簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

見付宿 (東海道歩き旅・遠江の国)

2020-10-30 | Weblog
 見付宿に入る前の行人坂の辺りに、「遠州鈴ヶ森」と言われる刑場跡
があったようだが、うっかり見落とし、通り過ぎてしまった。
稀代の盗賊、白浪五人男の首領、日本左衛門(本名、浜島庄兵衛)が処
刑されたのがこの場所らしい。



 彼らは遠江の国を本拠として、街道筋を荒らし回った窃盗団で、手配
された後、逃げ切れないと知り奉行所に自首した後、市中を引き回しの
上処刑されている。
(他にも江戸伝馬町の刑場で処刑されたという説もあるらしい)



 宿場を一望する愛宕山(阿多古山)に鎮座する愛宕神社のある辺りに
阿多古山一里塚があり、ここが東の見付で、そこには木戸風のモニュメ
ントが置かれている。
古くは「うみつけのみち」が転化したと言われる見付の宿場は、本陣が
2軒、脇本陣は1軒、旅籠の数は56軒もあり、宿内の人口も4,000人を数
えていた。



 旧街道に当時を思い起こすものは何も残されていな。
賑やかな町並の中の銀行のある辺りが問屋場跡、その向かい側に脇本陣・
本陣跡などがあるがサインで知るのみである。



 そんな中、明治八年に建てられた現存最古の小学校である、五階建て
の塔を持つ白亜の旧見付学校が緑の森の中美しい姿を見せている。
教育資料館として使われているらしい。
玄関の柱はエンタシス様式を取り入れたモダンな建物らしいが、通りか
ら眺めるだけだ。



 その西の交差路で、真っ直ぐに延びる細い道をそのまま行くと、一里
近くで天竜川河畔の池田という古駅の地に出ると言う。
しかし東海道はここで直角に左に曲がり、JR磐田駅を目指し南進する。(続)






にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

行人坂 (東海道歩き旅・遠江の国)

2020-10-28 | Weblog
 江戸は文化年間、日向の国、佐土原の修験者(山伏)が、回国者と
して旅立った。
名は野田成亮(しげすけ)、修験者としての院号を泉光院と言う。
回国とは、広い範囲を旅することを言い、長い時間をかけて国から国
(この場合律令制度による国内の諸国)を回る旅人を回国者と言った。



 回国の旅は6年2ヶ月にも及び、その間に歩いた距離は、2万㎞を遙
かに超すと言う。
托鉢旅で、夜は善根宿で泊まりを重ね、ほぼほぼ無銭旅行に近かった。
従者を連れたその旅の期間中、毎日「日本九峰修行日記」と題する日記
を綴っている。(「大江戸泉光院旅日記」石川英輔 1997年5月講談社)



 泉光院は旅の途次、度々各地の修験者(山伏)を訪ねている。
予め所在を知った上での訪問と思えるふしも有り、それによるとかなり
地方の、余り名も知られていないような村々にも一人や二人の修験者
が住んでいたことが解る。



 行人坂などの上り下りを繰り返しながら、見付の宿に入ってきた。
行人とは山伏のことで、昔はこの辺りに多く住んでいて、村の祭りなど
社会奉仕に携わっていたらしい。
この町は昔から、寺院や神社が多く点在しているのが特徴と言う。



 行人坂と言う地名も、他の地域にも残されている事を思うと、昔はこ
うした行人が方々に住み、疫病退散や豊作祈願など、庶民農民の為の
ご祈祷を気軽に行っていたのでは、と思ってみたりもする。



 その先の秋葉灯籠の建つこの辺りの地名を富士見町と言う。
京から上る旅人は、ここに来て初めて富士を見付けたことから、「見付」
「富士見町」と言うらしいが、諸説ある内の一つである。(続)






にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

蛇蝎の如き嫌う (東海道歩き旅・遠江の国)

2020-10-26 | Weblog


 木原の旧道を抜け、再び県道に出て道なりに進む。
やがて国道1号線が右から近づき、太田川を三ヶ野橋で渡ると、正面に
三ヶ野台と言われる小高い山が見えてくる。
1号線はこの小山を避けるように直ぐに右に大きくカーブするが、旧東
海道は真っ直ぐにこの小高い山を目指す上り道となる。



 松並木の残された道の途中に、「鎌倉時代の古道」の案内があり、更に
暫く行くと道は急な上りに転じ、山越えの様相を呈してくる。
その上り口に「明治の道」の石碑が建っていたが、この歩いている道が旧
東海道に変わって、明治になって整備された道らしく、国道1号線が開通
する以前の道と言うことになる。



