簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

ドラマ放映の嘆願(JR乗り潰し・伯備線)

2016-10-31 | Weblog


 伯備線の「方谷駅」は、眼前を高梁川が流れる山間の地にひっそりと佇む
秘境駅である。
昭和3年に開業した駅舎は、国の登録有形文化財の指定を受けている。
こんな駅の一面二線島式のホームは、駅舎からは離れた少し小高いところ
にあり、ここでは特急やくもなどの行き違いが行われたりする。





 駅の前には松山藩の財政立て直しに貢献した「山田方谷先生旧宅 長瀬
塾跡」の石碑が建てられている。
この駅用地の半分ほどはかつて方谷の居宅が有ったところで、当地には長
岡藩の河井継之助も教えを請いに訪れたと言う。
また政治から手を引いた晩年にはここに6棟からなる舎を構え、私塾・長瀬
塾を開いている。





 そんな「山田方谷」の功績を広く知ってもらおうと、地元では「雲中の飛龍
山田方谷」をNHK大河ドラマで放映を・・・と願う署名活動を行っていた。
方谷は備中高梁に生まれた政治家・漢学者・陽明学者で、彼の成した改革
の理念が、混迷する現代社会のヒントになるとの趣旨で、この幕末の偉人
を全国区にしようとの運動だ。



 運動を進める委員会は2012年の10月に設立され、2015年の放映を目指
して署名活動を行い50万人以上の署名を集めたが、残念ながら放映には
至らなかった。会は更に100万人を目指し今も署名活動を継続している。



 NHKで大河ドラマとして、一年間にわたって全国放映される影響を思えば、
それが魔力であってもその魅力は捨てがた。
たとえ一過性でブームは去ろうとも、この機会に町おこしを・・・と誘致を働き
かける自治体は少なくはなさそうだ。(続)

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山田方谷(JR乗り潰し・伯備線)

2016-10-28 | Weblog


 今から210年余前、方谷駅の有るこの村の貧しい農家で一人の男子が生
まれた。幼名は球、通称を安五郎と言う。



 幼いころから神童と呼ばれ、5歳になると親元を離れ新見藩の儒学塾で学
ぶようになる。
20歳になり士分に取り立てられ藩主から奨学金を賜り、それを機に京都や
江戸に出て朱子学や陽明学を学び、30歳を過ぎた頃には藩校有終館の学
頭になる。
その後45歳の時に藩主から、今で言う財政責任者に取り立てられ、藩財政
の立て直しを任されることとなった。



 当時藩には大阪などの商人から、合わせて10万両の借金が有った。
立て直しを任された方谷は、当然その返済のため節約を強く求めた。
と同時に、文武を奨励し、産業の振興にも努め、新たに鉱山を開発し、この
地からとれる砂鉄などを原料に農具(備中鍬)や釘を作った。



 山には杉、竹、漆を植え、畑ではお茶や葉タバコを栽培、さらに藩民の屋
敷などでは柚や柿を植えさせ、そこから得られる産物は高梁川を高瀬舟で
下り、玉島から藩船に積み替え、直接江戸などに運び売り捌いた。
結果約7年で借金を完済、逆に10万両を蓄えるまでに立て直した。



 今日これらの藩政改革は、かの上杉鷹山をも凌ぐと評価されている。
その人こそ、幕末期から明治維新にかけて活躍した政治家・漢学者・陽明
学者の「山田方谷」である。
方谷は農民の出でありながら藩政にも関わり、後には明治新政府からも再
三出仕を要請されるほどであったが一民間教育者として天寿を全うする道
を選んだと言う。



 ちなみに今日この付近では柚餅子や柚菓子は、代表的なお土産としても
てはやされている。(続)
(写真:本文とは無関係 備中高梁市内各所)

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登録有形文化財の駅(JR乗り潰し・伯備線)

2016-10-26 | Weblog

 伯備線は大正8(1919)年8月に鳥取県側から開業が始まり、全通したの
はその10年近くも後の昭和3(1928)年10月のことである。
備中松山藩の藩政時代、藩財政立て直しの立役者「山田方谷」に因んだ駅
名が付く「方谷駅」は、その全通時に作られた。



 高梁川が目の前を流れている。
川と並行する国道180号線からは、駅に向けて心細い橋が川を跨ぎ向かっ
ている。その駅前には僅かばかりの広場があり、何軒かの民家が建ってい
るが、周りに集落があるわけでもない。
こんな地にひっそりと建つ「方谷駅」には、秘境の趣がある。



 秘境駅のランキングによると、この駅は197位となっている。
国道から川を渡り進入する取り付け道路が有ること、駅前に僅かながらも
民家があること、停車する普通列車も1~2時間に1本程度は確保されてい
ること、などが順位を下げているようだ。



 しかしそれ以上に、この駅の価値は認められている。
この比較的小振りな作りの駅舎は、木造平屋建て、切妻の屋根には、セメ
ント瓦が葺かれていて、外壁は下見板張り正面には車寄せが迫り出し、駅
舎への出入り口になっている。



 その柱は木ではなく特徴的な凝った意匠の造りで、左官の技量による洗
い出しと言う技法によるものらしい。
下部が少し太くなっているので、どっしりとした安定感を見せている。



 中に入れば少し出張った出札窓口が有り、改札を抜ければ壁には、旧国
鉄時代の仕様で造られた駅名標もかけられている。
田舎の古里を思い起こす、なんとも懐かしささえ感じるこの駅は、平成23年
に国の登録有形文化財に指定された。(続)



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新駅の誕生(JR乗り潰し・伯備線)

2016-10-24 | Weblog
 鉄道とそれに並行する国道180号線は、背後に山が迫る厳しい地勢の地
を行くだけにその車窓の眺めは素晴らしい。
両側に聳え立つ山々は、四季折々違った顔を見せてくれる。



 列車は蛇行して流れる川を所々橋梁で跨ぐので、車窓は刻々と右に左に
変化を繰り返す。
冬枯れから新緑が芽吹き、やがて緑に揺れ、更に紅葉し葉を落とし、時に
微かな雪化粧など移ろいを高梁川の流れに写す。
そんな野趣に富んだ風景は、まるで額縁に切り取られた一枚の水彩画を見
るように美しい。





 伯備線は「備中の小京都」、備中高梁を出ると備中松山城の建つ臥牛山
の麓を巻くように高梁川に沿って行く。
次の停車駅、木野山は備中高梁駅と同時期に伯備南線の駅として開業し
た歴史の古い駅である。



 更にその先は備中川面、方谷と停車を重ねながら北上する。
伯備線は伯備南線と伯備北線として営業を始め、それが一つに繋がり全通
したのは昭和3(1928)年のことだそうだ。
備中川面はここから新見を経て足立までの全線が開通するまでの、いわば
南線当時の終着駅である。
その後の全線開通に合わせ、備中川面駅から遅れること一年で設けられた
のがその先の方谷駅だ。



 藩政時代の備中松山藩領西方村、現在の高梁市中井町西方に開業した
国鉄の新しい「方谷」駅は、誕生の経緯がちょっと珍しい。
普通駅名は、その所在地の地名があてがわれることの多い中、地元のたっ
ての要望で地名ではない駅名となったのだ。(続)





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うたかたの夢(JR乗り潰し・伯備線)

2016-10-21 | Weblog
 「あの頃はよかった」「これなんか、飛ぶように売れた」「終わった途端、
潮が引くように人が来なくなって・・・」
色々な所を巡っていると、時々こんな商店主などの言葉を耳にする。



 ある時期から突然観光客が増え始め、あれよ、あれよと思う間もなく人が
溢れ、地域は盛り上がり、まるでフィーバー状態に陥るも、これが長続きす
ることもなく、喧噪の想い出だけを残し、やがて人々は去って行き、気が付
けば地元は元の鞘に収まっている。



 日曜日の夜8時、NHKの大河ドラマの舞台ゆかりの地での話である。
ドラマの放映が始まると、それを演じる役者さんそっちのけで、こうした縁の
地やロケが行われた場所が盛り上がり、俄か観光地として脚光を浴びる。



 人々はそんな話題に乗っかれと、行列や雑踏のような人出も厭わない老
若男女が連れだって観光バスやマイカーで乗り付け大挙して押し掛ける。



 しかし、人の気持ちは移ろいやすく冷めやすい。
放映が終わり年が明け新なシリーズが始まり、一年が過ぎやがて二年も経
てば・・・早目移りがしてそんな地には見向きもしない。
かくして地元は、冒頭の嘆きと、落胆のため息となる。



 一躍脚光を浴び俄かに賑わった観光地も、放映が終わると当たり前のよ
うに潮が引く。元々に知名度のある観光地ならば、以前の状態を取り戻す
だけに過ぎないが、俄か仕込みの付け焼刃では虚しさだけの文字通り一
過性に終わってしまう。
全国のゆかりの地には、そういう事例は残念ながら数多くあるようだ。(続)


(写真:本文とは無関係    備中松山城の写真は今回で終わり)



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大河ドラマ「真田丸」(JR乗り潰し・伯備線)

2016-10-19 | Weblog
 今年放映のNHKの大河ドラマ「真田丸」では、番組冒頭の字幕の背景に、
伯備線沿線の備中高梁にある備中松山城が採用されている。



 主人公の真田家とはゆかりのある城ではないが、臥牛山と呼ばれる厳し
い山上に建つ山城が、山深い信州の真田の城のイメージに重なるからとの
理由で採用されたと聞く。



 映像はドローンで撮影されていたが、一見すると備中松山城らしくは見え
なかった。大手門跡あたりの城壁の白壁はCGで汚され、天守台に向かう
石段にはこれもCGで滝が表現されている。
おそらく後半部分の映像はどこかほかの場所だろう。



 それでもなぜか放映が始まると、随分と話題にもなっていた。
この事が実際の観光客増に結び付いたのかどうかは知らないが、少なくと
もネット上では間違いなくその知名度を上げたようだ。



 日曜日夜8時の大河ドラマがトリガーとなり、縁の地に観光客を引き寄せ
ている。
一時ほどの勢いは失せたとは言え、腐っても鯛(失礼!)、良くも悪くもこの
ドラマの視聴率は話題を呼び、テーマとなった舞台の地やロケが行われた
場所が注目を集める。



 何時もの事ながら次作の放映内容が明らかになると、関連する地元もこ
れを機にと観光客増を期待し、受け入れ態勢の整備に力を籠める。
自治体や鉄道・運輸会社、旅行会社などがしきりにツアーを組む。
綺麗処を仕立て宣伝キャラバンを各地に派遣し、アピールに熱を入れる。



 現地では案内板や誘導標識を立て、駐車場を整備し、店舗や休憩所を充
実させ、ボランティアガイドを養成する。
アピールする幟旗があちこちに立てられ、歓迎のサインやポスターが貼られ、
名を冠したお土産の開発も慌ただしくなる。(続)

(備中松山城の写真は次号にも続く)



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備中松山城(JR乗り潰し・伯備線)

2016-10-17 | Weblog
 備中高梁は、備中国を治めさらに備前国や山陰の諸国に睨みを利かす
上で重要な意味を持っていた。そんな背景もあり、その町の北端に聳え立
つ山の頂には、古くは砦が、中世では山城が築かれていた。



 その後関ヶ原の合戦を経て、毛利氏が撤退した後、小堀遠州や水谷勝宗
によりほぼ今の姿になった。
これが地元の市民から「おしろやま」の愛称で呼び親しまれている標高480
mの臥牛山と、その頂付近に建つ備中松山城である。



 ふいご峠(8合目)からは、鬱蒼とした木立の中に凡そ700メートルの登城
坂が延びている。巨大な山壁が切立つ山中に延びる坂道は、勾配もきつく、
地道や石ころ道、不揃いの石段など、難攻不落の名城らしく中々に厳しいも
のが有るが、ユーモラスな登城心得の立て看板や、音声案内など、よく整備
されているので迷うことも無く楽しみながら登ることが出来る。



 標高430メートルの山上の僅かばかりの平地に、自然石と人工石を巧みに
取り入れて組み上げた石垣群が有り、見事な要塞をかたち作っている。
その上に建つ二層二階の天守は、日本各地に現存する12の天守の中では
最も小さいものだ。
その天守と櫓の、白い漆喰塗壁と、黒い腰板のコントラストがとても美しい。



 ここは現存する天守を持つ山城としては国内で最も高いところにあり、日
本三大山城の一つに数えられている。
現在、「備中松山城」の城跡は国の史跡、江戸時代に建造された「天守」や
「二重櫓」「三の平櫓東土塀」等は国の重要文化財に指定されている。(続)




(備中松山城の写真 次号に続く)

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備中の小京都(JR乗り潰し・伯備線)

2016-10-14 | Weblog
 「備中高梁」の駅西口から1キロほど離れた市街地に、高梁川に流れ込
む紺屋川が有る。
かつてはお城の外堀の役割を果たしていた川は、今では河畔の桜や柳が
美しい町の観光名所の一つとして再備されている。



 川を挟む通りには、岡山県の文化財に指定されている、「高梁キリスト教
会堂」が有る。明治22年に建てられた擬洋風建築で、切妻屋根を持つ木造
平屋建ての県下最古の教会堂である。
屋根の上の特徴的な鐘楼は、昭和になって付け加えられたものだと言う。



 その前には「有終館跡」が有る。
江戸時代に松山藩により開設された学問所で、明治4年に廃校になるまで
多くの人材を育ててきた。そんな一人が後にここの筆頭教授に任じられ、更
に藩政改革の立役者となる山田方谷その人である。



 通りやその周辺には、平入りの白壁造り、二階には虫籠窓や格子窓を構
えた江戸から昭和初期にかけて建てられた町屋などが有り見どころの一つ
になっている。



 頼久寺近くの石火矢町は、藩政時代の武家屋敷が今も残る通りで、電柱
のない町並みは懐かしい日本の原風景を見るようで県のふるさと村の指定
を受けている。



 余り広くない路地の両側には白壁の長屋門や黒瓦を乗せた土塀が続き、
当時の格式ある門構えを今に伝えている。
そんな屋敷の一つ「旧折井家」は公開されている。

 町中には「県庁の星」、「バッテリー」や「男はつらいよ」など映画やテレビ
のロケ地もたくさんあり、そんな場所もゆっくりと見て回りたい町である。(続)



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山裾の寺町(JR乗り潰し・伯備線)

2016-10-12 | Weblog


 備中高梁は昔から山陰と山陽を結ぶ街道や、高瀬舟で瀬戸内とを結ぶ
水運など、水陸交通の要地であったため、古くから戦略の重要拠点として
注目されていた。
即ちこの地を押さえることは、備中国を治め、さらに備前国や山陰の諸国
に睨みを利かす上で重要な意味を持っていた。
そのための城が備中松山城である。



 江戸時代に入って武家諸法度により城の新築が禁止され、修理にさえま
まならない時代に移築建立された「東向山・松連寺」は、城壁のような石垣
の上に築かれている。



 そんな石垣続きで隣に建つのが「瑠璃山・薬師如来院泰立寺」である。
何れも石垣を何重にも重ねた上に伽藍を構えているが、それらの白壁に狭
間でもあろうものなら威容は城そのもので、これはまぎれもなく背後の山頂
に聳え立つ備中松山城を守る砦だ。

これら重厚な構えの寺院群を見ていると、この地をいかに重要と考えていた
のか、国人の思いが伝わってくるようだ。



 ここは駅の東側の山裾に当たり、丁度このあたりから北が寺町と言われ
る地域である。寿覚院、巨福寺などが建ち並び、その先が頼久寺である。



 頼久寺は臨済宗のお寺で、国の名勝に指定されている庭園が良く知られ
ている。背後の愛宕山を借景とし、植え込みと石組みで島を置き、鶴亀を据
え、それを取り巻くように大海原をサツキの大刈込で表現する豪華で大胆な
構図の枯山水の庭である。



 これは「鶴亀の庭園」と呼ばれる小堀遠州によって作られた江戸時代初期
のものとして、我が国を代表する庭園との評価が高い。(続)

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備中高梁(JR乗り潰し・伯備線)

2016-10-10 | Weblog
 中国山地にその源を発し、吉備高原を悠然と下り、瀬戸内海に流れ込む、
県下三大河川の一つ高梁川の中流域に発達した町が「備中高梁」である。



 そこは山々に囲まれた小さな盆地で、町の中央を清流がゆっくりと流れ、
藩政時代の面影を色濃く残す町並みが残り、情緒ある風情から「備中の小
京都」とも言われている。



 その「備中高梁」は、「備中広瀬」を過ぎ再び上下線が分かれ、その先で
トンネルを抜ければ駅である。
ここは伯備線の中でも主要な駅の一つとし、陰陽連絡の「特急・やくも」も
「寝台特急・サンライズ出雲」も停車する。



 伯備線の倉敷とここ備中高梁の間は複線化されている。
工事は昭和に入り少しずつ進められ、倉敷から高梁までの間が複線化され
るのは昭和50年代も半ばのことであった。
複線化を難しくしていたのはその地勢であろう。



 深く削り込まれた高梁川の流れに沿って、厳しい山が迫り、その山裾を切
り開いたようなところに線路を通している。
複線化するには更に切り開くか、トンネルかの選択であろうが近代の鉄道工
事では容易にトンネルを掘り進めることが出来る。
そのため伯備線の複線区間では所々でトンネルが掘られ、そのため上下線
が分かれているようだ。



 列車が「備中高梁」駅に近づくころ、車窓右手の山裾に、何やら立派なお
城のような石垣の上に建つお寺が見えてくる。
それは備中松山城の砦として築かれた「東向山・松連寺」と「瑠璃山・薬師
如来院泰立寺」の伽藍で、駅を東口に降りれば、徒歩で300mほどのところ
にある。(続)





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