簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

四国遍路 宿毛の町

2011-10-31 | Weblog
 この春、39番札所・延光寺まで打ち終えているので、今回、平田から宿毛に出て、
松尾峠を越えれば土佐路を終えて、いよいよ伊予路に入る事に成る。

 今、その遍路旅が始まった。
岡山を7時過ぎに出発する「特急・南風1号」は、土讃線を走り抜け、窪川からその
まま土佐くろしお鉄道の路線に乗りいれ、お昼前終点の中村に到着した。
 ここでは2分ほどの接続で、宿毛行の普通列車が待っている。



 前回の遍路を終えた平田には20分ほどで到着する。
駅を出て、その先で左折すると見覚えのある56号線に出る。
ここから40番札所・観自在寺は30キロほどの行程だ。



 「第三十九番札所延光寺」の石柱を右に見て、淡々とこの国道の歩道を歩き続け
ること1時間、松田川に架かる宿毛大橋が見えて来た。
橋を渡った先に遍路小屋宿毛33号があり、ここでしばし休憩。



 このまま直進すれば土佐くろしお鉄道の東宿毛駅から、終点の宿毛駅に向かうが、
遍路道は、ここを右に折れ、宿毛の旧市街地を抜けることに成る。



 町中の立派な建物が宿毛文化センターで、その中に宿毛歴史館があり、町の歴史や
ゆかりの人物を模型や映像・パネルで紹介していると言う。
 歴史ある町らしく道筋には、土佐奉行として活躍した野中兼山や文化人等に纏わる
史跡や「○○邸跡」の碑が多く立ち、興味をそそる。



 町中の「バカヤローまんじゅう」の看板を掲げたお菓子屋さんが気に成った。
後で調べて知ったのだが宿毛出身の吉田茂に因んだ、当地では有名な和菓子らしい。
 残念なことをしてしまった。
立ち寄ってみれば良かった。写真も撮っておけば良かった(続)


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四国遍路 遍路とJR線の乗り潰し

2011-10-28 | Weblog
 思えば、高松から高徳線に乗って初めて板東駅に降り立ったのが3年前。
それから歩き続けた遍路の旅も、今回が七回目と成る。



 その軌跡をJRの路線と絡めて見てみると、初回は11番まで終えて、鴨島から
徳島に出、帰途についているので、高松・徳島を結ぶ高徳線の74.5キロ区間は
乗り潰したことに成る。



 二回目は、土讃線の阿波池田から鴨島に入った。
前回と合わせれば、佃から佐古間67.5キロの徳島線も乗り潰したことに成る。
 この回は、徳島市内を歩き、18番まで打ち終えて、牟岐線の南小松島から、
徳島を経由して帰途についている。



 四回目は牟岐線の日和佐が出発駅となり、そこから室戸を目指して歩いて来た
ので、乗り潰しから言えば、日和佐からその先の終点、海部までは乗る機会が
無かったことに成る。
 このようにこれまでは、四国の東を走る路線を主に利用して移動をしてきたが、
五回目からは四国の中央部を南北に貫く土讃線に舞台が移って行く。



 五回目に37番を打ち終えて窪川から高知を経由した事で、多度津までの198.7キロ
に及ぶ土讃線は、乗り潰しが完了した。
 そして今回は、その先の土佐くろしお鉄道・平田から歩き始めて、宿毛を経て
宇和島を目指すことに成るので、鉄道も西側を走る予讃線を利用することに成る。



 最も自身の全路線の乗り潰し状況から言えば、遍路を始める時点では、四国内の
乗り残しは、内子線の伊予大洲と向井原間だけになっていたので、今回の遍路旅で
そこを上手く消化すれば、四国は全て乗り潰しが完了することに成る。(続)


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四国遍路 いよいよ伊予路

2011-10-26 | Weblog
 前半の山場と言って良いだろう。
長い、長い道中の土佐路、取分け室戸岬と足摺岬を巡る道行きは、唯ひたすら歩き
続けるだけの旅だったが、どうにか乗り越える事が出来た。



 思い返してみると、“へんろころがし”と言われる、あの焼山寺道も厳しかったが、
山中を行く道にはそれなりの変化があり、これらのものが苦しさ辛さを、そして疲れ
を、時には紛らわせてくれた。



