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簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

太閤はんのお城 (東海道五十七次歩き旅・摂津国)

2025-08-25 | Weblog


 旧道は 旧野田橋を渡ると土佐掘通りに出てそこを西進する。
嘗ては街道の片側だけに家並みが形成されていた事から、「片はら町」
と呼ばれた京橋片町を抜けていく。町は宝永5(1708)年、街道の両
側に家並みが出来、相生町(後に相生西町、相生東町)と改称された。



 今日の土佐掘通りは、北に大川、南に寝屋川が流れる地の中央を貫抜
く幹線道路である。両側のビルは隙間無く建ち並ぶビジネス街であり、
中高層マンションも多い住宅街でも有る。歩道に人の姿を見るのは稀だ
が、通りを頻りにバスが走り行き交う車輌も多く、活気が溢れている。



 寝屋川を隔てた南側のエリアには、大阪城を中心とした広大な大阪城
公園が開けている。その中心に聳え立つ、大阪のシンボルとも言える大
阪城の勇姿が、ビルの谷間に見え隠れしている。



 天正11(1583)年~慶長3(1598)年に掛けて築かれた秀吉の城だ。
とはいえ、秀吉が精魂を込めた大阪城は殆どが埋没し、遺構としては残
っていないらしい。地元では「太閤はんのお城」と親しみを込めて呼ば
れているらしいが、全てが夢の跡である。



 今日目にする櫓や石垣等の遺構の殆どが江戸幕府、徳川氏によるもの
で、現天守も徳川時代に再建された天守台石垣の上に立てられている。
 昭和6(1931)年に、豊臣時代の天守閣を想像し、大坂夏の陣図屏風
絵などを参考に模擬復興された。



 鉄骨鉄筋コンクリート (SRC) 構造で天守台・鯱を含む高さは54.8m、
5層8階の創作された「博物館・大阪城天守閣」である。
 日本三名城の一つとされる大阪城は、別称を錦城(きんじょう、金城
とも書く)という。(続)

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のだばし址(東海道五十七次歩き旅・摂津国)

2025-08-22 | Weblog
パチンコ店の店員に教えられたとおりJR大阪環状線のガードを潜る。
京阪京橋駅・京阪モールとJR京橋駅の建物の前を、駅を行交う人の間
を縫って、ぶつからないようにかわしながら南に抜ける。

 この辺りには京街道の道標があったらしいが、この難所を通り抜ける
に一心で、残念ながら見落としてしまった。



 この二つの建物を見ながら、何年か前ここでJR線から京阪線に乗換
えている事を俄に思い出した。その時は僅かな乗換え時間に急いでいて、
余り廻りは見ていなかったのだが、この建物の風景、乗り換えの導線に
は僅かな記憶が残っていた。


 
 駅ビルの南に出てここを右折する。100m程で道が二叉に分かれるが、
そこに二人地蔵尊が祀られていた。二体仲良く並んだお地蔵様で、右側
は交通災害の身代り、左側の方は長寿と厄除けの護り地蔵らしい。



 何処に行っても街道筋にお地蔵様は本当に多くて、昔から庶民に親し
みを込め、敬愛されていた信仰が見て取れる。
 その左側の道が旧道で、400m余進むとで左に折れると、その近くに
昭和13年に立てられた「のだばし址」の碑が立っていた。


  
 旧野田橋は、旧鯰江川に架かっていた。
長さ「十五間五尺五寸廣二間(凡30m)」の橋で、小橋とも呼ばれ、江
戸時代には京街道の入口にあたる重要な橋とされていた。
大坂の町には12有ったとされる公儀橋(公儀が管理する橋)の一つだ。



 旧道は左に折れ、土佐掘通りに出ると右折するが、この間が野田橋の
架かっていた名残の場所らしい。
川は昭和5~6年の寝屋川の改修に伴い埋め立てられ、橋は撤去された。



 「のだばし址」の碑の背中合わせには、「皇紀二千六百年」の碑も立っ
ていた。神武天皇即位紀元(皇紀)2600年を祝った石碑のようだ。

 この先京街道は土佐堀通りと言う幹線通りに出ると、その終点がいよ
いよ近づいてきた。(続)

