簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

三大生産地の一つ(JR乗り潰しの旅)

2015-02-27 | Weblog
 土湯の温泉街を貫くように、阿武隈川水系の一級河川、荒川が流れている。
その中心地、バス停の近くの川岸には、顔出しパネルと共に一際目を引く細長
い建家が建っていて、中には巨大なこけしが収められている。





 これは毎年4月に開かれるこけし祭りの30周年を記念して、工人が総がかりで
作り上げたこけしだ。材料はイタヤカエデで、その高さは3m、重さ500キロと言わ
れる立派なもので、制作には12人の工人が加わったと書かれている。
どうやらこの巨大こけしは三姉妹の一人らしい。



 また荒川を少し遡ると、市道に橋が架かっている。
荒川大橋と言い、その袂には巨大な4本のこけしが立っている。
ここ土湯温泉は「土湯系こけし」のふるさとで、鳴子、遠刈田と並んで東北地方に伝
わる伝統こけしの三大生産地の一つに数えられている。
それを象徴するのが、これらの巨大モニュメントである。





 土湯温泉を中心に発祥した「土湯系こけし」は、最盛期には30名近い工人が制
作活動をしていたらしいが、今日では、10名程度まで減っていて、しかも専業で製
造にあたっているのはその内の3名だけだと言う。



 一大生産地とは言え、昭和40年代の爆発的なブームが去った後は、それだけ市
場が縮小し、製造も販売も思うに任せない状態にあるらしい。
こけし作りは修行に基づいて一子相伝的に技術の伝承が行われてきたが、ここに
来てこの地もご多分に漏れず後継者難と言う深刻な問題も抱えているようだ。(続)

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きぼっこちゃん(JR乗り潰しの旅)

2015-02-25 | Weblog
 土湯温泉は吾妻山の山懐に抱かれた山間の小さな温泉地である。
嘗ては温泉旅館が20軒ほど有ったと言う。



 しかしこの温泉も、あの震災で大きな被害を受けた。
何軒かの旅館は震災の揺れで直接損壊し、廃業を余儀なくされたところも有った。
しかしそんな被害に原発事故が輪をかけた。風評被害である。



 震災直後、温泉は宿泊施設等を中心に被災者や避難者を受け入れた。
これにより一時的に稼働率は保たれたが、それらの人々が他所に移り去った後は、
稼働率が一気に落ち、結果過剰な要員を抱え、人件費などの経費が嵩み経営を圧
迫するようになった。



 震災後、旅館は11軒ほどになってしまった。
2002年度には60万人と過去最高を示し、2010年度でも40万人にも上った温泉利用
客は、11年度には20万人と半減し12年度にもその客足の好転の兆しは見られない。

 元々震災前にも旅館の数は16軒まで減っていたらしく、高齢者率の高い町は人
材も不足していたようで、衰退の要因は震災の影響だけと言うわけでもなさそうだ。
そこには後継者不足と言う深刻な問題も潜んでいるようには見受けられる。



 危機感を抱いた町では、新しい町づくりの動きも始まった。
倒壊した建物は撤去して更地にしたり、その跡地の再利用を考えたり、温泉施設を
生かしたまちづくりが動き出している。

 2013年には温泉のシンボルキャラクター「きぼっこちゃん」も誕生した。
この日泊まった温泉旅館の話好きな女将さんは、夕食時こんな話を聞かせてくれた。(続)






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土湯温泉の歴史(JR乗り潰しの旅)

2015-02-23 | Weblog


 土湯温泉は、福島駅前から路線バスで40分ほどの所にある。
バスが到着した時、停留所前にある「土湯観光協会」は既に閉まっていた。
宿の在所は、バスの運転手に確認していたので、差して不便を感じるわけでも無い
が、最終のバスが着くころまでは開けていても良いのでは・・・と思ったりもする。



 土湯温泉の歴史は古く、開湯伝説は遠く神代の昔まで遡る。
その言い伝えによると、陸奥の国に下る国作りの神(大国主命とも言われている)
が、この地を流れる荒川の畔を手にしていた鉾で突いたところ、その先から熱い
お湯が噴き出した。その「突き湯」が転じて「土湯」と呼ばれるようになったとか。



 千年以上も前に遡る伝説の真意は別にして、この土湯の名称は「吾妻鏡」にも見
られると言う。温泉は古くから修験者の生活の場として、又湯治場として栄え、江戸
時代には会津街道の宿場町としても賑わったと伝えられている。



