簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

舞阪宿(東海道歩き旅・遠江の国)

2020-11-30 | Weblog


 「前坂とも書す。いにしえは舞沢、或は舞沢松原と言ふ」
東海道30番目の宿場舞阪には予てより浜名湖を舟で渡る渡船場があった。
「荒井よりの渡船、舞阪に着岸す」と古文に記録が残されていると言い、
宿場の西の外れが新居に渡る渡船場である。



 南には太平洋の広大な遠州灘が広がり、北には浜名湖が控える舞阪宿は、
東の見付から800m程の町並で、その中心は西町にあったと言い、その間
に本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠28軒、戸数265軒、人口は1,204人という
規模である。



 東の入口である見付跡には石垣があり、新町や仲町には秋葉神社常夜
灯が立っている。
日本橋から68里(およそ267㎞)の一里塚跡が有り、伝左衛門本陣跡、
徳右衛門本陣跡、問屋場跡などは有るものの、家並みは相対的に新しく、
当時の遺構は殆ど失われている。



 宿場の中程に、天保9(1838)年に立てられた旧脇本陣「茗荷屋」の、
上段の間があった書院棟一棟が残されている。
大正時代には役場として利用されていた建物を、解体し修理・復元した
ものが、無料公開されている。
是は東海道に唯一現存する脇本陣の遺構である。



 建物は間口五間、奥行き十五軒と言う細長い造りで、入口の板の間に
立つと、中間の坪庭を挟んで手前に二間、奥には上段の間に至る三間続
きが良く解る。
坪庭と一番奥の縁側からは明るい日差しが入り込み、遠州灘から吹く風
が各間の上を爽やかに通り抜けていて、明かり取りと涼しさを工夫した
書院である。



 脇本陣を辞し、街道を西に町並を抜けて進むと、交差点の角に西町常
夜灯が立ち、その先に浜名湖が見えてくる。(続)





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浪小僧 (東海道歩き旅・遠江の国)

2020-11-27 | Weblog


 舞阪の見事な松並木を進むと途中に、「舞阪橋跡」の案内が有った。
ここには舞阪宿で唯一と言う長さ7尺、横三間の舞阪橋と呼ばれる土橋
が架かっていた。
保全に難がある橋で、やがて板橋に掛け替えをしたと伝えている。



 並木の中には、「旧東海道五十三次銅板」、「十二支の石造」などの
モニュメントも多く、木造の常夜灯や、そのほか記念の石碑などが飾ら
れている。
松並木を抜けると旧東海道は、左から来る国道1号線と交差する。



 その手前の三角地が小公園になっていて、トイレが設けられ、よく手
入れされた花壇もあり、中央に「浪小僧」の像が立っている。
祖母と孫が仲良くベンチに腰を下ろし、孫はジュースを飲んでいた。
挨拶するとストローから小さな口を外し「コンニチワ」と返してくれた。



 『昔漁師の網に真っ黒な小僧がかかった。漁師は気味悪がって小僧を
殺そうとすると「助けてくれたら、天気が変わり、海が荒れる時、海の
底で太鼓を叩いて漁師に教える」と言うので海に返してやった。
それ以来天気が変わる時、海鳴りがするようになり、漁師達はその方角
から天気を知るようになったと言う。』
「小夜の中山夜泣石」などと並ぶ遠州七不思議の一つである。



 新町で国道を横切り直進すると舞阪宿である。
通りに入るとどこからともなく良い匂いが漂い、鼻腔をくすぐってくる。
どうやら町の名産「しらす」を蒸し上げる匂いのようだ。
街道筋や、そこを少し奥に入った通りの所々には、名産の「しらす」や
特産の「ぶち海苔」の看板を掲げる店が多く見られる。(続)





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舞阪の松並木 (東海道歩き旅・遠江の国)

2020-11-25 | Weblog


 篠原立場本陣跡、篠原一里塚跡、坪井村高札場跡や、馬郡村高札場跡
などを示すサインを確認しながら西進すると、奈良の春日大明神より勧
進したと伝わる「春日神社」があり、それを過ぎるとやがて前方に松並
木が見えてくる。



 やがて道路幅が急に狭まり、有名な舞阪の松並木道に入ってきた。
松並木は慶長9(1604)年、徳川幕府の命により、街道の整備が始まり、
それにより黒松が植えられたのが始まりである。
当地には馬群村の領界から舞阪宿の入口(東の見付)まで、8町40間
(凡そ920m)の間に1,420本の立木があったという。



 その主なルートは、大正9(1920)年に「国道路線第一号」となった。
所謂国道1号線であるが、是により道路の整備も進み、多くの松が切り倒
された。その後も台風で倒れ、病害虫や自然枯で朽ち、更に道路の拡幅な
どで減少していった。