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京橋 町中の難所 (東海道五十七次歩き旅・摂津国)

2025-08-20 | Weblog
 京橋商店街を通り、新京橋商店街を抜けると、京街道は国道1号線に
行き当たる。商店街の出口に立つと、右側には大阪環状線のガードが見
えている。しかし、この先の道が見通せないので、どっちに向かえば良
いのかさっぱり分からず、判断が出来ない。



 右のガードを越えるのが王道のようには思えるが、ここは慎重に見極
めないと行けない。国道を越えながらそれを潜れば線路の西側には出ら
れるのだが、その先には京阪本線の京阪駅ビルがどっかと居座っていて、
この構内を向こう側に抜けられるかは行ってみないと分からない。



 商店街から国道を越え真っ直ぐに進めば、環状線の築堤に沿って、京
橋一番街が南に延びている。その先は京阪線が東西に走り、ここからは
矢張り土手で塞がれているように見える。道は左に折れているようだが、
線路下を抜ける道があるかも行ってみないと分からない。



 ここ京橋は大阪の交通の要衝の一つで、京阪本線とJR大阪環状線が
交差し、そこに京橋駅を構えている。JR線は少し先でJR東西線と交
差しそこに京橋駅を構えている。駅周辺は大きなビルが建ち並び、どの
通りも繁華で人通りも多い。



 手持ちのルート図によると、その先旧道は、そんな国道と京阪本線、
駅舎やビル等は無視して、真っ直ぐな直線で貫ぬいていて、駅ビルの辺
りで右折してその後は線路に沿って西に向っている。
実際の歩きとなるとこれらを、どのように迂回するかである。



 勤め人に買い物や行楽の人、乗り換えを急ぐ人も多いのか、可成りの
早足で無秩序に行交っている。聞こうにも、この人の流れの中、それを
引き留めて、道を尋ねる程の勇気は持ち合わせてはいない。
地図を持ってウロウロしていると弾き飛ばされそうだ。



 パチンコ店の前で、どう行こうかと思案をしていると、たまたま店員
が出てきた。これ幸いと地図を見せ問うと、「ガードを潜って京阪モー
ルの前を行くのが一番良い」と教えてくれた。
 現在の交通の要衝・京橋の線路越えは、必要以上に時間を要し、散々
迷わされ、思わぬ都会の難所となった。(続)

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リブストリート(東海道五十七次歩き旅・摂津国)

2025-08-18 | Weblog
 「リブストリート」と名付けられたアーケード商店街が見えてきた。
正式には京橋中央商店街で、延長約260m、道路幅7.5m、94の商店で
構成されているそうだ。



 都心部に位置しながら、昔ながらのちょっとレトロな下町の、なぜ
か懐かしい雰囲気が残る商店街というのが推しらしい。
京街道はこの繁華な町中を抜けていく。



 天井のアーケードは、かまぼこ形に盛り上がった明かり取りで、随分
と高く感じられ、このお陰か通りも明るい。途中には三叉路があり天井
はドーム形で、その下が広場となっている。
 そこから更に右側に続くのが新京橋商店街で、街の延長は約170m通路
幅は約5.4mで、商店数は66店舗で、全体の1/3は飲食店らしい。



 通行人の顔が入り込まないように、人の流れの切れ目を狙って写真を
撮るのに苦労するほど、通りはどこも賑やかだ。
シャッターの閉まった店舗は少なく、店先一杯に商品を並べ、前には客
の自転車が何台も無造作に駐められている。
我が地元にも、三大商店街成るものが有るが、残念ながらこの賑わいに
は勝てそうもない。



 江戸時代の大阪は、陸路のみならず、瀬戸内海や淀川、堀川等海運の
隆盛も有り、全国各地から物資が集まり、商業が発達、後には「天下の
台所」との異名で呼ばれるようになった。特に魚介類の取引は活発で、
その代表的な場所が圓明寺の黒門の前だそうだ。