 土湯には70か所ほどの源泉が有ると言われている。
その中でも最大の源泉が温泉街から2キロほど離れた荒川の源流付近にある。
150度の温泉蒸気と熱水が噴き出ていて、それに吾妻山系の天然の湧水を加えた
無色透明の単純温泉を各旅館に供給していると言う。
 勿論自家源泉を持つ宿も多くあり、そのため炭酸水素塩泉や硫黄泉などが楽し
めるのも土湯温泉の特徴の一つである。



 温泉町には日帰り入浴できる旅館の内湯の他にも、共同浴場(1か所)や、無料で
利用できる足湯(4か所)が有る。(続)







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土湯温泉へ(JR乗り潰しの旅)

2015-02-20 | Weblog
 山形新幹線の特急・つばさを福島駅で降りた。
ここからは今晩の宿を取っている土湯温泉に、路線バスで向かう。



 まだ薄明かりが残る福島駅前の広場周辺は、学校、仕事、買い物帰りの人々の
流れが賑やかに交錯し人待ち顔で佇む若者のグループなどの歓声が響いていた。
そこには、震災復興と原発事故の暗いイメージなど欠片も感じられない。



 そんな駅前のバス停から、家路を急ぐ乗客で込み合う土湯温泉行のバスに乗り
込んだのは、街に夜の帳が降り始め、店先の明かりが煌めきだした頃だった。



 市内のいくつかの停留場に停まり、発停を繰り返しながら進むバスの中が、気が
付くといつしか数人の旅行者風の乗客だけに成っていた。
皆終点の土湯温泉を目指しているようだ。

 師走の日没は早く、辺りはすっかり暗いベールに覆われてしまった。
市街地を外れたのか、路は僅かに上っている。町の光の帯が途切れ、かなりの間
を置いてお店であろうか、小さな明かりが時折暗闇の中を後ろに飛び去っていく。
進む先のヘッドライトに照らされた通りに、白い大きな雪の小山が見える。
山の中に入って来たようで、車内が少し冷え込み、沿道の雪も少し深くなってきた。



 福島県の中通り地方、吾妻山の山懐に抱かれた土湯温泉は福島市の西方16Km
ほどのところに位置している。
周りを山々に囲まれ、町の中心を清流・荒川が流れ、その流れに沿って開けている
落ち着いた風情のある、自然豊かな温泉地だ。
そしてここは、「こけし」たちが旅人を優しく迎えてくれる、「土湯系こけし」のふるさと
でもある(続)








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奥羽山脈越え(JR乗り潰しの旅)

2015-02-18 | Weblog
 山形から福島まで、新幹線・つばさなら1時間10分ほどだ。
しかしこの間を各駅停車の普通列車で移動しても、乗換の待ち時間を別にすれば、
その通算の所要時間はさほど変わらない。



 米沢と福島の間には、奥羽山脈の厳しい山越え、標高600m余りの板谷峠が有
り、その上り下りは38‰と言う急坂が控えている。
古い鉄道地図を見ると、この間の大沢・峠・板谷・赤岩の各駅にはスイッチバックが
有ったことが解る。しかもこの間の各駅付近は豪雪地帯で、その上急勾配区間とも
なれば、当時はその厳しさは相当なものであった思われる。



 嘗ては補助機関車を付け、何度も行ったり来たりと折り返しながら乗り越えた難所
も、今では高性能車両やトンネルのお蔭で難なく超えていくが、それでも新幹線と言
えど、十分なスピードが出せないほどの過酷な地勢が控えている。



 そのスイッチバックは今では廃止された。
しかし、これらの駅によってはその遺構などが残されているところも有るらしい。
大雪に備え、ホームはスノーシェルターで覆われていると言う。
それに何よりも峠駅には、名物の「峠の力餅」のホーム売りが健在だと聞いている。





 こんな楽しみ多い路線はやはり普通列車に乗り、のんびりと駅々を訪ねてみた
いと言うのが長年の夢である。しかし、特別にこのための行程を組んで旅をする
のならば兎も角、たまたま近くに行ったついで・・・では数少ない列車と上手く時刻
が噛み合わない。こんなわけで夢はまだ夢のまま残されている。(続)






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なせばなる(JR乗り潰しの旅)

