簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

平泉の文化遺産巡り

2016-12-30 | Weblog
 「平泉の文化遺産」は、中尊寺、毛越寺、観自在王院跡、無量光院跡などに残
されてきた四つの浄土庭園と、それらに深く関わる金鶏山を中心に、中尊寺金色
堂や毛越寺常行堂などから構成されている。



 平安時代末期、仏教の浄土思想の考えに基づいて、奥州藤原氏が三代に渡り
築き上げてきた寺院群や庭園は、平泉の政治・経済の中心であり、繁栄と潤沢な
富の証でもあった。
しかしこのような栄華は長くは続かず、急速に又、劇的に没落・終息してしまい、
その虚しさ・はかなさの象徴的な場所でもあった。



 そんなことを考えながら、例えば毛越寺の「伽藍復元図」を頭にしまい、「大泉が
池」などを巡り、往時の建造物等に思いを馳せていると、極楽浄土を具現化した
「浄土庭園」が何となく理解できるように思えてくる。
それと同時に、栄枯盛衰の現実的な理を思い知らされるのである。



 折角の「世界文化遺産」の地だ、十分な滞在時間で有れば、やはりゆっくりとこの
足で歩いて回ってみたいところではあるが、凡そ半日程度の滞在ではレンタカーの
お世話に成らざるを得なかった。



 12時少し過ぎ、一ノ関の「100円レンタカー」の営業所に戻り、車を返した。
予定の時間より多少早いとの事で、100円の返金が有り結局2,900円で借りられた。
走行は30km足らず、ガソリン代も400円ほど、中尊寺と毛越寺の駐車場が合わせ
て700円掛ったので、締めて4,000円というところである。





 営業所から一関の駅前までは、送ってくれるサービスも有り、短時間に効率よく
まわるには中々に重宝したレンタカーである。(完)

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100円レンタカー

2016-12-28 | Weblog
 そんな時おすすめは、一ノ関に営業所を持つ、「100円レンタカー」の利用である。
10分刻みのレンタルだから短時間の利用の場合、格安になる。
又3時間を超える場合でもそれ以降は「100円/30分」となり料金は余り嵩まずかな
り安い。



 ただし安いのにはそれなりにわけがあり、車種の選択肢は少なく、豪華な新車を
と言うわけにはいかず、基本は中古のコンパクトカーが配車される。
「中古車かぁ・・・」と言っても、何も心配はいらない。
元々新車と言ったところで、下ろしたてに乗れるわけでは無く、既に多くの人が利
用しているのがレンタカーであるのだから、そういう意味では新車も中古車もほと
んど変わりは無く、きちんと整備され安全に乗れさえするならそれで良い。



 今回は、朝の8時半にホテル前に配車をお願いた。14時少し前のJRに乗るため、
返却を13時過ぎに予定すると見積もりはこなった。
基本料金は2,000円、免責保障が1,000円で合わせても3,000円ほどである。
同条件でたとえば駅レンタカーなどの見積りを取ると、ゆうに5,000円は超えてしま
うから、かなり安いことには違いない。







 例えば四人連れでの旅行なら、バス賃が3,000円ほど掛るわけであるから、これ
とほぼ同額である。
但しレンタカーの場合、ガソリン代と駐車料金が必要になるが、半日程度の走行
なら、コンパクトカーのガソリン消費はたかがしれている。
この例なら一人頭に割れば、1,200円程度に成るだろう。時間的に制約がある中、
安く効率的に回るにはこれも選択肢の一つである。(続)

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平泉の観光

2016-12-26 | Weblog


 一の関・平泉へは、四十数年ぶりの再訪である。
知られた観光地とはいえ真冬のオフシーズンで、中尊寺の境内は閑散としていた、
と言う記憶がある程度で、その頃のことは殆ど覚えていない。
記憶が有ったとしても「世界文化遺産」の指定を受け、観光地として脚光を浴びる
現在とは状況も違い役には立たないだろうが、その観光をどうしょうか考えていた。





 この日は一ノ関駅前に宿を取った。
平泉周辺の各史跡の観光をするには、そこまでJRか路線バスを使って移動する
必要がある。一関からは平泉駅前を経由して、中尊寺前方面に向かう路線バスは、
1時間に一本程度の便がある。
しかしこのバスでは、中尊寺は兎も角毛越寺や高舘義経堂などを巡る場合、最寄
りのバス停からは少し離れていて便利はさほど良くはない。



