簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

夜泣石伝説と子育飴 (東海道歩き旅・遠江の国)

2020-08-31 | Weblog


 『その昔、お石という女性が当地に有った丸石の近くで、俄にお腹が
痛くなった。丁度その時通りかかった男が介抱してくれるのだが、男は
この付近を荒らす山賊である。お石が懐にお金を持っていると知ると殺
してしまった。このとき不思議なことに妊娠していたお石の傷口から男
の子が生まれた。そしてお石の霊魂は、そばにあった丸い石に乗り移り、
夜ごとに石は泣くようになった。



 寺の和尚が読経してその石を慰め、泣いていた子を引き取って飴で
育てたという。成長した男の子は、大和国で刀研ぎ師の弟子となった。
ある日、刃こぼれを研ぎにきた男にその原因を問うと、十数年前の凶
行を聞かされ敵と知り、名乗りを上げて見事母の敵を討ったと言う。』



 「小夜の中山」の久延寺の建つこの辺りには、こんな悲しい「夜泣
石伝説」が残されていた。
「峠 上り立場 あめのもち名物売り」
寺の門前周辺は、鎌倉時代から接待茶屋が建っていた場所で、このよ
うに伝わる茶店が立ち並んでいたと言う。寺の和尚が子育てに用いた
水飴や、餅に水あめを絡ませた飴餅がしきりに売られていたようだ。



 寺の少し先に、古色の木看板に「あふきや」と書かれている古びた商
家が建っている。江戸時代から続く末広荘・扇屋という茶店で、「名物 
子育飴」を売る、今日に残るただ一軒の店である。



 餅米と麦芽を原料にした水飴で、餅に水飴をまぶしたものを、旅人に
饗している。ここでは今でも昔ながらの製法で作られた水飴が売られて
いて、カフェも併設されている。どうやら営業は人出の見込まれる休日
だけらしく、今日は生憎と閉まっていた。(続)





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佐夜の中山・久延寺 (東海道歩き旅・遠江の国)

2020-08-28 | Weblog


 「小夜の中山」最後の急坂、青木坂を上り詰めると、右に古刹が見え
てくる。「高野山真言宗・佐夜中山・久延(きゅうえん)寺」である。
山門で猫が、人が近づくのも厭わずのんびりと睡眠をむさぼっていた。



 創建は古く、奈良時代に行基が開基したと伝わる名刹だが、一時は
無住で荒れるに任せた時期もあったらしいがその後再興されている。
御本尊は聖観世音菩薩で、地元では「子育ての観音さま」と称され親
しまれている。



 掛川城の城主となった山内一豊が、関ヶ原から会津攻めに向かう徳
川家康を接待するために、境内に茶室や観音堂を建立したと言う故事
が伝わる寺である。境内のお茶屋亭跡がその名残で、ここで煎茶を供
したらしく、その礼に家康が植えたとされる五葉の松も境内には残さ
れている。



 広重が描く東海道五十三次の「日坂 左夜ノ中山」では、ことさら
誇張された小夜の中山の急坂が描かれている。
そんな急坂の続く街道の真ん中には、その脇で赤ん坊が泣いていたと
いう大きな丸石も描かれ、それを旅人達が囲み見入る姿があり、どん
と据えられた石には何やら微かな文字も見られる。



 その文字は、供養のお題目「南無阿弥陀仏」で、後にこの地を通り
かかった弘法大師が、寺に伝わる伝説に同情して刻み、立ち去ったと
伝えられている。この寺には、そんな遠州七不思議の一つとして知ら
れる「夜泣石伝説」が残されている。この赤ん坊と大きな丸石に纏わ
る悲しい伝説で、本堂の右手にはその丸石も残されている。(続)



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もう一息 (東海道歩き旅・遠江の国)

2020-08-26 | Weblog
 東海道の難所「小夜の中山」の茶畑を行くアスファルト道は、緩や
かな上り下りをくりかえしながらも、圧倒的に上り勾配の方が多く、
確実に高所に向けて長く延びている。



 多少息も上がり気味で、踏み出す一歩一歩は、スローモーションの
ように頗る鈍いが、周りの茶畑の濃い緑と青い空だけは相変わらず美
しく、それが唯一の慰めである。

 道中にはコンビニも食事処も無く、休憩するような場所も何も無い。
休むなら歩を止めて、しばし路傍に腰を下ろすより仕方が無い。
ペットボトルの予備を、予め金谷の町中で調達していて正解であった。
今道ばたに屈みながら、既にその2本目に口を付けている。



 「もうすこしだ。その坂を上がれば寺がある。」
覚束ない足取りで急坂を上ってくる姿に、見るに見かねたのか、途中
の茶畑で作業中の男性が手を休めながら、軽トラに手をかけたまま声
をかけてくれた。



