穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

冠のついた宗教と思想

2019-02-02 14:07:55 | 妊娠五か月

 かんむり名がついた宗教は超マイノリティである。思想や哲学でも同断である。

キリスト教とマルクス主義はその極めて珍しい部類に入る。それにはそれなりの思惑やいきさつがある。

  もっともキリストは人名ではないという論もあろう。彼は別にユダヤ人の名前があったのであろうが、ま、人間の固有名詞と考えてよろしい。神の子で神と人を繋ぐ媒介とでもヘーゲルなら言うのだろうが。そうすると精霊はどの辺に位置するのかな。まあ、いいや。

  宗教で人名を冠したものは思いつかない。仏教、禅、道教、フイフイ教(イスラム教)、大本教、天理教、神道といくら並べても人名は出てこない。

  哲学でも人名を冠したものはないようだ。そうか西田哲学なんてのがあるかな。カント哲学ともいうが、カント主義とはあまり言わないようだ。マルクスに限って、マルクス主義とか、マルクス・エンゲルス主義とかマルクス・レーニン主義としか言わない。ということは哲学ではないということか。

  あのオーム真理教でさえ、麻原しょうこう主義とか麻原しょうこう教とは言わなかった。恐ろしや。

 英語で言うと・・ismというのかな。もっともDarwinismと言うし、これは学説という意味の接尾語らしい。そうすると主義というのは日本語的なのか、doctrineという言葉もあるな。これは政策とか主張というニュアンスが強い。いましばらく考えるべき問題なのかもしれない。なんだか尻切れトンボで、、