簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

もてなすくん風船(東海道歩き旅・山城の国)

2024-08-30 | Weblog


 山科に入り山科銀座とも言われる山科三条街道商店街を歩きながら、
ずーっと気になっていた。
通りの家屋の軒先で見かける紫色をした大きな風船の事である。
聞けば「もてなすくん」のビニール風船だと言う。



 「もてなすくん」とは平成19(2007)年9月、地域を盛り上げる為、
京の伝統野菜の一つ「山科なすび」をモチーフに考案し誕生したご当地
ゆるキャラだ。

 くりくりとした大きな目、一本線で大きく引かれた口、頭はナスのへ
たで三枚あり、「山科なす」に似せて紫色で作られていて、山科区の公
認キャラクターになっている。



 ビニール風船にし、膨らまされ、町中の至る所に吊されている。
スポンサーを募り、山科区内の区役所・警察署・消防署・JR山科駅・銀
行・企業・一般の家庭等を中心に風船を飾り、山科をもっと、もっと元
気しょうとの取り組みらしい。
 
 因みに「山科なす」は、昔はこの地区で生産されていたらしいが、今
では名前だけが残っていて生産は殆ど無いようだ。


 
 道路脇に「吉祥山安祥寺」と太く刻まれた石柱が建っていた。
安祥寺は北へ500m程は行ったところにある、高野山真言宗の寺院だ。
開創は、弘法大師の孫弟子の恵運僧都で、今から約1170年前、京都に
都が遷され平安時代となって約50年後の嘉祥元(848)年と言う。



 嘗て長さ五間の土橋が架けられていたと言う陵(みささぎ)川を渡る。
ここに渋谷越しの道標が有ったらしいが、見落とした。

 旧道沿いの民家の前に「愛宕常夜灯」が建てられていた。
昔からここ京都でも「火伏せの神様」として「愛宕さん」は有名らしく、
安政3(1855)年2月に建立されたものだ。(続)



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奴茶屋(東海道歩き旅・山城の国)

2024-08-28 | Weblog
 徳川幕府は、街道では一般の車の往来は固く禁じていた。
とは言え、この時代には既に車輪を作る技術は確立されていた。
大八車などが普及していて、許可を経た車は往来していたようだ。

 更に江戸時代も後期になると、物流の重要性を鑑み、次第に車の為の
道路整備も行なわれるようになる。



 大津には京都の外港である大津湊が有り、東海道が流通路であった。
逢坂峠から、日ノ岡峠超え道は荷物を運ぶ牛車の為に花崗岩の厚板石に
よる舗装車道が整備されている。
 車道は単線の一方通行で、午前は京都から大津、午後は大津から京都
へ向かう運行となった。

 又伏見から京都への竹田街道、下鳥羽から京都への鳥羽街道の主要街
道も時を同じくして同様な整備が行われたという。



 旧三条通の東海道は、山科駅前に通じる交差点にやって来た。
右手突き当りは京阪京津線の山科駅で、その奥がJRの山科駅である。
 この地下には、南北に、京都地下鉄東西線も走っていて、南に行けば
区役所もある。
廻りにはホテルや大型商業施設、遊技場、マンショビルなどが立ち並び、
山科区の中心的な場所らしい。



 この辺りには昔立場が有り、「奴茶屋があり、ひげ茶屋九左衛門」と
言われていた。当家の先祖・片岡丑兵衛は勇猛な射術の達人と言われ、
街道筋に立ち横行する夜盗達を、弓矢を持って懲らしめていたと言う。
以後ここは茶店、本陣として利用されてきた。



 明治天皇は東幸の途中、東海道沿いの毘沙門堂領地内にあったと言う
「奴茶屋」に駐輦した。これを記念した蹟碑が、「ホテル山楽」の南側
東海道筋に建てられている。



 茶店は、明治期以降も料亭として残されていたらしい。
平成6(1994)年、山科駅前再開発に伴い建物は取り壊わされたと言う。
現在の「RACTO山科SC」の建つ辺りに有ったらしい。(続)



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一朝有事の備え(東海道歩き旅・山城の国)

2024-08-26 | Weblog


 街道を整備した江戸幕府は江戸への防護策として、各宿場町の前後に
多くの社寺を整備し、一朝有事に備えたと言われている。
この四ノ宮から山科に到る街道筋にも多くの社寺が鎮座し、さながら寺
町を構成し、都への押さえとなっているようだ。



 諸羽神社は街道筋からは300m程北に有る神社で、貞観4(862)年、
清和天皇の勅命で建てられた古社である。
山科十八郷の中で第四位に当たる「四ノ宮」とされ、古くから近郷の産
土神と崇められてきたという。
四ノ宮という地名は、この社に由来するとの説も有るらしい。



 更にそこから600m程北にあるのが瑞光院である。
嘗ては赤穂・浅野家の祈願寺で、臨済宗大徳寺派の寺院であった。
忠臣蔵で知られる大石内蔵助が建立した赤穂藩浅野長矩公の墓が有り、
赤穂義士46人の遺髪を埋葬した塔を中心とした廟所として知られている。



 そこから200m程北に行った突き当りが、山科の毘沙門堂門跡である。
枝振りが見事な春の枝垂れ桜、新緑の夏、勅使門に続く階段がトンネルに
なる秋の紅葉、白銀に覆われる冬、これらと朱色の本殿との対比が美しく、
人気が高い観光寺院という。



 街道筋にある円光寺は、真宗大谷派の寺院で旧道に大きな石柱が建ち、
そこから参道が延び、京急の踏切の向こう側が境内のようだ。
鎌倉時代の創建という浄土宗のお寺、九品山・来迎寺もある。
街道を外れ、これらの社寺を訪ねたいところだが余力は無い。(続)



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 四ノ宮(東海道歩き旅・山城の国)

2024-08-23 | Weblog
 東海道は、京都市山科区四ノ宮の旧三条通りに入ってきた。
山城の国である。
 旧街道の北を京阪電鉄の京津線が通り、四宮駅が有りその西には京阪
山科駅が近接している。京阪線の北をJR琵琶湖線と湖西線も通っていて、
京阪山科駅の北にはJR山科駅がある。



 商店や飲食店、会社、事務所等が立ち並ぶ通りは繁華で、凡そ旧道の
雰囲気は無い。通りを一歩外れれば住宅が密集する地域で、鉄道の便が
良く、京都や大阪のベッドタウンとして発展が著しいらしい。



 東海道沿いに建つのが西光法師の創建とされる「山科地蔵徳林庵」で、
俗に六地蔵と言い都に入る門番とも言われた。
当所は魔除けの場所とされ街道を行く交う人々に厚く尊崇されたという。



 後白河天皇の勅命により、保元2(1157)年、京の都の主要街道六カ
所(伏見・大善寺、鳥羽・浄禅寺、桂・地蔵寺、常磐・源光寺、鞍馬・
上善寺)に地蔵尊が安置された内の一体がこれだ。



 四ノ宮はその昔は、四宮河原と呼ばれていた。地名は、山科のこの地
に隠棲した仁明天皇の第四皇子、人康(さねやす)親王が「四宮殿」と
呼ばれたのに由来する。

 人康親王は幼年の頃より眼を患い失明し、剃髪して山科のこの地に移
居した。深く仏道に帰依し法名を「法性」と名乗り、御所(住居)を隠
棲の場としたという。御所は、山階(やましな)の宮と呼ばれたが、後
に寺となてっいる。



 それが旧街道右手奥にある楊柳山十禅寺とされ、別名を「四宮河原観
音堂」、親王が聖徳太子作と伝える聖観音像を安置したといわれている。
 親王は琵琶法師の祖として知られていて、貞観14(872)年、42歳で
亡くなり、境内に墓があると言う。(続)



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複雑に絡む国境 (東海道歩き旅・山城の国)

