簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

瀬田川(東海道歩き旅・近江の国)

2024-05-31 | Weblog


 琵琶湖の面積は674㎢で、所在する滋賀県の面積の凡そ六分の一を有
し、広さは日本最大を誇っている、と同時に貯水量も日本最大だ。
 これらの水の多くは、野洲川、姉川、安曇川、愛知川など直接琵琶
湖に流入する117本の一級河川を初め、流入総数凡そ450本と言われる
川によってもたらされている。



 一方、琵琶湖から流出する川は2本有るが、自然流出は、瀬田川ただ
一本である。因みにもう一本は「琵琶湖疎水」で、これは湖水を京都府
に流すため明治時代に作られた人口の水路(疎水)である。

 大津市で取水され、京都府内を流れ、伏見で宇治川に返されている。
農・工業用水や水力発電、水運等として日本の近代化に大いに貢献した。



 瀬田川は途中、京都府との県境付近で宇治川と名を変える。
京都の大山崎・天王山の辺りでは木津川、桂川と合流し、淀川となって
大阪湾に注いでいる。

 淀川の流域面積は8,240㎢と言われ、滋賀、京都、大阪、兵庫、奈良お
よび三重の2府4県にまたがっていて、京阪神1,400万人の極めて重要な
水源となっている。



 嘗て瀬田川に架かる橋は、「勢多の唐橋」だけで有った。
今では、JR琵琶湖線の鉄橋を初め、国道1号線の瀬田川大橋、東海道
新幹線橋梁、名神高速道瀬田川橋や、瀬田川共同橋と言う名の水道橋等、
琵琶湖との境付近には多くの橋が架けられ、今でも京都に入る交通の要
衝である。



 その昔唐橋の架かるこの場所が、琵琶湖と瀬田川の境とされていたが、
今では、JR琵琶湖線の鉄橋から少し琵琶湖側に寄った場所に「河川管理
境界」の看板が立っているらしい。
そこが境と言われているので、その場所を一度この目で見てみたい。(続)





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瀬田の唐橋(東海道歩き旅・近江の国)

2024-05-29 | Weblog
「五月雨に かくれぬものや 勢田の橋」

 瀬田の唐橋は、日本三名橋の一つと言われている。
近江八景「勢多の夕照」で名高い名橋を、松尾芭蕉はこのように詠んだ。
古くは日本書紀にも登場し瀬田橋・瀬田の長橋とも呼ばれた有名な橋だ。



 京都への軍事・交通の要衝であり、600年代には既に橋が架けられて
いたと言う。その為壬申の乱(672年)や承久の乱(1221年)等、何度
も戦乱の舞台となり、「唐橋を制する者は天下を制す」とまで言われた。



 橋は瀬田川に架かり、現在の大橋と小橋に分けて整備したのは織田信
長と言われている。東海道が整備されると、長さ二十三間の小橋と、長
さ九十六間の大橋が架かり、間に中島が有ったと東海道名所図会では紹
介している。



 瀬田の唐橋は、嘗ては瀬田川に架かる唯一の橋で、多くの旅人が行き
交う交通の要衝には、「急がば回れ」の諺が生まれた。
 琵琶湖を舟で渡る方が近道で楽だが、天候に左右され思わぬ足止めを
くう事がある。それよりは多少遠くても確実なこの橋を渡れという事だ。



 鉄筋コンクリート橋に変わるのは、大正12(1923)年6月で、現在の
橋は昭和54(1979)年に架け替えられたものだ。
全長223.7m(大橋約172 m、小橋約52 m)で、県道2号大津能登川長浜
線が渡っている。



 橋は県内有数の観光地で、唐橋東詰・西詰とも東西南北の道路が交差
している。両側の歩道も、地元のみならず多くの観光客の歩く姿やサイ
クリストを見ることが出来る。



 現在では平日でも、1日当り1万台以上の交通量が有るらしく、休日に
は更に増え渋滞し、通行には時間がかかる可能性もある。
現在の格言は、「急がは この橋避けよ」となるようだ。(続)