 左程距離は無さそうだが、思いのほかの勾配で、歩きには結構きつい。
坂の途中には「江戸の道」を示す路標が、山の中に切り開かれた細い道を
指している。
古の「左坂の上、みかのの権現宮あり」と言われる古宮を経由するようだ。
地図で確認すると更に高台にある大日堂を目指す道らしい。



 「鎌倉の古道」も「江戸の道」にも興味は引かれたが、流石に様子の
分からない古道に踏み入れるわけにはいかない。
この草深い時期に、うっかり踏み込んで、蛇蝎(だかつ)の如き嫌うも
のに遭遇するのも御免蒙りたい。
四国八十八カ所の遍路道では、時々出会っているので、思い出すだけで、
ぞっとする。



 ハイカーが歩ける道なのか、入口に道路図などの案内板でもあれば良
かったと思う。
このまま緑のトンネルと銘打った明治の道を上れば、標高40m余りの、
三ケ野台の住宅街の広がる道となる。
この辺りが嘗ての立場跡(峠の茶屋)である。(続)





にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

澤野医院記念館 (東海道歩き旅・遠江の国)

2020-10-23 | Weblog


 次の宿場・見附迄の距離は一里半、凡そ6キロである。
少し行くと、モダンな木造の白い建物が目についた。説明に依れば
「旧澤野医院」の建物で、市の指定文化財に指定され「澤野医院記
念館」として公開されている。



 間口が10.5間は、街道筋では大きな建物だという。
表の建物からは全体を窺い知ることは出来ないが、奥行きが29間もあ
り敷地は広大だ。
この地で代々医者として開業していた当家には、江戸末期から昭和に
かけて使われてきた病棟や居宅、渡り廊下などが建ち庭園もある。
古い建物は幕末から明治の初期にかけて建てられたものらしい。



 袋井宿を出た東海道は、川井で県道に合流し暫くして松橋を過ぎる
と右の旧道に分かれる。
木原には一里塚が、住宅地の中に復元されているが、本来はこの場所
から60m東に有ったものだという。



 集落中程の右側に、嘗ては熊野権現祠と言われ隆盛した許弥(こね)
神社があり、社前に「古戦場 木原畷」と「徳川家康公腰掛石」の碑が
ある。家康と信玄が戦った三方原の合戦の前哨戦の地として知られる
「木原畷の戦い」の場所だ。

 徳川勢は信玄からの追撃を受けるが、殿の本田忠勝などの奮戦もあり、
浜松城に無事帰還できた。
その曰くの場所ではあるが、今は古戦場らしからぬ住宅地の中である。



 よく知らないがここは、武田勝頼の斥候笹田源吾に由来する「木原
大念仏」の発祥の地でもあるそうだ。
源吾がこの地で討ち取られると疫病が流行り、祟りではと言われるよう
になり、墓の前で村人が慰霊の踊りをしたのがその起源だという。(続)





にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

袋井宿 (東海道歩き旅・遠江の国)

2020-10-21 | Weblog
 「程なく袋井の宿に入るに、両側の茶店賑しく、往来の旅人おのお
の酒のみ、食事などしてゐたりけるを・・・」 
袋井宿に入った弥次さん喜多さんの見た第一印象である。



 袋井の宿場は東西が5町15間(約572m)で、その間の人口は843人、
家数195軒と言うからさほど大きな宿では無かったようだ。
ここには旅籠が50軒あり飯盛り女も他の宿場と同じようにいて、本陣
も田代・中大田・西大田の3軒も有ったというから規模の割には多い
方である。



 広重の描く「袋井 出茶屋ノ図」でも茶店は随分と賑わった様子が
描かれている。当時の旅人も「東海道どまん中宿場」に興味を引かれ、
お国への土産話にと、旅籠泊りや茶店で休むなどで、より多くの利用
があったのであろう。



 旧街道沿いにある東本陣跡(公園)を見て進むと、原野谷川に架か
る静橋の袂、JRの駅から延びる道との交差点角には、袋井宿場公園が
有った。袋井宿の中心的な場所で、大木戸をイメージした物なのか瓦
葺きの門や、常夜灯、東屋などが設けられている。



 県道を越え、更にその先の御幸橋の有る辺りが西の入り口に当たる
場所で、そこには「從是 袋井宿」の榜示杭が立ち、石造りの秋葉灯
籠があり、高札場に高札が復元されている。



 かつては水害に見舞われることも多く、宿場の周りには土塁(土手)
を多く見かけたらしいが、今日の袋井宿の町並みは、何の変哲もなく
ごく普通の通りである。
当時を偲ばせる物は何も無い町並ではあるが、「東海道ど真ん中宿場」
を謳うだけに、所縁の場所には幾つかの公園等よく整備されていた。(続)





にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東海道どまん中茶屋 (東海道歩き旅・遠江の国)

2020-10-19 | Weblog
 街道に「東海道どまん中茶屋」の暖簾を掲げ、「御休處」を掲げる
茶店風の建物が有った。
これは広重が描いた「東海道五十三次 袋井出茶屋ノ図」をモチーフ
にして建てられた建物で、宿場を訪れる観光客の案内所、市民の憩い
の場となっている。東海道宿駅制度開設400周年記念事業の一環で造
られた施設で、平成22(2010)年には10周年を迎えている。





 立ち寄ってみると、ボランティアスタッフが詰めていて、お茶でも
てなしてくれる。「広重の絵を忠実に再現しているんです」と、指さ
す道標には1羽の鳥がとまっている。
広重の絵には、画面の右端に高札にとまる小鳥が描かれている。
茶店の前に植えられ大きなエノキも、広重の画を模したものだと言う。





 茶屋で充分に休ませて頂いたあと、丁度昼時でも有り、「食事の出
来る手頃な店は?」と尋ねると、すぐ前に美味しい魚の割烹や、その
少し先にウナギの店があると言う。
しかしさすがに昼からこんな贅沢は出来る訳もないので、礼を言って
茶店を出て、街道を歩き始め、道中で手頃な食事処を捜すことにする。





 しかし、旧街道沿いには思う店が中々見つからない。
それでもしばらく歩いて、通りに有った小さなカフェを見付け、昼食
をとりに入る。
「東海道を歩いている」と言うと、「じゃァ、元気が出るように野菜
一杯にしときますね」と言って卵ふわふわのオムライスと、一杯に盛
られた野菜を出してくれた。

 入口に書かれていた、本日の軽食セットの中の一品である。
カウンター席に腰を下ろすと、気持ちの良い女主人と話が弾み、途中
から何人かの常連客も加わって思わぬ長居をしてしまった。(続)




にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 「ど真ん中」の宿場 (東海道歩き旅・遠江の国)

2020-10-16 | Weblog
 見事な松並木が途切れると赤い大鳥居が見えてくる。
扁額には冨士浅間宮とあり、800m先の同宮の入り口を示すものだ。
更に日蓮聖人の両親の墓があると言う「妙日寺」を過ぎれば、その先
に久津部一里塚跡があり、東小学校を経て袋井の町中へと入っていく。



 昔の袋井の町は、「四方を丘に囲まれた中に田圃が開け、その中に
田畑を潤す大きな井泉があり、袋の如し」と言われた地で、このこと
から袋井と呼ばれるようになった。
今でもこの辺りの平野では、米麦を始め、温室メロンや茶の栽培が盛
んらしい。



 東海道は江戸と京の間に53の宿場が置かれていた。
袋井宿はその27番目で、東からも西から数えても丁度真ん中、どまん
中である。
ここでは役場も商工会も小学校や中学校等までが、枕詞として「ど真
ん中」を頭に付けて名乗っていると言う。



 先ほど通り過ぎてきた学校の正門にも「東海道五十三次 どまんな
か東小学校」と書かれた木札がかけられていた。 
町中にはそのものズバリの「どまん中」という店まであると言うから、
その徹底ぶりには驚かされる。



 右に市役所を見て天橋(あまばし)を渡ると、ここが袋井宿の東の
入り口に当たる場所だ。
橋の袂に立っ大きな案内板を見て町中を進むと、秋葉山常夜灯が有る。
一般的な常夜灯は石造灯籠型が多い中、これは木造の屋形造りである。



 四本の柱で支えた大きな屋根には瓦が葺かれ鬼瓦が置かれて居る。
屋根を支える木組みも見事で、柱間には彫刻が見事な欄間や、格子の
嵌った連子窓になった凝った造りで、重厚感の有る姿を見せている。
同市内にはこのような木造と、石造りの常夜灯が14基も残されている
のだそうだ。(続)





にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

街道の並木 (東海道歩き旅・遠江の国)

2020-10-14 | Weblog
 街道の並木は、古くは天平年間に、諸国の駅路に果樹を植えたのが
始まりとされている。
以来織田信長による「路辺の左右に松と柳植え置く」と言う指示を引
き継いだ江戸幕府は、街道の左右に松を植えさせ、一里塚を設け、維
持管理すべしとのお触れを度々発令した。
幕府は主要道の整備に威信をかけ、並々ならぬ熱意を注いでいたのだ。





 「掛川宿より袋井宿迄之間 往還通並木」と古文書に伝わるとおり、
街道は並木が続き旅人はこれを辿れば自ずと次の宿場に向かうことが
出来たようだ。
是は当地に限った事では無く、どの宿間でもそれは同じで、言わば松
並木は今で言うナビゲーターのようなものでもあった。
その間の距離を把握する目安が一里塚である。





 旅人を夏の強い日差しから、また冬の冷たい北風から守るのも並木
である。何らかの理由で街道筋を離れても、並木を見付ければ容易に
街道に戻ることが出来る。木を植えれば、道を根張りで固める事も出
来たので、頻りに推奨したようだ。

 そんな松並木も明治維新以降、近代化の名の下、道路の拡張などで
切り払われた。また松食い虫などの病害虫被害で多くは消滅し、或は
大風水害などで倒木した。様々な理由で減ってしまったが、一部の街
道筋には少なからず今日に残されていたりもする。





 掛川宿を出て、間の宿・原川から立場・名栗を経て次の宿場袋井に
至る街道筋の所々には、今も見事な松並木が残されていた。
しかも車道は松並木で仕切られ、その外側に歩道が設けられているの
で、安心して歩く事が出来るし、何よりも当時を彷彿させる街道は歩
いていても楽しい。(続)




にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

原川から名栗 (東海道歩き旅・遠江の国)

2020-10-12 | Weblog


 仲道寺を過ぎると旧街道には、所々に見事な松並木が残されている。
途中に「椎の木茶屋」の言う看板を掲げた食事処があった。
その昔原野谷川を渡る同心橋の袂に大きな椎の木が有り、それに因ん
だ屋号という。
かつては掛川藩主の御休息処として建てられたもので、その後下附さ
れ茶屋として街道筋で店を開き、明治天皇も御休息されたという。



 その先の道にも、両側に見事な原川の松並木が残されていて、道幅
も当時のものを思わせる風情が、何とも気持ちよく歩かせてくれる。
それを抜けると原川の集落に入るが袋井へは33丁(約3.6㎞)を残す地
で、間の宿として賑わったところだ。
町並に当時のものは何もなく、ごく平凡な通りである。



 それに続く名栗の里は、花茣蓙が名物として知られていて、それを
売る店が街道筋には軒を連ねていたという。46軒ほどの戸数があり、
立場として知られた地で、金西寺の原川薬師と呼ばれる阿弥陀仏に供
える薬師餅を提供する茶店や、甘酒屋が並んでいたらしい。



 『当地に三ツ池という池が有り、池端で草刈りをしていると呼ぶ声
が聞こえてきた。見れば泥の中から仏様が顔を出されている。
それからというもの日々お参りするようになった。
そんな雨の降る日村人は自分の笠を仏様に被せて帰ったといい、以後
村人は「笠佛」と呼ぶようになった』(金西寺の薬師瑠璃光如来縁起)



 その先で一旦国道1号線の下を地下道で抜け、越えたところで国道に
出て同心橋を渡ればいよいよ袋井市に入る。
下を流れるのが原野谷川だが、屋号となった椎の木の大木は今は無い。
橋の袂に小さな「名栗花茣蓙公園」が有り、祠が祀られているだけだ。(続)





にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

善光寺・仲道寺 (東海道歩き旅・遠江の国)

2020-10-09 | Weblog
 掛川と次の宿場・袋井との間は、2里16丁(約9.6㎞)と長丁場が
待っているが、比較的平坦なのは救われる。
秋葉街道の追分である倉真川に架かる大池橋を渡ると鳥居町だ。



 火防の神として12月15・16日の火祭りで知られる秋葉山へは、直進
でここから9里余り(約35㎞)の道のりで、ここには見上げるような
大鳥居と常夜灯が建てられていた。
その様子は広重の「東海道五十三次掛川」の天保版にも描かれている。



 東海道はその手前で左に折れ、暫くして鳥居町で左に天竜浜名湖鉄
道の西掛川駅を見て、ガードを潜ると、やがて江戸から数えて59番目
の大池一里塚跡だ。
更にその先、沢田ICで国道1号線や東名高速道路を越える。



 この辺りの所々には、見事な松並木が今も残されている。 
垂木川に架かる善光寺橋の辺りにさしかかると、右側に善光寺の大き
な森が見えてくる。
周辺は、かつては松茸の産地であったらしい。



 坂の上田村麻呂は東征の折、この地で難病にかかる兵士が続出し、
悪病退散の祈願をしたところそれが叶い、ここに善光寺を建立した。
以来この寺は、疫病退散の祈願寺として有名になったそうだ。



 江戸時代に入りその後火災で本堂を失い、普請の際に江戸と京都の
人足達がその距離を測歩したところ、この寺の位置で両者が出会った
と言い、以後東海道の中間地点、真ん中である事から「仲道寺」とも
言われるようになった。



 門前には「東海道眞中」と彫られた石柱や看板が立っている。
現在の測量に依れば、正確には天竜川の西辺りが中間地点らしいが、
折角に測歩までしたのだから、それはそれで良いのではと思ってみた
りもする。(続)





にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする