簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

名奉行・大岡越前守忠相 (東海道歩き旅・三河の国)

2022-01-31 | Weblog
 乙川は嘗て男川とも呼ばれていたらしく、その名称の名残はこの近く
の名鉄の「男川駅」でも知ることが出来る。
そんな乙川を越え、旧道に入り込むと大平町だ。
何とはなく意外に思えるが、ここには大岡越前守忠相の邸宅跡が有る。



 大岡裁きで知られた忠相は、若干41歳で南町奉行に昇進し、八代将軍
吉宗が進めた享保の改革を供に進めた人物である。
その頃の町奉行は、通常60歳前後の旗本が就任していたから、彼は異例
の出世である。



 「関東地方御用掛」(代官を支配する勘定奉行の職務)と言う、関東
地方の農政支配の役目も兼務し、多忙な激務であったらしく、江戸の町
の名奉行と言われた裁きは、一日に百件を超えたとも伝えられている。



 忠相は町奉行から、1万石を拝領した大名になった唯一の人物らしく、
明治維新までこの三河の国に続いた西大平の地の初代藩主(陣屋)とし
て統治した。

 ただ忠相自身は、この地を訪れる事も無く死亡したと伝えられている。
享年75歳であった。邸宅の跡地は広場として整備が行われた。
街道から90m程入った地らしいが、残念ながら先を急がねばならない。
足が痛くて、余りにも歩が遅く、時間ばかりかかってしまっている。



 ここら辺りにも相変わらず秋葉山常夜灯が多い。
日本橋から、80里(凡320㎞)の大平一里塚は、南側の塚だけが残り、
国の文化財の指定を受けている。
塚は縦横7.3m×8.3m、高さ2.4m程の大きさで榎が植えられている。



 大平町で何度目かの国道に合流して、東名高速の岡崎ICへの取り付
け道路の下を潜る。
元々の旧道がインターチェンジの開通で通れなくなったという。
この辺りにも、幾らか松並木が残っているところを見ると、以前はかな
りの松並木が続いていたのであろう。(続)





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横断歩道橋 (東海道歩き旅・三河の国)

2022-01-28 | Weblog
 藤川宿を出て、国道などを歩くと、旧街道は乙川に突き当る。
大屋川、大平川、或は男川とも言われ、三河の地名由来(諸説有り)と
なった三つの川(豊川、矢矧川、男川)の一つである。
嘗てここには、四十弐間の土橋が架けられていたが、今橋はない。
迂回して30mほど東の国道1号線に架かる大平橋を渡る。





 橋の途中から河原を見ると、馬が二頭静かに岸辺の草を食んでいた。
足を止め、穏やかな表情の馬を眺め、しばし休息ていると何だか、足の
痛さも、体の疲れもどこかに飛んで行ったように癒やされる。
渡り終えたところで、直ぐに左の旧道に降り、その先の大原町東の歩道
橋で国道1号線を越える。





 高度成長期の折、車が爆発的に発達し、歩行者、特に老人や子供の安
全確保や、信号に代わる渋滞の緩和などの名目で、全国各地の主要な道
路には多くの横断歩道橋が造られた。

 しかし昨今では、保護すべき子供達の数が減り、超高齢化社会とり、
年寄りや車椅子生活者等の弱者には優しくないと言われるようになった。
老朽時期を機に、撤去の動きも進んでいると聞いていたが、気のせいか
愛知県内には、特に交通量の多い国道1号線にはまだまだ残されている。





 少し足を延ばせば、横断歩道も有るのだが、遠くなり迂回する元気も
ないから渡らざるを得ない。
肉刺が潰れ、痛む足を引きずる身には、この上り下りは難儀で辛い。
旧街道が国道を越える度の歩道橋越えは、「又か・・・」と落胆する。

 道路の歩道橋に、エレベーターやエスカレーターを望む術もないが、
せめてゆったりとしたスロープに変わり、上り下りが出来ないものかと
何時も思う。(続)