 JRで移動なら平泉駅前から循環バス「るんるん」があり、こちらは毛越寺や中尊
寺、柳の御所跡など各施設の直前にバス停があるので利便は良い。
1時間に凡そ2本あり、一乗車150円で一日フリーパスなら400円とお得でもある。



 もっと時間的に余裕があるならば、藤原文化の栄華を肌に感じながら、のんび
りと歩くか、レンタサイクルで回るのも良いかもしれない。
何せ平泉駅前から、一番離れている中尊寺まででもその距離は2キロにも満たな
いし、その間に各史跡が点在しているのでハイキング気分で巡ることが出来る。



 しかしここに滞在できる時間も限られているので、バスは行動の制約を受けるし
時間的な無駄も多くなるのでこれを使おうと言う決め手には欠ける。
さてさて、どうしたものか・・・そこでもう一考。(続)



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一ノ関のソースかつ丼

2016-12-23 | Weblog
 「大沢温泉旅館」で、いきなりでは昼食の準備はできないと言われ、ここ一ノ関
駅前まで戻り探すことに成った。



 しかし、慌てることは無い。
そんな事も有ろうかと昨夜泊まったビジネスホテルのフロントで、地元で評判の店
を何軒か、その情報を仕入れていた。そこで、手近なところで、そのうちの一軒、
ホテルのすぐ隣、駅前に建つ食事処「割烹・和風レストラン 松竹」を訪ねてみる。



 ここは創業が大正12年と言う老舗の割烹らしく、店内のメニューの頭には名物の
「ウナギ料理」が書かれている。
しかし口の滑らかな女将の言によると、ここは何と言っても「かつ丼」が知られてい
るらしく、ここに来たからには是非食べて帰ってほしいという。



 店内は昼時と有って結構込み合っている。
そのテーブルを見てみると、多くの人がその「かつ丼」を食べている。
壁にはここを訪れた錚々たる著名人の賞賛する色紙も掛けられていることから、
どうやら間違いはないようだ。



 ここの「かつ丼」は一般的な卵でとじたものではない。
ご飯の上に千切りのキャベツを乗せ、その上に秘伝のソースをたっぷりと潜らせた
三枚のカツが乗せられてくる。
 こんがりときつね色に仕上がったロースカツはきめの細かいパン粉を使用してい
るので衣はやや薄めだ。
カツを口に含めばソースの香りも良く、噛むと柔らかくジューシーだ。
和風だしのようなソース味と肉が絡まって、掛け値無しに美味しい。
どんぶりのご飯も、ソースかけごはんを食べているようで、何とも懐かしい味がする。



 実は後で知ったのだがこの店は、「ソースカツ丼」の超有名店で、休日などには
行列ができるそうだ。その人気を支えるのが名物女将でもあるらしい。(続)




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大沢温泉旅館

2016-12-21 | Weblog
 

 昨夜JR一ノ関駅に降り立った折「ようこそ 一ノ関温泉郷」の看板が目についた。
どうやらこの地には温泉がいくつかありそうだ。

 朝早くから雪の中を「中尊寺」「高館」「毛越寺」など歩いてまわり、すっかり体が
冷えてしまった。何処か温泉にでも入って温まりたいものだ。



 調べてみると毛越寺の近くには、平泉町の健康福祉交流館があり、そこに「悠久
の湯・平泉温泉」が併設されていることが解った。



 また、毛越寺の駐車場脇には「大沢温泉旅館」の看板も立っている。
一ノ関から国道4号線を平泉に向けて走ってきた折も「温泉」の看板を幾つか目に
したように思う。期待通り、この近くにも幾つか温泉は有りそうだ。



 どこに立ち寄ろうか、散々迷った挙句、昼時でもあり、あわよくば昼食も一緒に摂
れれば・・・との期待をかけ、「温泉旅館」と言う名に引かれ「大沢温泉旅館」に立ち
寄ることにした。



 毛越寺境内と町営駐車場の間の細い道を山側に向かい、東北自動車道を潜り
抜け、5分ほど走ると僅かな集落の中の左手に一軒宿が見えて来る。
客室12、収容40名余りの「大沢温泉旅館」で日帰りの立寄り湯は350円と格安だ。

 玄関を入り左手、廊下の奥まったところに男女別の浴室が有る。
浴槽は広くは無いが、ガラス張りの窓からは目の前に迫る山肌と足元を流れる渓
流が一望で、ロケーションは悪くない。



 無色無臭、さらっとした負担の少ない軽い感じのお湯は冷鉱泉で、加温している
せいか、少し熱いが冷えた身体にはそれが何ともありがたい。(続)


