の文献には既に現われる様になるが、今日のように「義仲寺
(ぎちゅうじ)」と呼ばれるのは、弘安の頃(1278~88)かららしい。



 有名な寺の割りには、こじんまりと小さくまとまった寺だ。
街道に面して瓦葺白壁の塀を巡らし、その中央に小さな山門を構え、脇
には一本の柳の大木が象徴的に植えられている。 
 柳の根元には、「史跡 義仲寺境内」と彫られた石柱を始め、何本も
の石柱や燈籠が立てられている。



 本堂の朝日堂(ちょうじつどう)や翁堂(おきなどう)、無名庵(む
みょうあん)、文庫などが立ち並ぶ境内全域は、昭和42(1967)年に国
の史跡に指定されていて、拝観は有料である。(続)





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陪膳浜(東海道歩き旅・近江の国)

2024-06-19 | Weblog
 陪膳(ばいぜん)とは、「禁中で供御を奉じる時、又武家で儀式の時
など、膳部の給仕を務める者」(広辞苑)のことである。



 膳所は天智天皇の大津宮の時代、琵琶湖で獲った魚を調達する陪膳浜
(おものはま)といわれた地で、御厨(みくりや)が置かれていた。
 「陪膳浜」は、湖に面した浜一帯の古い言い方で、膳を賄う所が有っ
た事から、「膳所」という地名になったらしい。
今でも街道沿いに、琵琶湖名産の川魚を商う店を見ることが出来る。



 江戸時代になると、瀬田の唐橋や東海道を掌握する為、徳川家康が大
津城を廃城とし、膳所に新たな城を築いて以来、軍事的な城下町として
栄えていきた。その為か、膳所城下を抜ける東海道は、まるで鋸の歯の
様に何度も折れ曲がる。

 二十七曲りと言われた岡崎城下程では無いが、曲り道が多いのも如何
にも要衝の城下町らしい。



 貞享2(1685)年の資料によると、総人口は3,094人とされる。
総戸数は930軒で、内訳は侍屋敷が499軒、町家が409軒あり、寺院は何
と22カ寺にものぼり、一朝有事の備えが成されていたことが窺える。



 木下町に和田神社があり、本殿は鎌倉時代の建築で重要文化財という。
和田神社から敬願寺を過ぎ、更に響忍寺に突き当り、そこを右折する。
 この寺は元々膳所城周辺にあった。
火災により焼失したが、宝暦元(1751)年に膳所藩家老・村松八郎右衛
門屋敷跡に再建された。表門と中門には屋敷門が使われている。



 小さな相模川を渡り西の庄に入ると、石坐(いわい)神社が鎮座して
いて、更に桃源禅寺、法伝寺を見て、馬場町に入る。
道辺に「膳所城北惣門跡」の石碑が立っていて、ここが昔の膳所藩北の
入口である。(続)





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膳所本丸町(東海道歩き旅・近江の国)

2024-06-17 | Weblog


 旧東海道は、京阪・中ノ庄駅の手前で、右に曲がり北に進路を取ると、
膳所商店街の通りに入ってきた。この辺りからが、膳所本丸町である。
 右側に真宗大谷派・景澤寺、更に先の左側には真宗佛光寺派の大養寺が
あるが、門は武家屋敷の門で、膳所六門(長屋門)の一つとされている。
この辺りはこの宗派の寺が多いようだ。



 嘗ては城下町として栄えた膳所商店街ではあるが、最近ではスーパー
やコンビニの進出、跡継ぎ不足、若手の減少等で商店街は此の所衰退気
味らしく、「とれとれ市」の開催や、お城の桜祭りと協賛し、街灯に桜
の花を飾るなど振興策を続けているらしい。
通りには空き店舗も目立ち、現在加盟する店舗は30軒余と言う。



 膳所本町駅に通じる交差点で、左奥に膳所神社を見る事が出来る。
「表門」は膳所城から移築された薬医門(重要文化財)と言い、廃城令
に当り、お城の多くの門が壊されることもなく、こうして城下の寺に引
き継がれ、今では文化財として残されていることは結構だと思う。



