
旧道は 旧野田橋を渡ると土佐掘通りに出てそこを西進する。
嘗ては街道の片側だけに家並みが形成されていた事から、「片はら町」
と呼ばれた京橋片町を抜けていく。町は宝永5(1708)年、街道の両
側に家並みが出来、相生町(後に相生西町、相生東町)と改称された。

今日の土佐掘通りは、北に大川、南に寝屋川が流れる地の中央を貫抜
く幹線道路である。両側のビルは隙間無く建ち並ぶビジネス街であり、
中高層マンションも多い住宅街でも有る。歩道に人の姿を見るのは稀だ
が、通りを頻りにバスが走り行き交う車輌も多く、活気が溢れている。

寝屋川を隔てた南側のエリアには、大阪城を中心とした広大な大阪城
公園が開けている。その中心に聳え立つ、大阪のシンボルとも言える大
阪城の勇姿が、ビルの谷間に見え隠れしている。

天正11(1583)年~慶長3(1598)年に掛けて築かれた秀吉の城だ。
とはいえ、秀吉が精魂を込めた大阪城は殆どが埋没し、遺構としては残
っていないらしい。地元では「太閤はんのお城」と親しみを込めて呼ば
れているらしいが、全てが夢の跡である。

今日目にする櫓や石垣等の遺構の殆どが江戸幕府、徳川氏によるもの
で、現天守も徳川時代に再建された天守台石垣の上に立てられている。
昭和6(1931)年に、豊臣時代の天守閣を想像し、大坂夏の陣図屏風
絵などを参考に模擬復興された。

鉄骨鉄筋コンクリート (SRC) 構造で天守台・鯱を含む高さは54.8m、
5層8階の創作された「博物館・大阪城天守閣」である。
日本三名城の一つとされる大阪城は、別称を錦城(きんじょう、金城
とも書く)という。(続)
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