簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

清洲古城跡公園(東海道歩き旅・尾張の国)

2022-10-31 | Weblog


 関西方面から東海道新幹線で東京方面に向かう時、列車が東海道本線
と接し、車内では名古屋到着を告げる放送が始まらんとする頃、車窓左
手に一瞬小さなお城が見える。

 しかし車窓はアッと言う間で、直ぐにキリンビールの工場に変わって
しまい、うっかりしていると見逃してしまいそうだが、これが清洲(清
須)城である。



 今日の淸洲城跡は、この清洲城のある本丸ゾーンと、五条川の対岸の
「清洲古城跡公園」と、東海道本線と東海道新幹線により分断された北
側の「清洲公園」の三つに分割されて広がっていてその中心を成すのが、
車窓からも見える清洲城だ。



 江戸時代初期、清洲越しが行われ町は人口が激減し寂れ、農民だけの
寒村となってしまった。城も解体され、名古屋城築城の建築資材に流用
され、廃城となり何も無くなった。

 因みに名古屋城の西南角に残る隅櫓は、「清洲櫓」と呼ばれ、嘗ての
清洲城天守閣で唯一の清洲城の遺構として知られている。



 今有る城は、町制100周年を記念し、平成元(1989)年に、鉄筋コン
クリートで造られた。創建当時の絵図面は残っていないらしく、桃山時
代の城郭を参考に創造・復元された物だ。
黒瓦に白い漆喰の壁、最上階の赤い欄干が印象的な城である。



 城の跡地は保存され、公園として町民に開放されてきた。
清洲城天守閣から五条川に架かる大手橋を渡った対岸がその「清須古城
跡公園」である。
 最初に目に付く建物が、「清須ふるさとのやかた」だ。ここにはボラ
ンティアスタッフが常駐し観光案内をしてくれる。
地元産のお土産販売や、手作り甲冑の試着が出来るサービス等もある。(続)





にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

淸洲越し(東海道歩き旅・尾張の国)

2022-10-28 | Weblog
 信長の天下布武の礎となった清洲は、尾張の中心的な場所であるが、
東海道筋からは北に大きく外れ、低湿地帯で水害が多かった。
地の利の悪い清洲を、常々憂慮していた家康は、慶長17(1612)年、
名古屋に新城を築くことを決意する。



 政情が不安定な時期で、西国の大名に対する備えとしての城である。
この時期に敢て本拠を変えるのは、不便でもあったが、一方では信長・
秀吉が活躍した場を払拭する思いが有ったとも言われている。
完成を機に、清洲の町をまるごと名古屋に引っ越すことが決まった。



 世に「清洲越し」と言われるものだ。
武家はもとより町人まで、家屋敷から家財道具一切合切を運び出させ、
これに従う住民を優遇し、城下の中心に住まわせる算段である。
神社仏閣から商店に至るまで引っ越した為、人口六万人を誇った清洲の
町は、農民だけが残り一瞬で寂れた農村に戻ったと言われている。



 何もかもが引っ越すこれほどまでの大移動だが、どのルートを経たの
か未だに解ってはいない。
美濃街道から庄内川を渡った陸路なのか、或は五条川から庄内川を下り
伊勢湾に出て堀川を遡る水路が考えられるが、当時の記録が何もなく何
れも仮説で、定説にはなっていない。



 町ごと引っ越す大規模なイベントは、労力も資金も統制も必要である。
まかり間違えれば、城下が大混乱を引き起こす。

 しかし、整然と行われている。
それには時の施政者の指揮命令系統が、充分に機能していたからで有ろう。
それなのに、手配りなどの通達文書や高札等の記録が無いとは、なんとも
不思議である。



 完成した名古屋城に第九子・義直が初代藩主として入城したのは元和2
(1616)年のことだ。
それは奇しくも、名古屋城の築城と、城下の整備に情熱を傾けた家康が亡
くなった年でもあった。(続)





にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

清洲(清須)城(東海道歩き旅・尾張の国)

2022-10-26 | Weblog


 時はまさに戦国時代、若き日の織田信長は近世的な城をここに築いた。
生まれ育った那古野城(諸説有り)から新城に移り住み、本拠と定め地名
に因み「清洲城」とした。

 近くを流れる五条川を巧みに利用し、内堀・外堀を設け、城下町の外郭
の要衝には土塁を巡らせていた。
城を中心に武家屋敷や、町民町、寺社町が発展していたらしい。



 信長は、凡10年間ここを本拠地として活躍した。
桶狭間の合戦では、僅か六騎の股肱の臣を従えただけで進軍し、今川氏
を撃破した。天下統一を目指した信長であったが、本能寺の変で明智光
秀の謀反にあい、敢えなく野望は断ち切られることになる。



