簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

鈴鹿越え(東海道歩き旅・近江の国)

2023-10-30 | Weblog


 東海道で峠越え「難所」といえば、真っ先に思い浮かぶのが箱根峠だ。
小田原と三島宿の間にあり、途中に箱根宿や関所を有する、東坂四里・
西坂四里の峠越は、天下の険と言われる街道最大の「難所」である。



 その先も由比と興津宿の間の薩田峠、丸子と岡部宿の間の宇都ノ谷峠
と「難所」が続く。
更に、島田宿を出て「越すに越されぬ」大井川を越えて、金谷坂の上り
下り、それに続く小夜の中山を越え日坂に到る間は、間に金谷宿が有る
とは言え、川と峠越えの連続する「難所」中の「難所」であった。



 遠江の国も掛川宿に入ると道程はほぼ平坦で、それは三河から尾張、
伊勢の国の庄野宿辺りまで続き、平穏な道中を続ける事が出来る。

 次の亀山宿を出る辺りで、進路が西向きに変わると道は徐々に高度を
稼ぐようになるが、行く手を阻むのは鈴鹿山脈である。
其処には西の難所、鈴鹿峠越えが待ち受けている。



 伊勢と近江の国境にまたがる、鈴鹿山脈を越えるのが鈴鹿峠越えだ。
古くは「阿須波道」と呼ばれ、仁和2(886)年に開通したとされる。

 鈴鹿峠は、三子山(568m)と高畑山(773m)に挾まれた、鈴鹿川
源流域辺りの峠だ。古くから和歌等では「鈴鹿山」として登場するが、
鈴鹿山脈にこの名の山は存在しない。
「三子山」か「鈴鹿峠」を指しているものと考えられている。



 「八丁二十七曲り」の急な山道は、多津加美坂と呼ばれ、所々に清水
が湧いていた。峠を越えると比較的緩やかな下り坂に転じて行く。
とは言え山深い峠越は、古くから山賊の出没が懸念され、江戸時代には
箱根越えに次ぐ西の最大の難所として恐れられていた。(続)



   こちらも、ご覧ください 


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菱川吉衛(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

2023-10-27 | Weblog


 身分は岡山県平民で菱川合名会社代表社員、生まれは弘化元(1844)年
九月十五日の江戸末期、岡山城下磨屋町に生まれ、明治、大正に活躍、
昭和初めに没。この人物、名を「菱川吉衛(きちえ)」と言う。



 鉄道敷設に情熱を傾け、大正13(1924)年、岡山臨港鉄道の開設の免
許を申請している。
岡山駅を起点に鹿田(後に都市計画で路線が付け替えられ大元駅)、二日
市、七日市を経て、御津郡福浜村に至る約8.9㎞の宇野線蒸気鉄道計画だ。 
   
 合わせて福浜港の水深を整備し、千トン級の船舶が横付け出来るよう拡
幅、港と市街地を最短距離の鉄道で結ぶ計画だ。



 菱川の申請書を受けた県知事は、水陸の連携は重要だが、三蟠鉄道の経
営に甚大な影響を与えることを憂慮し申請を却下した。
又、三蟠鉄道の社長も旭川の対岸に鉄道ができると、両者の競争が激しく
なり、自社の存続は難しくなる、と敷設に反対する陳情書を提出していた。



 菱川は、これまでの岡山市の交通体系の不統一と整備の遅れを大いに危
惧していた。特に三蟠港や宇野港等主要な港が岡山駅に繋がっていない。

 三蟠鉄道や西大寺鉄道も市内で路面電車との接続は有るが、岡山駅とは
直接繋がっていない。このように水陸交通の連絡・連携、一体化が出来て
いないのが岡山市の発展を妨げていると考えていた。



 しかし菱川のこうした思いは伝わらず、計画は頓挫した。
後の時代になり、岡山臨港鉄道は旭川右岸の岡山港から国鉄宇野線・大
元駅を結ぶ鉄道で、昭和26(1951)年実現している。

 菱川の計画は、この一代前のもので、実現は出来なかったが、この開
通で先見の明を証明した。
 三蟠鉄道の廃線跡歩きを機に関連の資料を調べるまで、「菱川吉衛」
の名は知らなかったが、岡山の鉄道史では欠く事の出来ない人物らしい。


