簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

べっぴん(東海道歩き旅・三河の国)

2021-11-29 | Weblog
 吉田宿の旧街道近く、創業140年(明治9年の創業)の暖簾を掲げる
「みたらし団子」(餅菓子処 大正軒)の店先には、たまり醤油の焦げ
る良い匂いが漂っている。
 行列の絶えない有名店らしく、店内には数人が順番待ちをしている。
一本欲しいところだが、行列に並ぶのは嫌だ。



 吉田宿の本陣が有った場所に立つ「鰻の丸よ」は、創業が百余年前と
言う、地元の老舗有名店である。
その店先に「べっぴん 語源発祥の店」と書かれた看板が貼られていた。
この店では明治初期、三河田原藩家老・渡辺崋山の息子、渡辺小華の発
案により「すこぶる別品」の看板を掲げ商ったところ大好評を得た。





 その後この言葉が全国に広がり、極上品を「べっぴん」と呼ぶように
なり、明治中期には美しい女性を「べっぴんさん」と呼ぶようになった。
最も「別品」と言う言葉自体は江戸時代から有り、歌舞伎や文豪達の文
章の中などではよく使われていたらしい。
今日美人さんのことは「別嬪」と表記するようだ。





 又本町にある菜飯田楽の店「きく宗」も、創業が文政年間と言うから、
200年余に渡って道行く人々に愛された食べ物である。
菜飯田楽というのは、豆腐に秘伝の味噌を付けて焼き上げた田楽と、細
かく刻んだ大根葉を混ぜ合わせた菜飯とともに食べる料理で、古くから
この地に伝わる名物である。



 そう言えば、東の惣門前にあった、「八町もちや」も戦後に開業した
店らしいが、早々に売り切れてしまう、地元では超有名店と言う。
このように吉田宿の街道筋には昔から茶屋や、旅篭が軒を連ねていたと
言うだけに今日でも老舗の店が多く、食事処探しには困らない。(続)




にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

道中の食事(東海道歩き旅・三河の国)

2021-11-26 | Weblog


 昔の人は、旅に「干し飯」を持参していた。
炊いたご飯を軽く水に晒し、天日で乾かした物で、作り方にもよるが、
1年位は持つらしい。軽くて嵩張らないので、戦での非常食として使わ
れる程だから、旅人も重宝したようだ。
時に歩きながら、固いままボリボリと食べることもあったと言う。
木賃宿ならお湯を沸かし、戻せばおかゆが出来上がるから安上がりだ。



 街道歩きで困るのは、主には昼飯時の店探しだ。
大きな町中なら兎も角、今日の道中や宿内には、食事の出来る店が無い
ところも少なくない。コンビニでも有ればありがたいが、そうそう丁度
良いタイミングで現れてはくれない。無いところには本当に何も無い。



 嘗て四国八十八カ所を歩いた折、食事処には随分と悩まされた苦い経
験が何回もあった。予め弁当を持って歩けば問題は無いのだが、やはり
荷物は軽くしたいし、少しでも楽がしたいので、食料は非常食程度で殆
ど持ち歩かなかった。そんなときに限って峠越えなどの山道で、時には
喰いそびれた事も度度あった。



 その教訓から、街道歩きでは、若干の食べ物を持って歩いている。
栄養補給のカロリーメイト、小腹を満たすチョコレート菓子(溶けても
チョコレートが飛び出さないもの)と、疲れたときに一粒口に含むフル
ーツ系の飴、それに飲み物だ。
是なら嵩張らないし大して重くもなく、疲れた時食事代わりとして当座
を凌ぐことが出来る。



 しかし、これは空くまで非常食である。
出来れば昼ご飯は、休憩を兼ね、腰を据えてゆっくり取りたいと願って
いるが、中々思うようにならないのが現実である。(続)





にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

整備された旧街道(東海道歩き旅・三河の国)

2021-11-24 | Weblog


 戦災を受けた豊橋市は、戦後になって都市計画により市内が整備され、
新たな町並が再構築された。
道路は広げられ、区画は整然と整理され、直線的な交差点が町中の至る
所に出現した。

 その為、戦災を受けたとは言え、旧街道の痕跡は悉く消滅し、昔を偲
ぶ物は何も無くなってしまった。
従って市内を通り抜ける道は、旧街道と言うよりも新道に近いものだ。



 鍛冶町を抜けると曲尺手町で、京へは52里と書かれている。
道路の緑地に、史跡曲尺手門の石碑が立てられている。
地名は残されているが、曲尺手の痕跡は道路が広すぎて良く解らない。



 昔は丁度この辺りに曲尺手が有り、吉田城の曲尺手門があったらしい。
当時は、街道のすぐ北側まで吉田城が迫っていたが、今はかなり後退し
一帯は「吉田城址・豊橋公園」となっている。
公園までは距離も有り、ビルも多く、賑やかな町並が形成されていて、
街道から城を見ることは出来ない。



