簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

道の駅・あいの土山 (東海道歩き旅・近江の国)

2023-11-29 | Weblog


 「道の駅」は、道路管理者や全国の自治体が整備・設置して、国土交
通省に登録されたもので、今日全国には1198カ所あると言う。
 その歴史は比較的新しく、実験的な施設として山口や岐阜に設けられ
たのは平成3(1991)年の事で、その後全国展開され一気に広まった。



 高速道路で24時間利用が可能なサービスエリア(SA)やパーキング
エリア(PA)のいわば一般道路版としてその制度が創設されている。

 ただ「道の駅」には、単に休憩施設に留まらず、その地域の情報発信
の場、利用者と地域の交流の場としての機能が盛り込まれていることに
大きな違いがある。



 その為「道の駅」では、農産水産物など地元の特産品が販売されるこ
とが多い。加えて、地域の特性や周辺の観光地の情報発信なども頻りに
行なわれることもある。

 変わり種としては、温泉や宿泊施設、公園、展示場などを併設した施
設もあって、様々な形態でアイデアを競い、今では観光地化した有名施
設も現われている。



 「道の駅 あいの土山」は、国道1号線沿い、名古屋と大阪のほぼ中
間に位置する駅だ。宿場町の風情が残る土山宿の東入口にあり、目の前
は北土山の鎮守・田村神社である。
大きくは、本館とやまなみ館の二つの建物に分かれている。



 本館には、食堂や地元の名産品や新鮮野菜、特産品を取り揃えた売店
があり、地元の栽培農家が提供する山野草なども売られている。
土山茶は主要な生産地として、店内で無料のサービスがある。



 別館「やまなみ館」では、抹茶ソフトクリームや、お茶を使った「和
風ラテ」や、その場で焼くお団子が人気らしい。(続)





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かにが坂飴 (東海道歩き旅・近江の国)

2023-11-27 | Weblog

 海道橋を渡り表参道に出て、右に向かえば田村神社の境内で、東海道
は反対に左に取る。そこは表参道で、天を突くように立ち並ぶ杉木立が
林立し、足元には常夜灯が並んでいる。
 古社らしく、奉納された常夜灯も古い物が多いようで、中には文政12
(1829)年や安政3(1867)年と刻まれた灯籠もあった。



 それが途切れると神社の入口で、幟旗が翻り一の鳥居が立ち、その前
に国道1号線が流れ、横断歩道橋が架かっている。

 歩道橋に上り東方面を振り返ると、今越えてきた鈴鹿山脈は最早遠ざ
かり、幾重にも重なる山の遥か向こうに霞んでいる。
西はいつの間にか片側1車線に狭まった国道が土山の町中を抜けている。



 昔鈴鹿山麓に身の丈3mの巨大な蟹が出没し、旅行く人や近郷の村人
に危害を加えていた。ある時恵心がこの地に赴き、大蟹に印明を示し、
天台宗の「往生要集」を説き、説法を施すと不思議にも大蟹が悪行を悟
るが如く、我が身の甲羅を八つに割裂いてとけ失せたという。



 恵心は八つの甲羅を埋めて、蟹塚を建て懇ろに葬った、その蟹塚は現
在も残っている。この時不思議にも蟹の血が固まり八個の飴となった。
それを竹の皮に包んで村人に授け、「この八ツ割飴は、諸々の厄除けに
効あり」と伝えた。



 江戸時代になると「東海道名所記」(万治元(1658)年版)で「生野、
茶屋あり、飴を煎じて売る」と紹介されるようになる。
旅の疲れを癒す糖菓子、「厄除けの蟹ヶ坂飴」として世に知られるように
なり、旅人からも持て囃されるようになる。



 歩道橋からは、眼下の左手に土山名物を売る「かにが坂飴」の店舗が、
右手には「道の駅 あいの土山」が見えている。
橋を下りれば、いよいよ土山宿へと入っていく。(続)





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田村神社(東海道歩き旅・近江の国)

