簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

三条大橋の東詰(東海道歩き旅・山城の国)

2024-10-30 | Weblog
 この三条大橋は、東海道の起終点、京への出入口だけに、周辺には
様々なエピソードが残されていた。

 東詰北側の川縁には襷をモチーフにした「駅伝の碑」が立っていて
日本で最初の駅伝競走が、ここからスタートしたことを伝えている。



 大正6(1917)年4月27日から3日間に渡り開催された、奠都(て
んと)五十周年記念大博覧会「東海道駅伝徒歩競争」である。
京都・三条大橋をスタートし、ゴールは東京上野不忍池の博覧会正面
玄関であった。この間508kmを,23区間に分けリレー形式で昼夜を分
かたず走り抜けたという。 



 レースは関東組と関西組の2チームによって争われた。
結果は関東組の勝利で終わったが、ゴールテープを切ったアンカーは、
NHK大河ドラマ『いだてん』の主人公にもなり、この駅伝の発案者で、
「日本マラソンの父」と言われた金栗四三であった。



 道路を隔てた反対側には、「高山彦九郎」の大きな像が見える。
地元ではこの像を、俗に土下座像とも呼んでいるらしい。
しかしこれは、土下座ではなく御所に向かって望拝する姿を現している。 


 
 群馬県出身の彦九郎は、江戸時代後期の思想家で、尊王運動の先駆者
で、幕末の勤皇の志士達に多大な影響を与えた人物と言われている。
諸国を巡り歩き、数回上洛したが、京都に出入りする折には、このよう
に京都御所に向かって礼拝したという。



 銅像が初めて立てられたのは昭和3(1928)年に昭和天皇のご大典
(即位の大礼)を記念しての事で台座の文字は東郷平八郎が揮毫した。
その後戦時中の金属回収令による供出で一時姿を消したという。



 代わりに、徳富蘇峰の揮毫により「高山彦九郎先生皇居望拝之趾」と
書かれた石碑が立てられたという。
戦後に成り、昭和36(1961)年に再建されたものが現在の像らしい。(続)



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三条大橋(東海道歩き旅・山城の国)

2024-10-28 | Weblog
 「橋の長さ五十七間弐寸、幅四間弐尺、
本邦にて橋杭を石にて作る此の橋を初めとす」

 

 三条大橋が歴史に登場するのは、室町時代前期の応永30(1423)年と
言われているが、これをもって最初に架けられたかは、定かには分から
ないらしい。
 天正18(1590)年に、豊臣秀吉の命により、増田長盛を奉行として石
柱の橋に改修され、現在のような木製の高欄に擬宝珠(ぎぼし)が設置
された本格的な橋が出現した。



 江戸時代の慶長6(1601年)に幕府は、東海道五十三次の起終点とし
て重要視し、直轄の「公儀橋」に位置付けた。
 幕府管理の17世紀以降、幕末にかけての二百数十年間では、20回を越
える洪水被害を受け、公費での復旧・改修工事が35回行われて来た。



 明治の廃藩置県により、橋は幕府から京都府にその管理権が移管され
(現在は市の管理)、明治13(1880)年12月には府によって架け替えが
行なわれている。
 橋の永久化が行なわれるのは、大正元(1912)年の事だ。国道のルー
トに入り、道の拡幅を機に鉄骨コンクリート造り、幅員を14.5mに広げて
永代橋に架け替えられた。



 昭和25(1950)年の改造では車道2車線、歩道付のコンクリート製と
なり、長さは74m、幅も更に広げられ15.5mとなり、一家に三世代の夫
婦という珍しい家族が渡り初めをした。
 現在の木製高欄は,昭和49(1974)年3月に、台湾製の檜を使って造
り変えられたが、紫銅で作られた14個の擬宝珠は当時のものがそのまま
使われている。



 そして今、木製の高欄を鞍馬山の檜に更新する工事が進んでいる。
美しい風景や木の文化を次世代に継承していくため、ふるさと納税を通
じた寄付による「橋の補修・修景」事業である。(続)





