穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

書店本棚に見るウィトゲンシュタインの日本における需要の歴史

2018-05-05 06:40:58 | 哲学書評

 昔はウィトゲンシュタインって何(what)というものであったそうである。ウィトゲン山から切り出しいた石材かと思われたらしい。なにしろカント、ヘーゲルの解説書しか書店の本棚にはなかったそうだ。カント、ヘーゲルの原著の翻訳もなかったらしい、一般書店の店頭には。

  だいぶ経ってから、ようやくウィトゲンシュタインって誰(who)というようになったらしい。「論理哲学論考」風にいえば「答えが出る疑問」つまり意味のある「質問」に昇格したのである。

  いまは分析哲学という立派なコーナーが大抵の書店にはある。場合によっては分析哲学棚から独立してウィトゲン・コーナーがある。もっともウィトゲンシュタインを分析哲学ととらえるのも問題があるのだが、ま、その程度の理解であったわけである。

  勿論それより前から、英米哲学研究者や科学哲学研究者の研究室には船便で丸善や北沢書店から取り寄せた原著があったのだろうが。


追記: タイトルの需要は受容と書くべきでしたが、考えてみると需要でも意味が通りそうなのでそのままにします。以上うるさい読者向けの言い訳です。



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