簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

植木の町と金光教(JR乗り潰し・山陽本線)

2016-04-29 | Weblog
 江戸時代末期に「幕末三大新宗教」と言われたのは、天理教、黒住教と金光教
である。天理教は奈良県で、残る二つはここ岡山県で立教されている。



 冬至の日に天照大神との同魂同体を体験し、立教した黒住教は神道十三派の
一つで、岡山市内北区の神道山にその本部を置き、日の出を拝む「日拝式」を日
々欠かさず続け、立教200年を迎えている。





 一方金光教は「神と人間の相互扶助精神」を教え、黒住教に遅れること50年余り、
浅口郡占見村で立教している。
 「世の中は、天のことは宗忠の神(黒住教)が説いている。地のことは此の方(金光
教教祖)が説く。
此の方と宗忠の神とがあったら、まぁ、この世のことが治まろう・・・」その門前には良
い雰囲気のレトロな商店街も残っていて、初詣などでは大勢の参拝客で賑わうところ
である。





 本部から歩いて10分ほどの所にあるのが最寄り駅の金光駅である。
金光教とのつながりが深い駅は今では2面3線と縮小されているが、かつては参拝
用臨時列車が頻繁に出入りし、それらの乗客を捌く為3面4線の広さを誇っていた。
 今でも団体列車が着くと言うホームであるが、長くて広く、閑散としている平時の様
はなんだか寂しくもある。



 ここ金光町は昔から、苗木の産地としても知られたところである。
毎年春と秋には植木祭りが開かれ、即売会には大勢の人々が訪れている。
しかし、一昔前までは町内を貫く国道脇にも広大な土地に苗木を植え販売をする
「○○園」などと看板を掲げた造園業者が幾つも立地していたが、近頃は閉める業
者も見られ、衰退気味である。(続)

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良寛さんの寺(JR乗り潰し・山陽本線)

2016-04-27 | Weblog
 そんな玉島の町の南西方向に、「円通寺」と言う曹洞宗のお寺が有る。
一般には「良寛さんの寺」として知られたところだ。



 良寛は越後の出雲崎の生まれで、江戸時代後期、歌人としても活躍した僧である。
出家して22歳の時(1779年)、ここ円通寺で生涯の師とも言える第10世・大忍国仙和
尚と出合い、修行を始めた。寺に入って間もなく、母の訃報に接したが修行中と言う
事で帰郷は許されず・・・とされている。



 しかし新潟国境三国峠の下、群馬県の猿ヶ京の関所には、良寛のものと思われ
る、円通寺発行の関所手形が残されている。
 
 『此者、弐人の内僧壱人越後三島郡出雲崎迄罷り通り候・・・天明四(1784)年辰
六月晦日 備中国玉島円通寺 猿ヶ京御関所後番衆中』
このことから、許されて帰ったのではないかとも言われているが、ここでは20年間
にも及ぶ修行をしているが、その記録は殆ど残されていないそうだ。



 寺では昭和24年から毎年桜の花の咲くころに「良寛茶会」を開いている。
元々玉島の町には昔からお茶文化が根付いていて、町中に最盛時は400もの
茶室があったと言う。
そのことから町中には何代も続く老舗のお茶屋や、和菓子・甘党の店なども多く、
今では玉島スイーツとして名物となっている。





 境内には「良寛の銅像」が立てられている。そんな寺域一帯は海を望む高台にあ
り円通寺公園として整備され、詩碑や歌碑なども多く自然の庭園となっている。
また周囲には宿泊施設も有り、ここからの玉島の港の様子、古い町並みや瀬戸内
海の眺望がすばらしい。(続)



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レトロな町・玉島(JR乗り潰し・山陽本線)

2016-04-25 | Weblog
 ここ玉島は、江戸時代初期までは多くの島が点在する遠浅の海であったそうだ。
1600年代に備中松山藩による大規模な干拓で新田開発され、その後は備中の玄
関口、港町、海上交通の要衝として栄えた歴史を持つレトロな町である。



 その中心に建つのが羽黒神社で、町はその門前に開かれた港を中心に開けて
いった。
その近くにある通町は、町で最も歴史ある商店街で、古びたアーケードに覆われ
た雰囲気は昭和初期そのものでレトロな街歩きが楽しめる。





 その通りの外れの溜川に架かるドラム缶の橋は、105本のドラム缶を浮体として
繋げた浮き橋だ。駐車場と商店街を結ぶ生活橋として町民に親しまれている。



 町中には江戸時代の建物も多く残されている。
西爽亭(さいそうてい)は、旧柚木家の建物で、国の登録有形文化財の指定を受け
ている。天明年間建築と言われる藩主の宿泊に供された建物には、石組のある名
園もあり一般に公開されている。



 仲買町や新町問屋街は玉島港が開かれた折り、仲買人や商人たちが競って店
舗を構えたところで、その名残が通りには良く残されていて、古い町並みの保存地
区となっている。
穀物問屋、綿廻船問屋、味噌醤油屋、酒屋、紙屋など白壁・なまこ壁の重厚な造
りの商家の多くは平入の瓦葺屋根を持ち、表には桟格子が嵌められている。
中には卯建を上げる家もある。



 旧玉島灯台や金刀比羅宮の常夜灯、河井継之助の船宿跡など史跡も多い。
この町では、江戸の情緒、大正浪漫、昭和の香りが存分に楽しめる。(続)

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ひかりは西へ(JR乗り潰し・山陽本線)

2016-04-22 | Weblog


 山陽本線は倉敷から西阿知を出て、岡山三大河川の一つ高梁川を渡る。
この辺りは、くだものや花卉の栽培の盛んな地域で、取り分け高級ブドウのマスカ
ットオブアレキサンドリアやニューピオーネは、全国でもトップクラスの収穫量を誇っ
ている。
車窓からそんな露地栽培される南斜面の畑や、温室などを目にしているとやがて
「新倉敷駅」に到着する。



 「ひかりは西へ」のキャッチコピーに乗って、山陽新幹線が岡山まで開業したのは
昭和47年のことである。当時は東海道新幹線と直通運転をする「ひかり」が運行し、
岡山が九州方面や四国、山陰方面への乗り継ぎ駅となった。



 それから遅れること3年、岡山県内に二つ目の新幹線駅が、博多までの延伸開
業に伴い誕生した。それがここ「新倉敷駅」である。
倉敷市西部の玉島地区に有る駅で、元々は山陽本線の前身の山陽鉄道が開通
した年に、少し遅れて開業した古くからある「玉島駅」が改称されたものだ。



 倉敷と名がついているが、倉敷市の中心、有名な美観地区観光の玄関駅、山陽
本線の倉敷駅とは10キロ近く離れている。
新幹線計画の折には、倉敷駅にも新幹線駅の併設案が有ったらしいが、岡山から
近いことや、駅周辺が既に過密気味で用地買収の難しさ、工事の難度などから玉
島に決められたようだ。



 駅は玉島地区にあるとはいえ、その中心市街地とは2キロ以上も離れている。
その玉島は干拓の歴史を秘めた地でその用土掘り起こしの折、掘り出された丸い
石が代々地元の庄屋に伝承されていて、この「玉島の玉」が地名の由来となったと
されている。(続)



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大原美術館(JR乗り潰し・山陽本線)

2016-04-20 | Weblog
 「倉敷美観地区」は、山陽本線の倉敷駅から歩いて10分ほどの所に広がっている。
倉敷川と白壁土蔵や町屋敷がしっとりと落ち着いた雰囲気を醸す町並みで、その中
心をなすのが「大原美術館」である。
 昭和5年に画家・児島虎次郎の業績を讃えるため、倉敷紡績などを経営する実業
家・大原孫三郎が創設した日本で最初の西洋近代美術館である。



 虎次郎が西洋諸国を巡って収集した作品は、今でも日本を代表する西洋美術コ
レクションと言われている。
グレコの「受胎告知」、ゴーギャンの「かぐわしき大地」、モネの「睡蓮」、ピカソの「頭
蓋骨の有る静物」などなど、教科書でお馴染みの名画が間近で見られるのだから、
美術ファン成らずとも必見の価値が有る。



 日本近代洋画の分館や、日本の民芸運動を主導した濱田庄司、富本健吉、河井
寛次郎や棟方志功などの作品を展示する工芸・東洋館などを備えている。



 現在繰り広げられている「晴れの国おかやまディスティネーション・キャンペーン」
に協賛し、地元倉敷のマスキングテープとのコラボレーションで、違った表情を見せ
ている本館は見ものである。



 目の前には今橋がかかっている。
橋に描かれた龍と菊のデザインは、児島虎次郎によるものだ。

 渡ってすぐ左に見えるのが「旧大原家住宅」、その道路を隔てて右に立つのが、
緑色の泉州瓦を葺いた別邸の「有隣荘」だ。
さらに川に沿って歩けば「倉敷考古館」や「倉敷館」「倉敷民芸館」「日本郷土玩具
館」などが軒を連ねている。





 川舟が浮かび白鳥の遊ぶ柳並木の倉敷川を離れ、狭い路地を少し入ると、レン
ガに蔦の絡まる「倉敷アイビースクエア」がある。
クラボウの旧工場を利用した施設で、ホテルや体験できる工房などが有る。
 更に足を延ばせば「キャンディ♡キャンディ」で知られる「いがらしゆみこ美術館」
なども有り、見所が目白押しだ。(続)



