簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

逢坂の関(東海道歩き旅・近江の国)

2024-07-19 | Weblog
 「逢坂山 弘法大師堂」を右に見て、逢坂を越える。
道路沿いには、側面に寛政六年の銘が刻まれた、230年ほど前の逢坂常
夜灯も立っている。見るべき物も多いが、交通量の多い幹線を容易に横
断できないのがもどかしい。



 名神高速道路の高架橋の下を潜ると、東海道は大きく曲り西に進路を
向ける。併走する京阪線の半径45mの急カーブ、逢坂山トンネルが有る
のはこの辺りである。



 逢坂越えの登りも最早ここまでで、この先左カーブする国道とは別れ、
東海道は右の旧道へと入り込むと、「逢坂山関址」と彫った大きな石碑
と常夜灯が立っていた。



 「これやこの 行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関」

 「これから旅立つ人も、帰る人も、知っている人も、知らない人も、
別れてはまた逢うという、これが世に聞こえた逢坂の関ですよ」
 この蝉丸(せみまる)の歌は、百人一首にも採りあげられ広く親しま
れていて、この関址にも石碑が置かれている。



 古歌に名高い逢坂の関跡である。
説明によると「逢坂山に設けられた関所・逢坂の関は平安時代、伊勢の
鈴鹿の関、美濃の不破の関とともに三関と称され弘仁元(810)年以降、
重要な役割を果たしてきた。」



 しかしその位置については、いまだ明らかにはなっていないという。
場所的には、京の玄関口として設けられ関所で、通行が厳しく見張られ
ていたが、平安後期からは徐々に形骸化されその形を失ったという。



 とは言え、物資が集まる交通の要衝、逢坂越え道の整備には力が入れ
られていた。当時の運搬手段は牛車が中心である。
 これらが立ち往生しないように、道路に「車石」と呼ばれる石が敷き
詰められたのがこの道筋で、この辺りには今でもこうした石が彼方此方
に残されている。(続)



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逢坂越え(東海道歩き旅・近江の国)

2024-07-17 | Weblog
 旧東海道が国道1号線と合流する辺りに、「安養寺」がある。
浄土真宗の寺院で、本尊は行基作の阿弥陀如来座像、古くは関寺とも呼
ばれていた。門前に「円満院宮/三井寺南別所蓮如上人舊跡」と書かれ
た碑が立っている。



 大津宿も安養寺の有る辺りまでで、今日の道沿いの家並みもここから
は乏しくなる。上り坂が続き、本格的な逢坂越えの峠道である。
その道中には「関蝉丸神社上社」に続き、「逢坂山弘法大師堂(弘法大
師御舊蹟)」等がある。



 最初の「関蝉丸神社」は、逢坂山トンネル東口近くにあった。
蝉丸神社は市内に三社あり、この先逢坂(おうさか)一丁目の国道1号沿
いに在るのが上社(かみしゃ)だ。
又、国道沿いに在るのが下社(しもしゃ)で、大谷町には分社が鎮座し、
三社合わせて「蝉丸神社」と言うらしい。



 祭神は猿田彦命と琵琶の名手の蝉丸霊を合祀していて、音曲芸道の祖
神として信仰を集めている。
 蝉丸は、平安時代の琵琶の名手で、今昔物語や謡曲「蝉丸」によると、
目が不自由でにもかかわらず、音曲の神として崇められていた。



 逢坂越えは京の都と東国・北国を結ぶ東海道・東山道・北陸道の3つ
の主要道路が集中する東海道の重要な要衝である。
物資が集散する瀬田から大津宿一帯、更には逢坂にかけては、人と物が
集中し、街道一の繁栄を極めたと言われている。



 今は山間の切り通し地に、国道1号線と京阪京津線が併走している。
往時に比べれば峠道は切り下げられ、可成り低く均されたと思われるが、
それでも鉄道に取っては沿線最大の難所と言われている。
半径45mの急カーブに続いて、高低差のある逢坂山トンネル(250m)も
あり、さながらここでは山岳鉄道の様相だ。(続)