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藤川の松並木 (東海道歩き旅・三河の国)

2022-01-26 | Weblog
 再び十王堂のある街道に戻ってきた。
その先で79番目の一里塚跡などを見て更に進むと、境松と言われるとこ
ろが二股のY字路になっている。
その奥には旅人を見守っているのか、観音様(妙見堂)が祀られている。



 その前の道路脇には、吉良道の道標が立っている。
正面には「西尾 平坂 土呂 吉良道」右の側面には「文化十一年甲戌
五月吉日」と彫られてい、高さが150センチほどの四角柱である。



 ここが東海道と吉良道の分岐点、所謂追分けである。
左に進めば、西尾から平坂 土呂を経て吉良方面に通じる「吉良古道」と
言われる道で、嘗ては塩の道として、三河湾沿岸の海産物の運搬で往来は
大いに賑わったという。



 丁度この辺りの北側、名鉄の線路と国道1号線を越えた辺りに、むらさ
き麦の畑が広がっているようだが、流石に見に行く程の元気はない。
東海道はこの追分けを右方向に取り、その先で名鉄本線の踏切を越えると、
見事な松並木が始まる。



 両側が高さ1~2m程の盛り土で、そこから見事な黒松が伸びている。
昭和38年に天然記念物の指定を受けた並木も、今では1㎞ほどの間に僅か
に90本余りが残るだけだという。

 土盛りには石塁が巡らされているが、街道がアスファルトの道に変わる
折にでも造られたもののようで古くは無さそうだ。
それでも道路に覆い被さるよう繁る松の並木は、往時の雰囲気を今に良く
伝えていて、それらしい趣のある良い並木道である



 松並木はレッドバロン本社工場の辺りで尽き、国道に合流する。
その先でも何度かの国道合流が有り、付いたり離れたりの関係を続けな
がら、次の宿場岡崎を目指す。
その距離は、1里25町(およそ6.7㎞)である。(続)





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十王堂 (東海道歩き旅・三河の国)

2022-01-24 | Weblog
「ここも三河 むらさき麦の かきつばた」



 宿場外れに、十王堂という小さなお堂がある。
十王とは、死者の魂が集う冥土で亡者の罪を裁く10人の裁判官である仏
の総称だ。その内の一人が良く知られた、あの嘘をついた人間の舌を抜
くという閻魔王である。平安末期頃広まった信仰らしい。



 その境内の小さな切妻のお堂の右手に、芭蕉の句が残されている。
この近辺の芭蕉句碑では最大級と言われる、人の背丈ほどもある花崗岩
の自然石に刻まれていて、寛政五年に立てられたものらしい。
 その下にも古い小さな碑があって、同じ句が掘られているらしいが、
文字は判読できず良く解らない。



 祭りスタッフのご婦人方が親切に、こう教えてくれた。
「近くには一面の畑も有り、見応えがあるので是非見て帰って。
道の駅でもイベントをしているから寄ると言い。
食事も出来るし、むらさき麦を使ったお土産がお勧めよ。」



 是非にと勧められたが、足痛では、畑をわざわざ見に行く元気はない。
藤川小学校の前にも、僅かではあるがその展示畑が有りこれで充分だ。
 穂が特異な紫がかった色をした麦を間近で見るのは初めてである。
ミラサキムギとはよく言ったもので、よく見るとそれは茎までもが同じ
色に染め上がっている。



 むらさき麦の栽培に成功したのは、奇しくも芭蕉翁の300回忌の年で
あったそうだ。
以来それは、毎年5月中旬から下旬にかけて、趣のある実りを楽しませ、
この地に伝統の名物を復活させることになった。



 祭のイベント会場の一つ、「道の駅 藤川宿」立ち寄ってみた。
藤川小学校の東側の細い道を抜け、名鉄の名古屋本線に突き当り、藤川
駅に架かる跨線橋で線路を越す。
 道の駅は、名鉄の駅と隣接していて、大勢の人で賑わっていた。
ここでようやく昼食にありつけそうである。(続)




