簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

手孕村の稲荷神社 (東海道歩き旅・近江の国)

2024-03-29 | Weblog

 十字路の角に、鬱蒼とした森に赤い柵を巡らした稲荷神社が鎮座して
いた。境内の街道に面した場所には、石碑や石柱、手型のモニュメント
等が所狭しと列を成している。



 ここは「厚進学校跡」地らしく、明治8年に創設されて以降の学校沿
革が記され、傍らに往時を偲ぶ門柱が立てられている。
更にその先には、「明治天皇手原御小休所」の石柱も見られる、その横
に手の形をした「手孕ベンチ」が置かれて居る。



 『伝説が歌舞伎「源平布引滝」に・・・子供を守るため産んだのは手
だけだと偽り助けた。(源平の戦いで有名な 後の木曽義仲)子どもを
守り育てるベンチ(物語は手原駅舎及びモニュメントを参照)』と刻ま
れている。



 嘗て村の何某が若妻を友人に預け旅に出たところ、その友人は「夜は
女の腹の上に手を置きて守りしに、女孕みて十月と言うに、手一つ生み
けり」との話が伝わり、それによりこの村を「てばらみ」と言ったが、
後に略して「てばら」となった。



 さらに稲荷神社(里中大明神)」の由緒書きもある。
それによると「稲荷神社の祠有り、老松ありて傘の如しなり笠松の宮と
いう」と書かれている。江戸時代の名所記にはこのような紹介があり、
笠松が世に知られていたらしい。



 栗太八景詩碑の内の一つで、「手原行人(手原の稲荷神社)」の詩碑
も建っている。

 「雨寒塵路手原辺 客袂涙霑萬里天 終日著鞭馳痩馬 往来有故幾年
々」とあり、その意訳の書かれた碑もあるが、心得の無い身には何の事
かちんぷんかんぷんで、理解の出来るはずも無い。



 この角を右手に取れば奥がJR草津線の手原駅である。
街道は直進し、国道に突き当たる手前で線路を離れ、左に大きく曲がる。(続)




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手原の古い建物 (東海道歩き旅・近江の国)

2024-03-27 | Weblog


 旧和中散本舗大角家住宅を背に市道(?県道)に出るとその合流地点
に、ポケットパークが有った。
この辺りは、信楽が近いせいか、タヌキの置物などが飾られている。

 園内に、栗東八景「積日の海道と城跡(新緑の日向山と和中散)」の
看板が立っている。



 和中散屋敷の「大角氏庭園」は、小堀遠州作の池泉式庭園で、国の指
定名勝となっている。日向山(222.9m)を借景とした庭の眺めは趣があ
り、平成の栗東八景の一つとされている。

 そこから少し行くと「東海道一里塚」の石碑が建ち、側には、「和中
散の町 六地蔵/東へ到石部の宿」等と彫られている。



 この先の名神高速道路へのアプローチ道を潜る当りから、街道は小野
村から手原村に入っていくが、その少し手前に「五葉の松」と書かれた
札が貼られていた。どの松のことか、良く分からなかった。



 その少し先の西巌寺の門前に一本の松が立ち、「肩かえの松」の石碑
が有った。「旅人足などがこの松の木の下で休憩し、荷物を担う肩をか
えた所である」と書かれている。 

 「手孕村、此辺草津・石部の中成」と言われたように長丁場の中間地
点である。嘗ては伊吹艾(もぶさ)を売る店が有り、家号は亀屋を名乗
る処が多かったと言うが、今日街道筋でその屋号を目にすることは無い。



 街道に面して国の登録有形文化財の指定を受けた、「里内呉服店」の
主屋の建物が残されていた。二階を低く抑え、雨除けの小庇を設ける等、
外観が明治初期建築の特徴を良く伝えているらしい。 



 西隣には創業が寛政2(1790)年と言う、手原醤油の「塩屋藤五郎」
の建物が建ち、前に「手原醤油顕彰碑」が見える。
美味しいと評判な事を讃える碑らしい。(続)