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安堵の到着(東海道歩き旅・山城の国)

2024-10-25 | Weblog
 「ああ~、着いた~ァ~」

 ようやく五十三次の終点・三条大橋に辿り着いた。



 四国八十八カ所を歩き終えた後、東海道歩きを思い立ち、お江戸日本
橋から西に向けて歩き始め、五十三次を歩き終えた。

 飛び上がり叫びたくなるような感動が爆発するとかと思ったが、意外
にも冷静で、最初に出た言葉はやり遂げた感動ではなく、無事に辿り着
けた安堵のこの小さな一言であった。



 道中健康障害もなく、事故にも遭わず、恙なく、天候にも恵まれた。
最も晴れの日を見極めて計画を立て歩いて来たので、突然の俄雨にこそ
何度も出会したもの、大雨で難儀をする事も無くここまで順調に歩いて
くる事が出来た。



 コロナ禍での4年に渡る足踏み、自身の感染による体力低下もあった。
取り分け加齢による脚力の衰えは顕著で、出かける度毎に一日の歩行距離
は縮んでいった。
中でも、峠越え道は苦手で、牛歩のような歩みは時間ばかり要してきた。
そんなこんなで予定以上に日数は要したが、どうにかここまで辿り着いた。



 その大橋は、現在改修が進行中で、歩道が規制されていた。
にも関わらず、橋の上は多くの人が無秩序に行交い、通行する車も引っ
切り無しで、観光地らしい様相をみせている。
そんな中人混みに紛れ、歩き旅の上がりの橋を一人密かに感慨深く渡る。



 渡りながらふと考えた、次は東海道57次を歩いてみようと。
江戸幕府は、西国大名達が京都で朝廷に接触するのを嫌い、大津の髭茶
屋追分けから、伏見、淀、枚方、守口を経て大阪・高麗橋に到る道を参
勤交代のルートとして定めている。



 大坂からは京街道、京都からは大坂街道と呼ばれた、淀川左岸に沿った
道である。次はこの道を歩いてみよう、と決意を固めるのである。(続)



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いよいよ上がりが見えてきた(東海道歩き旅・山城の国)

2024-10-23 | Weblog


 三条東山交叉点まで来ると、辺りは京都の観光スポットらしく、大型
のホテルも目に付くようになる。歩道には観光らしき人が増え、グルー
プや家族連れ、楽しげなカップル等の姿もみえる。
土産物店等も目に付くようになり、昼時とあって食事処などには、早行
列が出来ている。



 車道を行き交う車も、地元車の他にチラホラと県外ナンバーも見られ、
そんな間を縫って時折大型の観光バスも一杯の人を乗せ走り去って行く。

 昔も此の三条大橋を控えた地では、馬借や車借などの運送業者が住み
着き、物資の運搬に従事し、人や物の往来が激しく行交ったと言うから、
その大層な賑わいは今も昔も変らない。



 平成28(2016)年4月18日お昼12時、お江戸日本橋を背に東海道を
歩き始めた。ここを起点とする東海道は、その距離百二六里六町一間、
現在の距離に直せば凡そ492㎞だ。それを昔の人に習って、全行程歩い
て踏破する計画である。



 一気に歩き抜くだけの脚力は無いので、二泊ないしは三泊しながら、
一日20~25㎞程度を目安にのんびり、気ままな歩き旅である。

 とは言えコロナ禍では、4年程足踏みを余儀なくされ、その間自身の
感染もあり体調が不安な時期も有った。
避けようのない加齢は、残念な事に体力、脚力を否応もなく低下させる。
直近では一日に歩く距離は15㎞がヤットである。



 昔の人は、日の出から日の入りまで、一日に10里(凡40㎞)は歩き、
それを何日も続けたというが、歩くしか術のない時代とは言え、驚異的
な脚力には脱帽である。



 到底それをまねる事は出来ないが、それでも一歩を踏み出せば、確実
に前に進むことが出来る。立ち止まっていたら何も始まらない。
こうした小さな一歩を、又一歩と積み重ね、今ようやくにしてそのゴー
ルが見えてきた。(続)