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瀬田の立場(東海道歩き旅・近江の国)

2024-05-27 | Weblog
 「瀬田名物 たにし飴」の辻末製菓舗が立地する「神領」の交差点で
左折すると、建部神社の参道が松並木と共に伸びているが、東海道はこ
こで右折する。
曲がれば遙か前方に「瀬田の唐橋」が見えてくる。



 通りは県道2号線で道幅は随分と広くなり、旧東海道の面影は何所に
も残されてはいない。通行する車も増え、交差点では信号待ちで車列が
出来るほどで、心なし観光と覚しき乗用車が多いようだ。



 この辺りは嘗て上り下りの立場が有ったところだ。
石畳風の歩道に沿って、銀行や事務所、住宅などが建ち並び、それらに
混じって趣の有る古い建物で店舗を構える姿をいくらか目にすることが
出来、町並は繁華な様子を見せている。
うなぎの名店として知られる「山重」もそんな店のひとつだ。



 瀬田鰻の引き売り屋台「山形屋右重衛門」として創業以来、400年以
上の歴史を誇る店だ。この瀬田の地域でとれるうなぎは、大振りでいき
が良く、大変美味と伝えられているが、時代の流れと共に鰻が減少し、
今では獲れなくなったそうだ。
それでも伝統の瀬田鰻の名前には、拘りがあるようだ。



 うなぎは大好物で、立寄りたいところではあるが、昼食に数千円の出
費は痛く、横目で匂いだけ嗅いでやり過ごし先を急ぐ。
 唐橋東詰の交差点は賑わっていた。ここを左折すれば県道29号線で、
右折をすれば県道559号線、この南北の通りの愛称は「夕照(せきしょ
う)の道」と言うらしい。



 近江八景のひとつ、「勢多の夕照」は、瀬田の唐橋から琵琶湖の夕景
を示すものだが、それに因み湖岸道路に付けられた愛称らしい。
交叉点を越えれば、東海道はいよいよ瀬田の唐橋である。(続)





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後の祭り(東海道歩き旅・近江の国)

2024-05-24 | Weblog


 何時もの事ながら、後で後悔することが本当に多い。
街道歩きの道中は疲れもあり、極力寄り道を避け先へ、先へと急ぐ。
その余り、あの時足を止め、立寄っておけば良かった・・と、帰ってか
ら思う事が多々あるが、時既に遅し、「後の祭り」である。



 「高橋川」に架かる赤い欄干の「和田一号橋」を渡り、左側に檜山神
社、更に続いて建部神社の鳥居を見て先を急ぐ。

 この社は建部大社、建部大明神とも呼ばれ、延喜式内名神大社に列し、
又近江国の一之宮として崇敬も篤いという。長い歴史と由緒を持つ全国
屈指の古社のようだ。
300m程の参道往復に怖じ気付き、余分に歩くのが嫌で見過ごしてきた。



 HPを見ると、『御祭神、日本武尊は御年僅に16才にて熊襲を誅し、
更に東夷を平定され、遂に32才にして伊勢の能褒野において崩御され
ましたが、父君景行天皇は尊の永逝をいたく歎かれ、御名代として建
部を定め、その功名を伝えられました。(日本書紀にしるされている)
これが即ち建部の起源です。』とある。



 道中に「瀬田名物 特製たにし飴」の看板を掲げる店が有った。
興味は湧いたが、田んぼや用水路でよく見かける巻貝を想像してしまい、
ストレートすぎる名前にドン引きだ。元々飴は余り口にしない事もあり、
店を訪ねる気にはなれなかった。



 気になって後日調べると、明治13年創業の和菓子店の看板商品らしい。
地元では有名な菓子で、単に形が「たにし」に似ているからのネーミング
らしい。

 勿論「たにし」が入っているわけでも、味がするわけでもなく、ハード
なニッキの味と言うから、一袋買っておけば良かった、と今になって思う。
これも帰ってからの後悔で、「後の祭り」である。(続)





