簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

消えた家棟川隧道(東海道歩き旅・近江の国)

2024-02-28 | Weblog

 針公民館の「きづな街道休憩所 おやすみ処」を後に、再び街道に出
て西に向けて歩を進める。
相変わらず旧街道らしい趣のある家並みが続いている。
 暫く行くと左手に、近江の地酒「御代栄」で知られる北島酒造の白壁
の建物が見えてきた。
創業が文化2(1805)年、以来14代続く老舗の酒蔵である。



 嘗てこの辺りの東海道には、大沙川、由良谷川、家棟(やのむね)川
の三川の天井川が有り、当時は土手をよじ登り、土橋か徒渡りで浅瀬を
渡っていた。

 明治以降、人馬の円滑な通行の為、街道の整備が進められ、これらの
川の下を潜る隧道が掘られた。
それが先程潜り抜けてきた二本のトンネルで有る。



 三川目の家棟川隧道は、明治19(1886)年に築造されたトンネルで、
由良川から西に800m程進んだ先にあった。
これまでの二川と同型のアーチ型の隧道で、高さ3.64m、長さ21.82m、
幅約4.55mであった。



 しかしこれらの天井川は、一度異常降雨などで河川が氾濫すれば、
周辺地域に甚大な被害が発生する。
加えて車の時代と成り通行量が増えると、トンネルがボトルネック、
通行に支障を来たすようになる。



 この為近年県は天井川の解消を目指し、河川の改修事業に着手した。
家棟川は河口(野洲川合流部)から1370mの間の河川が掘り下げられ、
或は流路の変更等により改修工事が進められた。
結果歴史有る隧道は、昭和54(1979)年に撤去されてしまった。



 現在は、「家棟川」と陰刻された額だけが「奉両宮常夜燈」の脇に残
されている。家棟川は針集落の西端を流れていて、いまは何の変哲も無
い近代橋・家棟川橋でこれを越える。
橋を渡れば旧東海道は平松集落に入っていく。(続)





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針文五郎(東海道歩き旅・近江の国)

2024-02-26 | Weblog


 由良谷川隧道を抜けると、「針川村」とも言われた「針村」集落に入っ
て行く。暫く進むと、右手に「針公民館」があり、「ようこそ きづな街
道(東海道)へ」 の看板が掛かっていた。
 建屋の前が「おやすみ処」となっていて、椅子が置かれ、今時分なのに、
ご丁寧にも吸い殻入れまで用意している。



 施設は旧東海道に面している、三雲・妙感寺・吉永・夏見・針・ルモ
ン甲西・中央・平松・柑子袋の9区で構成される「みくも学区まちづくり
協議会」が整備したものだ。平成21年3月に設立されている。



 東は三雲西は柑子袋まで東西6㎞を、「きずな街道」と名付け、東海
道を行き交う人と住人に、心優しいおもてなしのまちづくりをテーマに
『きずな』を高める取り組みを進めているという。
 「おやすみ処」は、大沙川の隧道前有ったが、この先にも一カ所有り、
トイレ等が整備されているので、街道歩きにはありがたい。



 公民館前には、東海道歴史探訪・史跡めぐりマップ、「針文五郎顕彰
碑」案内板があり、「天保一揆」と「針文五郎顕彰碑」の説明がある。

 「天保13(1842)年10月14日から16日、野洲、甲賀、栗太三郡の百
姓が幕府の不法検地強行に対し蜂起したのが天保一揆である。
この首謀者11人が最高裁の江戸送りとなる。



 首謀者と目された針文五郎は、人一倍正義感の強い指導的立場の精農
家で、十万日検地日延べ書持参の罪であった。
 一番駕籠に乗せられたのは文五郎で、道中で既に3名が死亡し、江戸
の白洲でも8名が拷問にあいながらも不法検地を訴え続けたが、全員が
獄死した。
針文五郎は、天保14年4月18日に死亡した。 行年50歳であった。(続)