 更にその先の呉服町を抜けると、宿場の中心の札木町で、お城の大手
門が近かった。その先で上伝馬町を抜けるが、この辺りに西の惣門(宿
場の西口)があったらしい。
更に湊町を抜け、豊川に架かる大橋を渡って次の宿場に向かう事になる。



 ここまでの道中には問屋場跡や高札場跡、曲尺手跡、本陣跡等を示す
サインは有るものの、その痕跡は何も残されてはいない。
「東海道」との道路標識がなければ、ただの町中の道に過ぎず、都市化
が進んだ旧宿場町は、街道歩きにはつまらない。
唯一の慰めは、まだまだ古を彷彿させる地名が残されている事だ。(続)





にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

吉田宿(東海道歩き旅・三河の国)

2021-11-22 | Weblog
「吉田通れば二階からまねく、しかも鹿の子のふり袖が・・・」



 三河湾に面し三河の国・渥美郡に有り、東海道34番目の宿場町吉田は、
松平伊豆の守・七万石、吉田城の城下町でも有った。
吉田宿は、このように唄われる程の繁昌ぶりを見せていたらしい。



 東八町交差点の秋葉灯籠の立つ反対側には、復元された惣門の模型が
建っていて、ここが吉田宿の東の入口である。
門は東海道を跨ぐように、南向きで建てられていて、近くには番所や駒
寄場もあった。明け六つ(午前六時)から、暮れ四つ(午後十時)の間
で通行が許可されていたと言う。



 宿内の町並には、旅篭や茶屋が続いていたといい、戸数は1,293軒、
人口は5,000人余で、旅篭の数も多く65軒と伝えられている。
街道を行き来する旅人を、店先からおおっぴらに手招きする私娼も多
かったらしい。



 それを裏付けるかのように、街道筋を中心とした、「表町十二町」だ
けではなく、その裏にも「裏町十二町」と言われる町並が広がっていた。
清洲屋と江戸屋と言う本陣が有り、そのほかにも脇本陣が1軒あった。
東海道では、規模的には比較的大きな宿場町で、その賑わいは浜松に並
ぶものと称されている。



 東八町で宿内に入ると、宿場特有の幾つかの角を曲がりながら鍛冶町
を抜ける。当時のこの辺りは、「宿内に鍛冶どもあまたにて、相打つ音
左右に響きて」と言う有様で、鍛冶屋が建ち並んで槌を打つ音があちら
こちらから聞こえていたらしいが、今日それを目にすることは殆ど無い。
戦後に整理された広々とした通りで、町の名だけが残されている。(続)





にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

豊橋(東海道歩き旅・三河の国)

2021-11-19 | Weblog
 旧東海道は、国道1号線に沿って進み、豊橋の中心地に近づいて来た。
豊橋市は、中世には今橋とも呼ばれ、それ以来の城下町で、江戸時代には
宿場も置かれ吉田と言った。現在の地名に変わったのは、明治2年の事だ。



 戦災を受けた市街地は焼け野原となり、嘗ての宿場町としての遺構は
殆ど失われ、何も残されていないらしい。
戦後には整然とした町割りに変わり、旧街道筋と言っても町屋は新しく、
事務社や工場、住宅やアパート、マンションが立ち並ぶ様は、他の地方
都市と何ら変わりが無いようだ。



 瓦町の交差点の向こう側に、一際目立つ寺院が建っていた。
地図で調べると、「寿泉寺」という臨済宗妙心寺派の禅寺のようだ。
竜宮城の様な石の山門と、その奥に覗く三重塔が一際目を引いている。
寄ってみたいところだが、足が痛くて横断歩道を渡るのも億劫だ。



 東八丁の交差点で、路面電車と出会う。
同市の路面電車は、豊橋鉄道が運行する私鉄で、「しでん」の愛称で呼
ばれているらしい。
豊橋駅前から中心部を経由して、東部の住宅地とを結んでいる。



 嘗てはどこの町中でも普通に見られた路面電車は、今では随分と減って
しまい目にすることが稀である。
僅か17都市の19路線しか運行されていない貴重な公共交通機関でも有る。



 交差点の北東方向の広場に、家の高さ程もある大きな石造りの秋葉常
夜灯が見える。
東海地方ではこれまで、火防の神として信仰の篤い秋葉神社の常夜灯を
数多く目にしてきたが、今まで見てきた中でもこれは立派でかなり大き
な方である。(続)





にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

体調のバロメーター(東海道歩き旅・三河の国)