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大江の千里(東海道歩き旅・近江の国)

2024-05-22 | Weblog
 東海道は一里山から坂を下り、西に進路を修正しながら大江の集落
に入っていく。瀬田小学校を外れたところで、直角に曲り南に向かい、
400m余り進んで今度は右に直角に曲がる。
旧道らしく余り広く無い道が住宅密集地を縫うように抜けている。



 大江の地を荘園として持っていたと伝えられる「大江の千里」の説明
板が建っていた。平安時代の歌人で、三十六歌仙の一人として知られた
人物らしく、この「大江」の地名も、大江氏に因んだものとされている。



「月見れば 千々にものこそ悲しけれ 我が身ひとつの秋にあらねど」

 百人一首の第二十三首らしいが、和歌の事はよく分からない。
没後、住居の旧跡に小祠(野上社)を建て遺徳をしのんだという。
大江東自治会館前に 「野上社旧蹟」の碑が有ったようだが、見逃した。



 右に浄光寺を見て進むと、途中には「大場の桜」というのがあった。
樹齢的二百年と言われる古木で、旧東海道筋にあり美しい花を今でも咲
かせるという。
更に坂を下ると、T字路に突き当たり、東海道は左に曲がる。



 この辺りが旧東海道と旧芦浦街道との分岐点らしい。
芦浦街道は、近世に近江国栗太郡を南北に貫いていた東海道の枝道の一
つで、大江(現大津市大江3丁目)と芦浦(現草津市芦浦町)までの約
11kmを結ぶ道の事を言う。



 湖岸に沿った南北の道路で蘆浦路、瀬田道とも言われ、明治以降は県
道となり、芦浦街道と呼称されるようになった。
 この分岐点にある会社の敷地に、大きな狸陶像が立ち、足元に小さな
地蔵尊の祠が有った。白い大きな腹に社章が描かれているので、同社の
看板かシンボルのようだ。(続)





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一里山(東海道歩き旅・近江の国)

2024-05-20 | Weblog
 東海道は暫く草津市と大津市の市境上を歩き、月輪集落で大津市に入
り込む。道路脇に「名勝 月輪大池」の石碑が立っていた。
街道筋に月輪寺が有り、その先に枯れ池があったので、この池かと思っ
たが違っていた。



 これは、「下月輪池」で、すぐ横にも堤防を隔てて、「山の神池」が
有り、街道はこの地を少し膨らんで回り込むように進む。
この街道筋の形から推察すると、元々は一つの大きな池ではと思ってみ
たりもする。



 月輪大池というのは、約1㎞南に言った所にある大池で、街道では昔
から「左に月の輪の池といふものあり」として知られた名所らしい。
 周辺は大津市が整備する公園になっていて、大型の遊具や広い芝生の
広場があり、地元民の憩いの場となっているようだ。。



 長沢橋を渡ると一里山で、一里山二丁目の十字路の脇に「一里塚跡」
の石碑が立っていた。この地名は、一里塚が有った事に由来するという
が、塚は明治の末期に取り除かれた。当時は大きな松の植えられた塚で
あったらしい。



 道路脇には「祈 安全火車往来」と刻まれた石板の道標が建っていた。
平成22年に篤志家が建立した新しい標で、上方向矢印は「三条大橋迄で
五里余り」反対方向が「江戸日本橋迄で百二十里余り」と書かれている。
東海道の歩き旅も、残り20㎞余になった。



 右方向が「膳所藩札所より大萱港常夜塔に到る」と書かれているので、
坂を下ればJR瀬田駅を経由して琵琶湖畔の大萱港に出る旧道らしい。
反対方向は「旧朝倉道 信楽より伊勢桑名に至る」と書かれている。



 一里山のほぼ東が信楽で、そのまま東進すれば柘植から加太越えで関
に出るので、そこから東海道を行けば桑名には出られる。
それとも信楽から桑名に抜ける別ルートがあるのか、旧朝倉道がどこを
通っていたのか、調べてみたが良く分からなかった。(続)