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旧和中散本舗大角家住宅(東海道歩き旅・近江の国)

2024-03-25 | Weblog
 東海道は六地蔵村から梅木村に入る。
旧家の残る長閑な旧道を、国宝六地蔵から160m程歩いて来た。
すると左手に間口の広い豪華な商家の建物が見えてくる。



 屋根の上部は本瓦葺き、下部は棧瓦葺きの二段構えで、両端には防火
用の卯建壁が上がる重厚な造りである。
江戸時代に「和中散」を売る「ぜさいや」本舗の本家・是齋(ぜさい)
として栄えた、重要文化財の「旧和中散本舗大角家住宅」だ。



 上り下り立場の六地蔵村に続く梅木村は、石部と草津の中間に位置し、
間の宿として栄えていた。
本家は参勤交代の大名達の小休息所となり、茶屋本陣も兼ねていた。



 当時「梅の木和中散」を名乗る店は、近隣に5軒ほどあったと言うが、
その内今に残る一軒が当家である。
そう言えば六地蔵近くでも、「東海道六地蔵村 和中散屋 ぜさい東店
大角重蔵」の家号札を目にしている。



 東海道を行き交う旅人の間では、薬は腹痛や歯痛、暑気当りに良く効
くとの評判であった。家康も永原に滞在中腹痛を起こし、典医に勧めら
れこの薬を飲んだところたちどころに治ったと言う。
 この薬の名は、腹の中を和らげると言う意味で家康が名付けたそうだ。
江戸参府のケンペルやシーボルトも買い求めたとの記録が残されている。



 邸宅内部の大きな店の間は、贅を尽くした造りで、玄関や隠居所の欄
間など、江戸時代の豪商の店構えらしく重厚に造られているという。
 又仕事場には、木製の動輪や歯車の付いた製薬用石臼が、昔のままの
姿で保存されているらしい。
内部は春秋に定期公開されているらしく、見学は予約制と書かれていた。(続)







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六地蔵 (東海道歩き旅・近江の国)

2024-03-22 | Weblog


 東海道は、林村に入り、その先上野村から、六地蔵村を抜けていく。
旧街道らしく行き交う車は少なく静かで、何となく懐かしさを感じる家
並みが続いている。所々で軒の低い白壁の民家を目にするが、門口には
「甘酒屋」「人力屋」等と旧家号の書かれた小さな札が貼り付けてある。



 林の長徳寺・薬師如来堂の前に、栗太八景詩碑の内の一つ、「上野夜
雨(かみののやう)」の碑がある。
 詩碑には「茅屋は寂寥なり上野の郷 村前と村後には雨声長し 陰晴
定難し雲来りて去る 是疑い今宵月光を尋ねん」と書かれている。
すぐ横に古い領堺石が立っていて、「従是東膳所」と刻まれている。



 先に常夜灯と共に「新善光寺道」と刻まれた大きな石柱が立っている。
ここから北に、草津線の線路を越えて300m程入った所にある、浄土宗
鎮西派のお寺を案内する道標である。
 鎌倉時代中期、当地に住む小松宗定という武士が、信州善光寺に四十
八度詣したある日、三尊が夢に現われた。
歓喜感涙した宗定が分身した如来像を請来したのが寺の始まりという。



 東海道は既に六地蔵村に入っていて、そこから160m余で突き当り左
に曲がり南に向かうが、この辺りは「上り下り立場」が有った場所だ。
その突き当りにあるのが、「六地蔵」で知られる旧法界寺だ。



 御本尊は像高96.5㎝の「木造地蔵菩薩立像」で、平安時代頃に造られ
たとされる檜の一木造り、国宝に指定されている。
かつて当地には地名の謂れとなった六躯の地蔵尊があったが、その内の
一躯と伝えられている。
寺は衰退し今では無住となり、地蔵堂だけが残されている。(続)





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伊勢落 (東海道歩き旅・近江の国)

2024-03-20 | Weblog
 東海道は名神高速道路の高架を潜ると、甲賀市から栗東市に入る。
最初の集落を「伊勢落」と書いて読みもそのものズバリ、「いせおち」
と読み、「生涯学習都市」を宣言したまちだ。