 門前に集まる鮮魚商も一時衰退する時期があったが、戦後には黒門市
場へと発展を遂げたという。この市場の事は名前だけは聞き知っている。
 大阪の食文化が、たこ焼き、お好み焼き、串カツ、更にカニやフグ、昆
布や昆布・煮干しだし等、魚介類を中心とした料理と言うのは、こうした
流れを汲んでのことらしい。(続)



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老耄(東海道五十七次歩き旅・摂津国)

2025-08-15 | Weblog
 「野江国道筋商店街」を右に入った200m程の旧道は「城北筋」に
遮られ、完全にその先が途切れている。手持ちの地図で確認し、左折
して城北筋を野江4丁目交叉点に向け暫く歩く。再び都島通りに出て
交叉点を右折、西に進むと最初に見えてくる細い道が旧道で、左に折
れこれに入る。



 旧道が完全に失われた場所でのうっかりは、致命的な失敗となる。
これまでにも重要なポイントでは、慎重に注意を払って来たつもりでも、
時にどういう訳か、魅入られたように違う道に入り込み、間違えた事は
一度や二度では無い。



 道を違え30分も歩いて、やっと気付いて引き返しても、元に戻るま
で1時間のロストなる。車なら兎も角、歩きでこれは中々取り返すこ
とが難しい。体力的にも、時間的にも厳しいが、何よりも精神的なダ
メージは減らしようがない。



 街道歩きは、ただ歩き回っているだけのように見えるが、これで結構
頭も使っている。地図を読み、方向感覚を養う。時に歴史に思いを寄せ、
学んだ過去の記憶を手繰り、はたまた往時の状況を夢想したり・・・。
何より歩くことで、前頭葉海馬が鍛えられる・・・。



 健康維持、ぼけ防止にはもってこいと続けているので、道を間違えた
りミスを犯してしまうと、とたんに落ち込んでしまう。
まだまだと、思っていても「老耄(ろうもう)」が可成り進んだのかと、
時に情け無く成る事もある。



 慎重に確認をしながら旧道に入ると、地区は内代から野江にかわる。
狭い道も右から来る道と合流し、広々とした幹線道路となって南下する。
町並みは、中層建のマンションや商店、会社、住宅が混在する地域で、
車の通行も多く、中心部に近づいているのであろうが、活気が見られ随
分と賑やかになってきた。



 東側が城東区、西は都島区である区界の道は、300m程行った都島本
通り5丁目の交叉点の手前で二つに分かれている。
 道なりに広い道をそのまま進んでしまうと間違いで、旧道からは東に
大きく外れ桜小橋に出てしまう。ここは右に取るのが旧道で、この先の
京橋に向けて進むのが正解だ。(続)

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コマ地図の案内板(東海道五十七次歩き旅・摂津国)

2025-08-13 | Weblog
 旧街道が抜ける町でのその保存・整備の施策には、可成りの温度差が
ある。力を入れている所と、そうでない所ではその差は歴然だ。至れり
尽くせりの場所が有るかと思えば、これらの無い所は本当に何も無い。



 場所を比定し、古文書を調べその概要を記したサインを掲出する。
道路をカラー舗装して道筋を明らかにする。或いは新しい道標を建てる。
又々史跡の復元模型を造ってしまう。力の入れようは様々だ。



 何も無いところでも、最低限道標でもあれば有り難いのだが、暫くお
目にかかれないと、道を間違えたのでは・・・と心配にもなってくる。

 この辺りでは、旧道に入ると所々に「京街道」と刻まれた真新しい石
柱が立てられているので、有り難い。
そんな石柱の建つ「関目の七曲がり」を300m余で抜けると、道は再び
都島通りに合流する。



 通りに出ると200m余で「おおさか東線」のガードを潜る。
と正面に「野江国道筋商店街」と書かれた鮮やかな緑色のテントが目立
つ商店街が見えてきた。



 都島通りの歩道を全面覆うように真新しいテントが掛けられている。
軒を並べるのは昔ながらの店舗が多いようで、店先には雑然と商品が
置かれているが、シャッターが閉められたままの店も少なくない。



 その先で右斜めに入る道が旧道だが、200m足らずで「城北筋」と呼
ばれる大通りに突き当たる。旧道は都島通りを越えてその先も南に向け
て延びているのだが、ここからは大きな交差点やそれを取り巻く建物、
植栽などが邪魔をして様子が望めない。