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 旧逢坂山ずい道東口(東海道歩き旅・近江の国

2024-07-15 | Weblog
 大正時代の初め京都と大津間の最初の鉄道路線は、京都を出て南下し、
稲荷、勧修寺、大谷を経て大津に至る経路で計画されていた。
 しかしこのルートは25‰の急勾配が連続し、輸送上のネックとなって
いた。そこで新ルートが検討され、東山トンネル(1865m)や新逢坂山
トンネル(2325m)等を通る現ルートが決定された。



 元々この辺りは地質が良くなく、強度を維持するためトンネルの断面
を小さくする必要があった。新ルートは後に複線化、更に複々線化され
るが、その都度逢坂山の下にも新たなトンネルが穿たれた。
こうしてここには単線のトンネルが並列して掘削されることになる。



 東海道は既に上り坂で、途中に「逢坂」の石碑があった。
その地名は、「日本書記」よれば神功皇后の将軍・武内宿禰(たけのう
ちすくね)が、この地で忍熊王(おしくまおう)とばったりとであった
という故事に由来すると言う。



 その先に、「鉄道記念物 旧逢坂山ずい道東口」の案内看板が立って
いたので、街道を外れ立ち寄って見る。
日本人技術者が主体と成り、設計・施工を行い初めて造った山岳トンネ
ルで東海道線大津~京都間の旧線大津(現在の膳所)~大谷間にあった。



 完成したのは、明治13(1880)年6月の事である。
一年八ヶ月を掛けて穿たれた全長664.8mのトンネルは、機械に頼らず
生野銀山の労働者が、ノミやツルハシを使い手掘りしたものという。



 大正10(1921)年7月、線路変更で廃線となるまで、東海道下り線と
して使用されていた。 東海道筋からは、ほんの少しだけ離れた山の中な
のに、忘れ去られたかのように寂しく取り残されている。



 再び街道に戻り坂を上るとその先で、国道1号線と合流するが、その辺
りは山を切り開いた切り通しの道で、沿線に民家は乏しくなる。(続)



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逢坂山トンネル(東海道歩き旅・近江の国)

2024-07-12 | Weblog


 東海道は大津宿の中心的な場所を出ると札の辻で、そこを直角に曲り
南に進路を取り、京阪電車の走る通りを緩やかに上っていく。
 京町郵便局の辺りで、右の民家の中に入り込む鉄道線と分かれ、街道
はそのまま直進、上栄町で、左手奥にJR大津駅を見て、右の小町の湯
を過ぎると東海道本線を高架橋で越える。



 右下に線路とトンネルの入口が見えるが、これは並走する京阪電鉄京
津線の蝉丸跨線橋(煉瓦橋)である。 
同線の上栄町駅と大谷駅の間は京津最大の難所と言われている。
 勾配は最大61‰(パーミル)、同社の鉄軌道線では唯一の山岳区間で、
急カーブや、東西の高低差が約10mもある急勾配トンネルを抜けていく。



 静岡県を走る大井川鐵道の井川線には、アプト式電車が採用されてい
る90‰区間があり、これが日本一で、第二位は箱根登山鉄道の80‰で、
それに続くのが京津線のこの区間である。
 都市を結ぶ路線としては珍しいほどの急勾配を上る電車は、カーブも
大きい事から、車輪を軋ませながら、ゆっくり、ゆっくりと上っていく。



 新幹線や在来線で東海道を東に向けて乗車していると、何れも京都駅
を出ると直ぐにトンネルに突入するが、それがこの逢坂山(おうさかや
ま)トンネルである。逢坂山は、大津市の西部に位置する標高325m程
の山で、トンネルはその頂上付近の下に穿たれている。 



 東海道は緩い坂を上りながら、JR東海道線を跨線橋で越える。
眼下には逢坂山トンネルに向かう複々線化された線路が見えるが、ここ
からは、手前の京阪京津線の跨線橋に隠されて、残念ながら歴史を秘め
た風情のあるその入口は望めない。(続)