 ホット一息つきながら、指でさされた先を見れば、急な坂道はその
先で細くなり、緑の森の中に吸い込まれている。
こんもり濃い緑が盛り上がる様は、鎮守の森そのものだ。
「あの森が久延寺ですか?」
「いや、そのもう一つ坂を上がったその先だ」



 疲れ果てながら重い足取りで教えられたあの森を抜け、さらにその
もう一つその先の青木坂の急坂を上り詰めると、やがて道は平坦な広
場となり、252mの峠を迎える。

 そこには不揃いな丸石で組み上げた台座の上に小さな祠が祀られて
いて、その向かい側に目標としてきた寺が山門を構え建っていた。



 金谷から続く坂道の上り下りは、標高がさほどあるわけでは無いが、
そのくり返しが延々と続くのにウンザリで、評判どおりの難所に、思
わぬ苦戦を強いられてしまった。(続)



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第三の難所 (東海道歩き旅・遠江の国)

2020-08-24 | Weblog


 金谷坂、菊川坂の石畳道に続いて上り下りを繰り返す小夜の中山は、
昔から箱根、鈴鹿に次ぐ東海道三大難所として知られたところだ。
今は見わたす限りの茶畑が広がる明るい地だが、当時はまだまだ荒廃
した山中で、深い木立が生い茂り、あるいは草深い地で、民家とてな
い寂しい地であったと思われる。



 テレビドラマや映画、芝居等なら、お決まりのようにこうした場所
では夜盗・盗賊・山賊・追い剥ぎ・ごまの蠅などと遭遇し、難儀を強
いられ、時には命までも奪われてしまう。
そんな筋書きを思い浮かべれば、昔の「難所」はただ単に、地勢の厳
しさだけのことでは無かったように思えてくる。



 ドラマとしては何も起こらなければ成り立たないから仕方ないが、
しかし実際のところは随分と誇張された話で、勿論皆無ではあり得な
いであろうが、江戸時代の治安は今思うほど悪くは無かったようだ。



 江戸は文化・文政期に野田泉光院という人物がいた。
修験寺(山伏の寺)の住職で、修験者として6年以上をかけて諸国を
托鉢行脚した僧だ。その「日本九峰修行日記」によると、この間山賊
や追い剥ぎに遭遇したことなどは無かったと言う。



 時は太平の世、長旅で日焼けをし、従者を連れた壮健で屈強に見え
る修験僧(山伏)の姿を見れば、襲う者など誰もいなかったのかも知
れないが、当時は重刑主義である。



 金子の窃盗なら10両以上、スリでも4回捕まれば死罪、放火は事の
大小に拘わらず火罪(ひあぶり刑)らしいから、犯罪の抑止が効いて
いたのであろう。

 人里を遠く離れた難所でも、心許ないローソクの僅かな灯りだけの
夜道でも、意外に難なく行き来が出来ていたと言うことかも知れない。(続)

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小夜の中山 (東海道歩き旅・遠江の国)

2020-08-21 | Weblog
「年たけて またこゆべきと思ひきや 命なりけり さよの中山」

 西行法師の詩である。
『年老いた今こうして、再びこの峠を越えるとは思ってもみなかった。
二度も越えられるのも命があったからなのだ・・・』
『かつてここを通ったのは30歳の頃だったなぁ・・・』
東大寺再建の勧進の道中で、奥州平泉に向かう69歳の西行は、老いた身
体を鼓舞しながら2度目となる峠越を感慨深く体験する。



 「小夜の中山」とは、なんとも心地良い優雅な響きのある地名である。
昔からここを旅した西行法師や松尾芭蕉、橘為仲等の文人墨客も、多く
の歌や句を残している。しかし、その地名から受ける穏やかな印象とは
裏腹に、ここには想像も出来ないほどの厳しい峠道が待ち構えている。





 急坂に挑む出発地の金谷宿の標高は100mほどだ。
そこから金谷坂を上り茶畑の中の諏訪原城跡辺りで標高220mのサミ
ットを迎えると、その後は「菊川坂」を下り、標高100m程の地にあ
る間の宿菊川まで下り切る。平坦地の菊川の宿内を抜ければその先が、
「小夜の中山(さよのなかやま)」に向かう「上り坂十六丁と云う箭
置(やおき)坂の」急坂が待っている。





 菊川坂までの石畳道と違ってここかは、アスファルト鋪装した細い
道が続いている。周りは見渡す限り一面の茶畑で、遙かに見える向い
側の山の斜面の、その先の山までもが皆茶畑だ。

 明るい陽光をいっぱいに受けた若葉がキラキラと輝いて見え、吹く
風も爽やかで気持ちが良いが、しかしその道のりは殆どが上るだけの
厳しく長い道である。
そんな「小夜の中山」に、これから取りかかる。(続)