 
(三蟠鉄道廃線跡を歩く・完)(写真:宇野港周辺)

次回から、「東海道五十三次歩き旅 近江の国編」が始まります。



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三蟠鉄道資料館(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

2023-10-25 | Weblog
 市内中心部に近い國清寺門前から、三蟠軽便鉄道の廃線跡を辿ろうと
歩いて来た。しかし開業から100年を越え、廃線からも90年を過ぎた今、
開発の著しい旭東や岡南地区で、当時の痕跡を見付けるのは最早困難と
思い知らされた。



 所々に僅かながら、それらしき形状の道路を見ることはあっても、廃
線跡との確証が取れない。川岸に橋台跡らしきものを見付けても同様だ。
駅跡も、距離から割り出してこの辺りと推測するだけである。
今や「幻の鉄道」と言われる鉄道である、痕跡の見極めなど尚更だ。



 今日唯一と言って良い遺構として残るのは、当時の三蟠駅舎である。
一時期、バスの待合所に利用されていたらしいが、今は釣具店に変わり、
傍らに三蟠鉄道資料館を併設し残されている。 



 元々は、桜橋駅舎として使われていたもので、廃線と同時にここに移
築され、二代目終着駅となったもので、築百年を超えているという。
建物の裏側には、僅かながら記念のモニュメントも設けられている。



 長年水深に悩まされてきた旭川だが、市内各地で開発が進むと、コン
クリートと共に、砂利の需要が高まり、川床が注目されるようになる。
結果砂利採取で浚渫が進み、水深の浅い旭川も小型内燃機関を搭載した
船舶の運行が可能となり舟運が盛り返す。
すると京橋港の外港としての三蟠港の必要性は急速に低下す事になる。



 加えてバスの台頭で乗客を奪われ営業成績は悪化、追い打ちのように
都市計画道路に軌道敷の売却を余儀なくされるに到る。
結果、鉄道は昭和6(1931)年6月28日、僅か16年にも満たない短命で、
無念の内に営業を終えるが、それは予告も無い、突然の事だったそうだ。(続)



間もなく「東海道歩き旅・近江の国編」が始まります。


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三蟠駅(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

2023-10-23 | Weblog


 起点の国清寺駅から四哩五分(7.2㎞)、三番工区の干拓地に開かれた
三蟠港に接続する地に鉄道の終着駅・三蟠駅が設けられた。

 駅の付近の干潟では潮干狩りが楽しめたという。
対岸の福島等の地区が干拓されるのは昭和に入ってからの事で、当時は
まだ遠浅の海が広がっていたようだ。



 又高島公園・高島神社が備前八景の一つとして案内されている。
「月はなほ 松の梢に高嶋の 波の玉にも影を宿して」
池田綱政が詠んだ「高嶋秋月」の詩である。

 今日の旧駅の周辺は、内山工業、ヤンマー農機製造会社、岡山生コン
クリート会社等の工場が立地し、それを取り巻くように住宅も沢山建ち
並んでいる。
恐らくこれらによって当時の面影は消え、変ってしまったのであろう。



 三蟠駅では汽車の到着と連絡して、各方面へ連絡船が運航されていた。
目前の対岸、児島半島飽浦には旅客と貨物を混載した発動機船が出ていた。
児島湖西端の八濱へは一日三便、反対の東方、小串や番田方面へは二便の
連絡船が出ていた。



 長距離便としては、牛窓に向けて水門、久々井、宝殿、子父雁、西脇、
鹿忍を経由する便が毎日一往復運航されている。
更に四国・高松に向けた連絡船も有り、毎正午に出港し犬島、小豆島の
土庄、池田、下村を経由して高松に連絡していた。



 三蟠港には、石炭の積み込み場等もあったようだが、今は堤防の護岸
工事により巨大な堤防の下に埋め込まれ港は消滅した。
元々この鉄道の目的は沿線に出来た工場などへ燃料となる石炭を輸送す
るもので、貨物輸送は経営の生命線であった。