 山道のそのアップダウン、道端に咲く草花、むせ返るような緑の匂い、優しく日影
をくれる木立の群れ、それに小鳥たちの囀り、路傍に佇む石仏、そして時折目の前に
開ける眺望、火照った体を冷ましてくれた谷を渡る涼風、などなど・・・苦しさや疲れ
が解消される訳ではないが、これらがひと時の安息をくれた事には違いない。



 それに比べると土佐路は・・・、歩いても、歩いても、遠くに望む海に突き出た岬の
風景は、少しも変わる事が無い。
 行けども、行けども、目にする光景は一向に変わらない。
容赦なく照りつける太陽、海から吹きつける強風、巻きあがる砂埃、強烈なアスファルト
の照り返し、などには本当に苦しめられた。
そんな海辺の道を歩み続ける直ぐ脇を、車が猛スピードで駆け抜けて行く。



 「ドライバーは、我々をどんなふうに見ているのだろうか・・・?」
ただ我が道を行けば良いのに、つい他人の目が気に成ってしまう。
「車なら、アッと言う間なのに・・・」まさに煩悩との戦いでもある。
 しかし、そんな土佐路もどうにか終わりが見えて来た。(続)


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四国遍路 白衣と金剛杖

2011-10-24 | Weblog

 
 遍路の白装束には修行をさせて頂くのだから、心身ともに清らかになりたいとの
思いが込められている。
笈摺と手甲・脚絆の白装束は、言わば遍路の晴れ着。
しかしそれは決められた事では無く、動きやすい服装で有れば何を着ても構わない、
あくまでも本人の思い次第でもある。
とは言え修行の場を巡るのであるから、矢張り節度は心得ておく必要も・・、などと
考えると、無難なところで白い上衣くらいはと言う事に成る。



 信仰の面から言えば、金剛杖も外せない。
「同行二人」のお一人、言わば弘法大師の分身とされるからだ。
そのために、金剛杖には厳しい作法が有る。


 
 宿に着いたら、大師の足先を洗うと言う意味で、杖の先を洗い、床の間に立てる。
また道中、橋の上では杖をつかないとの約束も有り、大師の御加護で無事巡拝出来る、
護身の杖ともされている。
 しかし、そんな信仰的な教義も有るが、杖は何よりも歩き遍路にとっては、歩行の
手助けに成る事は間違いない。
平坦な道を歩いていると邪魔だと感じる時も多々あるが、特に厳しい山道の上り下り
では、身体を支えるためには無くてはならない物でもある。
こうして、歩き遍路が八十八か所を歩き終えると、その長さは2~3センチも短く成る
と言われている。



 更に遍路の正装で言うなら、輪袈裟をかけ、菅笠を被り、手に数珠は外せない。
しかし、格段の信仰心があるわけでも我が身では、この格好は何だか気恥ずかしい。
だからせめて白い上衣、金剛杖だけを持って歩いている(続)


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四国遍路 遍路の動機

2011-10-21 | Weblog
 人が遍路に出る動機は実に様々であろう。
元々は純粋に信仰として大師を慕い、大師との出会いを求めて札所を巡るのが
遍路本来の姿であった。
 しかし、近年では生活習慣の変化に伴い、信仰の形も、その意識の変化も多
様化し、そのことから遍路に旅立とうとする思いも人それぞれで、実に様々なもの
が有るようだ。



 平凡な日常生活に飽き足らず、自分を見つめ直し、変革を求めて遍路に出る
人も決して少なくは無い。
定年や人生の節目を期に、染み付いたアカを洗い流そうと歩き始める人もいる。
人生の早い時期に、敢えて困難に立ち向かおうと歩き始める若者もいる。
 またこの機会に、二人の絆を確かめるかのように、夫婦で歩く姿にもよく
お目に掛る。
ただ単純に歩く事を目的に、健康のためと言ってひたすら歩く人もいるだろう。
人との出会い、触れ合いを求めて歩く人もいるようだ。



 我々のように大した信仰心が有るわけでもなく、いわば物見遊山的に歩く人もいる。
勿論、純粋な信仰心から、願を掛け、大師にお縋りしたいとの想いで巡る遍路が多い
ことは言うまでも無い。



 しかし、崇高な想いを抱いて歩き始めたものの、身体が伴わず、心ならずも
挫折して、無念のリタイアをする遍路もこれまでに数多く見て来た。
反面、「お四国病」を患い(?)歩き廻る遍路もいるから事は面白い。