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倉敷美観地区(JR乗り潰し・山陽本線)

2016-04-18 | Weblog
 白鳥が遊ぶ川面に川舟が浮かび、柳がやさしく揺れる町。
白壁の土蔵や町屋敷が静かに佇み、ホッと心の和む町。
古き良き歴史と近代モダンが交錯し、豊かに文化の香る町。



 「倉敷美観地区」は、倉敷河畔を中心に、江戸時代から明治・大正・昭和初期に
かけて建てられた商家や町屋敷が立ち並ぶ商家町で、一帯は国の重要伝統的建
造物群保存地区に指定されている。



 江戸時代倉敷は、幕府直轄の天領として栄えた町である。
町民を支配する領主がいないため、町民による自治が進み、結果町民による独自
の文化が開いた。
そんな気風を受け継ぐ町民は、第二次大戦後も古いものも大切にしようと言う機運
を盛りあげ、今日の町並み保存に繋がった。
昨今行われる「屏風祭り」や「ひな祭り」などはそういう結果の現れでもある。



 倉敷は町屋敷が特徴的な町である。
多くの観光客は大原美術館辺りに集中するが、倉敷を知るには人混みを避け裏通
りに入るのが良い。そして「ひやさい」を歩いてみるが良い。



 町屋敷と町屋敷の間の狭い路地を、倉敷ではこう呼んでいる。
日当たりの少ない場所のことらしいが、石畳が敷かれていたりして、如何にも倉敷
らしい江戸情緒を愉しめる空間になっている。
そこには静かな、本来の倉敷の町並みが待っている。



 本瓦葺きの屋根は丸瓦と平瓦を組み合わせ断熱性と防水性に優れている。
外壁は漆喰で塗り固める、塗り屋造りと言われるものだ。
瓦を張り目地を漆喰でなまこのように盛り上げ防水性と防火性を高めている。



 母屋の二階には「倉敷窓」と呼ばれる格子を入れた窓が有る。
内側には引戸が有り、上から商人が武士を見下ろさないように工夫されている。
こういった造作で建家の機能性を高め、その意匠が簡素な美しさで町並みを引き
立てている。(続)

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大病院と学生の町(JR乗り潰し・山陽本線)

2016-04-15 | Weblog
 県下第一の町・岡山から、第二の町・倉敷に向かう庭瀬や中庄などは、住宅団
地や大規模な商業施設などが集積する両市のベッドタウンとして発展を続ける地
域である。





 中庄の駅の近くには大きな総合病院が立地し、全国でもまだ数が少ないドクター
ヘリを備えている。
周りには医療系の大学・短期大学や専門学校が立地し、それらの寮やアパートも
多くここは学生の町でもある。





 一昔前なら、ここらあたりでも田圃ではい草の栽培が盛んで、夏の頃には青々と
風に揺れるい草を車窓からも見られたものだ。
い草は、真冬に氷を割った田に苗を植え付け、春先には成長後の穂が倒れにくく
するために一旦穂先を刈り込み、その後盛夏、炎天下での刈り込みと言う過酷な
労働が知られている。

 当時はその労働力を、九州辺りからの集団就職や季節労働として得ていたほど
栄えていた。しかし、県の近代化・工業化の波から、農作業を嫌い、加えて成長し
た穂先が赤変する被害の蔓延などで急激に衰退し、生産量日本一の座を下りた。
そんな事情も有り今ではこの付近でそれらを目にする事は出来なくなってしまった。





 駅の南側には車窓からも見える「マスカットスタジアム」が立地している。
両翼99.5m、中堅122m、収容3万人を誇る本格的な球場でプロ野球のオープン戦
や公式戦、秋のミニキャンプなどに利用されている。

 チボリ公園が撤退した倉敷駅北口では、新しいアウトレットモールも出来、活力
ある町並みを車窓からも見せてくれる。(続)

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憲政の神様(JR乗り潰し・山陽本線)

2016-04-13 | Weblog
 庭瀬駅の北方2キロほどの地には「憲政の神様」と言われた犬養毅(号・木堂)
の生家が残され「犬養木堂記念館」として公開されている。
この生家は、江戸時代の大庄屋に相応しい姿を留める建造物として昭和53年国
の重要文化財に指定されている。





 犬養家は、もともと代々庄屋や郡奉行など藩の要職を務め、名字帯刀を許され
た農家で、毅は安政二年に犬養家の次男として生まれている。



 洋学を学ぶため20歳の時に上京、慶應義塾に入学し福沢諭吉に指導を受けた。
その後新聞記者などを務めたが、36歳(明治23年)で衆議院議員に初当選し政治
の道を志し、76歳(昭和6年)の時、第29代内閣総理大臣になったが、その翌年事
件は起きた。