 古代当地には、東海道を下り伊勢へと向かう斎宮の禊場があったとの
伝承があるが、これが地名の謂れでもないらし。
何だか曰くありげな地名だが、その謂れは良く分からないらしく、混沌
としている。



 集落の中程に「栗太八景 伊勢落晴嵐」と書かれた石碑が建っていた。
「梅痩せ柳疎にて柴扉鎖す 簷外は半ば晴れ野草肥ゆ 山色の末分の雲
気は晴れ 一声鳥啼き霧破りて飛ぶ 寛延三年十二月 素月作」と彫ら
れている。 



 これは、栗太八景詩碑の内の一つで、他にも
松島秋月(大橋の慶崇寺)、
金山暮雪(大橋の三輪神社境内)、
上野夜雨(旧東海道筋林)、
砥山夕照(北山の上池)、
赤坂帰樵(小野の赤坂公園)、
手原行人(手原の稲荷神社)、
蓮台寺晩鐘(下鈎蓮台寺跡)がある。



 江戸の中期(1750年頃)、大橋にある慶崇寺の致遠(雅号素月)が、
中国宋代の「瀟湘八景」にならい、七言絶句の漢詩を作り選定した。
水墨山水画で著される自然界の気象や光の変化と、地名とを合体して地
域の光ものの景観を現わすらしいが、残念ながら知識はまるで無い。



 因みに栗東市には、観光スポット「栗東八景」が有る。
青麦の薫風(初夏の大宝神社)、
彼岸の繁華(木洩れ日の新善光寺)、
積日の海道と城跡(日向山と和中散)、
泉面の雪花(東方山安養寺)、
飛翔の羽音(自然観察の森)、
払暁の駒音(栗東トレーニングセンター)、
陽春の風光(県民の森)、
夏清の幽玄(金勝寺と森林浴の森)
で、平成元年に公募で選定した。(続)





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石部の金吉 (東海道歩き旅・近江の国)

2024-03-18 | Weblog
 石部を出るとやや北寄りに、右手奥に石部駅を見ながらゆるく曲がっ
て西に向かう。嘗てこの辺りは「西縄手」と呼ばれ、松並木の続く道で
あったが、今松は何所にもなく、町名に往時を偲ぶだけだ。



 国道1号線を越える手前で左に折れるのが本街道「上道」で、直進す
るのは「下道」だ。
ここは野洲川まで山塊が押し出したような狭隘の地である。
度々の氾濫で道が荒れ、山側に迂回道がつくられ途中には、茶屋(五軒
茶屋)も設けられた。



 しかし、上道は距離が倍となり評判が悪く、後には下道が整備され本
街道と成った。
今では、草津線と平行し進み、先で名神高速道路の高架を潜る。
横を流れる宮川は、ホタルが飛び交うらしい。



 「江州石部宿の駅西の入口の山にあり、新道三軒茶屋(五軒茶屋)と
いう村の山也、色白くやわらかにして塊をなす、刻めば白粉となる。
真の石灰のごとし」。

 石部宿天狗谷の西端一帯は昔「石部金山」と呼ばれ、昔は銅や亜鉛を
掘った鉱山跡だが、この辺りの事らしい。



 灰山は近世では白壁等の建築用、止血剤等の医薬用、紺屋細工用ある
いは防虫剤更に肥料として使用されたが、近世後期は高価な干鰯に変わ
って土壌改良に使用するようになる。

 ここでは石灰岩を産し、寛政5(1793)年頃より、内貴勘助が焼いて
石灰を製造していた事から通称「灰山」と呼ばれていた。



 良く融通のきかない堅物を、石と金を重ねて、人名めかして「石部金
吉」と言う。この四字熟語は江戸時代には既に使われていて、この「石
部金山」から転化した言葉とされている。 

 又一方で江戸時代の歌舞伎の台詞や浮世草子の中で使われた言葉との
説も有り、定説は無いらしい。(続)