 信長の死後、ここで城の相続が話し合われている。
世に言う「清洲会議」では、信長の次男、織田信雄の相続に決まった。
相続した信雄ではあったが、小田原征伐の折豊臣秀吉の怒りに触れ除封
されると、城は秀吉の配下・福島正則が支配することになる。



 その後この城は、関ヶ原の合戦では東軍の拠点として重用された。
戦で勝利を得、江戸に幕府を開いた徳川家康は、第9子・義直を清洲藩
主として尾張国を治めさせることになる。



 一方で家康は、庄内川や新川下流域の低湿地にあり、東海道筋からも
遠く離れて地の利の悪い、この城の建て替えを検討していた。
目を付けたのは、東海道宮(熱田)宿から北に延びる熱田台地である。

 その北端は、現在の名古屋城の二の丸辺りで、ここには室町時代から
今川一族が支配する城が築かれていた。
高台に有り西方が見通せるその地に、新城を築く事を決意したのである。(続)





にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

尾張の中枢・清洲(東海道歩き旅・尾張の国)

2022-10-24 | Weblog
 「清須」は愛知県の北西部に位置する市で、名古屋の中心部からは北
に数キロ程離れている。
五條川流域の沖積平野に開けた町で、周辺は庄内川や新川の下流域に近
い辺りに位置している。地形は平坦で山や丘など高所に乏しく、殆どが
土砂の溜まった海抜10m未満の土地である。



 昔から大河は無いが、中小の川が多く流れ、相対的に海抜の低い低湿
地帯である。是までも度々水害が発生した土地柄で、近年でも東海豪雨
の折には新川の堤防が決壊し、大きな被害が発生している。



 地名は「キヨス」で、一般的には「清須」の字が多く見受けられる。
一方古くから「清洲」と書かれることも多々有り、今でも混在している。

 平成の大合併では、近接する枇杷島町、清洲町、新川町が合併し(後
に春日町を編入)、人口6.7万人余りの「キヨスシ」となった。
漢字の表記は、「清須市」が用いられている。



 戦国時代の清洲は、織田信長の本拠地と成り、尾張の政治的な中心地で
あった。尾張国の守護所があり、町中を美濃街道が貫き、城下で京・鎌倉
街道と合流し、更に中山道にも通じる交通の要衝として栄えていた。



 城は、平たんな平野部に築かれた平城で、水攻めされればひとたまり
も無く、兵糧を欠くことに成りかねない。
多くの兵士が駐屯するにも、この城郭では手狭で、周辺に拡張する余地
は少なく難しい。



 本能寺の変による信長の死後は、徳川一族が支配するが、家康はこの
地に満足はしていなかった。

 中世以降、追々に街道が整備され、当地も脇往還・美濃街道の宿場町
とは成ったが、東海道筋からは大きく外れていた。
天下統一を狙い西国の押さえの地とするには、この城は余りにも不便で、
何よりも水に弱く脆弱であった。(続)





にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

尾張徳川家の大名道具(東海道歩き旅・尾張の国)

2022-10-21 | Weblog


 時間に余裕のない事を承知で、「徳川園」を訪ねて見たが、予報通り
天気が急変し生憎の本降りの雨と成ってしまった。
足元も悪く、早々に園の散策を切り上げ、容赦なく降り続ける雨を避け、
併設の「徳川美術館」にも立ち寄って見る。



 尾張徳川家は、愛知県西部一帯を支配し、石高は61万9500石だ。
徳川御三家の筆頭と言われ、初代藩主は家康の第九子・義直である。
 
 御三家には重要な役割があった。
将軍家に跡継ぎがいない時は、将軍の後継者を出す資格があったが、
尾張徳川家にはついにその機会は巡っては来なかった。



 第7代藩主・宗春の時代には自由で放任的な政策がとられ、城下町に
繁栄がもたらされ、「芸どころ名古屋」と呼ばれるきっかけに成った。
時は第8大将軍・吉宗が進める質素倹約の時代で、それに反する宗春は
後に、隠居謹慎を命じられることになる。

 こんなことからテレビや映画では、幕府との権力争いの黒幕として尾
張藩が描かれることも多いが、地元にとっての宗春は、今日の繁栄の基
礎を築いた名君である。



 美術館には、家康から譲り受けた遺品を中心に、大大名家に代々伝え
られてきた遺愛品などの「大名道具」約1万件のコレクションが有る。
中でも良く知られているのが、平安時代の作で現存最古のものと伝わる、
国宝「源氏物語絵巻」だ。
その他にも国宝は8件にも及び、重要文化財は59件を数える。



 記憶違いかも知れないが、小さい頃遠足か子供会で一度来たように思う。
何十年振りに成るのか、園も館の事も、何も覚えてはいない。
今回は駆け足で短時間の余裕しか無かったので、次は天気の良い日にもう
一度、時間をかけて訪ねてみたい。(続)





にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

尾張徳川家の別邸(東海道歩き旅・尾張の国)

2022-10-19 | Weblog
 名古屋城の真東、三キロほど離れた東区徳川町に「徳川園」が有る。
尾張藩二代藩主光友が、元禄8(1695)年、隠居所として自ら造営した、
敷地面積約13万坪(44㏊)という広大な屋敷跡である。



 江戸幕府が大政奉還をした明治以降は、尾張徳川家の子孫の邸宅とな
っていたが、昭和の初め名古屋市に寄付されたのを期に改修整備され、
「徳川園」として一般公開された。
平成には大規模な改修も行われ、新しい日本庭園として生まれ変わった。



 舟を浮かべたという、大池を中心とした池泉回遊式の日本式庭園で、
典型的な大名庭園だ。
 樹木や花木が豊富な園内は、四季折々様々な顔を見せ、格好の撮影
スポットとしても知られ、特に結婚式の前撮りでの利用も多いという。



 高低差のある地形をそのまま生かして造られ、滝から渓谷に流れ落ち
た清流が、海に見立てた池に流れる様を表現しているらしい。
見学の流れ的には黒門口から入り、まず龍門の滝や大曽根の滝を見て、
その流れに沿って虎の尾からから龍仙湖に出て、湖岸の遊歩道を巡るの
が良いという。



 園内には龍仙湖に臨んで建つ「ガーデンレストラン徳川園」があり、
フランス料理やワインが提供されている。
他にも「ガーデンホール」等が有り、地元では結婚披露宴や各種パー
テーなどでの利用も多い。



 和風の「蘇山荘」は、昭和12(1937)年に、名古屋市が人口100万人
突破を記念して開催した「名古屋汎太平洋平和博覧会」の折り、迎賓館
として利用した建物だ。昼は喫茶、夜はバーとして開放されている。(続)





にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水を呼ぶ鯱(東海道歩き旅・尾張の国)

2022-10-17 | Weblog


 名古屋城と言えば、天守大屋根の上に輝く金の鯱が有名だ。
築城当時は金の純度が80%で、純金にすると200㎏以上使われ、小判に
すると17,975両分に相当するもので有った。
 その燦然と輝く様は、東海道や佐屋道、美濃街道を行く旅人、七里の
渡しの舟上からも認められたという。



 名古屋城は、明治維新の廃城令を生き延びた。
昭和5(1930)年には、城郭として初めて国宝に指定されている。
しかし先の大戦で戦禍に遭い、昭和20(1945)年あえなく何もかもが焼
失してしまう。

 幸い鯱の一部は焼け残り、残骸は戦後GHQが接収し、後大蔵省を経由し
て名古屋市に返還された。市はその残骸から金を取り出し、市民に見える
形にしようと、市旗冠頭と茶釜に加工し保存した。



 戦後になり昭和34(1959)年、市民の気運も高まり天守は復元される
ことになった。同時に金の鯱も新調され、賑やかな市中パレードを終えた
鯱は大屋根の上に蘇った。雄は2.62m、雌は2.57m、一対に使用された金
は88㎏、大阪造幣局の手によるものである。



 当時再建を請け負った建設会社から、記念に目にダイアモンドを埋め
込みたいとの申し出があった。
が史実に基づかないと市が断ったとのエピソードも伝えられている。
鯱は想像上の動物で、古くから寺院などに飾られているが、お城などの
屋根に乗る鯱は、火を見ると水を呼ぶとの言い伝えから飾られるものだ。



 天守が復元されたこの年の10月、東海地方は台風15号に襲われた。
未曾有の大型台風は後に「伊勢湾台風」と呼ばれ、死者・行方不明者合
わせて5,098人という国内最悪の大災害を引き起こした。

 この年巷では、「お城の鯱が水(高潮の被害)を呼んだ」と、密かに
囁かれていた。(続)





にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東海道の要塞(東海道歩き旅・尾張の国)

2022-10-14 | Weblog


 那古野(なごの)には、古くから今川一族が築いた城が有った。
天文年間には織田信長も居を構えていたが、清須に移った後、その跡を
継いだ叔父の信光が死ぬと廃城になっている。
この那古野こそ、現在の名古屋城の発祥の地である。



 大坂と江戸を結ぶ東海道の、防御を固める名古屋の築城は、巨大な
軍事要塞を造る一大プロジェクトであった。
公儀普請として、西国の二十大名にそのお手伝いが下命された。
恐らく公金だけでは賄えず、お手伝い普請は、有力大名の力をそぎ落
とす狙いも有ったようだ。



 守りの要の石垣は、丁場割図により細かく作業場が割りふられた。
その石は、全国から集められた巨石を用いて築かれている。
 風雲は急を告げていたのであろか、工事は慶長15(1610)年6月か
ら始まり、翌年の9月にはほぼ完成する突貫工事であった。