2024-08-21 | Weblog
 

 地理院地図で確認すると、逢坂の月心寺を越える辺りから、国道や京
阪線と平行する様に県境が引かれていて、北側のそれらは滋賀県だが、
南側の山塊は京都府となっている。

 名神高速の高架を潜ると、道は滋賀で左手の家並みは京都である。
京都に住民税を払う人々が、玄関を一歩街道に踏み出すと滋賀県の道の
お世話になると言う事になる。



 髭茶屋追分けを過ぎると県境は少し南に後退し、両側の家並みは滋賀
となる。
 江戸時代には、逢坂越えからこの追分けに到る辺りまでは、江戸幕府
直轄の天領であった。又この山城国・横木は園城寺(三井寺)領で、南
側は山城国・山科領で天皇の領地・禁裏御料であった。



 この京に近い入口の地は、山城国とは言え、異なる領主が治める領地
が複雑に接する地で、それだけ交通の要衝として重要視されていた事を
示している。

 そんな曰わくの有る国(県)境も、「三井寺観音道」の道標の建つ、
小関越え追分けから180m程西進し、横木から四ノ宮(しのみや)に入
るとようやくにして京都府に入る。



 境には四宮川が街道を横切っている。
昔は四宮河原と呼ばれ、ここに石橋が架けられていたと言う。
四ノ宮の名前の由来は、山科のこの地に隠棲した仁明天皇の第四皇子、
人康(さねやす)親王に由来している。



 武蔵の国から始まった東海道は、相模国から、駿河国、遠江国を経て
愛知県に入り三河国から尾張国、三重県に入り伊勢国で鈴鹿峠を越えた。
 続けて滋賀県の近江国を抜け、県境を越えればいよいよ最後の山城国、
今日の京都府で東海道五十三次の終点が待っている。(続)



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走井餅(東海道歩き旅・山城の国)

2024-08-19 | Weblog


 「走り井餅」は明和元(1764)年に誕生した。
形は清冽な水しぶきの一滴一滴を表して、又両端を尖らせた形は刀鍛冶
宗近が走井の水で鍛えた名刀に似せているらしい。
この餅を食べれば道中剣難を免れるとの縁起が知られ、長持ちがするの
で旅人に重宝されたという。



 逢坂月心寺が発祥の「走井餅」は、何時しかこの地から姿を消した。
昔から大津と言えば「走井餅」は知られていて、今回の歩きに際しても、
沿道に売店でも有れば、是非立寄りたいものと思っていた。



 ところが、事前に手元の地図で調べてみても、大津の宿内でも、その
先の逢坂越えでも、それらしい店舗を見付けることは出来なかった。

 僅かにここ横木1丁目に入り、国道の取り付け道路に囲まれた右手に
「井筒八橋本舗」の表示が有り、和菓子屋が有ったが、京名物の「八橋」
であり、大津名物の「走井餅」はないと思い込んでいた。



 ところが、ところが、手元の地図は古かったのだ。
後日もう一つの地図で確認すると、その同じ場所には「(株)走り井餅
本家」との表示がある。
ホームページで店舗の住所を確認すると「横木1-3-3」で、正に同所だ。
逢坂の「走井餅」は、「井筒八橋本舗」の店舗で売られていたのだ。



 これまで逢坂月心寺の店舗が京都・石清水八幡宮の一の鳥居前に移転し、
「走井餅老舗」となり「走井餅」を販売していると思い込んでいた。
ところが井筒八つ橋の店舗の中に、「走り井餅本家」があり「走り井餅」
を販売していたのだ。



 何れが本家・元祖かは知らないが、昔からの製法を守りながら、何れ
も直系を売りに伝統の名物を今に伝えていることは嬉しい事だ。(続)
(写真上5枚は走り井餅本家、6枚目は走井餅老舗)

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宿場の機能 (チョット一息)

2024-08-16 | Weblog


 「宿場」には、街道に於ける馬継ぎや情報の伝達業務を担う問屋場と
言う役場が置かれ町役人が配置された。
 朝廷の特使や公家、大名・旗本や、公務の武士等の宿泊施設として、
複数の本陣と脇本陣が設けられた。
又宿場の防御を担う、見附や曲尺手、治安維持の為の高札場等もあった。