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古川町商店街 (東海道歩き旅・山城の国)

2024-10-21 | Weblog
 白川橋を渡るとすぐに、「古川町商店街」というのがあった。
終戦後の昭和25年頃から形成された商店街で、京都を代表する「錦市場」
に対する「東の錦」と呼ばれ、50店舗以上が揃い繁栄した時期があった。
ところが今ではシャッターを下ろした店舗もチラホラと目に付いている。



 三条通りから南に約250mの間に、今では40店舗ほどが軒を連ねる小
さな商店街だ。アーケードで覆われた商店街の通りは狭く、幅は2間程
しか無く、路地の様だ。天井から吊り下げられた「パステルランタン」
が独特の雰囲気を醸し出している。



 「レトロ&モダン」をコンセプトにする商店街で、老舗の店舗も多い。
至る所に昭和な香りがするが、中には今風の映え狙いでモダンでな店構
えも少なくない。不思議な感覚のする商店街で、今ではTVや映画のロ
ケ地、また雑誌等の撮影の他インスタの撮影スポットとして人気という。



 南禅寺のある岡崎地区と、円山公園地域を結ぶ通りぬけ通路でとして
も知られているらしく、買い物客に混じり、多くの観光客も商店街を通
り抜けている。中にはお目当ての新しい店を目的とする観光客も多いら
しい。



 抜けると白川の川縁で、その先を左折すると、知恩院の入口の古門が
建っている。まっすぐに参道を進めば、知恩院の山門に行き当たる。
その北には先程チョットだけ立ち寄った青蓮院門跡がある。



 その南には円山公園が広がり、高台寺、更にその先二年坂から産寧坂
を経て清水寺への道である。八坂公園の西には八坂神社、社前には花街
祇園が広がり、京都市の繁華街四条通りが西に延びていて、京を代表す
る一大観光地が拡がっている。(続)





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三条白川道標 (東海道歩き旅・山城の国)

2024-10-18 | Weblog


 三条通りを歩き交差点に出ると、右奥に赤い大きな平安神宮の鳥居が
見えていた。その辺りは京都の代表的な文化ゾーンで、岡崎地区という。
 美術館や博物館、図書館があり、周辺には岡崎公園や動物園、琵琶湖
疎水の関連施設なども見どころも多い。
この神宮通りを辿れば、突き当りが平安神宮である。



 坂本龍馬 お瀧 結婚式場跡見て少し行くと白川橋を渡る。
とは言え、広々とした三条道りの道成りに進む感じで、橋を渡る特段の
雰囲気はない。

 白川は京都と滋賀を結ぶ山越えの道「山中道」辺りを源流とし、京都
市内に流れ込み、最後は祇園白川となって鴨川に流れ込んでいる。



 川の両岸は落ち着いた風情が感じられる柳並木である。
岸辺には飲食店などの立地もあり、周辺には有名な観光地も多く、散策
のデートスポットとしても良く知られているという。


 
 白川橋東詰に京都市内に現存するものでは最古と言う古い道標がある。
繁華な三条通りを行交う人々は多いが、この碑に目を向ける人は殆ど見
受けられない。随分と目立つ道標なのに、現在では不用の長物らしい。

 「史跡 三条白川道標」と書かれた真新しい柱の横に、黒ずんではい
るがしっかりと彫り込まれた文字も鮮やかな、子供の背丈ほどの石柱だ。



 南側面には「京都為無案内旅人立之 延宝六戊午三月吉日 施主為二
世安楽」、東側面は「是よりひだり ち於んゐんぎおんきよ水みち」と
読め延宝6(1678年,つちのえ・うま)年に建てられたもののようだ。

 東海道を歩き、三条通り粟田口から京入りした、京見物で訪れる旅人
への昔からの案内標識である。(続)