 反対側は、200m余りで膳所城跡が琵琶湖に面して有り、天守閣が有
った所は膳所城跡公園として整備されているらしいが、ここからはその
様子は窺えない。この辺りを今では本丸町、先に続くのが丸の内町とい
うので、どうやら本丸の跡地らしい。



 縁心寺の門前には、「膳所城主御菩提所」の石柱が立てられている。
説明によると、膳所藩主本多氏の菩提寺で、元は栄泉寺といい、瓦寺と
も通称されていた。当時膳所や大津には瓦葺の寺院がなかったなかで、
唯一この寺だけが瓦葺であったからこのように言われたという。(続)





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旧城下町の通り(東海道歩き旅・近江の国)

2024-06-14 | Weblog
 

 京阪本線の瓦ヶ浜駅の横で踏切を越え、旧道を行くと真宗佛光寺派
専光寺がある。山門越に見える大屋根の建物は「鐘楼」らしいが随分
と高い位置に有り立派だ。
 開基は寛正6年(1465)正善によるが、ご本尊は阿弥陀如来という。
山門前には厳めしい鉄製のフェンスが立てられていて、山内には入れ
ないようだ。



 更に先には同じ宗派の光源寺と寺が続き、瓦ヶ浜駅から200mほどの
ところ、中庄には「縣社 篠津神社」がある。
 慶長7(1602)年の建築というこの瓦葺の表門(高麗門)も元はお
城の北大手門だったもので、明治の廃城令によりここに移築された。
重要文化財に指定されている。
街道からは遙か奥に見えている本瓦葺きの門がそれらしい。



 これまでの通りでは、卯建が上がるほどの豪商のお店は見られないが、
それでも「通り庇」の下に「格子」を構え、「虫篭窓」を開けた軒の低
い二階屋が幾らか散見された。
 なかには「ばったり」や「犬走り」に「駒寄せ」を備えた家もある。
また昔ながらの老舗の商店も多く、旧城下町のメインストリートらしい
趣を見せている。



 この辺り東側は、琵琶湖の最南端部に当り、流れ出る瀬田川に向け、
湖の幅が漏斗の様に絞られている場所だ。
 当時の旧道は、そんな湖岸に沿うように通されていたのであろうか。
左程広くは無い道が、幾つも直角に曲りながら、その進路を北から徐々
に西に振り抜けて行く。



 正面に白壁土蔵の何か、曰くありげな建物が見えた。
そこで街道は鍵の手に曲ると、その右隅に「晴耕雨奇亭跡」が有った。
 膳所の名金工師の屋敷があった場所らしい。
更に150m程西進して、中ノ庄駅の手前を右に曲がり北に向かうと、膳
所商店街の通りに入っていく。(続)





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膳所藩(東海道歩き旅・近江の国)

2024-06-12 | Weblog
 膳所藩の城下に入った街道は、防御のために何度も曲りを重ねる特
有の道筋となる。
惣門から北に曲がるところに若宮八幡宮がある。



 この表門は、明治に入り膳所城が廃城になった折り本丸の犬走り門を
移築したものだ。明治の廃城令で膳所城は天守閣以下の建物が次々と解
体され、売りに出された門などが移築されて行ったと言う。



 膳所藩は、近江国膳所城に藩庁を置いた藩で、代々譜代大名がここを
拠点に統治した。京都の入口に当たり、昔から「瀬田の唐橋を征するも
のは天下を征する」と言われるほどで、家康もこの地を重要視していた。



 膳所藩には瀬田の唐橋を守る重要な任務が与えられていたらしい。
江戸時代初期の頃には、三万石の藩主家が短期間で交替していたが、そ
の後本多家が再封されると七万石となり、石高は近江国では彦根藩(井
伊家)に次ぐ規模であった。
江戸城での控えの間は「諦観の間」で、決して低い地位ではなかった。



 膳所には纏わる思い出もあり、懐かしい故郷を訪ねた様な気がする。
とは言え、これまでに来た覚えはないが、もしかしたら幼き頃、母親に
連れられ、訪れているのでは・・・と、何だかそんな風に思えてくる。



 そんな膳所藩の領内を、何度も曲りながら、ゆっくりと記憶を見極め
ながら抜けていく。街道筋は、城下町らしく落ち着いた町並で、格子を
嵌めた町屋など趣のある建物も幾らか目にすることが出来る。