 このように遍路に旅立つ動機は、それぞれ数え切れないほど有り、百人の遍路
がいれば、百通りの動機があり、百通りの願望・希望・思いを持った人々が遍路
道を行き交っている。(続)


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「豊後高田 昭和の町」

2011-10-19 | Weblog
 「豊後高田 昭和の町」その中心的な施設が、昭和10年代に建てられた米蔵を改装した
「昭和ロマン蔵」である。
「駄菓子の夢博物館」の館内では、その昔幼い頃、駄菓子屋の店先で憧れ夢中になった、
キャラクターやおもちゃ、お菓子やそのおまけの玩具、スターのブロマイド、ポスターなど、
懐かしいあの頃のものに出会う事が出来る。



 「昭和の夢町三丁目館」は、昭和の時代の商店や民家、学校の教室を再現し、音と光の
演出で懐かしい時代へとタイムスリップさせてくれる施設である。
また、古い米蔵に新しい感覚で改装を加えた、レストランが併設されていて、ここでは、大分の
郷土料理「だんご汁」が味わえる。



 商店街には、再現された昭和が、見事に描かれている。
“一店一宝” “一店一品”をコンセプトに再生された商店街の店先には、思わず「懐かしぃ」
と声をあげてしまうお宝満載で、そんなものを捜し一つ一つ眺めながら歩いていると、いつ
の間にか昭和の時代に入り込んでしまう。



 肉屋さんのコロッケなどは、休日には千個単位で売れると聞いた。
リャカー、アイスキャンデー売りの自転車、手回しのカキ氷機、手で球を込めるパチンコ台、
木製の氷で冷やした冷蔵庫、オルガン、今では見ることも少なく成った丸い大きな郵便ポスト
等々がお宝として店先や街並みに並べられている。



 食堂ではあの脱脂粉乳やクジラの竜田揚げ、コッペパンなどを学校給食スタイルで出したり、
当時の代表的な家庭の食卓を定食として再現、提供する店も有るので昭和の食を懐かしむの
も良いだろう。(完)


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商店街の再生

2011-10-17 | Weblog
 江戸から昭和にかけて商都として賑わいを誇った、大分県の周防灘に突き出た国東半島の
北西部に位置する、人口2万3千人余りの豊後高田の町も例外では無かった。
 かつてこの近在では一番の賑わいを誇った商店街からも、いつしか人波は途切れ、やがて
人が消え、犬猫しか歩かないと酷評されるほどに廃れてしまった。



 そんな商店街に再び活気を、仕舞い込んでしまい忘れかけている懐かしい昭和30年代に
帰ろう、あの賑わいを再び取り戻そうとする取り組みが、今俄かに注目を集めている。

 何の変哲も無い、小さな町の何処にでも有る(有った)小さな商店街が、チョッとした
工夫と関係者の努力で見事に甦った。
平成13年から始められたと言う、商店街の再生事業から生まれた「豊後高田 昭和の町」
それである。



 衰退したが上に、建て替えの進まない商店街に残る昭和の時代の建物を、逆手をとって
そのまま生かし、新たに建てられる建物や改造される建物は、逆に昭和30年代風にすることで、
見事に昭和の街並みを再現したのである。



 そして、「一店一宝」として昭和のお宝を店先に展示し、「一店一品」として昭和の頃から
の逸品を店先で販売、「昭和の商人」として来場するお客との心の交流を大切にすることで、
街に命を吹き込み、ソフト・ハードの面から整備を進めたようだ。



 この成功事例が数々の賞を受賞、全国で注目されることに成る。
大型の駐車場も整備され、今では年間30万人近くもの人が訪ねる人気の観光地と成っている。(続)


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公園事情

2011-10-14 | Weblog
 昭和30年代ころを最後に、かつては賑わいを見せた、全国に有った地元の商店街は、
やがて衰退の道を歩み始めることに成る。
それは、町中のあらゆる場所で子供たちが、元気に遊び回っていた声が、やがて
消え始めるのと時を同じくしている。



 日本は高度成長を遂げ、自家用車が増え、郊外に大きなショッピングセンターが
次々に出来始めると、休日の一日、家族揃っての買い物を、レジャーの一環として
楽しむようになる。
 道路も整備・舗装され、車の通行も多く成り、空き地や田畑に住宅が建ち始めると、
当然子供たちの遊び場は追いやられ、囲まれた限りある公園と言う狭い空間だけが、
唯一の安全な遊び場所に成ってしまう。