 そうした環境の変化に耐え、生き残ったのがこの舞阪の松並木である。
現在では700m程の間に、330本程の見事な並木が残されている。
その中には自然発芽したものか、植樹なのかは知らないが、幾らかの若
木も見受けられ、往時の姿を良く留めていると言われている。



 今では、道の両側には民家が建て込み、中央を貫く道も県道49号線と
なりアスファルト舗装されていて容赦も無く車が何台も通り過ぎて行く。
思わず排ガスは影響しないのだろうかと考えてしまう。

 並木の外側(並木敷)には歩行者用に歩道が設けられているが、出来
ることなら昔の東海道のように並木の真中を歩いてみたいし、それが地
道なら言う事もなく尚嬉しい。(続)






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立場(たてば) (東海道歩き旅・遠江の国)

2020-11-23 | Weblog


 JRの高塚駅前を過ぎると左に逸れる国道とは分かれ、右の旧道に入っ
て行く。この辺りではこの先で浜名湖を越えるため、東海道本線や新幹線、
国道1号線やそのバイパスなど、太平洋ベルト地帯を行く大動脈が狭い幅
の一帯に寄合わす様に集まってくる。



 浜松領内の可美地区には、「麦飯長者跡」のサインが有った。
街道を行き交う人々には誰彼の区別もなく湯茶を接待し、空腹の人には
麦飯を振舞っていたと言う。
この篤志家を人々は何時しか「麦飯長者」と敬うようになった。

 そのことが城下にも知られると、褒美に姓を許され、村役人・庄屋を
任されるようになり、代々小野田五郎兵衛を名乗るようになった。
その施しは明治維新まで続いたのだそうだ。



 篠原と言うかつて立場が置かれた地に入ってきた。
立場とは幕府の伝馬制が定められた折、宿場と宿場の間に旅人の休憩場
所として設けられた施設で、多くは茶屋が名物や湯茶を提供していた。
宿場間の距離が長い場合、複数の立場が設けられている事もあり、旅人
にとって休憩場所は、意外に困ることは少なかったようだ。



 茶屋は宿場の中にも設けられていて、宿泊しない旅人の休憩場所とも
なっていた。この篠原には主に大名など身分の高い人たちが休憩する
「立場本陣」が有り、庶民向けに「浅田屋」という茶店が営業していた。



 こうした茶屋の名物は、今日に引き継がれ残されている場合も多い。
街道筋に残るお菓子屋さんに立ち寄ると、その店の歴史は意外と古く、
そんな名物が売られていることも有り、是も現代の街道歩きに楽しみに
もなっている。(続)






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二つ御堂 (東海道歩き旅・遠江の国)

2020-11-20 | Weblog


 旧街道はその先の成子の交差点で西に向け折れて、今日の動脈、東海
道本線や東海道新幹線を越え、若林一里塚跡を見て、次の宿場・舞阪を
目指す。その距離は、2里半と12町(11.1㎞)である。



 旧東海道は国道257号線と重なった道で、その若林の曲がり角には、
「二つ御堂」と言われる小さなお堂が、道を隔て向かい合うように建っ
ている。
向こう側に渡りたいところだが、近くに横断歩道は無く、車も激しく行
き交う道なので、渡ることを断念、遠くから眺めるだけだ。



 今から850年程前のこと、奥州平泉藤原氏の三代目・秀衡公が京で大
病を患っていると聞いた公の愛妾がお見舞いに向かう途中、この地で行
き違った旅人から秀衡公の訃報を知らされた。
愛妾はそれを悼んで道路の北側にお堂(阿弥陀如来堂)を建て、供養を
続ける毎日だが、気落ちしたのかこの地でついに亡くなってしまう。



 一方病気が回復した秀衡公は東国へ下る事に成り、その数日後この地
にやってきた。土地の人から、嘆き悲しみの中で死んでいった愛妾の事
を聞かされ、感謝を込めて道路の南側に北のお堂と向き合うように薬師
如来堂を建立し、お墓を建てて供養したと言う。



 所々に忘れられてように残る松の木を見ながら、更に西進すると諏訪
神社と熊野神社がありその先の商店の駐車場の隅に古びた「領界石」が
建っている。
石には「從是東浜松領」と刻まれていて、堀江領との境界を示す石で、
ここまでが浜松領であったことが解る。
その先には旧堀江領の境界を示す石柱も残されている。(続)





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浜松宿 (東海道歩き旅・遠江の国)