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坂本龍馬・お瀧結婚式場跡とYH(東海道歩き旅・山城の国)

2024-10-16 | Weblog
 青蓮院から三条通りに戻り暫く行くと、通り沿いのマンションの前に、
「坂本龍馬 お瀧 結婚式場跡」と刻まれた石柱が建っていた。
NPO法人京都龍馬会が平成21(2009)年に立てたものだ。



 説明板によると、嘗てこの地には、青蓮院の塔頭・金蔵寺が立地して
いたという。お龍の父・楢崎将作は金蔵寺に仕える医師だったことが縁
で、ここの本堂で住職・智息院(ちそくいん)が仲人を務めた。
元治元(1864) 年8月の事で、二人は内祝言を挙げた。



 当時は池田屋事件(6月)や、禁門の変(7月)が起き、京の町中は
物情騒然としていた。京の南伏見の寺田屋騒動が起きるのは、その2年
後の慶應2(1866)年1月の事である。



 龍馬は、結婚生活を楽しむいとまもなく、薩摩島津家の要望で、対立
した長州毛利家との和解に奔走し、二人はながく別居夫婦だったようだ。
激動の時代を生きた二人はその後揃って京都に戻る事は無かったという。



 余談になるが、この場所には平成23(2011)年まで、「東山ユースホ
ステル」があったが、40年の歴史に幕を閉じ、今のマンションに建て替
わったという。

 ユースホステル、略して「YH」は、「青少年の健全な野外活動や旅行
の拠点として設けられた安価で健康的な宿泊施設」のことで、昭和の時
代に最盛期を迎えたが、今では、減少傾向に歯止めがかからないようだ。



 ペアレント(管理人)と、訪れたホステラー(宿泊者)との夕食後の
交流(ミーティング)が楽しく、全国を旅する中では、何度も、と言う
よりは若い頃は、殆どがYH泊まりであった。



 会員に成り、各地のYHを利用してきたが、流石に最近では遠退いた。
今では随分と衰退したらしく、会員も施設も激減しているという。

 ここがYH跡と聞いて、懐かしいあの頃が思い出されてきた。
突然懐かしい旧友に再会したような気分である。(続)



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寄り道 (東海道歩き旅・山城の国)

2024-10-14 | Weblog
 旧東海道・三条通りは平坦に成り、車道・歩道に人々の賑わいを増し
ながら、粟田口から中心市街地に入ってきた。
観光人気の高い京都らしくこの界隈にも有名なスポットが目白押しで、
観光客の散策する姿を頻りに目にする事になる。



 この辺りに来るのは、何年ぶりで有ろうか。
京の町中には、魅力的な場所が多く、矢張りむげには通り過ぎる事が出
来ない。ここまで来れば終点の三条大橋は目前で、最早急ぐ必要も無く
旧東海道・三条通りを外れ、ついつい寄り道をしてしまう。



 先程は何十年ぶりかに琵琶湖疎水・インクラインから南禅寺を見に街
道を外れたばかりなのに又寄り道をする。
どのみちゴールすれば、その後は自宅に帰るだけで予定はない。ゴール
には明るい陽の有る内に着ければ良い気安さがそうさせているのである。



 三条夷子町の交叉点を左に曲がると、少し上り気味の道で、暫く行く
と有名な門跡寺院・天台宗の青蓮院がある。
天台宗総本山比叡山延暦寺の三門跡(他に三千院、妙法院)の一つだ。
現在は、京都五箇室門跡(他に妙法院門跡、三千院門跡、曼殊院門跡、
毘沙門堂門跡)の一つに数えられている。



 門跡寺院とは、門主(住職)が、皇室或いは摂関家によって受け継が
れてきたお寺のことを言う。この院は、古くから皇室との関わりが深く、
格式の高い門跡寺院とされている。
嘗ては所在地から、「粟田御所」とも呼ばれていた。