 当初、旅客も貨物も最大のライバルは、旭川の船便であった。
時代が昭和に入ると、旅客輸送では急速に進出を広げる乗合自動車と旅
客を奪い合う新たな競争も始まった。(続)





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濱中駅(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

2023-10-20 | Weblog
 宮道駅は、沖田神社の最寄り駅として大いに賑わった。
昔の人は健脚で、往復すれば5㎞以上の道程を歩いて参拝に訪れていた。
沿線でも駅の営業成績はトップクラスで、それを支えたのが参拝客である
が、ここには海水浴客も多く訪れていた。



 海水浴場は駅の西二丁の距離に有り「旭川の浅瀬で、水底は砂白く水
清く、婦人子供の水浴に好適場」と紹介されている。
 鉄道会社は目の前の宮道海水浴場の運営をし、食料販売店を開店する
傍ら、三蟠駅構内の空き地に水族館を開館する等多角経営を行っていた。



 鉄道の線路は、沖新田の田畑の中を直線的に敷かれ、起伏の少ない平
坦な路線であった。
 当時途中に大きな村落はなかったが、今では干拓地を思わす広大な田
畑が一部残るものの、用地開発も進み、新しい住宅や工場等も立地して、
線路跡の特定はますます困難となっている。



 特に整備中の地域高規格道路岡山環状道路(所謂外環状線)の一部と
して平成4(1992)年、旭川最下流に岡南大橋が架かると、新たな商業
施設や大型店舗なども立地し開発に拍車が掛かった。
 それだけに廃線から一世紀にならんとする今日まで、その痕跡を残し、
維持するのが難しいのは無理からぬ事だ。



 濱中駅は国清寺駅より三哩六分(5.7㎞)、当時の上道郡三蟠村に設
けられた。駅から西に一丁も行くと旭川の河口が広がり、四季を通じて
釣り客が多く、賑わったという。
昭和の初め頃は、旭川右岸はまだ干拓されていず児島湾が広がっていた。



 鉄道の経営は何時までも安泰とは言えず、昭和に入ると進出を広げる
乗合自動車との競合が激しくなる。
気動車などを導入して、時間の短縮や運転本数の見直し等で対抗するも、
その頃になると浚渫が進んだ旭川舟運の盛り返しもあり、三蟠港の必要
性も次第に薄れていく。(続)





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宮道駅(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

2023-10-18 | Weblog
 三蟠鉄道の各駅では、駅周辺の観光案内として寺社や史蹟が多く紹介
されている。起点より二哩七分(4.4㎞)、当時の上道郡三蟠村に設けら
れた「宮道駅」も例外ではない。

 国道2号線岡山バイパスを潜り、宮道のバス停が有る辺りが丁度その
距離で、この辺りに駅が有ったのではと推測する。
この駅は、神社の参道への最寄り駅であった。



 ここでは、駅より東二十五丁(凡そ2.7㎞)の、「縣社沖田神社」が
案内されている。干拓地に開かれた直線道が延びていて、百間川に突き
当たる少し手前に社は鎮座している。
 岡山藩主・池田綱政の命により藩郡代・津田永忠が奉行となり、凡そ
2000町歩が干拓され、新田として開発されたのが沖新田である。



 当時の沖新田六ケ村の総鎮守・産土神として、綱政の命により「沖田
神社」が、元禄7(1694)年建立された。
 当初は福島にあったが、後にここより南の沖元に遷された。
しかし沖元は土地が低く度々冠水被害を受けるので、15年後に当地に遷
座され今に到っている。



 大鳥居を潜ると正面に、平成23(2011)年に新築された荘厳な権現
造りの社殿が聳えている。一番手前が拝殿その奥に釣殿、弊殿と続き、
最奥がご本殿である。
境内には干拓の功労者、津田永忠の像も祀られている。



 末社も多く、中でも最大は道通宮で、豊臣秀吉の水攻めで知られる備
中高松城主・清水宗治の次男「長九郎」所縁の社である。
 哀れを誘うのが、本殿の背後にひっそりと佇む「沖田姫神社」である。
難航した最後の潮止め工事では、「きた」という若い女性が人柱として、
龍神に捧げられた。