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むらさき麦 (東海道歩き旅・三河の国)

2022-01-21 | Weblog


 この藤川宿に入り込んでからと言うもの、街道筋の彼方此方に紫色の
「むらさき麦」と書かれた幟旗が立てられていたのが気になっていた。
聞けばこの日藤川宿では「むらさき麦まつり」が開催されているという。

 消防団により規制された通りは歩行者天国になっていて、屋台が出て、
フリーマーケットやスタンプラリー等も行われているらしく、大勢の人
が賑やかに行き交っていた。



 当地では江戸時代より「むらさき麦」が栽培されていたが、何時の頃
からか作られなくなり、幻の麦と言われていたらしい。
近年になって県の農業試験場等の協力の下、試行錯誤を繰り返し、栽培
を重ねた結果、平成6年に穂先まで紫色の麦の栽培に成功したと言う。



 資料館から10分ほど行くと右手に藤川小学校が有り、その体育館の横
辺りに、宿の西棒鼻が復元されていた。
ここが宿場の出口、西側の入口に当る場所である。
これまで藤川宿に行けばと我慢してきた昼食であったが、結局宿内でも、
何も見付けられないままここまで来てしまった。



 そこにパラソルを立て、祭の運営に関わる婦人方がいたので、休憩が
てら立寄って話しを伺う。
「どこか食事の出来るところは?」と尋ねると、「宿場の中程にカフェ
が一軒有りましたけど」と言いながら、新たに道の駅を教えてくれた。



 どうやら常夜灯の立つ辺りにあったらしいが、見落としてきたようだ。
今は足の裏の肉刺が潰れ歩くのに痛くて、回り道をする程余裕が有るわけ
では無いが、食事を抜くわけにも行かないし、この先にも暫くはコンビニ
も無いというから選択肢は、少し離れたこの道の駅しかない。(続)





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宿場の風情(東海道歩き旅・三河の国)

2022-01-19 | Weblog
 家並みの長さが凡1㎞にも及ぶ藤川宿の通りは、国道1号線とは切り
離され、間に割り込むように名鉄の名古屋本線が走っている。
従ってこの広い旧道に入り込む車は少なく、散策にはもってこいである。



 通りには、往時を偲ばす連子格子を嵌めた町屋造りの民家が何軒か残
されている。
殆どは、間口の広い平入りの二階建ての堂々とした家屋だ。
屋根は低く抑えられ、通りに向けて庇を揃えて並び立っている。



 そんな中で代表的な建物が、旧野村家住宅(米屋)である。
幾度か改修の手は加えられているらしいが、構造自体は古く、天保年間
の建築らしい。
岡崎市の「景観重要建造物」の指定を受けている。



 また通りで一際目立つのが、古いものではなさそうだが、三階建ての
白亜の建物だ。
城の櫓を思わす白壁で「粟生人形店」の店舗は通りで異彩を放っている。
およそ800年も続いているという元々は武士の家系らしく、人形作りを始
めたのは昭和に入ってかららしい。



 宿場の中程にあるのが嘗ての脇本陣、橘屋大西喜太夫家である。
明治天皇が休息をされ、昭和に入ると町役場として使われたそうだ。
享保年間に建てたという現存する門を潜って入ると、今は藤川宿資料館
になっている。
管理人は不在で、町民が交代で施錠・解錠の管理を行っていると言い、
内部は自由に見学をすることが出来る。



 人形店の向かい側に有るのが高札場跡で、更に問屋場跡もあるが何れ
も案内板のみの遺構である。
この宿場には史跡らしいものは少ないが、それでもこの通りは、江戸の
時代の宿場町を思わせる風情を良く伝えている。(続)





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女不足・嫁不足(東海道歩き旅・三河の国)

