穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

キリスト教とマクルス主義との酷似点(予告編)

2019-02-01 10:45:45 | 妊娠五か月

 誰かそんなことを言ってなかったけ。一神教と無神論は似ていないじゃないかって。そうなんだけどね。宗教的現象、おっとマルクス主義は宗教じゃなかった。失礼しました。

 そうだね、社会的な精神現象的にいうと、とでも言えばいいのかな。

  両方とも権力志向なんだね。権力奪取過程もおなじだ。キリスト教はキリスト時代、十二使徒の時代、初期教父時代、百家争鳴、異端ごっこ、カトリック教会の成立という具合なんだが、マルクス主義でいうと、マルクスの死から19世紀の終わりごろまでは十二使徒時代だな。ソ連革命後1930頃までは初期教父時代か。

  二十世紀前半は内ゲバ、異端呼ばわりごっこだ。まず永久革命論のトロツキーを亡命先のメキシコまで追いつめて機関銃で殺した。第二次大戦が終わると中ソ対立だ。これはローマ・カトリックとビザンチン教会(ギリシャ正教と言うのだったかな)の分裂だ。

  二十世紀後半は百家争鳴かな、妙なのが特にフランスあたりを中心として出てきた。アルチュセールだとか、なんだとかね。

  どうしてキリスト教とマルクス主義は似ているのかな。

 一つは解釈問題だ。新約聖書を読むと分かるが現在キリスト教の教義として体系化している内容はキリストの言動にはない。もちろん現在の確立したキリスト教のように解釈できる種は胚芽としてはある。あくまでも後世の解釈なのだ。

  マルクス主義も同様だ。マルクスの生前公刊されたものからは、現在のすべての理論は直には出てこないようだ。すべて、解釈問題だね。そう解釈される、という主張だ。しかし、別様にも解釈可能だ。ここから内ゲバが始まる。

  長くなったから予告編はこの辺にしておこうかな。もう一言、マルクスは彼の理論を自己疎外したわけだ、公刊することによってね、つまりそれは客観になってしまった。だから色々と他人が解釈する権利が生まれたわけだ。

  マルクスの一世代前のフォイエルバッハは「キリスト教の本質」を書き、その中ででキリスト教と言うのは人間の精神が生み出したもので、それを外化(疎外)したものだと喝破した。いったん外化した言葉は今度は人間を縛るものとして跳ね返って(折れ返って)くると「教示」したわけである。

  これを読んでマルクス狂喜した。しかしマルクスの言葉も疎外されて社会の共有物になると、ただちに他者に解釈の権利を与えた。世界なんてそんなものだ。