2023-11-24 | Weblog


 かつての東海道は、今日の海道橋の手前で左折し150m程下って右折、
するとそこに渡り場が有り徒渡りすれば真っ直ぐ宿場に入り込んでいた。
 その後街道は付け替えられ、田村川に板橋が架かると、田村神社の森
を抜け表参道に出るようになる。
そこを左折し暫く行くと土山宿で、右折なら二の鳥居を潜って田村神社
の境内に入り込む。



 田村神社は弘仁3(812)年に創建された古社である。
近江国(滋賀県)と伊勢国(三重県)の国境近くにあり、古来には都よ
り伊勢へと参宮する街道に沿った交通の要衝に鎮座している。



 大和朝廷の命により征夷大将軍として蝦夷を平定した坂上田村麻呂を
主祭神として、また嵯峨天皇並びに倭姫命(やまとひめのみこと)を祀
っている。
 坂上田村麻呂は、鈴鹿峠で人びとを苦しめていた鬼を退治したという
伝説のある人物だ。



 新年初詣1月1日の歳旦祭や、神社では最も重要なお祭りと言われる
4月8日の郷中祭(例祭)が知られている。
神社が創建されたと伝えられる日に行なわれている。

 更には毎年、2月17日、18日、19日の田村まつりとも言われる厄除
け大祭は、災いを治めるご大祈祷が三日三晩に渡り行なわれる。
その日は凡そ200の屋台が並び、県内外から20万人程の参拝客が訪れる。



 表参道に出て右に折れ、三の鳥居を潜ると左に社務所、授与所や祈
禱殿があり、正面がご拝殿でその奥の神明石鳥居を潜り、厄落とし太
鼓橋を渡ると御本殿が鎮座している。

 御本殿は銅板葺三間社流造りで、厄除けの神として信仰を集めると
同時に、北土山の鎮守として信仰されている。
(田村神社公式HPより)(続)





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春の雨(東海道歩き旅・近江の国)

2023-11-22 | Weblog
 「坂は照るてる  鈴鹿はくもる  あいの土山 雨が降る」



 歌川広重の画く道中図「東海道五十三次(保永堂版)」では、宿場・
土山の図「春の雨」として、雨の中、橋を渡る大名行列を画いている。

 一行は田村川に架かる田村橋を渡り、正面に田村神社の杜を見て、合
羽を着た一団が雨の中悄然と頭を垂れながら、宿場に向かい歩く姿を克
明に画いている。



 広重はこの強く降る春の雨を、垂直線と斜線を二版に分けて刷り込む
ことで、激しさを強調した。

 珍しい低い欄干付きの橋の下は、雨により水嵩が増し、荒々しく流れ
下る川も画かれている。仮橋の時代は大雨ともなると、橋渡りは禁止さ
れ徒渡りを余儀なくされると、溺れ死ぬものが多数出たという言い伝え
も残るそんな暴れ川の様子をも窺わせている。



 土山は馬子唄で唄われる通り、伊勢の海から吹き上げてくる風が、鈴
鹿山脈を越えると雨になることが多いらしい。
昔から土地の人々は、風の流れと雲の動きで雨をよんでいた。
 
 そのことから「あいの土山」の解釈は、「あいのう雨が降る」という
方言から「もうすぐ雨になる」との意とする説があるが、「あい」の解
釈には異説が8つあり、未だに定説はないそうだ。(甲賀市HP)



 これまで「あい」は峠と宿場の「間(あいだ)」の意と思っていたが、
そう言う説も有るらしい。
しかし今日では、単に「土山」の枕詞のように「あいの土山」として使
われる事が多いらしい。



 橋を渡り神社の深閑とした杜を暫く進むと、右手に高札場跡がある。
永代板橋である田村橋が架けられたことで、東海道は付け替えられ、
その一部となった道である。

 道はやがて広々とした表参道に行き当たり東海道は左に折れる。
右に曲がれば田村神社が鎮座し、正面に御拝殿がある。(続)





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田村川の田村橋(東海道歩き旅・近江の国)

2023-11-20 | Weblog

 街道の廻りには田園風景が広がり、真っ直ぐに伸びる長閑な畷道の先
に、緑濃い豊かな森が見えてきた。行く手に、自動車通行止めの標識が
現われると、突き当りに真新しい木橋が見える。
森は田村神社で、橋は田村川を渡る海道橋(旧田村橋)、その先が神社
の境内である。



 田村川は、鈴鹿山の分水嶺、宮指路岳(くしろだけ)山麓に源を発し、
南西に流れ下り南土山の白川で野洲川の左岸に合流する一級河川で有る。

 「かりはし、水増ば かち渡り」



 嘗て街道筋の田村川に橋は無く、徒渡りであった。
しかし大水が出る度に溺れ死ぬ旅人が出る有様で、また度々の川留めは
旅人や宿場の関係者を苦しめていた。
このため幕府の許可を得て、安永4(1775)年、土山宿の人達が中心と
なって東海道の道筋を変え、田村川に橋を架けた。



 板橋の永代橋、田村橋は、巾2間1尺5寸(約4.1m)、長さ20間3尺
(約37.3m)、高さ0.3mの低い欄干が付いていた。
当時としては画期的な造りで、渡り口には橋番所が設けられ、渡れば土
山宿の高札場である。



 田村橋は賃とり橋で、幕府公用の役人、武家やその家族は無料である。
近在に住む百姓達の内、川向こうに田畑が有り、日常的に使うものは、
無料としたが、それ以外の百姓や一般の旅人は三文、荷物を載せて渡る
馬の荷主にも、馬一頭につき三文の渡り賃が徴収された。



 永代橋の新設により東海道は、田村神社参道の一部を抜ける事になる。
橋は何度も掛け替えが行なわれながら、台風で流される昭和14(1939)
年頃まで架かっていたらしい。
 今日目にする真新しい橋は、平成17(2005)年11月に、再建されたも
ので、「海道橋」と名付けられた。(続)





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猪鼻村と蟹ヶ坂(東海道歩き旅・近江の国)

2023-11-17 | Weblog

 「猪鼻村 上り下り立場なり。坂有り。花坂は上り成り。
 此所よもぎもちをうる。」


 
 本来の旧道は猪鼻交差点を右折し、その先のY字路を右に進み、若宮
神社の社標を見て左折する。
道は直ぐに国道に戻るが、左手に「東海道 猪鼻村」の碑がある。

 猪鼻の地名は、鈴鹿の山から下りてくる猪を除ける垣根があった所に
由来している。村は五十戸程の集落で、立場として賑わい、草餅や強飯
が名物だったという。



 山中村を下った街道は、猪鼻交差点辺りからやや上りに転じる。
この辺りの標高は、284.9mで、旧道と接する辺りでサミットの295.5m
を迎え、その先は少しずつ下り、今では大した坂では無い。
当時は、この上りを花坂、下りは蟹ヶ坂と呼んだ。



 国道脇の椎の木を目印に、そこから右の側道、本来の道に入り込む。
右手の森は、白川神社の末社・榎島神社で、この木は樹齢約四百年の御
神木である。境内には、白川神社御旅所石標があり、鈴鹿山にはびこる
山賊を退治した坂上田村麻呂を祀る田村社と、退治された山賊を祀る蟹
社があるらしい。



 平安時代に蟹ケ坂に出没し旅人を苦しめた大きな蟹は、京の僧・恵心
(えしん)により退治された。僧は村人に、蟹供養の石塔を建て、蟹の
甲羅を模した飴(あめ)を作り、厄除けにするように言い残した。
その蟹塚がこの近くに有るらしい。



 旧道は良い雰囲気の平入りの家並みが続いていた。
蟹ケ坂村を抜け、工場の渡り廊下を潜って先に進むと、右手に「蟹坂古
戦場跡」石標がある。

 説明によると、 天文11(1542)年9月、伊勢の国司・北畠軍の侵攻
に対して、山中城主・山中丹後守秀国軍は当地で戦い撃退し、北畠勢の
甲賀侵攻を防いだと言う。(続)





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山中一里塚公園(東海道歩き旅・近江の国)

2023-11-15 | Weblog


 その先には、旧道に延びる集落の上を、新名神高速道の巨大な高架橋
が高く跨いでいる。潜るという感覚も無い程高い高い橋の下を抜けると、
国道1号線に突き当たる。

 国道の手前左に広場が有り、「第二名神滋賀県起工の地」碑とモニュ
メントが建っている。平成7(1995)年に、滋賀県下で最初の工事が、
この地で着工されたのを記念する碑である。



 右は江戸日本橋より数えて百九里目の一里塚跡「山中一里塚公園」だ。
園内には「櫟野(いちの)観音道(大原道)道」の石標が残されている。
嘗てこの辺りは、東海道と旧神村(甲賀町神)や旧櫟野村(甲賀町櫟野)
方面に向かう南西に延びる大原道の追分けが有った所らしい。



 「湖国甲賀の三大仏巡り」で知られる櫟野の櫟野寺への参詣道であっ
たが、度重なる道路の改修や拡幅で失われ、道標はこの地に移され保存
されたものだ。
 歴史有る旧道も車が普及するにつれ何時しか使われなくなり、やがて
は消滅してしまったそうだ。
一里塚も本来は、これよりもやや南寄りに有ったらしい。



 嘗ての交通の要衝を偲び、こうした遺物を残し公園とした施設で有る。
文部大臣揮毫による、「鈴鹿馬子唄」碑も建てられ、傍らには当時の峠
越えの様子を現わす馬子と荷を運ぶ馬の石造も飾られている。
折角の公園なのに、草木が茂り手入れは充分とは言えず、若干荒れ気味
なのが残念だ。



 旧道は山中一里塚公園の所から、国道1号線を横断し工場の建つ当り
を抜けていたらしいが、道は失われ、ここからも暫くは国道を歩く。
凡700mで、湯の山温泉に向かう県道507号と分岐する猪鼻の交差点にや
ってきた。(続)





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僅かに残る旧道(東海道歩き旅・近江の国)

2023-11-13 | Weblog
 鈴鹿峠を下る旧東海道は、国道1号線の開通と同時にほぼ消滅した。
山は削り谷は埋められ、均された道路は片側2車線の広々としたものだ。
嘗ての峠道の厳しさは失われ、車は快適になったが、国道歩きには往時
の姿を忍ぶ術もない。



 それでも「十楽寺」から500m程下った所に、僅かばかり旧道が残さ
れていた。横断歩道も無いので、車の通行の隙を縫って向こう側に渡り、
その旧道に入り込む。

 暫く行くと左側に、立派な和風建物のトイレが整備され、小さな公園
風の緑地があった。その前の小高い土盛りの上には「鈴鹿馬子唄碑」が
立ち、脇の植栽の中に「東海道鈴鹿 山中碑」が、更にその奥には石灯
籠が建っている。



 立場か何か、謂れのある場所かと思ったが、説明は無く真相は分から
ないが、園内にはベンチも置かれ、木陰も出来ているので、休憩するに
は丁度良い。「歴史の道東海道」整備の一環で設けられた施設のようだ。



 東海道には整備され、充実した施設を有し、積極的に観光客を誘致し、
多くの人々で賑わう旧宿場町が有った。
反面、全くと言って良いほど何も無く、観光客に阿ることも無く、極め
て平凡で平穏な日常だけを繰り返す宿場も有った。



 無いところには、本当に何も無かった。これは道中においても同じだ。
気軽に休め、トイレも利用できる施設も無く、コンビニやスーパーさえも
無い。特にトイレ等は、どうしたものかと、困ったことは度々有った。
それだけに、こうした施設は大変有り難い。



 暫くここでトイレ休憩をし、再び歩き始める。
すると途中右手に地蔵堂があり、嘉永6(1853年)建立の献灯が堂の前に
建っていた。脚柱には、太く力強く「地蔵大菩薩」と刻まれている。(続)





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国道1号線(東海道歩き旅・近江の国)