 神社の本殿下に五輪塔と祠があり、人柱となった女性を祀ったものと
の説があるが、何れも伝説で史実かは不明らしい。
 しかし「きた」は、干拓地の鎮守神「おきた姫」として、今では当神
社の祭神となり、地元では深く敬愛されている。(続)





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ばななかすてら(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

2023-10-16 | Weblog
 下平井を出た三蟠鉄道は、少しずつ進路を旭川に寄せながら南進し、
次の宮道を目指す。
この辺りも線路跡を辿る事は極めて困難で、その痕跡すら解らない。
今ではその途中を、国道2号線岡山バイパスの高架に遮られているので
尚更である。



 ここで迂回を余儀なくさせられたことを幸いに、バイパス道路の前に
ある「ばななかすてら」の「福岡製菓所」に立ち寄って見た。
そこは工場直売店で、少し前までは焼きたて、アツアツの「ばななかす
てら」が食べられるとあって、これが人気を呼んでいた。



 嘗てバナナは高級品であった。
日本に初めて輸入されたのは、明治36(1903)年、台湾からやって来た。
今でこそスーパーやコンビニで簡単に手に入るが、当時は高価な憧れの食
べ物で、貧乏人の口にはおいそれとは入らず、唯一例外は土産で貰うか、
病気をした時位であった。



 バナナを何とか食べたい、そんな思いから考案されたのが、バナナ風
味の「ばななかすてら」である。カステラ生地を、バナナを模した型に
入れて焼き上げたもので、中にバナナ果肉や果汁を混ぜた微かなバナナ
風味の白餡が入っている。



 大正6(1917)年に、この「福岡製菓所」が作り販売したのが始まりと
言われている。
 バナナの輸入が自由化されるのは、昭和38(1963)年の事であったが、
安価で素朴なバナナ風味の焼き菓子は、今でも愛され続けロングセラーと
なっている。



 久しぶりに来てみたら、流石にこの時代で有る、鮮度保持剤を入れた
個別包装で売られていた。それでも伝統を守る職人ひとりひとりが焼き
上げた、しっとりしたカステラにバナナ風味の白餡は昔と変らない素朴
な味で、歩き疲れた身を甘味が癒やしてくれた。(続)





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下平井駅(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

2023-10-13 | Weblog
 鉄道はその先で緩く左カーブしながら、眼鏡店辺りで一旦県道に接し
た後、直ぐに右カーブで離れていく。その先は完全に住宅地で、線路跡
を辿る事は不可能だ。住宅地の中を、ウロウロキョロキョロと廃線の痕
跡を探して歩くことは、不審者に間違えられ兼ねず流石に不味い。



 国清寺より二哩一分(3.3㎞)に下平井駅があった。
場所的にはベビー用品店の南側住宅地辺りと思われるが、確証はない。
開業当初はここが平井駅で、先の上屋敷駅が「上平井」に改称されたと
同時に、「下平井」となった。



 駅の観光案内には対岸の濱野にある、「法華寺の一宇老松」が紹介さ
れていた。鉄道が開通した大正期、旭川に架かる橋は城下の京橋のみで、
その下流には何も無かった。

 まだ桜橋が無かった頃、対岸へは少し上流の湊と船頭町を結ぶ舟渡し
あり、明治の初め頃まで行なわれていた。
この辺りに有ったか否かは、調べてみたが良く分からなかった。



 又この法華寺が何所なのかも良く解らないが、対岸には法華宗本門
流の松寿寺が有る。昔から備前地域は、「備前法華」と言われる地で、
法華(日蓮宗)の門徒が多かった。その事から「法華の寺」の意かと、
思ってみたりもするがそれも良く解らない。



 JR宇野線は、妹尾から八浜の間は、逆「コ」の字を描いて、終点の
宇野へ向かっている。これは嘗ての海岸線を辿っているからで、その海
は明治以降に干拓され新田に変っている。
 後にこの干拓地には、国道30号線が開通したが、開拓地の中を真っ直
ぐに南に向けて貫いている。



 当時の三蟠鉄道の車窓からは、備前八景の一つ「常山」を望むとある。 
干拓の進む広大な地の先西南方向に、児島半島で児島富士の異名を持つ
常山(307m)が望めたのであろう。(続)



(上二枚写真:常山)



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上平井駅(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