2015-02-16 | Weblog
 米沢と言えば藩祖として崇敬を集めた上杉謙信が余りにも有名である。
謙信は戦国時代において義を貫いた武将として知られ、松が岬公園の一角にある
上杉神社には、ご神体として祀られている。



 その米沢の礎は謙信の養子となった後継ぎ、初代藩主の上杉景勝や、その景勝
に仕えた直江兼続によって積極的に町造りが行われたと伝えられている。
その功績を讃え、二人はともに松が岬公園内にある松岬神社に合祀されている。





 米沢では江戸の時代に入るともう一人忘れてはならない人物が出る。
藩中興の祖と言われる上杉鷹山がその人で、「なせば成る なさねば成らぬ 何事
も 成らぬは人の 成さぬなりけり」は、余りにも有名な名言である。



 かつて、アメリカの大統領J・F・ケネディに日本で最も尊敬する政治家と言わしめ
た有名な話も伝えられ、また新聞社による「理想のリーダー」アンケートでは、かつて
1位になったことも有る。松が岬公園の一角には、鷹山公の銅像と、その傍らにこの
名言が掘り込まれた石碑が立てられている。



 今全国的に知名度の高い米沢織は、もともとはこの鷹山の藩政改革により、当時
は武士の婦女子の内職として奨励されたものだ。
そんな鷹山の象徴ともいえる笹野一刀彫の「お鷹ぽっぽ」は、米沢の郷土民芸品だ。
 又市内には山形系の伝統こけし工人、長谷川正司、武田正志さんなどが工房を構
え、制作に勤しんでいる。



 米沢にはまだまだ立ち寄りたい場所は沢山ある。
しかし道路には雪が多く、歩いて回るには危なくってしょうがない。
それに、残念ながら乗換列車の時間も迫ってきた。(続)




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上杉氏の城下町(JR乗り潰しの旅)

2015-02-13 | Weblog
 山形県の南東部に位置する米沢市は、人口9万人余りの静かな城下町である。
市街地は米沢盆地と呼ばれるところに広がっている。
日本海越えの季節風の影響で冬は寒く、県下でも雪の多い所として知られている。
訪ねた日、町は見事な雪化粧を施し歩道にも歩きにくいほどの雪が積もっていた。






 戦国時代には伊達氏がこの地を支配し、あの独眼竜と言われた伊達正宗はこの
地で生まれている。しかし、江戸時代以降この地に根付いたのは上杉氏であり、
その支配は長く明治維新まで続き、米沢と言えばやはり上杉家30万石の城下町と
言われるほど馴染んできた。



 駅前の通りを真っ直ぐに歩き、最上川に架かる相生橋を渡ると、丁度そのあたり
に幾つかのお寺が集まった一角が有る。
直江兼続公が城下の防衛を図るために配置した寺院群で、市内にはこのような寺
町がここ東町ともう一か所北町にあり、今に残されているらしい。



 そこからさらに一キロほど行った先が、市内の中心的な観光地ともいえる米沢城
址のある松が岬公園である。
米沢城は伊達氏、蒲生氏、上杉氏の居城で、別名を松岬城とも言った。





 このお城には、珍しいことに本丸に天守閣が無かった。
それは関ヶ原の合戦で西軍方に付いたことで、徳川幕府に配慮したからで、さらに
城郭には高層な石垣も無く、僅かに土塁を廻らしただけの平城であったと言う。
明治維新になって御殿や隅櫓が取り壊され、本丸跡は松が岬公園となっている。(続)




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奥羽本線(JR乗り潰しの旅)

2015-02-11 | Weblog
 山形から米沢を経由して福島まで奥羽本線で移動する。
米沢からは新幹線・つばさに乗るのだから、正しくは「山形新幹線」で移動すると
言わなければならない。



 この路線、元々は福島と青森を結ぶ奥羽本線であるが、そこに新幹線と普通列
車が混在して走るから少しややこしくなった。
古くから東北を縦断する大動脈で、かつては東京から山形、秋田、青森などを結
ぶ優等列車が走っていたが、新幹線の登場ですっかり様子は変わってしまった。





 福島と新庄の間は「山形新幹線」となり、大曲と秋田の間は「秋田新幹線」となっ
た。それ以外の区間は在来線のままだ。そのために線路幅が異なり、新庄を境に
山形方面から秋田方面への直通は出来なくなった。



 福島から新庄の間は、山形新幹線の運行に合わせ、線路は新幹線規格である
標準軌に変更になった。在来線はそれより線路幅の狭い狭軌であるため普通、
新幹線軌道は走れないが、新たに標準軌専用の普通車両が開発されこの間で
運行されたものだから、「山形新幹線」と区別するのに在来線区間の愛称として
「山形線」が用いられるようになった。
したがって同じ路線に奥羽本線、山形新幹線、山形線の三つの呼称が存在するよ
うになってしまったのだ。さらに言えば「秋田新幹線」も・・・。





 とは言えこの路線、やはり新幹線が中心で、普通列車の運行は極めて少ない。
山形を挟んで新庄と米沢の間では、まずそれなりの本数が有るが、米沢から福島
の間ともなると極端に少なくなり、朝と夜が二三往復、昼間は一往復程度しか走ら
ない。(続)




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蔵王系のこけし(JR乗り潰しの旅)

2015-02-09 | Weblog

 ここ蔵王温泉もこけしの著名な産地の一つで、この地方を中心に作られる伝統
こけしは、「蔵王系」に分類されている。
元々は、青根や遠刈田の技術が移入され変化しながら確立されたものらしく、胴
が太くどっしりと安定感があるのが大きな特徴だ。



 構造は、頭と胴が「ほぞ」と呼ばれる接続用の木片で繋がれた差し込み式で、頭
頂に赤い放射状の手絡を描くが、黒いおかっぱ頭もあるようだ。
胴模様はキクやサクラ、ボタンが中心で、中には山形らしくベニバナが描かれたも
のも有る。目は二重まぶた、花はたれ鼻、口には紅が差されている。

 温泉街のメインストリート、高湯通りの中ほど、共同浴場・下湯の前にある旅館
「招仙閣」は、こけしの宿として知られたところだ。
蔵王系のこけし工人斎藤家の三代目・昭さんの経営する旅館である。





 その先、「酢川温泉神社」の石段の下、共同浴場・上湯の近くには「能登屋」と言う
こけし工房の店が有る。「栄冶郎」と書かれた看板を掲げた店で、内閣総理大臣賞
を受賞したことのある工人・岡崎幾雄さんの店だ。



 この屋号にもなっている「栄冶郎」と言うのは、明治の中頃、青根温泉での木地
修行を経て後、ここ蔵王で開業、販売を始め、蔵王系の創始者と言われた人物で
ある。硝子戸をあけて店内に入ると、棚一面にこけしが飾られていて、その数に圧
倒される。
店の片隅には作業場が有り、運が良ければ絵付け風景が見られるかもしれない。





 また温泉街の中ほどには、工人・田中敦夫さんの店もあり、蔵王系のこけしや、
郷土玩具などのお土産がが並べられている。(続)




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伝統こけし(JR乗り潰しの旅)

2015-02-06 | Weblog
 東北地方の旅は、「伝統こけし」を訪ねる旅でもあり、素朴で柔和な表情の「こけし」
たちと出会う楽しみ多い旅でもある。
主要な駅の売店や、土地の観光物産館、観光地の土産屋などには、数は多くないが
その地の「こけし」が並べられていることが有り、そんな光景に出くわすと嬉しくなる。



 東北地方だけで生まれ育った郷土玩具である「伝統こけし」は、その生まれ育っ
た土地ごとに形や色使い、描かれる模様などに特徴があり、それらの特徴によっ
て主に産地を中心とした11の系統に区別されている。



 最大の特徴は「こけし」の発生期と目される江戸は文化・文政の頃より今日まで、
その形は、ロクロで削られた丸い頭と円柱形の胴を組み合わせただけの単純な形
状であり、間違っても手足が付けられていないことである。



 その産地には、今でもこけし作りを生業とする、「こけし工人」と呼ばれる人たち
がいて、ロクロを回し、描彩し、伝統の技を引き継いでいる。
多くは家内工業的で小規模な工房を持ち、作品はおみやげ品屋さんなどに卸され
るが、中には自前の店を構え、店先でロクロ回し実演を披露しながら土産として
販売も手掛ける工人も少なからずいる。



 多くは湯治を中心とした温泉地でお土産として捌かれ発展を遂げてきたが、今で
も鳴子、作並、肘折、土湯、遠刈田などの温泉地は主要な産地であり、工人たちが
お店を構えている。そんな工人の店を訪ね、実演を間近に見て、話を直接聞くのは、
産地を訪ねる最大の楽しみでもある。(続)







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