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西の防御(東海道歩き旅・近江の国)

2024-03-15 | Weblog
 宿場の両入口「見附」に土手を築くのは、宿内が見通せないようにす
る為である。街道を鍵曲がりにするのも、見通しを悪くするのが目的で、
岡崎宿のような二十七曲がりは極端だが、宿場内を何度も曲げるのは決
して珍しくは無かった。



 宿内の街道を横切る間道は、決して十字に交差せず、筋違いに通す。
見附の土手や曲がりくねった道は、見通しを悪くすると同時に、大勢が
一気になだれ込まないようにする工夫である。
これらは何れも宿場を守る防御的機能で、何所の宿場でも大なり小なり
考えられていた。



 石部には、享禄年間(1500年代)に建てられた石部城が有った。
織田信長との戦いで敗れ落城し、その後廃城となったらしい。
その名残なのか、西福寺、蓮乗寺、淨現寺、明清寺、真明寺等、街道筋
には矢鱈と寺が多い。

 宿内の寺は、一朝有事には武者溜まりや戦術上の拠点となる。
また本陣が手一杯の時はその代替となる。



 更に宿内で大名同士が行き違う場合、格下の大名は駕籠から下り、格
上大名に挨拶する義務があった。
こうなると行列を差配する侍は大失態で、それを避けるため、一時的に
休憩などと言って寺等に退避していた。



 東海道はここから100m程で突き当りを左に直角に曲がり、下横町を
西進する。曲がった先に「石部一里塚跡」があり、北側に榎、南側に椋
が植えられていたが、明治のり宿駅制度廃止を期に撤去されたという。



 更にその先には、北側が長さ二丈二尺(約7m)、南側が長さ三丈八尺
(約2.5m)、高さ五尺八寸(約1.5m)の土居があった。
その上に松が植えられた「西の見附」である。
西側には目見改場(番所)が有り、境界を示す傍示杭も立てられていた。



 鍵の手を抜けると宿内は終わりだ。
街道はここから二里半十七丁(11.7㎞)の長丁場、次の草津を目指す。
草津は中山道の追分けでもある。(続)




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谷口長英堂 (東海道歩き旅・近江の国)

2024-03-13 | Weblog
 安藤広重は、「東海道五十三次之内 石部」として、「目川ノ里」の
田楽茶屋「いせや」を描いている。
 左手に茶店を大きく置き、店先の賑わう様子や、街道を行き交う人々
の姿を、後方には藍色に霞む琵琶湖を、その奥には薄墨色で比叡山を描
いている。



 石部宿西端に再現された田楽茶屋では有るが、広重が画いた「目川ノ
里」の「目川」は、石部宿よりは更に二里以上も西に離れた地域である。
 ここには「上り下り立場(休憩場所)」が有り、菜飯と田楽が名物で、
「伊勢屋」という茶店があったそうだ。



 石部宿田楽茶屋の前をそのまま西に進めば、東見附近くの「吉姫神社」
とは男神(下社)・女神(上社)対の関係にあたる「吉御子(よしみこ)
神社」が鎮座している。
東海道はそこには向かわず、ここで右に直角に曲がる。



 暫く行くと左側に「谷口長英堂」という和菓子屋が有った。
大体どこの宿場でも、街道筋に創業百何十年という、老舗の和菓子屋が
一軒や二軒は残されているもので、ようやくここに来て街道歩きの楽し
みの一つに出会う事が出来た。



 創業以来100年以上、今は四代目が切り盛りする店だ。
代表的な菓子は太鼓の形をした最中「石部太鼓」だ。
甘さを抑えたさっぱりとした粒餡がぎっちり詰まっている。
他にも「いしべえどん」という蕎麦饅頭もある。



 定番は栗、桃、蜜柑、抹茶、珈琲、塩豆等と白餡を包んだ「大福」だ。
その中でも、季節限定毎年11月から販売される九州産のイチゴを白餡で
包んだイチゴ大福が特に地元で評判らしく、30年以上前から愛され続け
ているという。(続)





