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簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

フェンスに囲まれた道(東海道五十七次歩き旅・摂津国)

2025-05-21 | Weblog


 正面に「くずはモール」を見て、手前で右折してガードを潜る。
行く手は淀川で、河川敷にはゴルフ場が広がり、プレーに訪れた人達の
ものか、沢山の車が駐められている。
 丁度樟葉駅の裏側に回り込んだようで、左手にホームが見えている。
ここからは京阪本線に沿って、ひたすらフェンスで囲われた堤防上の道
を歩く事になる。



 ところで、楠葉(樟葉)の「楠」も「樟」も、何れも「くすのき」の
事である。「くすのき」を広辞苑で調べると『【樟・楠】(クスは「臭
し」と同源か。
「楠は南国から渡来した木の意」クスノキ科の常緑喬木。』とある。



 町と「くすのき」には特別な関わりなさそうで、枚方市のシンボル木
は「柳」らしい。HPによると「柳は古来より淀川とともに発展してき
た枚方にふさわしい木で、また、非常に育ちやすい性質をもっているこ
とから、誰でもどこにでも植えられる木として広く親しまれています。
(中略)市制施行20周年を記念して市民公募」で決めたとある。



 対岸は高槻市らしく、山の裾野に張り付くように建つ住宅や、高層ビ
ルが望まれる。フェンスに囲まれた道は、建物や街路樹がないので両側
は良く開けている。が日陰が一切なくこの時期の厳しい日差しは堪える
が、風はよく通るので有り難い。



 樟葉駅の手前で京阪本線の線路を潜り、堤防に出てフェンスに囲まれ
た道を歩いて来た。周辺には、住宅や商店も無いだけに、途中人と行き
違うこともなかった。



 散歩やウオーキングなら、河川敷の方が断然気持ちが良い。
こんな処を歩く者はそうそういないようで、したがって木陰を造る街路
樹も不要らしい。そんな木陰の無い道を、1.3㎞ほど歩いている。(続)

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「樟」と「楠」 (東海道五十七次歩き旅・摂津国)

2025-05-19 | Weblog


 「くずは」は、大阪市北端の枚方市に位置する、京阪樟葉駅周辺の地
域の呼称だ。当地は「楠葉」や「樟葉」、「くずは」と表記されている。
調べると町名は「楠葉」、京阪本線の駅名には「樟葉」が使われている。



 警察署や交番、消防署、郵便局、公園等は「楠葉」で、小学校は「北
小」「西小」「南小」共に「樟葉」と表記するが、中学校になると「楠葉
西中」となる。中にはどっち付かずのひらがな表記もあり、駅前の商業
施設は「くずはモール」、大規模開発された住宅団地は、「くずはローズ
タウン」、関西医科大学は「くずは病院」と言い、ゴルフ場も「くずはゴ
ルフリンクス」だ。



 この「くずは」は、古事記や日本書紀にも出てくる程古く、由緒ある
ものらしい。内乱に纏わる伝承があり、敗れた反乱軍の兵士が、恐怖の
余り褌が糞まみれになった事を意味する「糞褌(くそはかま))に由来し、
こう呼ばれるようになった。その後それが訛って「久須婆(くずは)」と
なり、「葛葉」や「樟葉」の字が当てられた。



 明治22(1888)年、当時の楠葉村と舟橋村が合併し「樟葉村」が誕
生した。両村が協議の結果村名は、継体天皇の「樟葉宮」に因んで「樟
葉」を採用する事で折り合いが付き、その後50年間継承されてきた。



 昭和13(1938)年、「樟葉村」が枚方市に吸収合併されると、多く
の表記は「楠葉」に戻されたが、一部「樟葉村」時代に作られた施設
は、名がそのまま残ったという。



 元々が「糞褌」に纏わる、忌み言葉のような地名なだけに、合併を
機に全面的な変更も考えられたらしいが、歴史有る地名は誇りを持っ
て引き継がれることとなった。(続)

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楠葉の町へ(東海道五十七次歩き旅・摂津国)