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毛越寺・浄土庭園

2016-12-19 | Weblog
 拝観券を求め、およそお寺の山門らしくない武家屋敷のような門を潜る。
それもそのはずこれは江戸時代にこの付近を治めていた一関藩・田村氏の城門
を移築したものだと言う。



 潜ると左手に「宝物館」が、右手に雪に覆われた「大泉が池」が見える。
その間を貫く参道の先に建つのが、平安時代の建築様式に倣い平成元年に再建
された朱塗りの柱も鮮やかな「本堂」である。



 寺域に残された礎石や発掘調査などから、「本堂」手前には二階建ての「南大門」
が聳えていたとことが確認されている。
ここが東西に長く横たわる「大泉が池」への入り口で、その中ほどの「中島」を経由
する二本の反り橋が架けられ、対岸に寝殿造りの金堂が構えていたが今では礎石
が残るのみである。



 池にも見所は多い。
南西側には「築山」があり、東部には柔らかい曲線を描く「州浜」がある。
厳しい崖と、美しい海岸線を表現しているようだ。
南東部には池辺から大小の岩が水中に飛び石となり、その先端の出島には大き
な岩がそそり立っていて、これは荒海を表しているのだそうだ。



 このように池には、色々な場所に意図した造形が加えられている。
それは平安時代に書かれた、わが国最古の庭園書「作庭記」の内容に基づいて
作られたもので、学術的にも貴重な池と言われている。



 しかし現代的の考察がどうあれ、ここは仏教で言う「極楽浄土」を具現化した場
所である。日が沈む西方に阿弥陀堂を造り阿弥陀如来を安置する。

 庭園の池は、神聖な彼岸と現世である此岸を隔てるもので、長い戦乱の時代に
命を落とした人々を救う鎮魂と祈りの場であった。(続)




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毛越寺・夢の跡・大伽藍

2016-12-16 | Weblog
 奥州藤原氏は奥州を貫く「奥大道」と呼ばれる街道を整備していた。
その道筋に残されているのが「本堂」手前右手にある「南大門跡」である。
今この地には、土の中に整然と埋った礎石が見て取れる。数えてみると12個ある。
ここには二階建ての大門が聳えていたらしい。



 ここが「大泉が池」への入り口で、池の中央の「中島」に向け、長さ17間の反り橋
が架かり、「中島」からはさらに10間の橋が対岸に掛かっていた。



 その対岸には「万宝を尽くした」と言われる「毛越寺」の金堂である「円隆寺」が煌
いていた。寺は翼廊と呼ばれる回廊が東西に延びる華麗な寝殿造りである。

 奥州を攻め、藤原氏を滅ぼした源頼朝も、荘厳な伽藍に感嘆し「霊場の荘厳は吾
朝無双」と幕府の史書に書き残すほどであった。
金堂から延びる翼廊の先には二階建ての「鐘楼」や「経楼」が置かれていた。



 寺域の各所に残る遺構は、今は礎石しか見えないが、ほぼ完全な姿で残されてい
るという。さらに広大な境内を発掘すると、今日でも玉砂利が出土するのだそうだ。
当時の寺域には、池や伽藍を取り囲むように一面に玉砂利が敷き詰められていた。



 発掘調査によると伽藍の遺構は、池を中心に浄土庭園を形成し、それは平安時
代末期の様式を良く表しているといい、その規模は浄土庭園と聞いて思い浮かべ
る宇治・平等院をはるかに凌ぐものであったと言う。



 藤原氏百年の栄華の歴史と共に、儚く消え去った「毛越寺」は、長い間放置され
再興されることも無く、静寂の中に取り残されていた。(続)




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毛越寺

2016-12-14 | Weblog
 平泉では「中尊寺」と並び称される有名なお寺が「毛越寺」である。
古くは「もうおつじ」或いは「けごしでら」などと呼ばれていた時期が有ったそうだが、
今日では「もうつうじ」が定着した呼び名である。



 「毛越寺」は嘉祥三(850)年慈覚大師円仁により開山されたお寺で、その後、藤原
氏二代・基衡と三代・秀衡の時代に再興が進み、多くの伽藍が造られた。
往時は堂塔四十余宇、僧坊五百を超え、中尊寺を凌ぐ規模と華麗さを誇っていた。



 そういえば、先ほど訪ねた「高館・義経堂」の券売所の男性が、「ここは毛越寺が
管理する場所だ」と言い、「当時は寺域も広く、その勢力は中尊寺を凌いでいた」と、
誇らしく語っていた。