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銭湯「小町の湯」(東海道歩き旅・近江の国)

2024-07-10 | Weblog


 通りの中央に京阪電鉄京津線の軌道敷が敷かれ、ここでは電車もゆっ
くりと路面電車並の速度で行き来している。
右方向に「びわ湖浜大津駅」があり、同線では主要なターミナルだ。
京阪の京津線は、御陵から京都地下鉄東西線に連絡し、太秦天神川まで
乗り入れている。



 この駅では石山坂本線が分岐し、南に向かえば終点は石山寺駅だ。
紫式部所縁の石山寺の門前までは、歩いて15分ほどである。
 反対の北に向かえば途中に三井寺駅が有り、途中近江神宮前を経て、
比叡山の麓の「坂本比叡山口駅」まで運行されている。
ここでケーブルに接続され、登れば比叡山延暦寺の東側の入口である。



 京町の郵便局辺りで京阪線は右の人家の中に入り込むが、東海道はそ
のまま直進する。広々とした通りは、幾らか上り勾配になっているが、
この辺りを逢坂町と言う。

 道中に「ゆ」と書かれた大きな看板を掲げる銭湯がり、営業案内が張
られている。現役の正真正銘の銭湯らしく、屋号は小野小町が使った関
の清水に由来するという。



 歴史の感じられる切妻瓦葺平入り二階屋、入口屋根は銅板葺唐破風で、
これが建物を一際引き立てている。正面は越高まで小さなタイル張りで、
上にアルミサッシ窓が嵌めてある。銭湯は明治期から続いているらしい。

 大津市HPによると市内には現在も営業を続ける銭湯(一般公衆浴場)
が8軒あると言う。



 当地は、第二次世界大戦で二回に渡りアメリカ軍のB29による爆撃を
受けたらしい。大津陸軍少年飛行兵学校や、滋賀海軍航空隊基地があり、
ここが狙われ被害を受けたようだ。



 それでも、市内には戦火を逃れた地も有ったらしく、町中の趣のある
古い町屋も数多く残されてきた。激しい空襲を受けただけに、その数が
意外に多いことが驚きである。(続)



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大津事件(東海道歩き旅・近江の国)

2024-07-08 | Weblog


 「此附近露國皇太子遭難之地」
旧東海道沿い、中央二丁目交差点の角に、所謂「大津事件」の碑が立っ
ている。うっかりしていると、見過ごしてしまうほど目立たない石碑で
あるが、歴史教科書で習った記憶がある重大な事件発生場所を示す碑だ。



 事件は明治24(1891)年、大津を遊覧中のロシア皇太子ニコライに、
警備中の巡査・津田三蔵がサーベルで斬りつけて発生した。
 大国ロシアの次期皇帝となる人物に怪我を負わせ、同国から国際問題
として圧力のかかるのを恐れる明治政府は、津田三蔵を大逆罪で死刑に
するよう司法に迫った。



 問題は、政府と司法との抗争にまで発展したが、時の大審院長の児島
惟謙は、それを拒み刑法どおり無期徒刑とし、最後まで司法権の独立を
貫いた、と後に賞賛されることになった。

 背景は色々取り沙汰されているが、津田は裁判で「愛国の情、忍ぶこ
と能わざるに至りたるより、害を加え奉りしものなり」と述べたと伝え
られている。



 当時ロシアは全世界の6分の1の領土を有し、世界最強の陸軍を持ち、
更にシベリア鉄道の建設によりアジアへの進出をはかっていると見られ
ていた。こうした中、今回の来日では各地を探り、日本侵略の為の下調
だとの噂が流れ、日本にとって非常に大きな脅威となる国との認識が背
景には有ったと言われている。



 事件碑を過ぎると京町で、この辺りには、嘗ての旅籠を思わすような
連子格子の町屋が幾らか残されている。

 京町の西の外れが「札の辻」で、大津宿の中心的な場所である。
道路脇の片隅に、「大津市道路元標」がある。
ここは北国街道の追分けでもあり、東海道はこの辻を左に曲がる。(続)