 流石にゆっくりと内部を拝観するまでの余裕は無ない。
門前の有名な大楠の木を見て、入り口の変わらぬ佇まいを眺めるだけだ。
ほんのすこしの寄り道で、三条通りに戻り、今度こそ上がりを目指す。(続)





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粟田神社 (東海道歩き旅・山城の国)

2024-10-11 | Weblog
 三条通りを三条大橋に向けて、順調に歩を進める。
左カーブの先、左手に見える大きな建物は、昔からこの地に建つ老舗の
ホテルで、続いてウェスティン都ホテル京都が立地している。
その先には、真宗・佛光寺の納骨壇を祀る本廟が見えてくる。



 粟田口にある「粟田神社」はスサノオノミコト・オオナムチノミコト
を主祭神として祀り、厄除け・病除けの神と崇敬されているという。
 又京の東の入口、粟田口にある事から、旅立ちの神として、東海道を
行き交う旅人の信仰も篤かったと言う。
道中の安全を、無事到着の御礼を捧げていたようだ。



 この付近には平安時代の末以降、刀鍛冶(刀を作る職人)たちが住居
を構えていた。粟田口で鍛えられた刀は名刀の誉れも高く、三条小鍛冶
宗近(さんじょこかじむねちか)や、粟田口藤四郎吉光(あわたぐちと
うしろうよしみつ)等が知られている。



 彼らが鍛えた業物は、刀工の名前を付けて「粟田口○○」と呼ばれるこ
とが多い。
 又、当地の地名を「粟田口鍛冶町」といい、当神社の中には刀職人を
祀る鍛冶神社(かじじんじゃ)があると言う。
刀剣の里当時の名残を知る事が出来るようだ。



 余談になるが、京都三大祭りの一つ、有名な祇園祭で、毎年先頭を行
く長刀鉾(なぎなたぼこ)に立てられる長刀の初代のものは、三条小鍛
冶宗近が鍛えたものとして知られていた。



 江戸時代にはこの付近では焼き物も焼かれていた。
瀬戸から焼き物の技術が伝えられ、陶器「粟田焼」の産地にもなった。
東海道を行き交う旅人の土産にもなっていたのであろう。(続)






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京の七口(東海道歩き旅・山城の国)

2024-10-09 | Weblog
 浄水場の有る「蹴上」付近から、白川橋に到る地を「粟田口」と呼び、
京都と諸国とを結ぶために設けられた街道の出入口の一つとされていた。
この地は、奈良時代以前には既に開かれていて、粟田氏が本拠とする粟
田郷と呼ばれていた。



 平安京ができると、東国との交通、軍事上の要衝であり、粟田口また
三条口とも呼ばれ、「京の七口(きょうのしちくち)」の一つにも数え
られた。

 室町時代から江戸時代にかけては、一般的には「京の七口」と言われ、
都に入る街道の入口が七カ所有ったとされ、関(関所)が設けられ関銭
が徴収されていた所も多かったという。



 一般的な説で七つの口は、粟田口・東寺口・丹波口・鳥羽口・鞍馬口・
大原口・荒神口とされている。とは言いえ、資料によっても記述が異なっ
たり、時代と共に場所も数も変遷があり、必ずしも七つと断定できるもの
ではなさそうだ。



 実際、都への入口は7箇所よりも多く、この他にも八瀬口、長坂口・
五条口・竹田口・伏見口、五条橋口等も有ったと伝えられている。

 これらの中では、粟田口・鞍馬口・荒神口等が地名として、又丹波
口、上鳥羽口等が駅名として、現在まで引き継がれ残されている。



 『「七」は、数を示すのではなく、古代の日本の行政区画概念である
「五畿七道」の中心にあり、その「七道」すなわち地方諸国へつながっ
ていることを表すというのがルーツとの説が有力(Wikipedia)』とある。



 これらの事から、七口は七カ所を断定的に特定するものではないようだ。
多数の出入口を象徴的に、「七」を用いて表現したと言うのが、今日の一
般的な解釈のようだ。(続) 





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