 大きな交叉点や幹線道路が通されたところでは、旧道の面影は無く、
往時の状況を留めていないのが常である。
その先何処に繋がるのか、先の道筋が読めないケースも多い。

 こんな時道標の石柱も無いよりはましだが、やはり小さなコマ地図、
今いる地点が交差点の先で何処に繋がるのか、旧道を視点とした案内
が有れば良いのに・・と何時も思う。(続)

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関目の七曲がり(東海道五十七次歩き旅・摂津国)

2025-08-11 | Weblog


 関目5丁目の交差点の先で旧道へ入ったものの、直ぐに右カーブで都
島通りに出るが、ここでは横断することが出来ないので、左に折れつい
でに、関目神社に立寄ってみる。

 関目神社前の信号機のある横断歩道で都島通りを渡り、直ぐに右折し
て通りの歩道を150m程戻って左折し旧道に入る。
この辺りが俗に言う「関目の七曲り」である。



 当時の形態を知る由も無いが、今日の通りは、随分と広く、角が鋭い
というわけでもなく、曲りというよりは、緩やかなカーブと言った道が
続いている。それでも幾つもの曲がりを重ねる道の名残は、この辺りの
旧道には色濃く残されている。



 旧道の通りには小さなカフェがあり、「七曲がりサンド」のメニュー
が掲げられていた。
メニューの一番上には「美人なたまごサンド¥420」と書かれている。
美人店主が作ってくれるのか気になったが、ここは立寄らず先を急ぐ。
調べてみると、ブランド卵「美人玉子」を拘って使っているらしい。



 豊臣秀吉は大阪城築城の際、関目神社を建立すると同時に、防備の一
策としてここ関目より古市森小路の間、十余町(凡1㎞)の道路を特に
屈折させて造らせた。
道を何回も曲げることで敵兵の進軍を遅らせると同時に、敵兵を俯瞰し、
その軍容や兵数を察知するのに便利なようにしたという。



 一般に防衛と経済効果を狙い、城下町や宿場町の街道筋を幾つも曲げ
る例は、「岡崎宿の二十七曲がり」等が知られている。しかし宿場でも
ない関目の街道筋が戦略的に重要というだけで曲げたのであろうか。
他に、曲げる特別な意味が有ったのか、真相は秀吉にしか分からない。(続)



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須佐之男尊神社(東海道五十七次歩き旅・摂津国)

2025-08-08 | Weblog


 京街道は商店街を抜け、高速の下を潜ると高殿地区に入り、緩く右に
カーブしながら、国道1号線と国道163号線が接する関目5丁目の変則
的な交差点に出る。
国道1号線に出て50m程歩き、右(西)に折れ細い道に入ると旧道だ。



 住宅地を抜ける道は、右に曲がりながら200m程で「都島通り」に突
き当る。旧道は道路を横断した先へと続くが、この辺りの道路には横断
歩道はなく、道路の中央にも分離帯が有り、フェンスで遮られているの
で向こう側には渡れない。

 旧道との交差はこういったケースが多いので、右に折れて先程の交差
点に戻るか、左に折れ「都島通り」の歩道を行くかの選択となる。



 左に行くと当地の氏神「須佐之男尊神社(別名・関目神社)」がある。
豊臣秀吉の時代、浪速の鬼門に当るので北の護り、鬼門鎮護の神として
毘沙門天王を勧請すると共に、八岐大蛇を退治した武神の須佐之男尊を
祀り崇敬する小祠を建立したことに由来する神社だ。



 境内には「関目発祥の地」の石碑が建っている。
関目という地名は古くは榎並荘の時代からあったもので、関目はこの地
に見張所(目で見る関所)があったことから起こったと言われる。
ここには関所があったらしい。



 近くの民家と民家の間の隙間のような場所に「明治天皇聖躅」「西
茶屋址」が建っていた。大正14年に立てられたもののようだ。
同じような碑は神社の境内にもある。
 因みに難しい字だが「躅」は、「ちょく」又は「たく」と読み、足
跡とか事跡とかいう意味があるらしい。