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間の宿・菊川 (東海道歩き旅・遠江の国)

2020-08-19 | Weblog

 菊川に架かる高麗橋を渡ると間の宿・菊川の宿内である。
間の宿は宿場間が長い場合の中間地辺りに開かれるのが普通であるが、
ここ菊川は、金谷宿と日坂宿の間が一里二十四丁(およそ6.5Km)しか
ないのに置かれている。それはこの間には金谷坂や菊川坂があり、更に
その先には箱根、鈴鹿に次ぐ東海道三大難所の一つとも言われる小夜の
中山が控えているからである。





 間の宿では、旅人や人足が休憩の便宜を図るだけで、宿泊することは
原則禁止されていた。また茶店で提供する料理も豪華なものは禁じられ
ていてそこから旅人を慰める料理として大根葉入りの「なめし田楽」が
考案された。当時は名物として提供する茶店が建ち並んでいたと言うが、
今は提供する店はなく、郷土料理として伝わるのみである。





 街道の中程に「間の宿 菊川の里会館」が有り、駐車場の脇に菊石
が置かれ、二人の詩碑・歌碑が建てられている。
昔から付近の川では、菊石と呼ばれる菊の家紋の入った石が多数見つ
かっていて、石の採れる川を菊川と呼んでいたが、それが何時しかこ
の地名になったという。





 また承久の変で捉えられた中納言・藤原宗行は、鎌倉に送られる途中
この宿で泊まり、死期を悟った覚悟の詩を残したという。
それから百年後幕府転覆を企て捉えられて関東送りとなった日野俊基は、
当地で宗行の往事を追悼し自身を重ね、詩を残した。

 今ではごくありふれた静かな町並の続く長閑な里山風の菊川であるが、
中世東海道の頃から重要な駅として位置づけられた歴史を重ね、数々の
ロマンを今に伝えている。(続)
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菊川坂の石畳 (東海道歩き旅・遠江の国)

2020-08-17 | Weblog


 菊川坂は、江戸は文政年間の助郷制度により、近隣12か村に割り当て
られ、助郷役の人々により敷設された380間(約690m)の石畳道である。
助郷とは、幕府が宿場周辺の村落に課した労働課役のことである。
徴発された農民たちには迷惑この上なく、その負担は相当なものであっ
たようだ。



 嘗ては林の中の薄暗い中を下る坂も、昭和の高度経済成長期に開発が
進み、木々は切り倒され、道が整備されるなどで僅か161mを残すのみ
となっていた。その後平成の発掘調査では、アスファルト舗装の下に埋
まった道が見つかり、調査の結果この道は江戸時代後期に敷設されたも
のと確認されている。



 当地では東海道400年祭りにあたり、先人の助郷制度に因み、「石畳
菊川坂助郷伝説」と銘打ち、平成の助郷事業が行われた。
町内外から集まった500名を越える人々の手で、往時の石畳道を復元す
る道普請である。これにより菊川側の登り口に残されていた古道に続く
700mほどの石畳道が整備された。
集められた石はおよそ7万個にも及んだという。



 周りの緩やかな傾斜地には、相変わらず広大な茶畑がうねる様に広が
っている。日本一の茶処である静岡県の全国シェアは4割を超えるが、
その生産量の半分以上をこの牧の原台地周辺の茶畑が担っている。
温暖な気候、長い日照時間、何よりもこの広大な平坦地が生産に大きく
寄与していると言う。



 やがて前方の視界が大きく開けると、木立の隙間から間の宿・菊川の
家並みが見えてくる。ここまでくれば厳しい坂はもはや最後である。
150年ほど前に作られた丸石の古道となり、時代を噛みしめながら下れば
街道は、間の宿・菊川の集落へと入っていく。(続)





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諏訪の原城 (東海道歩き旅・遠江の国)

2020-08-14 | Weblog

 牧之原台地一面に広がる茶畑の路は、見た目も美しく気持ちが良い。
淹れ立てのお茶の香りが、今にも匂ってきそうな気さえする。

 当地には余程の丸い石がたい積しているのか道普請に使われるだけ
では無く、茶畑の土壌を支える石垣や道路の土留め、民家の庭先でも、
至る所に丸石が使われている。





 暫く行くと、国指定史跡・諏訪の原城跡が右側に見えてくる。
武田勝頼が標高218mの地に遠州攻略の拠点として築かせた城で、城内
に諏訪大明神を祀ったことから、「諏訪原城」と言われるようになった。
天正年間に徳川軍に攻められ落城後は牧野原城と改名したが、武田氏が
滅亡した後は廃城となり荒れ果てていた。