2021-11-17 | Weblog
 



 二川宿に入った頃より、右足の裏に出来た肉刺が潰れたようで、俄に
ヒリヒリと痛んできた。
是までは、履き慣れたキャラバンシューズで歩いてきたが、今回は軽い
ごく普通のスニーカーに履き替えてきたのが良くなかったようだ。 



 その性か、初日から右足の裏に小さな肉刺が出来てしまった。
持参している木綿針で肉刺に穴を開け中の水を抜いたつもりであったが、
充分では無かったようで、ここにきてそれが痛んできた。 



 そうなるともうひたすら耐えて、脇見も振らず前に進むしかない。
宿場間の道中には、所謂名の知れた名所と呼ばれる所もある。
元気が良ければ、一寸脇に逸れ、寄り道を・・・となるのだが、足が痛
ければ当然寄り道もしないし、それどころか道中でも写真も撮らない。



 ただひたすら次の宿場に向かって前に進むだけであるが、このことは
後になって後悔する。旅行から帰って、撮り溜めた写真を見ると、こう
した場所では極端に写真が少なくなっている。

 カメラもポケットにしまい込んで、ひたすら歩くだけ、だからである。
写真の枚数が、疲れの、その時の体調の、バロメーターにもなっている。



 二川宿の問屋場跡、高札場跡などの碑を見て進むと、左手にJR二川の
駅があり、バスターミナルのある駅前ロータリーに古い道標が立っている。
それには「是より岩屋江八丁」「まわりなし通り貫十六丁」とある。



 東海道は二川宿を出ると、次の吉田まで一里半一町(凡6.1㎞)だ。
駅前から火打坂の交差点で右に折れ、火打ち坂を上る。
その上にあるのが岩屋観音だ。
それを過ぎると再び国道1号線に合流し、豊橋市街地を目指す事になる。(続)



にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

かしわ餅(東海道歩き旅・三河の国)

2021-11-15 | Weblog

 
 「レモン柏餅を一つ」
「すみません、土日の限定販売です。日持ちがしないものですから・・」
と可愛い笑みを浮かべて、若い女子店員が言う。

 『江戸時代の浮世絵に描かれた名物「かしわ餅」と現在の名物「レモ
ンかしわ餅」を紹介!』と書かれた表の立て看板に引かれ、試してみたく
て訪ねてみた。



 安藤広重の描く「東海道五十三次之内 二川 猿ケ馬場」の図には、
境川の手前に広がる猿ケ馬場と呼ばれる丘陵地が描かれていて、そこに
は昔からこの地の名物だと言う「かしわ餅」を売る茶店も見える。



 この「レモンかしわ餅」は、二川を訪れる人に喜んで食べてもらえる
食べ物を・・・と言う趣旨で開発されたものだ。

 同地区にある農園が無農薬で栽培した「初恋レモン」を使い、皮ごと
練り込んだ餡を、砂糖を入れない餅で包んだものだという。
さっぱりとした甘酸っぱい味に、初恋を感じてもらおうとのことらしい。
宿場に店を構える老舗の菓子舗・中原屋が作り、「蔵カフェ こまや」で
しか食べられない。



 この「蔵カフェ」は、東の枡形の前にある、江戸から明治、大正期に
立てられた田村家の邸宅を転用したものだ。
味噌などを商ってきた「東駒屋」の中にある店である。

 市の指定を受けた文化財で、復元修復され平成27年に一般公開された
建物群だ。脇門を構えた母屋、離れ座敷、茶室、土蔵などが、ウナギの
寝床のような間口の狭い、奥に長い土地に配されている。



 帰り際に件の中原屋にも立ち寄ってみた。
幾つかのガイドブックで紹介されていた、「本陣饅頭」が目当てである。
「まだ載っているのですね、もう何年も前に、作るのをやめたのですよ」
と女将が申し訳なさそうに言った。(続)





にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旅篭と木賃宿(東海道歩き旅・三河の国)

2021-11-12 | Weblog
 宿場の中心にある「豊橋市二川宿本陣資料館」は、明治に入るまで本
陣を務めた馬場家の屋敷を昭和63年から3年余を掛け整備し、一般公開
したもので有る。
母屋を始め玄関棟、書院棟、土蔵などが江戸時代の姿に復元されている。
こうした本陣、脇本陣は、大名や公家、幕府公用の役人などが利用した。



 その東に隣接した「せいめいや」は、公用でない武士や一般の庶民が
泊まる旅籠である。
位置的に大名の泊まる本陣の隣の旅籠では、庶民は居心地が悪いのでは
思ったが、どうやらこの宿は本陣に入りきらない場合の予備の収容先も
兼ねていたようだ。



 一般的に宿場の旅篭は、朝と夜に一汁三菜を基本とした食事の提供が
有り、現在の旅館の一泊二食付きのルーツと言われている。
ここには飯盛り女と言われる私娼によるサービスが受けられる宿も有り、
これは当時の旅人の楽しみで有った。
当時の旅の案内書には、その料金が五百文とか三百文とか書かれている。