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弁天池(東海道歩き旅・近江の国)

2024-05-17 | Weblog


 野路の玉川(十禅寺川)を後に、しばらく歩くと小さな島のある池が
見えてくる。池の中の浮島には「浄財弁天様」が祀られていることから
「弁天池」と呼ばれる池だ。
周囲1㎞にも満たないが、一回りする散策路が整備されているようだ。



 弁財天の起源は、水の神と言われていて、恵の雨を降らせ、豊穣をも
たらす神として信仰されてきた。又技芸運の神としても崇められている。
 水不足の年には、雨乞いや豊年祈願の祭りを行った池であろう、と地
元には伝えられているが、現在では農業用のため池という。



 地元では、この池に纏わる、村百姓の娘「つゆ」と、膳所藩や西国大
名の飛脚御用を勤めていた江戸の日野屋重兵衛店の奉公人「喜助」との
悲恋物語が語り継がれている。

 又、島には狸の親子が住み着いており、夜な夜な石橋を渡って町に遊
びに来るとか、その昔、日本左衛門が隠れ住んだとか、古くから有る池
だけに様々な伝説が語り継がれている。



 草津宿を出て野路に到る間には、昭和初期の頃まで街道に多くの松並
木が残されていたらしい。
 その一つ矢倉にも見事な松並木が残されていたが、昭和9(1934)年
の室戸台風で多くが倒れたと言われている。
嘗て池の前の街道にも松並木があり、時代劇の撮影が行なわれたという。


 
 街道歩きのガイドブックでも、「幾らか松並木の残る道を・・・」等
との記述が見られるが、松並木は高度成長期以降、道路の拡張や、ベッ
ドタウンとして発展する途上での宅地化等で、急速に、悉く失われ、今
そんな名残は何所にも見られない。(続)





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野路 萩の玉川(東海道歩き旅・近江の国)

2024-05-15 | Weblog
「あすもこむ 野路の玉川萩こえて 色なる波に 月やどりけり」



「野路の玉川に明日もまた来よう。萩の花を越えて色が付いた川の波に
月が写っている」と言う様な意味らしい。
作者は源俊頼、「水上月」という題で詠んだ一首で、千載集に所載され
ているという。



 ここ野路は、平安末期には既に世に知られ、鎌倉時代には旧街道の宿
場として栄え、多くの紀行文にもその名が登場するという。
また古くから、和歌の名所としても知られていた。



 県道43号(平野草津)線を越えた先に、「野路 萩の玉川」というと
ころが有った。旧東海道沿いにあり景勝地として、また萩の名所として
知られていたという。

 嘗ては、流れる川だが、江戸時代には埋もれて池になっていたらしく、
その後は宅地化が進み僅かに残る沼地となった。
今は地元の有志により小さな池として整備されている。



 野路の玉川は、日本六玉川の一つとされている。
因みに他は、「高野(紀伊―毒水)」「野田(陸奥―千鳥)」「卯花
(摂津―卯の花)」「調布(武蔵―調布)」「井手(山城―山吹)」だ。



 野路町内会の公式HPを覗くと、「ここ野路の玉川は、平安時代末
(12世紀)から有名になった歌所で、萩の玉川とも言われ、日本六玉
川のひとつとして知られています。
野路はまた鎌倉時代、有名な宿駅でもありました。」



 更に、「野路の玉川は、平安、鎌倉時代の東山道沿いに位置し、往来
の旅人たちも、秋には「詩に詠まれている、野路の篠原(現在の平野)」
あたりを越えると、一面になみいる萩の花の景観を堪能したことと推察
されます。」と書かれていた。(続)




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平清宗の胴塚(東海道歩き旅・近江の国)

2024-05-13 | Weblog
 「矢橋の渡し舟」は、距離は短いが、中々すんなりとは利用出来ない。
歩きで一里以上も長かろうが、瀬田橋廻りの方が着実に前進できるので、
成果を急ぐなら堅実な方法をとる方が良い、いわゆる「急がば廻れ」と
言われるようになった。