2022-01-17 | Weblog


 江戸時代の貨幣価値は時代により変るが、一般的には一両は10万円程
と言われている。
(判断基準が複雑で、20万円等色々な説があり断定は出来ないようだ)
従って銭一文は25円位となり、旅を続ける庶民に取って、藤川宿での飯
盛り女の相場500文は決して安い金額では無かったようだ。



 この宿場も人口の内訳を見ると、女の方が100人程男を上回っている。
当時の男女人口比を宿場内に限ってみれば、女が多い宿場はかなり有る。
これは本陣や旅籠の女中、飯盛り女や遊女等、女の働き口が宿内には多く
あったからであろう。
遊女が多い吉田宿では、47:53と人口の半分以上を女が占めていた。



 全国の男女比がほぼ同数になるのは、幕末以降らしく、八代将軍の吉
宗の時代辺りまでは、3:1位で圧倒的に男が多かったようだ。
この事からも、宿内に集まった女の多さが際立っている様子が知れる。
その反面、これだと在郷に女は殆どいないことに成り、村に残る若い男
たちの女不足・嫁不足は深刻な問題であったようだ。



 宿場の遊女宿や、城下町の遊郭が繁盛した背景には、こうした女の少
なさが有ったとも言われている。したがって、当時は在郷の男が、宿場
等へ女郎買いに出掛けることは、黙認されていたようだ。
しかし身近に女がいないと悩む男にとって、それらの場所は、決して安
くはなく、銭が無ければ訪れることも出来なかった。



 この悩みを解消し、欲求を満たしたのが「浮世絵(江戸絵)」らしい。
これまでの絵画の世界は京都が中心で有ったが、何時の頃からか、江戸の
版元が遊郭の様子や芝居の舞台など、浮世の好色の世界を描いて競って出
版するようになった。

 これにより女日照りが潤されたのかは知らないが、江戸土産としても評
判を呼び、瞬く間に全国に流行っていったという。(続)





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藤川宿 (東海道歩き旅・三河の国)

2022-01-14 | Weblog


 クランク状に曲がる道を「曲尺手」と書いて、「かねんて」と呼ぶ。
どの宿場内にも何カ所か造られていた。
幕府にとっての街道は、軍事的な目的のある道で、外敵が宿場に容易に
侵入しない為、しいては江戸に向けて容易に侵攻させない目的があった。
今なら車の為に可能な限り広く直線で、となるが当時は全く逆で、狭く
何度も曲げてが当たり前であった。



 また、参勤交代が制度化されて以降は、行き交う大名同士が宿内で鉢
合わせしないようにする工夫等とも言われている。
出会えば格下の大名は駕籠を降り、頭を垂れ、道を譲らなければならな
い決まりで、こんなことになれば行列差配の藩士は、切腹もので有る。

 更に街道の距離を意図的に延ばし、人を多く住まわせる効果をも狙っ
たもの等、このクランクには様々な目的が推測も交え伝えられている。



 再現された東の棒鼻の左側に細い道がまっ直ぐに延びていて、そこを
直進すると、その先が曲尺手である。
右に折れ、更に左に折れて町中に入っていくが、その入口に寛政年間に
建立された秋葉山の常夜灯が残されている。
その先は真っ直ぐに宿場町らしい町並の旧街道が続いている。



「藤川のしゅくの 棒ばなみわたせば 杉のしるしと うで蛸のあし」

 当時はこの棒鼻から宿内を見わたすと、店先にはうで(ゆで)た蛸の
足がぶら下がり売られていたようだ。
「杉のしるし」は酒屋の店先の杉玉のことかと思ったが、杉の木で出来た
どうやら榜示杭のことらしい。
「蛸の足」は下がる様で、当地の名物である藤の花を暗示している。



 宿場には本陣、脇本陣各1軒、旅籠36軒、戸数300余軒、人口1,200人
余りと言うから、規模的には御油や赤坂と同程度の宿場町のようだ。
この宿も「遊女」が多く、相場は他の宿と同じ500文であったらしい。(続)





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傍示杭 (東海道歩き旅・三河の国)

