穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

世界の外に「何かがある」とウィトゲンシュタインは言う

2018-05-08 22:32:04 | 哲学書評

  「6・41 それは世界の外になければならない」

言うまでもないがこれは近代以降の自然科学のパラダイムではない。世界の外になにかがあるというのは、オカルト信者である。また世界の外にある(超越的存在)は神であるとするのが一神教(キリスト教やユダヤ教)である。世界の外にあるからもちろん論理が通用する世界ではない。だがあるとWは「信じて」いるらしい。あるいは自分が信じていることに気が付いていない。

  論理哲学論考はジャーゴンの集積以外の何物でもないので論理的に整然と説明しにくいが、

「6・43 それゆえ(反問す、なにゆえ?)倫理学の命題も存在しえない」。これも舌足らずな表現だが、Wの言う「世界には存在しない」ということだろう。

  「命題は倫理というより高い次元を表現できない」。含意するところは「世界」の外(上)に倫理という第二の世界があるというわけで言葉では表現できないと言いたいのだろう。

であるがゆえに「倫理は超越論的である 6・42)

 「倫理と美は一つである。6・41」。意味不明だが命題で表現できる世界にないという共通点があるといいたいのだろう。倫理と美が一つであるわけがない。

  また、どこかでそういうことは表現できないから示せるだけだという。まあ、それはいい。

しかし、それは言語ではかたれない、示せないというなら間違いだ。

言語表現というのはWの言う論理的言語だけではない。そういうことをほのめかす、例えをとおして示唆するのも言語の役割である。Wは晩年日常言語だとかなんとか言い出したらしいがこんなことは、最初から気づいていなければいけない。

 「6.432 神は世界の内には姿を現さない」これは三位一体、キリストを否定しているのかな。とにかくこの辺の文章は雑ぱくでとりとめがない文章が続くが。

  付け足しのように唐突に見える6.43は若き日にショウペンハウアーに魅せられたWの反省の弁かもしれない。

  とにかく、Wがどうして6.4以降を書いたのかよく分からない印象です。わざわざ書かなくてもいいのに。

 


ウィトゲンシュタインのスピノザの真似は他にも

2018-05-08 18:45:05 | 哲学書評

 ウィトゲンシュタイン(以下W)の論理哲学論考のタイトル表記はスピノザの「神学政治論」の真似であると前回書いた。もう一つスピノザの真似をしているのに気が付いたのだが、叙述のスタイルはスピノザのエチカをまねている。箇条書きで公理から定理、結論へと展開していく。

  Wはユダヤ系だった。100パーセントじゃなかったと思うが、50パーセントか25パーセントかぐらいだったか。スピノザは100パーセント、ユダヤだったので、その辺の親近感もあるのかもしれない。

  元来公理から理論を展開して行くやり方は哲学にはなじまない。数学や幾何学と違うのだから。もしこのやり方を試みるなら公理の立て方から慎重な計画を立てるべきである。スピノザのエチカは読んだことはあるが、大分昔のことですっかり忘れているが、公理の立て方にはそれほど奇異な点はなかったようだ。あれば違和感が記憶として残っている筈である。

  このやり方をした本でかろうじて後世に余命を保っているのがエチカぐらいなのをみてもそのことが分かる。

  公理をたてるなら誰にでも反対できないように自明な公理、定義が必要である。さて、論理哲学論考のなかの一例をあげる。論考の -1-にはこうある。

 「世界は成立していることがら(case)の総体である。」

 この文章の中で「世界」という言葉ほど人によって、場合によって意味する内容が違う言葉はない。どの場合の世界なのか定義すべきである。また「ことがら」とはなんぞや。これだけでは大学センター入試でも通らないのではないか。翻訳が悪いのではない。原文ではcaseであるが、これも曖昧至極である。まさか「ことがら」から成り立っているのが世界だなどとアクロバットなことを言うのではあるまい。それでは「なにも言っていることに」ならない。

  論理哲学論考の解説書や講釈書には、それはこういう意味ですよと解釈しているものがあるが、本当かな、と首をかしげる。-1-を読んでなるほど、と思う人がいるのかな。