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大津百町 三筋の通り(東海道歩き旅・近江の国)

2024-07-05 | Weblog
 大津市は、歴史的風土を守り、活かしながら、古都にふさわしい風格
あるまちづくりを進めるために、平成16(2004)年4月「古都大津の風
格ある景観をつくる基本計画」を策定した。
 市域を7つの景観地域と2つの景観軸に区分し、それぞれの景観づくり
の方針を定めた。(大津市HPより)



 比良山系などの「山地景観地域」、比叡山・坂本や、近江大津京跡、
園城寺、石山寺などの「古都緑地景観地域」、湖岸等から丘陵部にかけ
て広がる「田園集落景観地域」、大津の都心に位置づけられる浜大津か
ら膳所、副都心に位置づけられる堅田駅周辺、石山駅周辺、瀬田駅周辺
の「都心景観地域」などである。



 景観造りは、東海道で繋がる草津市とも連携し行われている。
施策の中心は、「東海道統一案内看板設置」で、既に大津市内の街道筋
にも20カ所近い場所に看板が掲げられている。草津市で見てきた物と同
じ物である。



 琵琶湖水運で栄えた湊町でもある大津宿は、実際には96町ではあるが、
「大津百町」と言わ、町の大きさが誇示されていた。
東西に長い町並は、東海道を初め、三本の大通り沿いに形成されている。

 この辺りには、嘗て繁栄を誇った往時の名残か、登録有形文化財に指定
された町屋が多く残されている。



 北に面して建つ平入町家、「小川家住宅主屋」もそのひとつだ。
大津祭巡行がある通り側には大きく窓を開ける、という特長を持っている。
近世の小規模町家を、近代風に改修した歴史をよく伝える住宅が評価され
ているらしい。



 「大津魚忠」は、呉服商の住居として建てられた物だが、現在は料亭を
営む町家だ。正面1階は格子、2階には虫籠窓を設け、深い軒を腕木と出
桁で受けている。軒高が高く、木割の細い繊細な構えは,明治後期の商家
の姿を良く留めていると言われている。(続)





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大津宿(東海道歩き旅・近江の国)

2024-07-03 | Weblog
 東海道は、何時しか大津宿の中心地に入ってきた。
東海道では53番目、中山道では69番目に当たる宿場町で、北国街道の追
分けでもある。



 京都から辿ればここまで三里、初めての宿である。
草津から三里半歩いた旅人は、ようやく長い旅の終わりが見え、訛り言
葉にも京を間近に感じる事が出来たであろう。



 町の数96町、家数3,650軒と言われるだけに、東海道筋でも最大級の
1,5万人に近い人口を抱えていて、男女比では女が200人ほど多かった。

 本陣が2軒、脇本陣は1軒、旅籠は71軒を数えたという。
同じ湊町として栄え、七里の渡しが控えた宮宿の248軒とは比べようも
無いが、可成りの規模の宿場であった。



 大津に稲作の弥生文化が伝わったのは、弥生時代前期中頃らしい。
古墳時代には、この辺りにも首長の大古墳が出現している。

 「大津の名は天智天皇の都より言い始め・・・」と言われるとおり、
7世紀の天智天皇の時代には、飛鳥の岡本の宮から近江大津宮(大津
京、大津宮或は志賀の都とも言う)に都が移され、これが大津の名の
初めとされている。



 しかし、大津宮跡の推定地は市内に幾つかあり、未だに明確には分か
っていないらしい。これまでは穴太(あのう)、滋賀里(しがさと)、
南志賀町廃寺跡(みなみしがちょうはいじあと)、粟津(あわず)など
が有力な候補地とされていた。



 しかし近年、南志賀の榿木原遺跡では瓦が大量に発見され、俄に注目
を集めたという。
 ところが、近江神宮西の「近江大津宮錦織遺跡〈国史跡・名勝〉」では、
昭和49(1974)年の発掘で、大規模な掘立柱建物跡の一部が発見された。
今日ではこちらが最有力地とされているが、まだ混沌としている。(続)