2022-01-12 | Weblog


 道路脇の緑地帯は、藤川宿の東の入口に当たる棒鼻、見附である。
むかしはこの地を「宇治川の里」と呼んだ時期があったらしい。
この辺りでは周りの藤の花が余りにも見事で綺麗なことから、何時しか
藤川と呼ばれるようになったのだそうだ。



 「棒鼻」は「棒端」とも書き、「ぼうばな」「ぼうはな」等と読む。
宿場の境界地に「是より○○宿」などと書かれ、立てられた木製の木杭で、
榜示杭のことだ。

 元々は、駕籠のかき棒の先端のことを意味するが、大名行列などは宿場
に入る直前に、この場所で先頭(棒先)の隊列を整えたことから、こう呼
ばれるようになったそうだ。



 広重の描く東海道五十三次の画「藤川 棒鼻ノ図」では、傍示杭の立て
られた場所を、幕府から朝廷に寄進する、八朔(旧暦8月)の御馬進献の
一行が差し掛かり、羽織袴を着用した村役人が下座して出迎える様子を描
いている。



 広重は「平塚 縄手道」でも傍示杭を描いているが、何れも人の背丈を
遙かに超えるもので、丈の長い木杭が立てられていたと考えられている。
幕末の頃には、石柱に代えられたものも有ったらしいが、多くが木製の為、
現存するものがなく、その大きさは浮世絵などから想像するより他ない。



 画では傍示杭の前後には柵を巡らした宿囲い土塁や、何本かの高札も描
かれているので、ここが見附の高札場であることも解る。
この緑地には、傍示杭の横に立つ二本の高札と、柵を巡らした土塁がこの
画を元に再現されている。
東海道37番目の宿場・藤川は、この先の曲尺手を経て宿内へと入っていく。(続)





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 山中八幡宮 (東海道歩き旅・三河の国)

2022-01-10 | Weblog


 赤坂宿の陣屋跡を過ぎ西見附を出ると、街道は2里9町(凡そ8.8㎞)
先の藤川宿へと向かう。
ここから先は、旧東海道、国道1号線、名古屋鉄道名古屋本線、東名高
速道路が、付かず離れずの関係で寄り添い、狭い平地を縺れるように西
に向けて進んでいく。



 山綱川に架かる舞木橋を渡り、国道1号線に合流する辺りでは山中八
幡宮を遙拝する。
左手にこんもりとした小高い円山が見え、麓に赤い鳥居が立っている。
社領150石の舞木八幡宮、現在の山中八幡宮で、徳川家康の父・広忠が
焼失後再建したという、家康にも所縁の宮である。



 家康は永禄6(1563)年、三河一向一揆の戦いで敗れて逃走中、この
神社の洞窟に隠れた。
追っ手の兵がこの前に来ると、洞窟から二羽の白鳩が飛び立った。
「人のいるところから鳩は飛ばない」と判断した兵は、中を調べることも
なく立ち去り、家康は難を逃れた事から、この洞窟を「鳩が窟」という。



 木立の生い茂る古びた階を上り詰めると社殿があるらしい。
背後の山を含めた全体が、山中古城の跡だと言う。
残念ながら今は立ち寄る元気も無く、疲れ果てた足には余裕も無い。



 赤坂宿を出て単調で退屈な国道の歩道歩きを続けてきた。
疲れた時に、休めるところがあればいいのだが、こんな時に限って何も
見つけられず、ひたすら前に進むだけで疲れも増幅する。

 ようやく「道の駅・藤川宿」の案内板を見かけるようになり、宿場が
近づいて来たことを実感する。



 そのまま大きな工場の前を通り、直進して左の旧道に入り込み、少し
西進するとY字路で、左側が緑地帯になっていて、正面に大きな藤川宿
の案内板が立っている。
旧道はその右を緩くカーブするが、左側には路地のような狭い幅の道が
真っ直ぐに伸びていて、どうやらここが藤川宿の入り口らしい。(続)




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