2023-10-11 | Weblog
 県道45号岡山玉野線(通称「産業道路」)の倉安川交差点を西に渡る
と、その南西角に当時の路盤が一部残され、復元されたレールと貨車が
展示されている。そばには駅名標を模した説明書や、岡山市が設置した
「岡山歴史散歩」の案内板がある。



 三蟠鉄道の営業距離は7㎞余りと短く、多くの車輌を必要としなかっ
たのか、所有機関車は僅か3両だという。
その他に貨車や客車を所有していたが、多くは貨客混合列車での運行が
行なわれていたらしい。この貨車が当時使われていた物なのかは知らな
いが、おもちゃの様な小さなトロッコである。



 廃線跡はほんの僅かなもので、その先は県道沿いに建ち並ぶ大型店舗
の中で、痕跡は消えている。県道を外れ、その西側の堤防道路に出て南
に進むと、眼鏡店とスーパーの境辺りの用水路に、橋台跡が残されてい
るのがわかる。



 残念なことに説明板が設けられているが、文字が消えかかり読み辛い。
訪れた日は、周囲は荒れ放題で伸び始めた夏草に覆われていた。
 後日再び訪ねて見ると、雑草は刈り取られ、綺麗に清掃されていた。
町内会か保存会の方がボランティアでされている様で、遺産を残そうと
する思いが伝わってくる。



 国清寺駅より一哩五分(2.4㎞)の所に「上平井駅」があった。
場所的にはホームセンターの少し南西辺りだが、周囲は住宅が建て込み、
場所の特定は困難だ。
 
 開業当初は上屋敷駅と言ったが 大正13(1924)年に改称された。
駅の観光案内には、近くにある老松「常山蛇勢松」が備前八景の一つと
書かれていたらしい。



 この先沿線に「平井山・妙広寺」が有り、境内に樹齢数百年の松が四
方に勢い良く枝を伸ばして生えていたが、戦後枯れて切り倒したという。
寺の境内には、その名残の石碑が残されているそうだ。
因みに「常山蛇勢(じょうざんのだせい)」は、「隙が無いことの例え」
らしい。(続)





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世界かんがい施設遺産・倉安川(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

2023-10-09 | Weblog
 湊駅を出た鉄道は、その先の上平井駅に向かう。
倉安川の鉄橋を渡ると、すぐ南の県道倉安川交差点で県道を離れその
西側に入り込む。
県道沿いに大型のスーパー、ホームセンターが立ち並ぶ地域である。



 倉安川は江戸時代に開削された人工の運河で、東部の吉井川と中央部
の旭川を総延長約20kmで結んでいる。
 岡山藩主・池田光政が、延宝7(1679)年に、郡代・津田永忠に命じて
掘削に当たらせた。工事の詳細は未だ明らかではないが、僅か1年で終
えた事から、何らかの既存の川を利用したとも言われている。
その竣工は、スエズ運河やパナマ運河よりも早い時期である。



 この頃藩では干拓工事が頻りに進められ各地に新田が開発されていた。
結果、田畑を潤す水の不足は深刻で、安定した確保が必要であった。
また当時は、児島を廻る瀬戸内海経由で年貢米輸送が行なわれていたが、
その短縮路としての期待も込めて運河が開削された。



 工事の難題は、吉井川と旭川の高低差4mをどう克服するかである。
奉行の永忠は、吉井川の出入り口に舟通しの水門を設け、高瀬廻しと呼
ばれる船溜りを作り、倉安川側にも水門を設ける事で問題を解決した。



 水位の高い吉井川から船を入れる場合、倉安川水門を閉めて船を入れ、
その後吉井川水門を閉め、倉安川水門を徐々に開けながら水位を調節し、
水位が揃ったら船を出す。
 所謂閘門(こうもん) 式と呼ばれる施設である。
吉井川には、日本最古の「倉安川吉井水門」が現存している。



 水に纏わる研究をされる現天皇は、皇太子時代ここを訪ねられている。
又令和元(2019)年、「倉安川・百間川かんがい排水施設群」が、国際
かんがい排水委員会により「世界かんがい施設遺産」に認定された。(続)



(上二枚写真は「倉安川吉井水門」)



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