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田楽茶屋 (東海道歩き旅・近江の国)

2024-03-11 | Weblog
 当地の街道名物は、「菜飯」や豆腐百珍の一種「田楽豆腐」で有った。
「菜飯」とはダイコンやカブなどの葉を刻んだ青菜を混ぜて炊き込んだ
ご飯である。また「田楽」とは串に刺した豆腐を焼いて、木の芽みそや
ゆずみそ、黄味みそ等をつけて頂くものだ。



 当時宿場には、これらを食べさす「京いせや」「こじまや」「元いせ
や」の三軒の代表的な茶店が有り「田楽茶屋」と呼ばれていた。
そんな店が石部宿外れの西端に、平成14(2002)年になり再現された。



 旧石部町制百周年記念として、「歴史と文化を後世に伝え、旧東海道
を歩く旅人や地域の人々の憩いの場となるように」との思いを込めた事
業で有る。当時の茶屋とは比較も出来ないほど立派な木造平屋建てのお
食事処として甦っている。



 加えて店内には、市内の名所や観光スポットを紹介するタッチパネル
式観光情報ボックスが設置された。
近隣観光地の検索などができ、トイレも備え、地元の人や宿場を訪れる
観光客などが休憩できるようになっている。



 お勧めの食事メニューは、すりおろした自然薯に胡麻とつゆを合わせ、
御飯にかけて食べるオリジナル料理「自然薯とろろ飯」や「自然薯とろ
ろそば」で、「山うなぎ」と呼ばれる「自然薯の蒲焼き丼」も評判だ。



 喫茶メニューでは各種飲み物の他、石部の郷土料理も提供される。
豆腐とこんにゃくの田楽や、里芋と御飯を潰し丸くして、田楽味噌と甘
辛醤油で味わう「芋つぶし」は、当地に古くから伝承されている伝統的
な食べ物である。シンプルで素朴、腹持ちが良く、歩き旅にはもってこ
いで、どこか懐かしく、ひなびた味わいがある。(続)





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ポケットパーク(東海道歩き旅・近江の国)

2024-03-08 | Weblog

 石部中央の交差点の角に、ポケットパークがあり、この辺りが嘗ての
宿場の中心的な場所らしい。
 常夜灯風のモニュメントが有り、この辺りに「石部城跡」「高札場跡」
「本陣跡」「安民米倉庫」「お半長右衛門」「問屋場跡」「常盤館跡」等
の説明板が見える。



 「安民米倉庫」は、安民米(救済米)を収める倉庫のことだ。
植え付け時には食べる米のない百姓に、米一俵を安民米として貸し付け、
収穫時には年貢として五升を収める制度のことで、納められた米は教育
費に充てられた。



 「お半長右衛門」と言うのは、若者に言い寄られ困惑する石部の町娘
お半(13才)を、京都帯問屋の主、長右衛門(45才)が匿ったことから、
二人は恋仲になり結ばれる。

 ところが長右衛門には妻がいて、その事を苦にしてお半は自殺、それ
を知った長右衛門も後追い心中を遂げたという、この宿に伝わる悲恋の
主人公である。



 「常盤館」は、殿城道辺りにあった大規模な芝居小屋だ。
舞台中央には回り絡繰りが設置されており、評判も高く遠方からも観客
が集まったらしい。
大正8(1919)年に火災で焼失して無くなった。(何れも説明板による)



 交差点を渡ると、その先の左側には、「石部宿小島本陣跡」の案内板
があり、横に明治天皇聖蹟碑が立っている。
 小島本陣は吉川代官所の跡地に建てられ、永応元 (1652) 年に、本陣
となり、明治維新の本陣制廃止まで続いた。



 敷地2845坪に、間口45間、奥行31間、建坪775坪、部屋数26室の家で、
東海道筋では豪壮鮮麗な建てものとして知られていたが、昭和40年代に
老朽化で取り壊した。

 その跡地には街角サロン「いしべ宿驛」が建てられ、誰でも休憩所と
して利用できる。(続)





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