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由良谷川隧道(東海道歩き旅・近江の国)

2024-02-23 | Weblog


 天井川の大沙川を過ぎると東海道は、吉永から夏見の集落に入る。
嘗ての夏見村は、立場の有ったところで、名物は春から秋にかけて売ら
れる心太であったが今その面影は何所にも見ることが出来ない。
旧街道筋らしく、平入りの家並みの続く落ち着いた静かな通りが西に延
びている。



 暫く行くと江戸日本橋から115里地点の「夏見の一里塚跡」がある。
左の塚には榎が、右の塚には松が植えられていたらしいが、明治以降の
道路拡張や周辺の開発により悉く消滅した。今では道路に埋め込まれた
30cm四方程の『夏見一里塚跡』碑で、住宅地に跡地を知るだけだ。



 大沙川からは1.5km程街道を進むと、前方に二つ目の天井川、由良谷
川隧道が見えてくる。上には天井川の由良谷川が流れている。
 由良谷川は南部の竜王山に源を発し、曲流しながら北に向かい、野洲
川に流れ込んでいる。川幅は狭く、大沙川同様平時は水が無い河川だ。
すぐ横には改修された川に、新しい橋が架けられている。



 その手前、川と並行する道路脇に、『新田道』と刻まれた大きな石の
道標が建っていた。道は野洲川方向に伸びていて、昭和10(1935)年に
立てられたものらしい。

 これまでの度重なる氾濫で肥沃となった野洲川の河川敷が新田として
開かれ、その取り付け道路が開通したのであろう。
地図で確認するとこの辺りは、区画整備された田畑が整然と広がっている。



 隧道は、長さ16.0m、高さ3.6m、幅4.5m、欠円アーチ断面、両側壁
は花崗岩切石積みの隧道で、明治19(1886)年3月20日の築造である。
大沙川隧道同様、土木学会の「ランクA」(国の重要文化財に相当)の
土木遺産という評価を得ている。(続)





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大沙川の隧道(東海道歩き旅・近江の国)

2024-02-21 | Weblog


 「きずな街道休憩所」で暫し身体を休め、猿飛佐助の実在説を知り何
とはなく納得し、再び街道に戻る。
 とすぐ目の前に、立派で頑丈そうなトンネルが現われた。
地元では、「吉永のマンポ」と呼び親しまれている、「大沙(おおすな)
川の隧道」である。



 長さ16.4mしかないトンネルの先は明るく出口が開け、向こう側を見通
す事が出来る。入口は高さ4.6m、幅4.4m、意匠を凝らした半円のアーチ
型で、内部の壁は花崗岩の切石積みで造られている。



 この短いトンネル上には、大沙川が流れているが、所謂天井川である。
説明によると、「奈良時代に石山寺や奈良の仏教寺院の造営が頻りに行
なわれると、この辺りの木々が手当たり次第に切り倒されて禿げ山に成
ってしまい、大雨の度に土砂が流れ、川底が上がり天井川になった」。



 「その後東海道が通じたが筋と交差しているため、人々は、川に出会
うと土手を登り、小橋か浅瀬を渡って川越えをした。
 明治になって東海道整備の一環で、川の下にトンネルを掘って人馬通
行の便宜をはかることになった」という。
 このトンネルが県下では最初に掘られたもので、明治17(1884)年3
月の事だそうだ。この先にも由良谷川、家棟川等の天井川が控えている。



 トンネルを抜けると左側に、「弘法大師錫杖跡 お手植えの杉」の石
柱と、「三雲城址ハイキングコース」の案内板が立っている。
城跡の入口までは、1.5㎞、徒歩で35分と書かれている。

 トンネルの上に出る小道が有り、登ってみると、川に水の流れは無く、
両岸は雑草に覆われていた。
そこには、弘法大師伝説の樹齢750年の「弘法杉」が聳えている。(続)





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猿飛佐助(東海道歩き旅・近江の国)