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大津・旧境川町(東海道歩き旅・近江の国)

2024-07-01 | Weblog


 松本の交差点からは、「旧琵琶湖文化会館」の城の様な建物が見える。
ただ、現在は休館中で、「新・琵琶湖文化館基本計画」により、装いも
新たに2027年度の開館を目指し準備中らしい。



 粟津の晴嵐から西の大津港ターミナルまで、約4.8kmに渡って続く細
長い公園「大津湖岸なぎさ公園」の西端に近い場所には、びわ湖ホール
などの文化施設や、ホテル、商業施設などが多く立地していて文化会館
もそのひとつだ。



 左側には「滋賀県庁舎本館」が見える。
鉄筋コンクリート4階建て、中央に塔屋が聳えるルネッサンス様式の建
物だ。総工費200万円をかけて昭和14(1939)年5月に竣工した建物で、
国の登録有形文化財の指定を受けている。



 「旧境川町」の案内板が建てられている。昔は東西に開けた宿内の東
の端に当たる場所で、吾妻川が流れ川を越えれば東国で、川の東を関東、
或は坂東とも呼んだ。
関東二十八州、関西三十八州と呼ばれた区切りの場所である。



 現在の大津市は滋賀県の県庁所在地である。
総世帯数は155,913世帯、人口は344,552人で、男女比では昔と変わらず
1.2万人ほど女性の方が多い。(令和5年1月1日現在 大津市HPより)
京阪神のベッドタウンとして発展を続けているという。



 大津は、古くから琵琶湖の物資が集散する湊町としても栄えていた。
宿内の琵琶湖に面した海岸寄りの通りには、諸侯の蔵屋敷が沢山見られ
たらしい。北越や近江の国中の産物や魚物などが舟で運ばれ、日毎に市
を成す賑わいであったという。
 又、京までは残り三里、大阪までが十四里と近いこともあり、こちら
とも頻りに交易が行なわれていたようだ。(続)




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蹴鞠の神社(東海道歩き旅・近江の国)

2024-06-28 | Weblog


 「義仲寺」を出ると東海道は打出浜に入り、その先で京阪線の踏切を
越えるが、石場駅がすぐ右手に見える。
その線路の手前辺りは、嘗ては琵琶湖の岸辺らしいが、すっかり埋め立
てられ琵琶湖は後退し、ここからは殆ど見ることは出来ない。



 「矢走村(矢橋村)江舟場、海上一里」
ここには渡船場が有り、船賃は一人十文という。
石場は「急がば廻れ」の語源となった矢橋との渡舟の大津側の湊である。
渡しの目印の常夜灯・遠見灯籠も残されていたらしく、今は琵琶湖文化
会館の庭園で保存されていると言う。



 線路を越えると道は二叉に分かれるが、東海道は左の道を石場に向け
て進み、その先の二つ目の二叉道は右に取る。

 この辺りは、「上り下り立場。料理茶屋多し」と言われた地で、琵琶
湖に面して、「湖上の景観は無類の壮観」と言われた、風光明媚な地で
あったらしいが、今狭い通りには、古い家並みが続いてはいるが、往時
の賑わいの面影は見られない。



 「松本の平野神社は、天智天皇7(668)年に鎮座、藤原鎌足公が創
建したと伝えられている古社である。

 京都西洞院滋野井に祀られた蹴鞠(けまり)の神、精大明神(蹴鞠の
守護神)を松本の狐谷に移し、後の天正2(1574)に現在地に遷座した
と言われている。(滋賀県神社庁HPより)」



 知らなかったが「ここは蹴鞠の神社として有名らしく、境内にはけま
り神社の社標や石とうろ、神前にまりをふまえた狛犬がある(滋賀県神
社庁HPより)」らしい。

 平成24(2012)に、ロンドン五輪サッカー女子決勝に挑む「なでしこ
ジャパン」が、蹴鞠祭り(八月九日の旧七夕蹴鞠奉納)で必勝祈願を願っ
たという。(続)





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