 藤原氏の再興により一時は栄華を極めたこの寺も、藤原氏の滅亡後は頼朝が武
門の祈願所としたものの、次第にその勢力が衰え、さらに度重なる戦火や、三度の
火災に会い、建物などすべてが焼失した。



 実はこの「毛越寺」には創建当初からの伽藍らしい建物や、仏像・仏具・経典等、
何も残されてはいず、殆どが焼けてなくなったのだそうだ。
境内では江戸時代に再建されたと言う常行堂が一番古い建物であるが、それ以外
残されたのは「大泉が池」と呼ばれる池と、放置されるがままの広大な荒れ地だけ
であった。



 そんな地を、昭和29年から5年間にわたり全面的な発掘調査が行われた。
その結果毛越寺の規模や建造物の構造、池とのかかわりなど寺域の全容がほぼ
解明された。

 それらの遺構は旧来を彷彿させる姿を留めており、「吾妻鏡」などの古文書の記
述と合致することなどから、伽藍の復元図が起こされた。(続)






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奥州藤原文化の中心地

2016-12-12 | Weblog
 北上川が緩やかにその流れを変える辺り。
現在の東北本線に挟まれるように広がる河岸地に、広大な「柳之御所史跡公園」
があり、その一角に「柳之御所資料館」が建っている。



 その当時ここは、旧北上川の古流路で猫間が淵と呼ばれる低湿地と、北上川に
挟まれた要塞の地であったようだ。



 ここは奥州藤原氏が政治を行った中心地と考えられる所で、歴史書『吾妻鏡』に
残されている「平泉館」と呼ばれていた場所に当たると推定されている。



 過去の発掘調査では、中心部を囲うような巨大な堀や苑池、掘立柱住居、井戸
などの遺構が確認されていてその建物はかなり大がかりなものであったことを窺わ
せているという。
また遺跡からは、儀式に使用されたとみられる「かわらけ」が10トン以上も出土、
中には中国産の物も多数有り、当時の文化交流の状況を知る手掛りとなっている。



 こんな資料や、当時の御所の様子は「柳之御所資料館」で展示物やビデオで詳
しく解説されているので、立ち寄ってみるといい。

 「柳之御所」から掘りを隔てた外側に三代・秀衡によって建立された寺院の跡が
確認されている。
「無量光院」と言う寺院で、京都・宇治の平等院鳳凰堂を模して建てられたという。
また、「柳之御所」から300mほど西方に、秀衡の日常の居館である「伽羅之御所」
跡なども有る。





 当時の平泉は中尊寺や毛越寺を擁し、南の白河関(福島県)から北の津軽の地
までの中間に位置し、北方領域に展開する奥州藤原氏の中核的な所で、文化・政
治・経済の拠点であった。(続)



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判官びいき

2016-12-09 | Weblog
 義経は高館に火を放ち自刃した。
その首は死後四十数日を経て、黒漆の棺に納められ、美酒に浸して鎌倉に届け
られたが、頼朝は自ら首実検はしなかった。
また命じられた家臣の侍も哀れを催しまともに正視出来なかったと言う。



 数か月後、頼朝は大軍を率いここ平泉へ攻め入った。
世を知らぬ四代・泰衡には、これを支える術も無く、父祖三代にわたって築かれた
平泉の栄華は、火焔に包まれ灰塵に消えるのである。



 しかし首実検でそれが義経であるとの確証がなされていないこともあり、こうした
頼朝による奥州平定後も、「義経死せず」の風評は後を絶たなかったらしい。



 高館の「義経堂」に向かう石段の脇に、「伝説義経北行コース」と書かれた表示板
が立てられている。
『高館で自刃したのは、実は義経の影武者であり、当人はその一年余り前に密かに
平泉を脱出し、北を目指して旅に出た』と書かれている。
悲運の英雄・義経を、ここでこのまま死なせたくは無い、と言う庶民の「判官びいき」
がこの伝説を生み出したのであろう。



 これは岩手県の観光連盟が立てたものらしく、ここ高館を振り出しに、凡そ太平
洋に沿って北上、久慈の諏訪神社まで三十数箇所に立てられていて、伝説を巡る
コースとして確立されているようだ。

 やがて北海道から更に大陸に渡り、果てはモンゴル帝国のジンギス・ハーンは
源義経と同一人物であつた、などとまことしやかに語られるようになるが、学説的
には完全に否定され、残念ながら問題にもされていないようだ。(続)






JR北海道留萌線・留萌-増毛駅間を廃止。12月4日最終列車の運行を終え、
95年の歴史に幕を閉じました。   関連記事はこちらをクリックして下さい。




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