2024-02-19 | Weblog


 右手にはほぼJR草津線が併走し、その向こう側を野洲川が流れている。
反対側は、吉永山など標高数百メートルほどの山並みが続き、間近まで
迫っていて旧街道はそれらに挟まれた地をやや頭を北に向けながら進路
は西に向けて延びている。
旧道らしく広くは無い道幅で、曲がりくねった道が続いている。



 吉永地区に入るとこの辺りでは至る所で「猿飛佐助のふるさと 三雲
城址」の幟旗を目にするようになる。
 道路脇に「吉見神社」の石柱があり、その先右側には、「きずな街道
休憩所」があった。
三雲城址に登る観光客向けの、休憩時兼駐車場の様な施設だ。



 壁に貼られた説明によると猿飛佐助は講談や立川文庫の小説、ゲーム
などに登場し、真田幸村に仕え、真田十勇士の一人として活躍した。
大坂夏の陣で徳川方に敗れた後、幸村と共に薩摩に落ち延びたとされる。



 架空の忍者との説が一般的で、モデルとされる人物はいたらしいが、
作家の司馬遼太郎は、小説「風神の門」の中で猿飛佐助の実在説を支
持している。

 それによると、甲賀五十三家で、吉永山に城館を構え三雲庄(吉永村、
三雲村、妙感寺村)を治めた三雲新左衛門賢持が、近江の守護職・佐々
木家に仕え、間忍(忍術)の事を司った。



 その後、三雲家は新太夫賢方の代になり、三人の子供が生まれた。
その頃主家の佐々木氏は織田信長に滅ぼされたが、兄二人は忍者として
上杉氏と筒井氏に仕えさせた。
 末子の佐助賢春だけは手元で大事に育てたが、これが後の猿飛佐助と
されている。賢春は賢方の死後甲賀の山を下り、大坂の豊臣家に仕えた
と言う。(続)





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きずな街道(東海道歩き旅・近江の国)

2024-02-16 | Weblog


 旧東海道は嘗ての伊賀領に入り、三雲駅前三叉路の、「微妙大師萬里
小路藤房卿墓所」の石碑を見る。

 民家の建て込む余広くも無い通りを更に行くと、民家の前に立派な自
然石の「明治天皇聖跡」が立っている。
天皇は大政奉還以後、各地を行幸され、当地では湖南三山の国宝二寺等
を廻られたらしく、その行幸記念碑である。



 その先で、「あらかわ 砂川也 かりはし廿間ばかり」と言われた荒
川を渡る。勿論今は立派のコンクリート橋が架けられている。
その道路脇にも「藤房卿墓所」案内の古い石柱が建っていて、寺はここ
を左に折れ、荒川を遡ったところにあるらしく、駅からは2.4㎞ほどだ。



 旧街道がJR線を越えるとその踏切脇、右側に広場があり、「きずな
街道 歴史探訪・史跡巡りマップ」と書かれた看板が見える。
 「横田の渡し常夜灯」、「天保義民の碑」や、ここから南に500m程に
鎮座する「立志神社」を初め街道筋に近い寺社や名所等の案内と、簡単
な説明が書かれている。



 天保13(1843)年、幕府の計画した検地に抗議する、甲賀、野洲、
栗太三郡の農民凡四万人が蜂起し伝法山中腹に殺到する「天保一揆」
が発生した。
 その折、百数十人の農民が捉えられ全員獄死したが、幕府からは
「検地十万日延期」を確約させた。
事実上検地の挫折で、農民達は目標を達成させた。



 この時犠牲になった農民を「天保義民」と崇め、慰霊と功績を残す記
念碑「天保義民の碑」が立てられた。
明治時代に建立されたもので、高さは約10メートルを誇るという。
三雲駅東200mの山裾にあり、毎年10月15日には慰霊祭が行なわれる。(続)





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国道橋は命がけ(東海道歩き旅・近江の国)

2024-02-14 | Weblog


 横田の渡し場跡に橋は無く、今は少し下流に昭和27(1951)年の国
道1号線の開通で架けられた橋がある。
500m程川に沿って歩き、国道の泉西交差点に迂回し、そこで甲賀市か
ら湖南市に入る。



 暫く国道を歩き、朝国の交差点で左折し、橋を渡り野洲川を越える。
これが失敗であった。
 先の交差点で歩道橋を渡り、それで国道を越え、更に横断歩道を渡れ
ば橋の下流側には安全な「横田橋側道橋」が設けられていた。



 それに気付かず、そのまま橋に入り込んでしまったのだが、そこに歩
行者の歩道はなく、白線で区切られた僅かな路側帯があるのみで、とて
も人が歩ける幅はない。
後ろから来る車が、直ぐ脇を可成りのスピードで追い越していく。
今更向こう側に渡りも出来ず、可成り急ぎ足で、這々の体で橋を渡る。


 
 渡り終えたら、本来ならここで左に折れ、横田の渡しの三雲側の常夜
灯も見ておきたいところだ。また少し上流には、昭和4(1929)年に架
けられた旧橋の橋脚部分も残されているらしい。

 しかしここまで行程は遅れ気味で、先を急ぎたい。
常夜灯は車窓から一瞬見えたので良いことにする。



 橋を渡ると正面がJR草津線三雲駅だが、駅手前の三叉路で右に取るの
が東海道である。この辺りは、嘗ての伊賀領田川村の立場があった。

 その角に「微妙大師萬里小路藤房卿墓所」の石碑が建っている。
側面に「住是二十二丁」と刻まれ、臨済宗妙心寺派「雲照山妙感寺」の
微妙大師の墓所を案内した石柱である。



 妙感寺のHPを調べると、「微妙大師は建武中興の元勲萬里小路(ま
でのこうじ)中納言藤原藤房卿その人で、後世、新田義貞、楠木正成と
共に建武の三忠臣と讃えられた人である。
 又後醍醐天皇の側近で、元弘の乱の謀議が露見した為、天皇ともに笠
置山に脱出し、その後、出家して京都妙心寺の第二世となり、晩年は当
寺に隠棲した。」紹介されていた。(続)



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横田の渡し(東海道歩き旅・近江の国)

2024-02-12 | Weblog
 その先で県道を越えると、野洲川の堤防に突き当る。
そこが「東海道十三渡し」の一つ、「横田の渡し場」跡である。
伊勢参宮や東国に向かう旅人に取っては通り道で、このため古くから
交通の要地とされたところである。



 この辺りの野洲川は杣川や泉川との合流地点で、川岸まで山が迫り、
川幅が狭くなっているため水流も激しい。
流れの中には巨岩も見え、道中では川の難所に数えられていた。



 古くは室町時代の寛正2(1461)年には、「横田河橋」の名が見え、
京都の寺により橋賃が徴収されていた。
 江戸時代になると、東海道の要衝として幕府道中奉行の支配下に置か
れ、渡し舟や渡し賃の制度が整えられた。

 3月から9月の増水期は四艘で船渡しを行ない、地元の泉村が公役を
請け負って賃銭の徴収を行ない、それ以外の渇水期に限り、土橋を架け
ての通行を許していた。



 明治に入ると、対岸の三雲とを結ぶ長大な板橋が架けられた。
昭和に入ると、これより少し下流に橋が移され、更に昭和27(1951)
年の国道1号線の開通で、現在の地に横田橋が開通した。



 渡し場の跡地は、ポケットパークに成っていてそこに立派な常夜灯が
建っている。文政5(1822)年、地元の村々を初め遠く京・大阪人々を
含めた万人講により建設されたもので、基壇には多くの寄進者の名が刻
まれている。高さは10.5mを越え、笠だけでも2.7m四方あり、道中でも
最大級のものと言われている。