 「宿場」には、彼方此方に幾つかの「寺」があった。
元々街道は国家的な備えを目的として整備されてきた経緯が有り、そう
した中で「宿場の寺」は一朝有事には軍勢の駐屯地となり、また本陣や
旅籠で収容仕切れない場合の補助的な場所として使われた。



 「宿場」には、公用で無い武士や、庶民のための旅籠、木賃宿が沢山
有ったが、それだけで宿場は成り立たない。
 宿場や近隣住民の生活もあり、酒屋、たばこ屋、ローソク屋、提灯屋
から薬種屋(薬屋)、髪結屋(散髪屋)、八百屋、小間物屋等の様々な
店舗、休憩場所としての茶屋や茶店、一膳飯屋等が立並んでいた。



 「宿場」には、旅人の用に供する施設が揃っていたが、周辺住民の生
活の場でも有った。 旅籠には幕府黙認の飯盛り女という、旅の孤独や
緊張感を解きほぐしてくれる女がいて、女性の働き場となっていた。

 また男達にとっては、村では接する機会も無かったが、宿場に行け
ば相手にされる。特に若者にとっては捌け口となってくれる。
これらは、一定の経済効果を高める一面もあったらしい。



 「宿場」には、賑わいを増すための様々な工夫がなされていた。
町並みは、街道に沿って長く線のように伸びるのが一般的だが、これを
敢えて何度も曲げる、或は複数の道筋を並行して通す等し、少しでも町
並が長く成るように工夫をした。またお城に近い宿場等は、敢えて城下
を通り抜けるよう、街道を迂回させたりもした。


                (写真:岡山市 山陽道 板倉追分)

次週から、「東海道歩き旅 山城国編」が始まります。
五十三次もいよいよ大詰め 京・三条大橋を目指します。




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「宿場」の誕生(チョット一息)

2024-08-14 | Weblog


 「駅制」により諸街道の整備が進むと、重要な交通の要所や交差点、
大河の前後の渡河地点等にも同様な機能を持った拠点が作られるように
なる。宿泊や情報伝達の基地として、一定数の馬や人夫が置かれるよう
になる。

 其の機能は江戸幕府が発した「宿駅伝馬制度」として慶長6(1601)
年、整備・制度化された。



 街道が整備され、拠点毎に宿駅が設けられると、庶民の間でも往来の
行き来が始まるようになる。宿駅には人々が集い、その人目当てに商う
店が出来、市も開かれたりした。しかしこうして人が集まると、その集
落の宿泊機能は、当然軍営だけでは賄え切れなくなる。



 江戸時代、東海道には五十三の「宿場」があった。
街道沿いの要地にあり、幕府が認め、その支配下に置いて管理した集落
のことを「宿場」と呼んだが、ここでは伝馬朱印状を持つ公用の書状や、
荷物を次の宿場まで届ける為に必要な人馬を用意する義務が課せられた。



 その代わりに宿場の人々には、屋敷地に課税される年貢が免除され、
旅人の宿泊の為の宿の経営、お店の開店、荷物を運んで定められた収入
を得るという特典が与えられた。

 賄いきれなく成った軍営に変わり民営の旅館も出現し、「宿場」とし
ての機能が充実していくことになる。



 余談になるが、「道路にも鉄道のようにトイレの有る駅が有っても良
いのでは」として生まれたのが「道の駅」で、その発想の原点は古代律
令国家の「駅制」に基づくらしい。

 当初は、単なる駐車場と休憩施設が有るだけであったが、今では地域
の情報発信基地として、食事や買い物に留まらず、遊具や温泉を備えた
施設まで現われ、全国に1200カ所以上も有ると言う。


               (写真:真庭市 出雲街道 美作追分)



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「宿」と「駅」(チョット一息)