2020-11-18 | Weblog
 馬込橋を渡ると新町で、いよいよ宿内に入る。
直進すると浜松城・浜松城公園が右手に有り、その南の交差点が人口約
80万人を擁する浜松の中心的な場所、連尺である。
周辺一帯には市役所、市立美術館などがあり、多くの商業施設や飲食店、
事務所やオフィスなどが軒を連ねている。
東海道はその交差点で、左に折れる。





 家康の出世城と言われる浜松城の城下町であると同時に、東海道29番
目の宿場町・浜松には本陣が6軒、旅籠はなんと94軒もあったという。
宿内の人口も6,000人近くいたと言うから、かなりの規模の町で有った
ことが窺い知れる。





 しかし町の多くは戦災で焼失し、今日に残るものは何も無い。
伝馬町辺りの広々とした通りに往時の面影を知る術も無く、道筋に立つ
高札場跡、杉浦本陣跡、川口本陣跡、佐藤本陣跡などと書かれたサイン
で偲ぶのみであるが、うっかりしているとそれすら商店の看板などに紛
れ見落としてしまう。
こんな繁華な町の旧宿場は、何の風情を感じる事も無くつまらない。





 町中で遠州鉄道の高架を潜り、連尺に向かう田町の交差点辺りから、
その先の通りにかけて随分と賑わっていた。
カラフルなパラソルが立ち、ハンドメイド雑貨の店や、飲食物を提供す
る店が歩道に並び、それをのぞき込む客で歩道は混み合っていた。
恒例のイベントが開かれているようだ。

 所々の店先には、椅子も置かれ休憩スペースとなっているが、歩くも
ままならないような人混もあり、どこも満席だ。
ここで昼食をと思ってやってきたが、その余波か時間的なものか、どこ
も一杯でままならず、暫く辛抱するより仕方なさそうだ。(続)




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長丁場 (東海道歩き旅・遠江の国)

2020-11-16 | Weblog
 中の町を後に、浜松宿を目指す。
既に浜松の市街地に入っているのに、旧街道は中々宿場の中心に行き着
かない。思った通り、宿場間4里7丁(16.5㎞)の道のりは、うんざり
するほどの距離である。



 市内に入ると街道筋には、中の町村長を務めた歌人で、嵐山光三郎が
薫陶を受けたという「石垣清一郎」の生家があった。
二人ともよく知らないが、こうして旅をしていると、世の中には余りに
も知らないことが多すぎると、つくづく痛感させられる。



 中の町東入口の「東橋跡」、明治末から昭和の初めに浜松から中の町
間を走っていた「軽便鉄道軌道跡」等のサインが立っている。
金原明善は、明治時代の実業家で、天竜川流域の植林事業に貢献したと
言い、その生家も街道筋には残されていた。



 道筋にあるこれらのサインは、長丁場の疲れを紛らわせてくれる。
しかしこうした街道に取り掛かると、始めのうちはこうしたサインには
目もくれず、ただただ先を急ぐ余り、黙々と歩くだけになる。
で当然の事のように、写真も少なくなる。



 街道歩きでは、長丁場に限ってのことではないが、休憩できる場所が
あるのか、特にトイレは大丈夫だろうか、食事処はあるのか、等何かと気
にかかる。今時コンビニがどこにでも有るではないか、と言われそうだが、
それは町中の話しで、無いところには本当に何も無いのだ。
特に長区間では、途中に大きな町がないと、気を揉む事になる。
しかしこうして目的地が近づけば、余裕も出てくるから現金なものだ。



 街道筋の所々では、街のランドマークタワーが見え隠れしているから、
中心地が近いことは間違いない。
馬込一里塚を過ぎ、馬込橋を渡り新町に入るとこの辺りが東の木戸跡で、
東海道はいよいよ浜松の宿内へと入っていく。
やはりこの4里以上の距離はとてもとても長かった。(続)





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東海道のまん中・中の町 (東海道歩き旅・遠江の国)

2020-11-13 | Weblog
 見付と浜松の間は、4里7丁(16.5㎞)の長丁場で、その間に流れる
天竜川の渡し場は、見付宿からは1里半のところにある。
舟渡り終えると、中の町立場(休憩施設)であるが、浜松宿まではまだ
2里半も残っている。

 普通に考えると立場では無く、宿場があっても良かつたのではと思う。
江戸へ上る旅人が浜松で川留めを知れば、その地に宿を取るであろうが、
この渡船場迄来て突然知らされれば、今来たばかりの2里半を逆戻りし
なければならない。





 当時立場での宿泊は原則許されてはいなかったから戻るより仕方が無
いのだが、普通に歩いてもこの間2時間半近くは必要になる。
戻ったところで、旅篭が空いている保証もなく、それでも戻るより仕方
が無いので、旅人は途方に暮れている閑も無かったのかも知れない。
兎に角、泊まるところを確保しなければならないのだ。





