市内中心部への乗り入れが出来ず、旭川の船運に料金でも見劣りのし
た三蟠鉄道は、昭和6(1931)年6月、僅か16年弱の短命で廃線に追い
込まれてしまい、この突然の廃線は余りにもあっけなかった。
その為か、今日では「幻の鉄道」等と呼ばれている。
鉄道会社は、都市計画道路として鉄道用地を売却し、鉄道が廃止され
ると直ちに、三蟠自動車(株)を設立し、市中心部の内山下と三蟠の間で
バスの定期運行を始めることになる。
この会社は後に岡山バスとの合併を経て、今日の両備バスに合併吸収さ
れている。
鉄道時代、国清寺駅には駅舎が建ち、鉄道会社の本社があった。
行き止まりの駅の前には東西に流れる通りが有り、道を隔てた西方には、
臨済宗妙心寺派の禅寺・萬歳山国清寺の甍が聳えていた。
駅前の通りの西側には、路面電車旭東線の門田屋敷駅が有り、寺域の
北側の国道2号線となった旧山陽道の通りには、中納言停留所も有った。
何れも200mと行かない距離である。
現在では駅前の通りは、寺域などを削り拡幅され国道250号線となり、
通りの東側には永代橋・「新京橋」も架けられている。
当時の駅舎は、国道に面した歯科医院と、その南側の市立旭東小学校、
東側の南に向かう道路に跨る辺りに有ったと言われている。
因みにこの小学校の歴史は古く、明治5(1872)年に、第五学問所と
して設立されている。
したがって鉄道の開業以前から、ここに学び舎を構えている事になる。
今日この辺りのどこにも、嘗ての鉄道の痕跡は残されていない。
小学校の東を南に向かう一車線の狭い通りが廃線跡と思われる。
その道も150mほど先で民家に塞がれ途絶えている。その敷地を抜け、
緩く東に向きながら、都市計画道路旭東線に向かっていたようだ。(続)
にほんブログ村
た三蟠鉄道は、昭和6(1931)年6月、僅か16年弱の短命で廃線に追い
込まれてしまい、この突然の廃線は余りにもあっけなかった。
その為か、今日では「幻の鉄道」等と呼ばれている。
鉄道会社は、都市計画道路として鉄道用地を売却し、鉄道が廃止され
ると直ちに、三蟠自動車(株)を設立し、市中心部の内山下と三蟠の間で
バスの定期運行を始めることになる。
この会社は後に岡山バスとの合併を経て、今日の両備バスに合併吸収さ
れている。
鉄道時代、国清寺駅には駅舎が建ち、鉄道会社の本社があった。
行き止まりの駅の前には東西に流れる通りが有り、道を隔てた西方には、
臨済宗妙心寺派の禅寺・萬歳山国清寺の甍が聳えていた。
駅前の通りの西側には、路面電車旭東線の門田屋敷駅が有り、寺域の
北側の国道2号線となった旧山陽道の通りには、中納言停留所も有った。
何れも200mと行かない距離である。
現在では駅前の通りは、寺域などを削り拡幅され国道250号線となり、
通りの東側には永代橋・「新京橋」も架けられている。
当時の駅舎は、国道に面した歯科医院と、その南側の市立旭東小学校、
東側の南に向かう道路に跨る辺りに有ったと言われている。
因みにこの小学校の歴史は古く、明治5(1872)年に、第五学問所と
して設立されている。
したがって鉄道の開業以前から、ここに学び舎を構えている事になる。
今日この辺りのどこにも、嘗ての鉄道の痕跡は残されていない。
小学校の東を南に向かう一車線の狭い通りが廃線跡と思われる。
その道も150mほど先で民家に塞がれ途絶えている。その敷地を抜け、
緩く東に向きながら、都市計画道路旭東線に向かっていたようだ。(続)
にほんブログ村