2024-08-12 | Weblog


 古代律令国家では、中央と地方を結ぶ官道が整備され、主要な官道で
は凡そ30里毎に、荷物を運搬する馬や人夫を置き、旅人を泊める家を用
意した。これを「駅馬」、「駅家」と呼び、国司の管理下に置き事務を
司る「駅長」が置かれていた。



 こうして馬や人夫を、その場所でリレーして繋ぎ、物や情報(手紙)
を伝達した。所謂「駅伝制」と言われるものだ。
 しかしこの制度は平安時代の終焉と供に衰退し、武家の幕府が成立す
ると「駅」や「駅家」という言葉も、「宿」や「宿場」などに置き換え
られることになる。



 「宿」が歴史の資料に登場するのは、鎌倉幕府の成立以後に多くなる
らしい。最もこの時代の「宿」は、『在地の領主の館に付属して立地し、
家臣たちの集住する(中略)麓集落、いわゆる軍営』のことらしい。
(中世の東海道を行く2008年4月 榎原雅治 中央公論新社)



 鎌倉幕府が成立すると、直ちに「駅路の法」を定め、公の使節の往来
にあたっては、沿道の荘園から馬やその飼料、人夫や食料などが徴用出
来ることとした。こうして国家的な備えとしての交通路の整備が始まる
ものの、当初は通路や路面の整備までは手が回ら無かったようだ。



 当時は、茫漠として広がる草原の中に開かれた道の目印として、僅か
に「柳」が植えられていたに過ぎないらしく、道造りよりも、もっぱら
連絡のための馬継ぎや、渡渉のための拠点作りに重点が置かれていた。

 その役割を担ったのが軍営で、そこには幕府が派遣する軍団や公用旅
行者などの宿営地としての機能も期待されていた。
これが「宿」の起こりという。


               (写真:津山市 出雲街道 玉琳追分)




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横木の小関越道標(東海道歩き旅・近江の国)

2024-08-09 | Weblog
 大津宿の札の辻で東海道は南に直角に曲がったが、そこを真っ直ぐ西
進すると長等商店街を経て、三井寺観音堂の門前に突き当たる。
そこを左に取ると小関集落で、過ぎれば小関峠を越える小関越道である。



 この道は古くから、京と北陸を結ぶ道で、大津の町中を通らないため
近道(間道)として利用されてきた。
 東海道を通る逢坂の関(大関)に対し、北陸道のみが通るので間道的
な意味合が強く、大関に対し小関とされ、小関越道と言われている。



 今では国道161号線や、東海道本線、湖西線の開通、宅地開発などで
道は途切れているらしいが、追分けから三井寺に到る7㎞余の道は、手
頃なハイキングコースとして人気らしい。



 旧東海道は、国道を越え100m程行くと三叉路に差し掛かる。
その北側右手に「三井寺観音道」と刻まれた大きな石碑と、常夜灯が建
っていた。

 東面には、「願諸来者入玄門」、西面には「小関越」と刻まれていて、
裏(北面)には、「文政五年十一月建之 定飛脚問屋 京都江戸大坂 
三店 発起 心相禅門」等と彫られている。
文政5(1822)年に、定飛脚問屋の嶋屋が建立したものだ。



 観音巡礼の西国三十三カ所観音の14番札所・三井寺観音堂(如意輪観
音)から、15番札所・京都・今熊野観音寺(十一面観世音菩薩)への巡
礼道標で、「横木の小関越え道標」と呼ばれている。



 大津の札の辻を真っ直ぐ西進する道で、小関の峠を越えるとこの三叉
路に至るのである。
 嘗てこの角には、「道晴(どうはれ)茶屋」という茶店や、水車を使
って精米する米屋などが点在していたという。


 
 小関越えの旅人もここで東海道に合流して西進すると、街道は近江国
からいよいよ山城国へと入っていく。(東海道歩き旅・近江の国後編完)

 東海道はいよいよ最後の三条大橋を目指し、山城路を歩きます。
「東海道歩き旅・山城の国編」は近日中に始ります。




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