 JR草津線で貴生川方面に向かう時、三雲駅を過ぎるとすぐに左の車
窓、線路脇に大きな年季の入った常夜灯が見える。
これが横田の渡し対岸の三雲側のもので、車窓からは一瞬の間、見るこ
とが出来る。(続)





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日吉神社御旅所 (東海道歩き旅・近江の国)

2024-02-09 | Weblog
 「泉村 いづみ縄手 松並木あり 立場なり 白菊と云う銘酒有」



 ここ泉村も北脇に続く、松並木が美しい畷と言われた地である。
残念ながら今日松並木は消滅してしまった。それでも旧立場(旅人の休
憩する場所)の村らしく、趣のある平入りの家並みが残されている。
町並から察するに、公民館を中心に泉福寺と淨品寺が建つ辺りまでが、
嘗ての立場では、と思ってみたりもする。



 真っ直ぐに伸びていた旧道は、この先で野洲川に向かって緩く左に曲
がっていく。泉集落を抜けると道は、二手に分かれるが、東海道は左に
取り、泉川に行き当たる。

 その手前で旧道は再び二つに分かれるが、これも左にとって進む。
直ぐに舞込橋でそれを渡る。
泉川は右手この先で野洲川に合流する小さな川である。



 橋を渡ると道路脇に、「日吉神社御旅所」の石柱が建っていた。
「日吉神社」の所在を調べると、JR草津線の貴生川駅の西南西1.5㎞、
水口町三大寺地区に鎮座していた。
又、先程の泉村の泉福寺と淨品寺に近接した地にも同名の社があった。



 説明がないので断定は出来ないが、恐らく後者の御旅所であろう。
因みに御旅所は神社の祭礼等の時、巡行する御神輿(移動中の神様)が、
途中で休憩や宿泊される場所で、同社では4月に大祭が行われている。



 その先に日本橋から数えて、114里目の「泉の一里塚」跡があった。
水口には、林口、今在家(今郷)とこの泉の三箇所に一里塚があった。
本来の塚は、これよりやや野洲川よりにあったが、モニュメントとして
ここに築いたと説明されている。(続)





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泉村 「五重相伝」(東海道歩き旅・近江の国)

2024-02-07 | Weblog


 田圃の中の直線道を歩き北脇の集落に入ると、中之町の交差点角に、
「料亭 米新楼」の看板を掲げた建物が有る。
以前は料亭らしく、今は仕出し・宅配弁当屋さんのようだ。

 嘗ての茅葺き屋根を、瓦に葺き替えたような、堂々とした大屋根を
持つ建物で、奥にも棟が見える。説明によるとここには水口脇本陣の
建物の一部が、移築されていると言う。



 先に進むと左手に柏木小学校があり、向かい側の公民館の敷地にモニ
ュメント化した火の見櫓が再現されていた。

 北脇縄手は手入れの行き届いた美しい松並木が続いていたらしいが、
今日松は殆どが伐採されていて、この学校前に二三見られるだけだ。


 
 その先の泉地区まで来ると、集落は道路の南側に集まっていて、反対
の北側は広々と開けた田圃や畑になっている。そんな畑中に「五重相伝」
と書かれた立札と吹き流しを目にするようになる。
 
 気になって「五重相伝」を調べてみると、「浄土宗鎮西派で、宗義の
秘奥を相伝する儀式」「浄土宗の教えを五つの順序にのっとって伝える
法会」とある。



 「五重」には、「お念仏の教えの中でも、特に重要な五つの要点」と、
「お念仏の教えの基礎から一つずつ積み重ねて神髄に至る」の意味があ
るといわれているらしい。良く分からないが、この先の泉地区にある淨
品寺(じょうぼんじ)の重要な儀式らしい。



 再び道路の両側に賑やかな家並みが戻って来ると、中ほどに泉公民館が
あり、先の集落の外れに近い地の右奥に泉福寺と淨品寺が並び立っていた。
ここは立寄ることも無く先を急ぐ。
畷はこの辺りまで来ると、ようやく緩く左にカーブし始める。(続)





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