 それに対して食事の出ない、相部屋が当たり前、寝具の提供もない宿
を木賃宿と言う。
この場合は自身で米を炊くか、宿に炊いて貰うこととなり、その薪代を
払っていたので、燃料である薪代を取る宿としてこの名が付いた。



 食事の提供がないので、旅人は自身で食事の調達を行っていた。
例えば持参した乾飯(携帯食)を粥状に戻したり、お米を炊いたりして、
それに簡単な副菜を添え食事を済ませていたようだ。



 当時は歩く旅が基本で、何日もかけて移動するのが当たり前だ。
そんな毎日が旅篭泊りでは、当然庶民の懐ではとても賄いきれない。
木賃宿の存在は、野宿を回避する安宿として持て囃されていたようだ。
このことが公用の旅人に加え、庶民をも旅に誘う事となり、街道の賑
わいを産んだとも言われている。(続)



 ホームページも見てね 


にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二川宿の町並(東海道歩き旅・三河の国)

2021-11-10 | Weblog


 二川宿の通りに人や車の動きは少なく、時折観光らしい人を僅かに見
かける程度である。
そんな道路は、殆ど拡幅されることもなく、往時のままだと言う。
間口が狭くて奥の長い町割りも、ほぼ江戸当時のものと変わらない。



 ここでは町を上げて、町並の景観形成活動を続けている。
「二川宿」「大岩町東」「大岩町中」の三町が、それぞれ「町づくり会」
を作り、三つの協定を基に協働で町づくりを進めてきた。



 協定に基づいて、景観に調和した建築や既存建物の改修改築を進めて
いると言う。それは建物の形や色、門や塀、それに付随した設備、自動
販売機にまでいたっている。
色彩や、設置の基準を細かく取り決め、約束を守るよう努めると同時に、
敷地のちょっとした空間にも、小物や草花を飾るよう求めている。



 びっしりと建て込んだ町並には所々に新しい住宅も建っている。
戦後の町は住宅地として発展しただけに致し方ないのであろう。
それでも、切り妻平入りで構える古い建物も多く、町造りの甲斐もあっ
て宿場町らしい情趣の有る佇まいを見せている。



 宿場の東入口に近い江戸時代の商家・東駒屋の前辺りに曲尺手が残さ
れている。地図で確認すると、直角に2回折れるのではなく、菱形に近
い広場のような形をしている。これは直角では車が回れないため、近年
になって角を削り広げたからと思われる。
 もう一カ所、本陣資料館を過ぎた辺りにも、曲尺手と思われる箇所が
あるが、形は殆ど崩れていてそれとは直ぐに解らない。(続)



 ホームページも見てね 


にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二川宿(東海道歩き旅・三河の国)

2021-11-08 | Weblog
 目標としていた新幹線の高架橋がようやく右手に近づいて来た。
何の工場だか知らないが、シンフォニアテクノロジーと言う会社の前で、
左にカーブする国道1号線を離れ、右に折れる。



 新幹線高架下の暗いトンネルを潜り、その先で梅田川に架かる筋違橋
を渡る。
道なりに東海道線の踏切を越えた所で直ぐに左折、線路に沿って進む。
やがて左程広くはない道の両側に、民家の建ち並ぶ町並が見えてくる。
ここが、二川宿の東の入口に当る場所である。



 東海道33番目の二川宿は、本陣と脇本陣が各1軒、旅籠は38軒、家数
300軒で、人口は1,400人余と言うから、さほど大きな宿場ではない。
当初は二川村と隣の大岩村の二ケ村協働で宿業務を行っていたらしいが、
その後に当地に移転して二川が主となり、大岩は加宿とされている。



 この地は昔から宿駅業務以外さしたる産業もなく、住民の殆どが農業
の従事者であったと言う。
その為賑わいは街道筋に限られ、その外側には田畑が広がっていた。
特に山側の北側一帯には、多くの神社や寺院が配されていたらしい。



 宿場の入口の町屋の前に、一里塚跡を示す石碑が、コンクリート床に
建てられていた。
その塚の前の建物は、「二川宿案内所」の看板を掲げている。
 この日は休館日らしく、生憎入口の戸を閉ざしていたが、二川宿まち
づくりの会の会員が運営する宿場町のPR活動の拠点だと言う。



 元々は、「川口や」という屋号の旅籠らしい。
今の建物は大正期のもと言うが、折角の建物も、車庫が造られ、アルミ
戸や戸袋などに大きく手が加えられている。
生活もあろうが、その歴史的価値を下げているのが残念だ。(続)



 ホームページも見てね 


にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする