一の谷、鵯越の合戦で源氏に敗れた平家は、数千の死者手負いを残した
まま、散々な姿で四国の屋島に集結した。
大打撃を受け呆然と成りながらもそこに本拠を構え、立て直しを図る。
その頃平家の大将の平資盛(「吾妻鏡」では平行盛)は、備前の国の
藤戸海峡の西岸、児島から粒江・種松山に陣を敷き、源氏と対峙した。
対する源氏の源範頼は兵数千騎を従え、海峡を挟んで藤戸・日間山で相
対したのである。
しかし兵舟を持たない源氏は、「うみのおもて五町ばかりへだて」と言
われる僅かな海峡が越えられず、平家から挑発されるも攻めあぐね、苦戦
を強いられていた。
平家は海底に「菱を植え蜘蛛手を結い」海に誘き出そうとする作戦である。
この時、源氏の武将・佐々木盛綱が、有力な情報を掴む事に成功する。
小袖や白鞘巻などの褒美と引き換えに、地元の漁師から騎馬でも渡れる浅
瀬の存在を聞き出したのだ。
先陣の功を焦る盛綱は、源氏の大将・源範頼の制止を振り切り、僅か
7騎の股肱を従えただけで、果敢に海に乗り出し教えられた浅瀬を騎馬
で渡り上陸し平家を攻め立てた。
馬で渡れると知った範頼は、全軍に進軍の命を出し、ここに藤戸合戦が
始まった。
平家との間で激しい戦闘が加えられたが、結果破れた平家は、舟で屋
島への撤退を余儀なくされたのである。
安徳天皇を奉じ、内裏を置いた屋島であったが、平家にとってここも安
住の地とはならなかった。
熊野水軍や摂津水軍を味方に付けた源義経の奇襲に遭い、敗れて海上
へ逃げ出し、四国屋島の内裏を失ってしまう。
更にその後壇ノ浦に追い詰められ、海戦で敗れた平家は、安徳幼帝を道
連れに、哀れ西海の藻屑となり滅亡することに成る。(続)
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まま、散々な姿で四国の屋島に集結した。
大打撃を受け呆然と成りながらもそこに本拠を構え、立て直しを図る。
その頃平家の大将の平資盛(「吾妻鏡」では平行盛)は、備前の国の
藤戸海峡の西岸、児島から粒江・種松山に陣を敷き、源氏と対峙した。
対する源氏の源範頼は兵数千騎を従え、海峡を挟んで藤戸・日間山で相
対したのである。
しかし兵舟を持たない源氏は、「うみのおもて五町ばかりへだて」と言
われる僅かな海峡が越えられず、平家から挑発されるも攻めあぐね、苦戦
を強いられていた。
平家は海底に「菱を植え蜘蛛手を結い」海に誘き出そうとする作戦である。
この時、源氏の武将・佐々木盛綱が、有力な情報を掴む事に成功する。
小袖や白鞘巻などの褒美と引き換えに、地元の漁師から騎馬でも渡れる浅
瀬の存在を聞き出したのだ。
先陣の功を焦る盛綱は、源氏の大将・源範頼の制止を振り切り、僅か
7騎の股肱を従えただけで、果敢に海に乗り出し教えられた浅瀬を騎馬
で渡り上陸し平家を攻め立てた。
馬で渡れると知った範頼は、全軍に進軍の命を出し、ここに藤戸合戦が
始まった。
平家との間で激しい戦闘が加えられたが、結果破れた平家は、舟で屋
島への撤退を余儀なくされたのである。
安徳天皇を奉じ、内裏を置いた屋島であったが、平家にとってここも安
住の地とはならなかった。
熊野水軍や摂津水軍を味方に付けた源義経の奇襲に遭い、敗れて海上
へ逃げ出し、四国屋島の内裏を失ってしまう。
更にその後壇ノ浦に追い詰められ、海戦で敗れた平家は、安徳幼帝を道
連れに、哀れ西海の藻屑となり滅亡することに成る。(続)
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