 慶長17(1612)年、五層五階層塔式の天守が完成した。
その高さ百六十六尺(約50m)で、18階建てのビルに相当し、史上
最大の延べ床面積を誇っていた。

 使われた檜は2,815本、欅の角材408本、松の角材9,796本、畳はな
んと1,759畳で、檜をふんだん使った城は格別な豪華さだったと言う。
大屋根の上に黄金の鯱を頂き、別名「金鯱城」とも言われた。



 徳川の威信を注ぎ込んだ築城である。
本丸御殿や二の丸御殿の工事も行われ、三年の歳月をかけ完成した。
武家風書院造りの豪華絢爛を極めた本丸御殿は、戦災で焼失したが
近年忠実に復元され、一般公開されている。

 高い石垣と深く広い掘り、堅固で巧妙な縄張り、他の城郭なら天
守に匹敵するほどの巨大な隅櫓などに守られた要塞は、近世城郭の
完璧な完成形と言われる程のもので有った。(続)





にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

尾張は日本の中心

2022-10-12 | Weblog
 関ヶ原の戦で天下を統一した徳川家康は、幕府の足元を固める傍ら、
まだ燻り続ける豊臣方への対応も怠ってはいなかった。
西方の押さえとして、江戸と大坂の中間に位置する尾張の地に着目して
いたのだ。何れ起こる戦に備え、ここに砦を固める必要性を考えていた。
 
 当時、尾張藩の居城清洲城は、東海道筋からは大きく外れていた。
加えて一帯は、五条川や新川が流れる沖積平野で、昔から水害などの危
険が高く脆弱な地である。





 家康は、この町での城や城下の拡大は諦め、九男・義直(尾張藩祖)の
為に、新たな居城を別の場所にと考えていたのだ。

 家康が着目したのが、標高15m程の洪積台地である熱田台地である。
台地の北端の北面と西面は、足場の悪い湿地帯で、軟弱地が広がっている。
ここからは京・大阪を結ぶルートともなっていた関ヶ原方面が一望できた。





 敵が攻めにくく味方が守りやすい地勢に惚れこんだ家康は、北端に新
たな城を築く事を決意した。南面と東面は強固な石垣で固め天守を建て、
二の丸、三の丸で取り巻くことで、強い城の建造を目指したのである。

 日本地図を広げ、地図上で名古屋を中心に半径1000キロの円を描くと、
北は札幌から、南は奄美大島辺りまでぴったりと収まる。
当時の幕府の勢力域なら、半径700キロ程度の円内に収まってしまう。





 日本全図がまだ明らかではない時代である。
家康はこの名古屋の地が、己の勢力範囲のほぼ中心であることを、本能
的に把握していたのでは有るまいか。
取分けここに本拠を構え天下を取った信長から秀吉、家康に続く武将は、
尾張が日本の中心と捉えていたのではなかろうか。(続)



にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

信長が戦勝祈願(東海道歩き旅・尾張の国)

2022-10-10 | Weblog


 七里の渡し場のある宮宿は、熱田神宮の門前町である。
宮は古くは伊勢湾に突出した岬の上の古社との言い伝えがあるが、今で
は周囲は埋め立てられ、賑やかな町並が広がっている。
そこは僅かに高い熱田台地(名古屋台地)の南端に当たる。



 神社は年間700万人の観光客や参拝客で賑わうという。
その内の1/3が初詣客で、東海地方では第一位と言い、むかしから地元では、
「あったさん」と呼び親しまれ馴染み深い神社である。



 日本武尊が東征の折、伊勢神宮に参拝し倭姫の命から授かった天叢雲
剣(あめのむらくものつるぎ)で賊の火攻めを防いだとの伝説がある。
これが八岐の大蛇の尾から出てきた「草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)」
の元の名とされている。



 熱田神宮の主祭神は、この「草薙神剣」で、「三種の神器」の一つだ。
宮は「日本第三之鎮守」とも、「伊勢神宮につぐ御由緒尊い大社」とも称
され1900年以上も続く歴史がある。



 境内には織田信長が奉納した「信長塀」がある。
桶狭間の合戦の折、僅か六騎で清洲を出た信長は戦勝祈願を行った。
その勝ち戦のお礼としたのが「信長塀」である。

 六万坪を超えるという深い緑に包まれた森には、弘法大師お手植えとの
言い伝えが残る樹齢千年を超える大楠もあるという。



 熱田神宮が鎮座するの熱田台地は、北に向かい一里半程続いている。
宮宿からは、集落が点在し続いていて、そこを辿れば家康の築いた城下町
名古屋の町並にはいりこむ。
東海道の街道筋で、宿場町と城下町がこれほど離れているのは珍しい。(続)



にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする