東海道で峠越え「難所」といえば、真っ先に思い浮かぶのが箱根峠だ。
小田原と三島宿の間にあり、途中に箱根宿や関所を有する、東坂四里・
西坂四里の峠越は、天下の険と言われる街道最大の「難所」である。
その先も由比と興津宿の間の薩田峠、丸子と岡部宿の間の宇都ノ谷峠
と「難所」が続く。
更に、島田宿を出て「越すに越されぬ」大井川を越えて、金谷坂の上り
下り、それに続く小夜の中山を越え日坂に到る間は、間に金谷宿が有る
とは言え、川と峠越えの連続する「難所」中の「難所」であった。
遠江の国も掛川宿に入ると道程はほぼ平坦で、それは三河から尾張、
伊勢の国の庄野宿辺りまで続き、平穏な道中を続ける事が出来る。
次の亀山宿を出る辺りで、進路が西向きに変わると道は徐々に高度を
稼ぐようになるが、行く手を阻むのは鈴鹿山脈である。
其処には西の難所、鈴鹿峠越えが待ち受けている。
伊勢と近江の国境にまたがる、鈴鹿山脈を越えるのが鈴鹿峠越えだ。
古くは「阿須波道」と呼ばれ、仁和2(886)年に開通したとされる。
鈴鹿峠は、三子山(568m)と高畑山(773m)に挾まれた、鈴鹿川
源流域辺りの峠だ。古くから和歌等では「鈴鹿山」として登場するが、
鈴鹿山脈にこの名の山は存在しない。
「三子山」か「鈴鹿峠」を指しているものと考えられている。
「八丁二十七曲り」の急な山道は、多津加美坂と呼ばれ、所々に清水
が湧いていた。峠を越えると比較的緩やかな下り坂に転じて行く。
とは言え山深い峠越は、古くから山賊の出没が懸念され、江戸時代には
箱根越えに次ぐ西の最大の難所として恐れられていた。(続)
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