 京阪線の踏切を越えると杉浦町の追分けで、右に折れるとその先で瓦
ヶ浜駅を見ながら再び踏切を越える。この辺りでは京阪線と旧道が絡み
合っている。(続)





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お馬廻り役(東海道歩き旅・近江の国)

2024-06-10 | Weblog
 東海道は御殿浜(ごてんはま)で左に曲がるが、その角の民家の玄関
前に「膳所城勢多口惣門跡」の石碑が立っている。
南惣門の番所だったお宅らしく、昭和46(1966)年に建立された碑だ。
直ぐ横には、お地蔵様の小さな洞も立っている。



 街道は、既に膳所藩の城下に入っているらしい。
「膳所」と書いて「ぜぜ」と読ます難読地名のひとつであろうが、何故
かこの地名だけは、親しみがあり、物心付いた頃より、耳にこびりつい
ていて、漢字の表記も難なく読み下すことが出来る。



 何時の頃からかは定かでは無いが、可成り小さい頃から何度も何度も
聞かされ、記憶の中に刻み込まれてきたように思う。
その頃はこれが大津の地名とは知る由もないが、「ぜぜ」と言う言葉の
響きが強く印象に残っている。



 幼少の頃同居していた母方の祖母は、事ある毎に「膳所三万石のお馬
廻り役」、と先祖自慢をしていた記憶がある。
 「お馬廻り役」が、どれほどのものかも当然知ってはいず、聞かされ
ればただ「偉いお侍さんだった」との印象を抱いていたようだ。

 因みに、「お馬廻り役」とは、大将の馬側に近侍して、己の身を持っ
て護衛にあたった騎馬の武士のことだ。



 代々が尾張の国は川名村の水飲み百姓の小倅であった親父は、先祖自
慢をするプライドの高い祖母を煙たがっていたのかも知れない。
 そんな劣等感から来る反骨心からか、親父は正式で無いようだが、茶
や生け花を囓っていたようだ。



 こうして奇しくも現地を訪ね、街道を歩いていると、既に鬼籍に入っ
て久しい二人が懐かしく思い出されるてくる。
 と同時に、内心では何かと面白くは無かったのでは・・・、当時考え
もしなかった親父の心中が分かったような気がしてくる。(続)





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粟津の晴嵐(東海道歩き旅・近江の国)

2024-06-07 | Weblog
 東海道は、JR琵琶湖線の下を地下道で潜り抜ける。
京阪の踏切では遮断されるたびに人も車も滞っていたが、こちらの流れ
はスムーズだ。

 線路を越えると周辺には日本精工やローム等の大きな工場が立地して
いるが、宅地にでも転用されるのか、一部では取り壊しが行われていた。



 街道は工場の間を抜けているが、この辺りの地名を「晴嵐」という。
嘗てここは「松の並木が八丁に渡り続いていて、粟津原と言う」風光明
媚な地で、近江八景の一つ、「粟津の晴嵐」として知られたところだ。
粟津はその昔は「粟津野」とも「「粟津の森」とも呼ばれていたらしい。



 晴嵐とは、「よく晴れわたった日に、山から立ち上る気(山霞)」、
また「晴れた日に吹きわたる山風」のことを言うらしい。
 ここは遙か遠くに比叡山が霞む地で、街道筋の瀬田の鳥居村から膳所
南の入口付近まで、五百本を越える松並木が続いていた。



 強風に松の枝葉がざわめく様子から「粟津の晴嵐」と言われた。
この粟津原の松葉は、こんな強風に揺すられ、落ちても色がよく、取り
分け太いので、「瀬田まつば」として、珍重されたという。



 今では当時の松並木は無く、所々にその名残と思われる松が、一本二
本と残るのみである。
 東海道街道筋の少し東、琵琶湖の湖岸には、約4.8kmに渡って続く細
長い公園「大津湖岸なぎさ公園」が整備されている。



 「名勝 粟津の晴嵐」の石碑が立ち、若い松並木が植樹され、数十年
後の「粟津の晴嵐」が期待されているらしい。公園からは、北に膳所城
跡公園・近江大橋、対岸の湖東に近江富士等が眺められるという。(続)





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