 丁度その頃、子供たちのお小遣い事情も好転、巷に色々なおもちゃが出回り始め
ると、金額をいとわず高価なおもちゃを手にする事が出来るようになる。
 これらは、殆どが屋内型のもので、これにより子どもたちは、勢い屋内で、しかも
個人か極限られた少人数の友達だけと遊ぶ機会が多く成っていく。
 しかも昨今の治安の悪化と相まって、なおさら子供たちは危険を避け、公園からは
遠ざかる。



 そんな空いた公園に目を付けた元気なお年寄り達は、そこをゲートボールなどの
集いの場所に変えて行く。
 こうして、町の商店街をコミュニケーションの場としても支えて来た人たちの足は
遠ざかり、商店街での日常的な会話を捨て、つながりを求めて、集いの場として、
皆がゲームに興じる公園に集まるように成って行く。(続)




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昭和の子供たち

2011-10-12 | Weblog
 皆が一様に貧乏で、決して便利の良い世の中でも無く、豊かとはいえない時代、まだまだ
一戸建ての住宅は少なく、多くは長屋住まいで有った。
隣人同士は、貧しくても開放的で、肩を寄せ合い、助け合って生きていた。
 とは言っても、決して悲壮感が漂っていたわけでもなく、明日の繁栄を信じて、ひたすら
懸命に、この時代を楽しみながら生きていたように思う。


 
 めったに車が通ることも無く舗装もされていない道路や、近所に有る商店街、横丁の間所、
草の生えた広場、資材置き場、畑や田圃の中などは、子供たちの格好の遊び場だった。
こんなところで子供たちは、朝早くから日が暮れるまで元気に遊び廻っていた。



 かくれんぼ、こま回し、缶けり、馬乗り、釘さし、木登り、探検ごっこ・・子供たちは、学年に
関係なく、男女の別も無く一つ所に集まり、何時誰が決めたとも知れない、暗黙の内に引き
継がれてきたルールに従って遊んでいた。

 火災のシーズンの子供たちによる“夜回り”は、唯一公認された夜の町歩きが出来る機会
であり、嬉しくも有り、楽しくも有った。
 普段は暗くて恐ろしい町中でも、大声で呼びかけながら大勢で歩く事に、何か特別な意味が
有るようで、何とも言えないわくわく感が有った。



 このような遊びや集いごとでの上級生は、その輪のリーダーであり、下級生の指導役、幼児
の見守り役・子守役でもあった。
 こうして誰もが遊びや集まりごとを通じて、人との関わり方を、上下関係を、ルールに従う事を、
我慢する事を・・そのほかにも色々な事を、集団行動を通じて、自然の内に身につけて来た。





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ジャンケンの掛け声

2011-10-10 | Weblog
 何人かの仲間が集まって、例えば鬼ごっこの鬼を決める時、例えば校庭での
ドッジボールなどの先攻を決める時、或いは下校時に、お遊びでランドセルを
運ぶ者を決める時・・・等など、どんな時も、事を決する、何かを決める時に必ず
使っていたのが“ジャンケン”である。



 勝ち負けを決めるには、何の道具も必要としないこの“ジャンケン”は、勝負の
決まり事が日本国中共通であり、簡単手軽で、便利な方法でもある。
 私たちは、この“ジャンケン”を誰かに教わったと言う記憶も無いのに、物心
ついた小さな頃から、現在まで折に触れ使い続けている。



 そんな“ジャンケン”を、よくよく思い返してみると、公衆の面前や、少し気取っ
てするときは、全国共通語の「ジャンケン、ポン」と掛け声をかけていた。
 しかし仲間内での遊びや、勝負心丸出しで、闘志を込める時には、多くの場合
その地特有の方言に力を込めて、勝負を決している。



 ところが・・・最近では、こんな方言の“ジャンケン”の掛け声を、殆ど耳にする
ことは無くなってしまった。
掛け声としての方言は、いつの間にか消滅してしまったのだ。



 1970年代、テレビのバラエティ番組のコントで使われた「最初はグー ジャンケン 
ポン」は、瞬く間に世の中を席捲、全国の方言の掛け声を駆逐してしまった。
僅か、「ここ30年程の間に・・・」である。

 「何もせず、手を拱いていると方言は、たちまち消滅してしまう。その良い例だ」
と、方言を研究されているある先生は指摘されていた。


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