2025-05-16 | Weblog
 枚方市の最北端、京都府八幡市の男山丘陵と淀川に挟まれたこの平地
部は、嘗ては田んぼばかりの地であったらしい。
 男山の多くが住宅団地として開発され、周辺地域が市街化区域へ編入
されたのに合わせて、当地で土地区画整理事業が実施された。幹線道路
が通され、この楠葉台場跡もその一環として史跡公園として整備された。



 京都大阪の中間に位置しベッドタウンとして、京阪本線の沿線にあり、
地域の交通利便性の向上と、歴史を活かした魅力ある市街地の形成を図
ろうとする計画で、平成30(2018)年9月に竣工した。
その記念の石碑が道脇に建てられている。



 一般に旧道は、その後の宅地開発や道路の造成・拡幅・改修、川に沿
う道なら河道の変遷などで失われたところも多い。それらの場所は近似
的に近代の道を辿っているので、旧道歩きは必ずしも正確に旧道を辿っ
ているわけでもない。



 その辺りはガイド本や旅行記などを見ても微妙な相違があり、全てが
一致したルートとなっていない場合もある。
 楠葉の久親恩寺辺りで右に折れ、京阪の線路沿いの道を進むが、これ
も本来の旧道ではなさそうだ。左手は大阪市水道局の楠葉取水場の敷地
が拡がっていて、その先で旧道は楠葉の町の住宅地へと入っていく。



 「光明院」や「長福寺」等があったが、東海道五十七次を辿る道は、
現地の道路標識が乏しく、不安を持ちながら歩いて来た。それでも所々
に「京街道」と刻まれた新しい石の道標などを見付けるとホッとする。



 左手の建長寺を過ぎる辺りから、沿道の住宅街では商業施設が目立つ
ようになる。町中に人の姿も多く見られ、若干賑やかになってきた。
楠葉の中心部に入ってきたようだ。(続)



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楠葉台場跡(東海道五十七次歩き旅・摂津国)

2025-05-14 | Weblog


 府道の京都守口線を300m程行くと、左側に広大な緑地があり、
隅に「楠葉台場跡(くずはだいばあと)」の案内板が立っていた。
国指定史跡で、跡地を樟葉台場史跡跡公園として整備した場所だ。 



 台場とは江戸幕府が築造した大砲を備えた要塞のこと。
説明によると、幕末期「開国を求める異国船が突如、大阪湾に現われた
ことから、大阪湾に近い京都(朝廷)の警備強化の一環で、淀川を遡ろ
うとする異国船からの防備」のため築かれたと言う。



 場所は八幡市の男山の西に位置し、西側には淀川が流れている。
当時の敷地は現代の公園から西にも拡がり、府道や京阪の軌道敷を越え、
淀川の岸辺までをしめていた。「水堀を備えた西洋の築城方式である稜
堡式(りょうほしき)砲台が採用され、面積は約3万8千平方メートルで
あり、火薬庫の他大砲3門を河口方向の南に向けて備え、舟番所も設け
られた。」



 幕末期には欧米列強の外国船への備えから、幕府は多くの海岸に台場
を造った。有名なところでは、「品川台場」があり、今日では通称「お
台場」として知られている。
 楠葉の台場は海辺ではなく河岸に造られているが、これは一対の備え
として造られた。対岸の高浜台場(大阪府島本町)とここの二カ所のみ
で大層珍しいという。



 砲台の築造によりこれまで淀川河岸を通っていた京街道は、台場の中
を通るように付け替えられ番所が設けられた。このことから、尊皇攘夷
派の浪士らが京の京に入り込まないよう取り締まる目的も有ったと言わ
れている。



 その割には北側の備えは脆弱で、鳥羽伏見の戦いでは淀川左岸を進軍
して来た新政府軍に占領されている。(続)

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摂津の国へ(東海道五十七次歩き旅・摂津国)

2025-05-12 | Weblog


 売春防止法の施行(昭和32年4月1日、公布は前年の5月24日)に
より、翌年赤線が廃止と成り嘗ての花街から賑わいの火が消えた。
多くの娼妓や芸妓を抱えた八幡市橋本中ノ町の「橋本遊廓街」が最盛
期の頃は、京阪線の橋本駅は夜が更けるほどに乗客が増え、終電とも
なると大層な混雑を見せたと言われている。



 旧遊廓の町並を後に、小金川の町を抜け府道の手前で左に折れ、京阪
線の線路を越える。左奥が橋本駅で、かつて駅前には百人以上収容でき
る歌舞練場があったらしいが、廃止後は老朽が進み、近年駅前の再開発
で解体し取り壊されたという。



 広々とした道が右に大きくカーブすると左手に「八幡市橋本公民館」
が建っている。八幡は京都・大阪圏のベッドタウンとして、昭和40年代
後半の男山団地開発に引き続き、橋本地区でも大規模な住宅団地の開発
が行なわれ、人口の急激な増加をみたという。
その為昭和50年代半ばに建てられた施設らしく、地区民の活動の場だけ
には留まらず、市の支庁の役割も担っているようだ。



 駅前からこの辺りにかけては、再開発区域なのか工事中の箇所や空き
地が目立ち、その間を広々とした新しい道が通っている。
道が右にカーブすると橋本駅南の府道交差点で、その手前辺りで東海道
五十七次は、山城国から街道最後の摂津国、現在で言うところの大阪府
枚方市へと入ってきた。



 とは言え、残念ながら旧道は途絶え、真新しい新道がその面影をすっ
かり消している。スーパーの前を左にカーブすると右側は京阪の線路と
淀川の堤防で、鋪装されガードレールに守られた安全な道が延びている。(続)

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宇野 港と海の復権(玉野市電廃線跡を歩く)

2025-05-09 | Weblog


 近年「海の復権」をテーマに、三年に一度、瀬戸内海の2つの港と12
の島を会場に、現代アートの祭典「瀬戸内国際芸術祭」が開かれている。

 今日ではテレビや雑誌等でも取り上げられ、広く海外にも知られるよ
うになり、期間中のみならず、会期後も会場となった島などに多くの観
光客が訪れる様になった。



 港会場は宇野港と高松港周辺で、12の島というのは直島、 豊島、女
木島、男木島、小豆島、大島、犬島と、春のみ開催の沙弥島、秋のみ開
催の本島、高見島、粟島、伊吹島である。
何れも岡山と香川の沖合、瀬戸内海に浮ぶ小島で、宇野港とはフェリー
で結ばれている。



 「美しい自然と人間が交錯し、交響してきた瀬戸内の島々に活力を取
り戻し、瀬戸内が地球上のすべての地域の「希望の海」となることを目
指しています。(公式HP)」

 一時寂れた宇野の町にも、カジュアルなカフェやゲストハウスが建ち、
町中でも芸術作品が身近に見られるようになり、宇野駅にも外国語の案
内が用意されるように成った。



 多くの訪問客は、大きなトランクを下げ、岡山から宇野線に乗ってや
って来る。ところが瀬戸大橋線の開通で、同線の茶屋町~宇野間は、完
全なローカル線と化し、直通する電車は少ない。多くは茶屋町で、同じ
ホームとは言え乗り換えとなる。
 終点の宇野駅で改札を出れば、フェリー乗り場までは国道を越えて凡
そ500m程を歩くことになる。



 芸術祭の開催は、鉄道とフェリーを再び活気付けつつあるようだ。
地元の商店街にも足を運んで欲しいものだが、客は大きなトランクを引
きずって町歩きなどはせず、フェリー乗り場に直行する。
 
 荷物の移送サービスでもあれば、訪れる人々も身軽な町歩が楽しめ、
商店街にも活気が戻るのではないか、とその姿を見ては思う。



 フェリーの減便で苦境の船会社等が、こんなサービスを始めれば良い
のにと何時も思う。そしてJRも、宇野線の岡山からの直通運転を今一
度見直してほしい。

 宇野復権に向け官民一体で、まだまだやれることはあるのではないか、
こんなことを廃線を歩きながら考え、願っていた。(玉野市電廃線跡を歩く・完)

 来週から「東海道五十七あるき旅・摂津国」編が始まります。
東海道歩きもいよいよ大詰め、上がりの大阪・高麗橋を目指します。




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瀬戸大橋の影響(玉野市電廃線跡を歩く)

2025-05-07 | Weblog


 JR宇野線、宇高航路、宇野の町までを疲弊した姿に変えてしまった
瀬戸大橋は、昭和63(1988)年4月10日に華々しく開通して以来、35
年以上が経過した。
 上部は瀬戸中央自動車道が、下部には本四備讃線(愛称:瀬戸大橋線)
が走り、将来は新幹線の敷設を見据えた橋だ。



 フェリーが1時間掛けていた海峡部は、新たに運行を始めたJR四国
の快速マリンライナーなら僅か数分を要するだけだ。
岡山と高松間は1時間余りに短縮された。

 嘗て岡山市内から旭川を下っていた時代は、数時間を要していた。
その後の国鉄宇野線と宇高連絡船の開通で所要時間が半減された。
橋の開通はそれ以来の大革新となっていた。



 橋が開通した初年度、鉄道利用者は連絡船時代の同期比で凡そ2.8倍
に急増し、本州から四国へ渡る人々の流れを大きく変えてしまった。
 岡山と香川は完全に通勤・通学圏に入り、瀬戸内経済圏の相互の結び
つきは強まり、両地域はじわじわと変容の波にさらされる事になる。



 「夢の架け橋」と持て囃された橋ではあるが、当初高速道路の通行料
金は馬鹿高く、常軌を逸した設定との批判が殺到し、長期に渡って利用
が低迷した。
 長距離を走るトラック等は、乗船中の1時間は休憩が出来、料金も安
いとしてフェリーを使い続け、橋を渡る高速を避けていた。



 ところがその後は料金が段階的に引き下げられ、いまでは開業当初の
1/3程度になると、流石にフェリーでは太刀打ちできず、利用者はジ
リ貧状態となりで、衰退の道を辿ることになる。

 ただ大橋は風には弱く、通行止めになる事もあり、それの代替として
の機能は残されたものの、これだけでは経営基盤は安定しなかった。(続)





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宇野港界隈(玉野市電廃線跡を歩く)

2025-05-05 | Weblog
 玉野市電廃線跡を歩き終え、「すこやかセンター」に立ち寄り、そこ
から地域循環シーバス(運賃一律100円)に乗り、宇野駅前の一つ手前、
旭橋通り停留所で降り、宇野港近くまで戻ってきた。



 この辺りには昔四国に渡る折、フェリー待ちで何度も訪れている。
当時は雑然とした町並で、その印象が残っていたが、今では大型の商
業施設が立地し、海岸には小公園が造られ小綺麗な町並で、往時とは
随分と変わってしまっている。

 嘗て連絡船とフェリーが華やかなりし頃、専用駐車場に入りきらな
い乗船待ちの乗用車やトラックが、道路まで溢れかえっていた時代が
有った。



 掛けっぱなしのエンジン音で辺りは騒然とし、手持ち無沙汰の貨物輸
送のドライバーは顔見知りも多いのか、彼方此方で、固まり談笑する姿
が見られたものだ。
 手に手にタバコだから、辺りには紫煙が滞留し、今では考えられない
風景が展開していた。



 国道30号線(97.4㎞)は、岡山市の大供交差点と高松市の中新町交差
点を結んでいる。その内岡山県の宇野と香川県の高松の間、瀬戸内海を
渡る海上分21㎞は、宇高航路が車輌の運搬を担っていた。

 車輌の運搬には、四国フェリー、本四フェリー、宇高国道フェリーの
民間三社が参入し、熾烈な競争をしながらも、押し寄せる車を終夜運行
で捌いていた。



 一方JR宇野線からの乗換え客を、一手に引き受けていたのが国鉄の
宇高連絡船である。

 こうしてこの港には人や車が集まり、この辺りの個人商店も、国道を
隔てた築港商店街(築港銀座)等も、その恩恵を一手に引き受けていた。



 そんな繁栄を一変させたのが、瀬戸大橋の開通で、人や物の流れを完
全に変えてしまった。フェリーの便数は日ごとに激減し、乗り場と広大
な駐車場は無用の長物となり、今では縮小、或は閉鎖された。
こうして何時しか商店街からも人が消えていった。(続)





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玉野市電の岡山延伸計画(玉野市電廃線跡を歩く)

2025-05-02 | Weblog


 玉野市電は、岡山方面への延長案も考えていたらしい。
宇野を出て広潟、田井、十禅寺、大藪、後閑と辿り、この先進路を児島
半島に取る。福浦、波知、八浜、見石、碁石、松尾、甲浦からは児島湖
の締め切り堤防の上を通り、岡山港、藤田、福田、青江、奥田を経て岡
山に到る全長22.2㎞の路線である。



 地図を見ると良く分かるが、当時の宇野線は干拓される前の児島湾の
海岸線をなぞるように、妹尾と八浜の間は「逆コの字」型に大きな弧を
描くように線路が敷かれている。
 玉野市電の岡山延伸計画は、児島半島経由で、児島湾の締め切り堤防
上を真っ直ぐ北上しょうとする直線的なもので、宇野線よりも大幅な時
間短縮が期待されていた。



 一方、玉野市電が開通する少し前に、岡山市内には岡山臨港鉄道が、
大元から岡山港間で開通(昭和26年~昭和59年)している。
同鉄道も将来的には延伸し、児島湾の締め切り堤防上に線路を通す構
想を持っていた。

 玉野市電の計画は、岡山市内を走る岡山港から先は、この臨港鉄道の
ルートとほぼ重複する。相互乗り入れを考えていたのかも知れないが、
残念ながら何れの案も実現には到らなかった。



 「すこやかセンター」には、玉野市電で活躍したモハ103号機が静態
保存されている。説明書きによると鉄道の開通から19年間、宇高連絡
線の玄関口宇野駅と三井造船の事業所がある玉地区を結んで走ってい
た車輌という。



 鉄道の廃線に伴い昭和40(1965)年、瀬戸内海を渡り香川県の高松
琴平電鉄に譲渡され、同社のエンブレムを付けた760号機となった。
 琴電でも役目を全うした車輌は、その後の平成18(2006)年に、玉
野市の有志市民によって里帰りが実現、終の棲家としてこの地に安息の
場を得たという。(続)





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すこやかセンター(玉野市電廃線跡を歩く)

2025-04-30 | Weblog
 玉野市電には終着駅・玉遊園地前から先更なる延伸計画、渋川方面へ
の案があった。この先奥玉、志池(玉原)、和田、日比小学校前、日比、
波峠、日比製錬所前に各駅を設け、渋川海岸に到るルートだ。
全長11.6㎞を、凡そ25分で結ぼうと言う計画である。



 沿線には造船と並んで玉野市の有力な企業である、明治26(1893)
年創業の日比製錬所(現在の日比製煉株式会社)が有り、終点の渋川
には県下有数な渋川海水浴場が有る。
 この瀬戸内海に沿った地域は当時から国鉄の空白地帯で、将来的に
は下津井を経て、倉敷に近い水島方面までの延長が考えられていた。



 終着駅の名前の由来となった北山児童遊園地を後に50m程進むと県道
とは別れ奥玉地区に向かう広々とした道が分岐している。
 歩道付きの道路の両側は新開地のようで、商業施設や工場や事業者を
見ることは無いが、整然と区画された地に住宅が建て込んでいる。



 延伸計画は頓挫したが、もしかしたら市電はこのあたりを通っていた
のかもしれない。
そんな道を200m程進むと、左側に煉瓦色の大きな建物が見えてくる。
これは正式名称を「総合保健福祉センター」と言う施設だが、「すこや
かセンター」が通り名になっている。



 センターには、地域循環バスである「シーバス」が乗り入れていて、
玄関前に停留所が有り、運賃一律100円で誰でも利用することが出来る。
しかし本数は極めて少ないので、利用のさいは事前に調べることをお勧
めする。



 このセンターの南側にある駐車場の片隅に、屋根付きの建屋が建あり、
その下に玉野市電の車輌が1両静態保存されているという。

 廃線跡歩きは終わったが、折角なので、終着駅・玉遊園地前から、少
し足を延ばし、それを見にここまでやってきた。(続)





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