 左に稲荷神社の赤い鳥居を見て西進すると、矢倉南の交差点で旧道は
一旦途切れ、国道1号線を斜めに越える。
草津は近年京阪神のベッドタウンと言われるだけに発展著しく、高層や
中型のマンション風の建物がこの交差点を取り巻いている。



 国道を横断した先の上北池公園に、「ようこそ南草津『遺跡と萩の育
むまち野路』の玉川へ」と書かれた観光案内板が有り、近くに「野路一
里塚跡碑」が建てられている。
 江戸から数えて119番目の一里塚で、嘗ては両側に松が植えられていた。
実際の場所はここより少し北西方向にあったらしい。



 かがやき通りを越えると、旧野路村に入り、すぐ左に浄土宗のお寺・
教善寺がある。右に南草津病院を見て進むと、その先の民家のブロック
塀越しに、五輪塔の写真と共に、「平清宗」と書かれた案内板が有った。



 平清宗は、平宗盛の嫡男、平清盛の孫に当たる平家の若武者だ。
壇ノ浦合戦で源氏に敗れ入水したが、父と共に源義経の囚われ人となり、
鎌倉に送られ源頼朝の前に引出され、対面が済むと、京に護送されたが、
その途中この地で処刑された。



 悲劇の若武者と言われた清宗は、首を刎ねられ六条川原に晒されたが、
当地に胴が残ったため胴塚が建てられた。
 約820年を経た今でも南草津病院を経営する遠藤家によって懇ろに弔わ
れているという。供養の五輪塔は敷地内だが、一般にも開放されている事
を後になって知った。(続)





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急がばまわれ(東海道歩き旅・近江の国)

2024-05-10 | Weblog
 「上り下り立場、左いなり宮 右姥が餅や」



 趣ある町屋が残る街道を行くと、道筋に「瓢泉堂」という店が有った。
元々この店は、姥が餅店であったが、店主が代替わりして移転した。
その店舗を継いだのが、斜め向で瓢箪造りを続けていた当店だという。



 旅人は、姥が餅を食べて、向かいで水筒用にと瓢箪を買った。
瓢箪は無病(六瓢)息災の縁起物として、又装飾品として愛用され、人
間と同様2つと同じものがないのが特徴という。
 水はもちろん、お酒を入れる容器としても使ったらしい。当時この辺
には瓢箪を売る店が6軒ほどあったが、今に残るのはここだけという。



 店の前に、寛政10(1798)年に建立された道標が立っている。
歌川広重の「東海道五拾三次之内 草津」の風景でも描かれた道標で、
「右やばせ道 是より廿五丁 大津へ 船わたし」等と刻まれていて、
「やばせ道」への案内だ。



 「やばせ道」は、西方へ一里弱、琵琶湖畔の矢橋湊へ通じる道だ。
湊からは対岸の大津へ「矢橋の渡し舟」が有り、その距離は五十町程だ。
瀬田を回る東海道よりは近道になり、矢橋浦の船持ち等が、利用促進を
願い道標建立を請願し、実現されたものという。



 俗謡に「瀬田に廻ろか矢橋へ下ろか ここが思案の姥が餅」、「武士
(もののふ)の やばせの舟は早くとも 急がばまわれ 瀬田の長橋」

 旅人は、ここで茶を飲み姥が餅を食べながら休憩し、東海道を瀬田橋
廻りで行くか、矢橋道を経て湊から船で大津へ渡るかを思案した。



 舟なら歩かずにすみ、楽で近道であるが、湖が荒れれば舟は出ない、
又風待ちで何時間も待つこともあり、何より難破の危険も孕んでいる。

 急ぐなら遠回りでも、より確実で安全な方を取れとの格言で、この
ことから「急がば廻れ」という諺が生まれ、ここがその語源となった。(続)




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