 学生時代「いくさになるか・ごー・いち・ごー」「ひどくさむいひ にー・にー・ろく」な
どと覚えた歴史の一つ、1932(昭和7)年5月15日の所謂「五・一五事件」である。



 総理大臣官邸に、拳銃などで武装した大日本帝国海軍の青年将校たちが乱入し
たその日は良く晴れた日曜日で、取り巻き達のほとんどが出払い、留守の間の出
来事であったそうだ。



 「まあ、靴でも脱いで座れ、話せばわかる」と自身の考えを語り聞かそうとしたが、
問答無用とばかりに発射された銃弾に瀕死の怪我を負った。



 それでも尚「(鉄砲を撃った)今の若いものをもう一度連れて来い、よく話して聞か
せてやる」と気丈にも語ったそうだが怪我は殊の外重く命を永らえることも無く、現
職の総理大臣は凶弾により77年の生涯を閉じたと言う。(続)

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庭瀬往来(JR乗り潰し・山陽本線)

2016-04-11 | Weblog
 『18世紀中頃以降、庭瀬へ抜ける「庭瀬往来」は常磐町口門を出て・・・』
(「絵図で歩く岡山城下町 2009年 吉備人出版)



 今日の岡山市中心部、表町商店街の南部辺りに有った常磐町口門から、陣屋町
であった庭瀬に至る街道は、この地までは「金毘羅往来」と「鴨方往来」が同じ道の
ため「庭瀬往来」と呼ばれていた。



 江戸時代岡山藩は、岡山城下から発する6本の街道を整備した。
金毘羅往来、鴨方往来、松山往来、津山往来、牛窓往来、倉敷往来である。



 次の庭瀬は、足守川とその支流を利用した舟運の栄えたところで、水路や堀が
縦横に廻らされた水郷の町、湊町として、また「庭瀬往来」から「金毘羅往来」と
「鴨方往来」への追分として栄えた歴史を持つ古い町である。
車窓からは、今でもその名残とも言える水路や川の流れを、町並みや田畑の中に
垣間見ることが出来る。



 駅を出て通りの一角に目をやると「敷物新聞」と書かれた掲示板が目につく。
かつて、い草の生産が盛んな地域らしく、「畳」に関する情報紙を発行する新聞社
のもので、いかにも庭瀬らしさが感じられる。
その角を曲がった辺りから「庭瀬往来」が始まる。



 街道筋にはかつて街道を照らした常夜灯や、古い石導なども多く、町並みの所々
には白壁・なまこ壁に木格子や虫籠窓を備えた伝統的な建造物も残されている。



 付近には旧庭瀬湊跡や庭瀬城跡、撫川城跡などの旧跡もあり、これらを巡るサ
インも良く整備されている。ゆっくり巡っても半日もあれば充分なので、ちょっとここ
で途中下車するのもいいだろう。(続)

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岡山ドームとフリマ(JR乗り潰し・山陽本線)

2016-04-08 | Weblog
 旧国鉄時代の岡山操車場の広大な空き地に設けられたアクションスポーツパー
クはインラインスケートやローラースケートのできる日本でも最大級のスケートパー
クとして華々しくオープンした。
しかし、当初から危惧された通り、もともと競技人口も愛好者もあまり多くないスポー
ツで、利用は思いのほか伸びず開設から10年で閉鎖されてしまった。





 操車場跡地にはアクションスポーツパークから少し遅れて岡山ドームも造られた。
多目的施設として1000人収容のスタンドを持つ人工芝を敷き詰めた施設で、ここで
は雨を気にすることもなく、テニスや野球、フットサルなど多彩なスポーツに利用され
ている。

 またこの施設は岡山市の成人式会場として使われ、各種展示会や物販会、コン
サートなどにも活用されている。
定期的に開催される大規模なフリーマーケットは、「咲かそ、岡山!1万人のフリー
マーケット」と銘打って開催され、毎回数百店の出店が有り、来場者も中四国最大
規模の数千人規模と言う。





 広大な操車場の跡地利用では、岡山ドームだけは何とか安定した利用が図られ、
市も面目を保っているようだが、この一帯には北長瀬の駅が出来、その駅前に新し
く市民病院が出来た以外はいまだ殆どが空き地のままである。



 これらの空き地はイベント時には無料の駐車場として開放されるのはありがたい
し、その多くは広場・遊び場として開放されているので、サッカーや遊戯を楽しむ子
供たちの歓声が終日響いている。
しかし荒地も多く、市中心部の一等地がこれではあまりにも寂しくて情けない。
一日も早い再開発が待たれている。(続)



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