 明治天皇は、慶應4(1868)年,千数百人の随行員を伴い、前日の
行在所であった守口の難宗寺を立ち、津村別院に向う途中この関目で
小休止されたという。(続)

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森小路京かいどう商店街(東海道五十七次歩き旅・摂津国)

2025-08-06 | Weblog
 千林商店街は五つのエリアに分けられているらしく、内京街道が通る
のはBエリアだ。壁画のある角を左に曲がるとメインストリートで、京
阪千林駅に向って延びている。



 旧道はこれを曲がらず直進し、アーケードが尽きると「森小路京かい
どう商店街」へと入っていくが、この商店街も千林商店街に負けず劣ら
ない歴史が有るらしい。

 千林では各店舗がアーケードに揃えられ、飾り付けも華やかで、タイ
ル鋪装の通りなどに近代的なモダンが感じられた。



 この通りに入ると道はアスファルト舗装で、ガス灯風な街灯が建つも
のの電柱も有り、上には電線が交差している。店舗の間口も高さも大き
さも様々で何となく雑多な風景が懐かしく昭和の香りを漂わせている。



 京阪本線と国道1号線に挟まれた住宅の密集地だけに、この辺りでは
道の全てが商店街と言って良いほどに店舗が多い。
この他にも近隣には、京阪森小路駅から延びる「森小路商店街」や「今
市商店街」なども広がっている。



 商店街が尽きると先で、阪神高速12号守口・森小路線の高架を潜る。
高速道路が運河の上に通されている。
都会ではお馴染みの光景だが、地方では中々見られない景色である。
運河には古市橋が架かっている。



 説明によると「昭和10(1935)年から数年かけて大阪市により開削
された城北運河で、橋は三径間のゲルバー式鋼板桁橋で、橋長40.83m、
幅員7.30mとなっている。昭和12(1937)年に架けられた。」そうだ。



 この辺り私鉄が走り国道が通り、運河があり、道も入り組んでいる。
通りは殆どが商店街のような者で、異なった顔を持つ店ばかりだ。
目的もなく、ゆっくり時間をかけ、あっちの通り、こっちの道と、ぶら
ぶら歩いてみたくなる町である。(続)

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千林商店街(東海道五十七次歩き旅・摂津国)

2025-08-04 | Weblog
 旧道は今市地区から千林地区へと入ってきた。
京街道筋にあって街道と共に発展をみた同地区には、野崎街道、杉山街
道、剣(つるぎ)街道などの旧街道が通りその分岐点でもあった。



 野崎街道は、曹洞宗・福聚山・慈眼寺へ参詣するルートである。江戸
中期頃から大阪庶民の間で始まった「野崎の観音さん」、十一面観世音
菩薩へのお参りは、行楽を兼ねて爆発的な人気を博したという。



 参拝は陸路を歩く方法もあったが、天満橋から屋形船で川を遡るのが
人気であった。この情景は昭和歌謡で「野崎参りは屋形船で参る~♪♪」
と歌う「野崎小唄」(東海林太郎)で全国にも知られるようになった。



 杉山街道とは、「旭区高殿七丁目で京街道から分岐し、杉山通り商店
街を南下、新喜多橋を渡り、現JR鴫野駅南に流れていた水路の杉山橋か
ら大坂城へ大きくカーブし現平野川沿いを通り千間川へ通じていた。
この平野川沿いから約一キロ離れた大坂城の杉山を眺望でき、杉山街道
と呼ばれた(レファレンス共同DBより)」とある。



 剣街道は千林付近から放出を通り、南は深江まで南北の街道で、放出
道とも呼ばれていた。名称は、阿遅速雄神社 (別名:八剣神社)の参詣
道であるからという説があり、「つるぎ」は「つるみ(鶴 見)」地名に
転じたとも言われているらしい。



 当地区には大阪三大商店街の一つと言われ、百年以上の歴史を誇る千
林商店街がある。当初は呉服・衣服・身廻品や飲食料品を扱う商店が、
地域の生活必需品の需要を満していたが、次第に発展し今では220店舗
が全長660mに渡り軒を連ねている。(続)



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