 跡地は戦国時代史の過程を理解する上で重要な遺跡とされている。
しかし広大な城跡には空堀や井戸跡が残されていると言うが、草原と
鬱そうと木の茂る森に変貌し、案内板の城郭図を見ても旧街道からは
全貌を伺いしることは出来ない。茶畑の広がる地にあっては、ここだ
けが異空間のように見えるが、古くは諏訪の原と言われた地らしい。





 その先で県道を渡ると、小さな東屋の休憩所がある。
その前の案内板には「菊川坂」との表示が有り、再び石畳道の始まり
を告げている。ここからは粟が岳の斜面にヒノキで描かれた「茶」の
字が遠望が出来、又「小夜の中山」の案内も見られるようになる。

 「小夜の中山」は、金谷坂、菊川坂に続き佐夜鹿(さよしか)の峠
を越える路で、これらの連続は、東海道では箱根や鈴鹿につぐ難所と
して旅人に恐れられていた。(続)



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牧ノ原台地の茶畑 (東海道歩き旅・遠江の国)

2020-08-12 | Weblog
 山石の敷き詰められた坂を上り詰めるとそこは初倉山だ。
石畳道が途切れたところで行幸道路に出て南東方向に辿ると、一帯は
牧之原台地と言われる平坦地で、東京ドーム1,100個分に相当する広大
な茶畑が広がっている。

 江戸幕府が倒れ明治維新を迎え、川越制度が廃止され職を失った川越
人足や、武士の立場を奪われた幕臣などが当時は荒廃地であったこの地
に入植し開拓を行った。
結果広大な開墾地は、それらの開拓者に払い下げられた。
ここには今でもその子孫が何人か住み着いて、茶業を営んでいると言う。





 そう言えば街道一の大親分と言われた清水の次郎長も、維新間もない
頃、任侠道から足を洗い、子分や囚人などを引き連れて富士の裾野の開
墾をしている。
当時この遠江や駿河国には、まだまだ未開の原野が多かったのであろう。





 この地に茶が植えられたのは、水はけは良いが石の多い弱酸性地に
適していたからだ。また時の政府が海外需要に目を付け、頻りに輸出
を進めていた背景もあったらしい。温暖で豊富な日照時間など、気象
条件の後押しも有り、結果今では日本一の茶処と言われるまでの産物
に成長した。





 高級な抹茶を生産する宇治茶の畑などでは、新芽の出る頃は一時遮光
シートで覆うと言う話を聞いたことがある。日光に当たって、テアニン
が渋み成分のカテキンに変わるのを防ぐためだそうだ。

 しかしこの地には、そのようなものは何もなく、見渡す限り一面に広
がる緑の茶畑だ。
最近の茶摘みは機械摘みが殆どで、茶木が作る畝はどこの茶畑も同じう
ねりで、それが幾重にも重なって広がる幾何学模様は、青空と良く映え
何とも美しい。(続)



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金谷坂の石畳 (東海道歩き旅・遠江の国)

2020-08-10 | Weblog
 金谷坂の、旧石畳路の復元機運が盛り上がったのは、平成の世に入っ
てからである。旧金谷町民による「平成の道普請」と銘打った一人一石
運動は、600名余りの町民により430m程の道を蘇らすことが出来た。
今日目にする石畳路である。



 しかし鏡のように平らな路面に慣れ親しんだ現代の旅人の足の裏に
とって、丸い石の道はなんとも歩き難いものだ。
比較的大きな平らな面で揃えられているとは言え、半端無い凹凸感と、
石の隙間の存在は絶えず足下を危うくさせる。



 一瞬でも足下から視線を外そうものなら、ぐらついてたちまち捻挫
の危険に襲われそうな不安があり、一時も気が抜けない。
ここは上りの苦しさはあるが、歩きやすさから言えば、下るよりは遙
かに安全なのかも知れない。



 坂の途中には赤い幟旗の立ち並ぶ「すべらず地蔵尊」がある。
路に敷き詰められた丸い石は川石に比べると表面にはざらつきが有り、
滑りにくいと言う。このことから受験や商売等の願をかければ、滑ら
ず叶えられると信仰が篤いのだそうだ。



 丁度この辺りで、自転車を押しながら下ってくる若者と出会った。
どちらかともなく、「きついですね」と声を掛け合い、しばしこの坂
の話題で話が弾む。表面が滑らかな丸い石とは言え、流石に自転車に
乗ったままでは走行も出来ず、長い登り坂を、自転車を押しながら歩
いて来たという。



 ようやく下りになりほっとしたが、又この石畳の下り坂だ。
「押し歩きは上り以上にきつく注意もいる」とこぼす若者の顔は紅潮し、
日焼けをした額には玉の汗が光っていた。(続)





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