 天竜川の西岸は、富田・一色に船着き場が有ったと言われ、舟を下り
た旅人は少し南下して六所神社のある辺りで右に折れ、東海道に戻り
西岸の「中の町」を通り抜けていく。

 「中の町」は天竜川舟渡の西側の拠点でも有り、また姫街道(本坂道、
鳳来寺道)追分の交通の要衝であると同時に、天竜川を下ってきた筏の
陸揚げ地として、また製材業の町としても賑わっていた。
ここでは150年前から続く花火の打ち上げが、夏の風物詩となっている。





 宿場の中間は27番目の袋井宿である。
本堂普請の折り江戸と京都の人足がその距離を測歩したところ、この位
置で両者が出会った事から真ん中を名乗る仲道寺は袋井宿の東に有る。

 しかし、ここは京からも江戸からも距離的には六十里の地点で、丁度
真ん中にあることから、中の町と呼ばれるようになった。
正真正銘の「東海道中間地点」である。(続)



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舟橋 (東海道歩き旅・遠江の国)

2020-11-11 | Weblog


 「舟橋」とは、小舟を並列に並べ結び付け、川幅一杯に渡し、その上
に平板を乗せた仮設の橋だ。
このままだと下流側に流され湾曲してしまうので、対策として水中に杭
を打つ、或は舟に重りを結びつけて沈める、又太綱を両岸に渡し縛り付
ける等様々な工夫をしていた。



 当時は、将軍や朝鮮通信使が通る場合等、急遽舟橋が造られていたが、
これを大名が渡ることは固く禁じていた。
東京と神奈川を隔てる六郷川では、将軍家に献上される象を渡すために、
舟橋が架けられたという説も有り、維新の折にも同様な橋が架けられた
記録が残されているらしい。



 越中富山では慶長年間に神通川に「舟橋」を架けたという記録が残さ
れて、その様子は広重の「六十余州名所図会」でも詳細に描かれている。
江戸時代、回国者として全国を歩いた修験者の野田泉光院も、その様子
を克明に記した日記に「当所舟橋日本第一也」と書き残している。



 当初は32艘舟を並べその上に板を渡しただけのものであったが、橋か
ら落ちて亡くなる人も多かったらしく、その後舟を68艘に増やし、2条
の鉄鎖で繋ぎ 7枚の板を並べ、120m余りの川を渡っていた。
橋は明治に入っても暫く使われていたらしい。



 天竜川を渡り終え、すぐに左に折れると、そこに船橋・木橋跡がある。
この地は明治元年に天皇東幸の際、急遽架橋が行われる事になり、急場
凌ぎで二日間だけ仮設の舟橋が架けられたところだ。
これは街道の各河川で行われている。

 その少し先には、「舟橋」を架けた、浅野茂平の業績を称える立派な
石碑が立っている。この辺りを中の町という。(続)





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東海型河川 (東海道歩き旅・遠江の国)

2020-11-09 | Weblog
 「天竜川 川幅十町許 一ノ瀬、二ノ瀬の二流となる 舟渡也」
と古書に有るとおり信州の諏訪湖を源流とし、太平洋天竜灘(遠州灘)
に流れ出る一級河川で、流れも速く、深みもある事から古くから舟渡し
が行われていた。



 下流域の川には大きな中州が出来ており、川の流れは見付側を小天竜、
浜松側を大天竜と呼び、この中州が舟を乗り換える場になっていた。
その様子は広重描く東海道五十三次之の「見付天竜川図」でも解る。



 その渡しの舟賃は、「武士には舟賃なし 商人百姓には銭六文をとる」
と言われたように、武士が一番偉いとされていた江戸期、武士階級への優
遇に比べ、ここでも身分による扱いの違いがあり、庶民には負担であった。
その船賃も時代による変遷があり、十六文との記録も残されている。



 静岡県内を流れる富士川や大井川、安倍川、天竜川などは、所謂「東
海型河川」と言われ、荒れ川・暴れ川が多く、下流平野では度々洪水災
害が起きている。
普段は比較的穏やかで、水量も少なく徒渡りが出来るような川も、一度
上流で雨ともなると突然大河となって暴れ出す。



 そうなれば当然川留めとなり、徒渡しも舟渡も中止され、旅人はただ
宿場に留まり再開を静かに待つより致し方ない。
旅籠代も嵩み旅人には負担が大きかったようだが、是は武士も庶民も変
わりは無かったようだ。



 この時代でも、どんな基準かは知らないが、土橋や舟橋が架けられて
いた川もある。しかしこれらの橋は、洪水にはめっぽう弱く、一度大水が
出れば流されてしまう。それでも旅人にとって、川に橋は、どんなに有り
難かった事かは想像に難くない。(続)





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