2023-11-10 | Weblog

 国道1号線は旧東海道を前身とする路線で、東京都中央区の日本橋か
ら、大阪市北区の梅田新道交差点に到る総延長730㎞に及ぶ道路である。



 「一級国道1号線」として制定されたのは、昭和27(1952)年の事で、
昭和40(1965)年に現行法下の「一般国道1号線」となった。
道路の整備は、明治の新政府が発足すると整備計画が策定されている。



 嘗ては主要な幹線道路であった国道1号線も、昭和40(1965)年に
名神高速道路が全線開通(小牧IC~西宮IC)したことで、交通量
は激減する。



 更に旧東海道のルートに沿った、新名神高速道路(三重県四日市~
兵庫県神戸市北区)が暫時開通するにつれ、そのダメージは決定的な
ものとなった。



 峠から2㎞程下ると、左側に「十楽寺」がある。
嘗ては「山中千日村の常念仏寺」と呼ばれた、浄土宗総本山知恩院の直
轄末寺である。

 御本尊は、日本最大級の丈六阿弥陀如来座像が安置されている。
甲賀三大仏の一つで、他に大池寺(臨済宗妙心寺派、水口町)の釈迦如
来座像と、檪野寺(天台宗、甲賀町)薬師如来座像と共に、これらを巡
る「湖国甲賀の三大仏巡り」が頻りに行なわれている。



 関宿を出ると東海道は、峠越を除く多くの区間で国道を歩いてきた。
この間、三重県側も滋賀県側も、嘗て賑わっていた大型のドライブイン
や食事処、喫茶店等は皆無で、コンビニも見ることも無く、自動販売機
すら目にすることが無かった。



 片側二車線の道路を通る車は稀で、幹線にも拘わらず静かである。 
広々とした道を、時折我が物顔の車が、猛スピードで駆け抜けていく。

 高速道路の開通で嘗てのような車の流れは失せ、沿道から店舗の多く
が消えてしまった。道路脇には、往時の面影を残すドライブイン等が、
二三今でも廃墟となって残されていた。(続)




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忍びの里 伊賀と甲賀(東海道歩き旅・近江の国)

2023-11-08 | Weblog


「甲賀」といえば、忍者の里として知られている。
忍術を駆使して活躍した特殊技能集団で、数々の伝説が今日まで語り継
がれている。乱世の時代、共に競い合ったのが「伊賀」で、両地方は今
では「忍びの里 伊賀・甲賀」として日本遺産に認定されている。



 この地方には、こうした忍者の屋敷ではと言われる、古くからの館タ
イプの城館跡が数多く残されていると言う。城といっても石垣はなく、
土を盛り上げ、一辺50m程の土塁で四方を囲んだだけの館跡で、両地方
で800カ所余が確認されているらしい。



 甲賀市甲賀町隠岐には「甲賀の里 忍術村」が有り、志能備神社、忍
術博物館、からくり屋敷、手裏剣道場等の施設が点在していると言う。

 又、同市甲南町竜法師には、「甲賀流忍術屋敷」がある。
中世の頃活躍した甲賀忍者53家の筆頭格にあたる望月出雲守の屋敷とし
て約300年前の元禄年間に建てられた屋敷が残されているらしい。



 伊賀市には、忍者列車が走っている。又ぷち忍者変身処が市内に8カ
所あり、変身して上野城址などを巡るのが人気だとか。
更に忍者が使用した道具の展示、歴史や生活等を紹介し、忍術実演シ
ョーが行われる「伊賀流忍者博物館」がある。



 「甲賀」は、つい「こうが」と濁って読んでしまいそうだが、正式に
は「こうか」と濁らないのが正しい。
同市の前身の甲賀郡も、「こうかぐん」と清音で呼ばれていた。
 
 因みに「伊賀」は、同じ「賀」の字は「が」と濁って読み「いが」が
正式な呼び名である。「伊賀」と「甲賀」は何かと対比されることから、
「甲賀」の読みが混同され誤読されるようになったらしい。(続)


(写真は伊賀上野)




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